寺社仏閣 ご朱印の旅
また3、出雲の旅(1) - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 19:55:31
今回は島根県の西側に位置する浜田市・益田市を訪ねました。西出雲といえば、「石見神楽」。一度は生で見てみたいが、なんせ休日でしか上演してないので仕方がない。地方公演で、名古屋でやってくれないかなぁ~なんて期待しているのだが…
とにもかくにも、11月上旬に行った4泊5日の旅~
浜田護国神社 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 19:56:37
島根県浜田市へ行くルートは、新幹線でJR広島駅、そこから高速バスを利用してJR浜田駅へと、かなり時間を要する。JR浜田駅に到着したのが15:00ごろ。2日間お世話になる駅近のホテルに荷物を預け、市内循環のバスに乗り、城山公園前バス停で下車、まずは浜田城跡内にある護国神社を訪ねる。
浜田城資料館駐車場から城跡の入口があり、山の中を上がっていく。案内板を頼りに、整備された散策路を歩き、いつの間にか護国神社の拝殿横に出てきて、さっそくお参り。
両側に建つ翼殿に囲まれている拝所でお参りすると、何かに守られているような、戦没者2万3千柱も祀られているというから、かなりのプレッシャー?を受け入れ、英霊たちに感謝を伝える。
境内には「平和記念傷病の碑」や「母の像」「木口小平之像」「ノモンハン事件慰霊碑」があり、「木口小平之像」はラッパを口にして構えている立派なお姿。木口小平氏は岡山県出身で、歩兵第21連隊に所属。出征の地がここ浜田であったことから、昭和36年の当地に石像が再建され、日清戦争時、ラッパ手としての腕前はもとより、戦禍で倒れてもなお、ラッパを口から離さなかったという逸話が残されている。戦時下において軍は、英雄を前面に押し立て、国民を抑揚に導く常套手段を考えたことは想像に難くないが、何にせよ、戦地で勇敢に戦った事実と、戦争がいかに愚かなことであるということをこの像が象徴している。
木口小平氏は今日も静かに、平和を訴えているようで、しばらく感慨深く見上げる。
社務所で御朱印を拝受し、浜田城の本丸跡へと移動。
浜田城跡 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 19:57:35
護国神社の本殿脇から浜田城跡の本丸へと続く山道を歩く。明治時代に長州藩から浜田県が設置された時に、県庁の門として建てられた「浜田県庁の門」がで~んと建ち、ここを入口として二の丸跡へと続き、枡形虎口や周りの石垣が「お城~」という痕跡を見、本丸跡地に到着。
浜田城は標高67mの丘陵上に築かれた平山城。初代浜田藩主の古田重治が居城として元和6年(1622)から築城に着手し、3年後に城下が整ったと云われている。古田重治は三重県の松坂藩から浜田の地に転封し、5万4千石の浜田藩が成立したが、2代重恒に跡継ぎができず改易。代わって松平守家が入り、広島県の福山藩とともに中国地方の抑えとして城下町の整備や新田開発などを行っていく。その後は、本多家、松平家と藩主が代わり、長州藩の支配地になるまで、各家合わせて18代続いている。
産業面では石州半紙、たたら産業、植林など発展。浜田城北側に位置する外ヶ浦では、北前船の寄港地として物流の流れも発展した歴史がある。
本丸跡地には何もない空間が広がっているが、ここから眺める景色がすばらしく、北側には松原湾、外ヶ浦の中島、西側には浜田川、浜田市街地が望め、浜田市の歴史を俯瞰で覗き見るようにしばらく佇む。
本丸跡地には二重櫓の天守や長屋が建っていたというから、この場で建造物のイメージをし、藩主たちはここからずっと民を見守っていたということか…と、カラスが私の余韻を打ち消すかのように邪魔するので、限を付け下山する。
浜田城資料館 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 19:58:34
元来た道を戻り、駐車場にたどり着くと、隣の浜田城資料館が気になったので、入館してみることに。無料で館内に入れる施設で、まずは当館の建物の説明から始まる。この建物自体が「御便殿」と呼ばれ、かつて、東宮殿下(後の大正天皇)が山陰を行啓された際に宿泊施設として建築されたものらしい。「へぇ~」と、どうりでベンガラ色の屋根をした古い構造の建物だなぁ~と思っていたのもそのはずで、どこか品があるというか、それが第一印象である。
展示内容は東宮殿下が山陰行啓した足跡や御便殿内のレイアウト図、明治期に撮影された写真など、かつて庭園があった場所からの出土品など貴重な資料がある。
東宮殿下宿泊後は、松平家の別荘として、昭和9年(1934)頃には公会堂、行啓記念館として活用され、昭和23年(1948)に個人の所有物となり、(省略)平成18年に浜田市に寄贈され現在に至っている。
そして、浜田城跡、北前船などの展示、浜田市の文化として「長浜人形」が雛飾りのように展示され、勉強になる。館内を順番に見て回ると、玉座の部屋には、違い棚や床の間、欄間には鳳凰の透かし彫りなど、さすが天皇をお迎えするだけの造りになっていることを知り、浜田市の歴史をある程度学び、退館して遠目から改めて見る「御?殿」は、すっかり夕暮れ時の様相を呈し、窓に明かりが灯っている風景は、東宮殿下が泊まっていた面影を想像し、歴史に想いを馳せるのでありました~
写真は長浜人形
伊甘神社 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 19:59:37
2日目。JR浜田駅からJR下府駅へ移動し、駅から北側にある伊甘神社へ。鳥居前の参道脇に末社が2社祀られていて、奥に見えるイチョウの木がまだ黄色く色づいてはいないが、その背丈の大きいこと…この神社を守っているのが分かる。
境内へと失礼し、拝殿でお参り。拝所上の龍の彫刻が素晴らしく、金網が貼ってあるということは盗難防止策ということだろうか、ひょっとしたら落下防止かもしれないが、金網越しでちょっと見難い。そんでも龍の目がひん剝くほどの表情は吸い込まれるようで、しばらく縛られたように見入ってしまう。
境内を散策。浜田市の天然記念物に指定されている大きなムクノキの根元には穴がぽっかりと空いていて、とても穴の中に入る勇気はないな…と触れるだけにして「御所の池」へ。
伊甘神社の社地はかつて、石見国府があったとされる場所で、古くは「国府庭園の池」であったと伝えられている。どんな日照りの年でも水が枯れたことがないと、ここら辺一帯が下府砂丘下の清水が豊富にこんこんと湧き出る水筋に当たるという。なので、国府がここに置かれた理由の1つとも云われている。
神社の由緒によると、創建年代は不詳。御祭神は古代に石見地方を開拓した小野族の遠祖、天足彦國押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)で、第5代孝昭天皇の第1皇子とされる。系譜を見ると、弟の日本足彦國押人命が、父帝が崩御された翌年に、第6代孝安天皇として即位しているので、弟に皇位を譲ったのか、はたまた、権力闘争に負けたのか…な~んて想像してしまう。まぁ~、この時代の天皇は100歳を超える“とんでも長寿”で、実在していたかもわからないので、絵空事である。
そんな国府の地にあった伊甘神社の御朱印は、ここから東にある「上府」という集落の上府八幡宮で拝受できるという情報なので、そちらを目指す。
上府八幡宮 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 20:00:37
伊甘神社から30分ほど歩き、山林を抜け、開けてきた土地を眺めながら上府の集落に到着。八幡宮の鳥居が遠くからでも分かる大きさで建っていて、奥の木々は森のように生い茂り、まるで神様が降臨したかのように、参道を挟んでぱぁ~と分かれている。
鳥居を潜り、石段を上がると、広い境内地に拝殿、本殿、参集所のような神楽殿と配置されていて、さっそくお参り。
上府八幡宮は伊甘神社と同じ、古代において石見国の中心地であり、中世を経て、中心地としての役割を徐々に終え、江戸時代に入ると、古田重治(初代浜田城主)が元和5年(1619)に転封され、ここの集落も山村として発展していく…と、ネットの情報でもあまり詳しいことが載っていないので分からないが、境内の神楽殿では定期的に「石見神楽」の奉納舞が行われているそうで、浜田市やその周辺は、この「石見神楽」が文化的遺産で、一度は必ず見てみたいと思っている演舞。ニュースとかで八岐大蛇がくねくねと踊る?姿や素戔嗚の濃い顔、イカツイ顔の表情のお面(だったかな?)を見たことがあるが、どうしても休日にしか公演してないので、いつかは見てみたい。
と、そんな想像を浮かべては、神楽殿の正面入り口上にも龍の彫刻が飾り付けられていて、伊甘神社の“龍”と同じ作者だろうかと見入る。境内の雰囲気を味わい、宮司宅を訪ね、御朱印を拝受。なぜか、伊甘神社の御朱印はあって、上府八幡宮の御朱印はないという…まぁ~いただけるだけでもありがたいので、お礼を述べ後にする。
多陀寺(1) - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 20:01:28
上府八幡宮からJR山陰線の線路を越え、下府川に架かる橋を渡り西へ。「湯屋谷」と呼ばれる集落から山道へと上がり、途中、少し高い崖の上には「府中岩屋地蔵」があり、手を合わせて“ご挨拶”。石仏からさらに坂道を上がると、ようやく多陀寺への石段まで来て、一息して再び長い石段を上がる。
広い駐車場に出て来て、右手側に仁王門がで~んと建っていて、「やった~」と達成感に酔いしれ、ここでも休憩(あわてないあわてない…)。
仁王門はその名の通り、阿吽の像が左右格子の中に鎮座していて、“あいさつ”し、門を潜ると、傍らに木で作られたカバの形をした腰掛け椅子があり、説明看板を読んでみる。関西弁風に、自分のこと(カバ自身)を紹介していて、「ぼくは長生きで生命力が強く、慈愛深く子育てをすることから延命長寿、開運招福、安産・子育て安泰の御利益があるんや~」と。カバってそんな御利益があったなんて知らず、思わず腰掛けて境内を見渡す。座れば何となく運もつくってことか…と、説明の最後に「カバのチャーリーより」と締めていて、チャーリーの背中をさすり「オモロイ…」と別れを告げる。
多陀寺(2) - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 20:02:25
境内は広く、本堂を始め、左手には水子・子安地蔵、石段を上がった所に四国霊場のお砂踏み、大師堂、稲荷堂、本堂右手奥に権現堂他が配され、まずは本堂でお参り。
本尊は十一面観音菩薩であるが、秘仏なので見れない。年に一度の初午祭りにて厨子が開かれるそうで、今年の3月19日に御開帳されるとのこと。
多陀寺の縁起によると、開山は流世上人で、この方、弘法大師と相弟子で、共に遣唐使船で唐に渡り、密法の直伝を受け、空海より2年早く日本に帰朝したらしい。
帰朝した流世上人は、この地に唐から持ち帰った観音さまを安置し、真言密教の道場とし、信仰する人が徐々に増えていった…ということで、「流世上人って、空海よりも早く真言密教を広めた人なの?」とちょっと半信半疑。でも、当寺の霊験あらたかな雰囲気は間違いないと、素人が感じるほどなので、「そうなのかなぁ~」と。
また、こちらには権現堂があるが、この近くに大きな桧の木があり、大同3年(808)に、海上より漁師がこの大木のこずえに金色に輝く光を見つけ、流世上人はその大樹の下に仏壇を供え、灯明を捧げて祈祷すると、3羽のカラスが降り立ち、3束の白幣が降り下ったと。流世上人は権現の使いだと悟り、勧請を祈ったところ、翌日、「我は地蔵菩薩なり。権現と一緒に来たが、権現がこの山に留まると言うので、自らはこれより熊野山へ赴く。権現と我とは同仏なり」と応えて東の空へ飛び去って行った…という伝承がある。
ここでいう権現とは熊野権現のことだろうが、熊野権現が“分身の術”を使って、一人は地蔵菩薩と銘打って熊野へ行かせ、熊野権現はこの地に残って修験道の教えをしたのだろうか…と妄想が膨らむ。
その桧の木は権現堂の前にあり、ここにカラスが留まっていたのか…「いる!」と気づいた瞬間、逃げてしまったが、まぁ~偶然ではあるが、何か使いに来ていたのだろうかと妄想が止まらず、権現堂でもお参り。
…と、権現堂を先に説明してしまったが、境内散策は大師堂、稲荷堂、裏山へと行き、頂上には木々の隙間から景勝地である「畳ヶ浦」の国府海岸が遠くに見え、今日は波が荒れている日本海…白波が砂浜に打ち寄せ、風も強い…それがまたかえって美しい風景だと見惚れ、権現堂へと戻ってくるコースになっていて、境内の雰囲気を堪能。
散策後、納経所で中国33観音霊場の御朱印を拝受し、これで島根県を制し次へ。
写真は権現堂と桧
出雲大社石見分祠 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 20:03:16
下府駅前バス停でバスを待っていると、突然の雨に屋根付きのバス待合所だったので、雨宿り。多陀寺での畳ヶ浦の時化を見て、やはり雨模様は避けられないと予想していた感で、バスが到着すると同時に雨も上がり、晴れ間も見え、折り畳み傘を差さずに済む。「熊野権現のいたずらか?」と、車窓からの眺めを楽しみながらJR浜田駅に戻って来て、市内循環のバスに乗り換え、田町バス停で下車。
降りてすぐの出雲大社石見分祠を訪ねる。
白い鳥居が眩しい奥の境内は、ビルの合間に建つ本殿が見え、あの“しめ縄”がシンボリックに拝所上に飾られている。今日は七五三詣での親子連れがそこそこいて、本殿内は賑わっている様子。そんな中でお参り。
出雲大社石見分祠はその名称のとおり、出雲大社から分祠された大国主命を祀る神社。島根や鳥取の旅では各地域の分祠をお参りしたことを思い出し、特に隠岐島の西郷分祠は夕暮れ時で印象深かったと。
…で、ここ石見の出雲大社の縁起は、情報が少ないのだが、全国の神々が集う神在祭の龍蛇神様を奉斎していて、正月には大変な賑わいになるというから、浜田市での初詣では有名なのだろう。大正11年(1922)には浜田招魂社として浜田第21連隊より、戦没の英霊を奉斎したとあり、護国神社の役割もしていたことが分かる。飾られた“しめ縄”の立派さにしばし眺め、社務所で御朱印を拝受。窓口の貼紙に他宗教との裁判沙汰が載っていたが、そこはツッコまず、お礼を述べ、後にする。
水雲嶋八幡宮 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 20:04:13
JR浜田駅へと戻り、次は益田市にある水雲嶋八幡宮を目指す。…とその前に、当社にお伺いすることを事前に電話で確認すると、JR山陰線が7月頃の大雨で、駅途中から不通になっている情報を知り、「え~」と驚く(知らなかった…)。
交通手段はJRではなく、石見交通の浜田―益田路線のバスもあるので、バスで行くことを告げ、時間までJR浜田駅の改札で情報収集。確かに、JR三保三隅駅からJR益田駅間が不通になっていて、この間はシャトルバスで代行運転してる模様。シャトルバスの時刻表をゲットし、コンビニおにぎりで昼飯を済ませ、バス乗車。
バスは日本海の海岸線を走っていたかと思えば、山の中を走っていたりと、「これが旅の醍醐味…」と車窓からの景色を楽しみ、およそ60分で東津田バス停に到着し、西へ5分ほど歩くと水雲嶋八幡宮が見えてくる。
水雲嶋八幡宮はその名称の由来の通り、「水雲(もずく)」が関係していて、その昔、この辺り一帯は入江の島があって、よく“もずく”が採れたことからきている。
…と、ネットで調べても、縁起の情報がないのでよく分からないが、御祭神は八幡宮なので、応神天皇、神功皇后と他に宗像三女神である。
白い玉砂利の参道から失礼し、境内は小ぢんまりとした広さに、松江や米子のような本殿の佇まいで、“海町神社”といった様相を呈している。石段を上がった拝殿でお参り後、境内を散策。
祓い串が地面に突き立ち、その周りを白い石で囲む…まるで魔法陣か何かの模様のように神聖な場所が存在していて、何を祈祷する場所だろう…きっと、もずくへの畏敬の念と奉斎するための場所なのだろうと勝手に妄想し、他にも稲荷社、恵比須社、厳島社などの末社が数柱祀られていて、こちらもお参り。
お隣の宮司さん宅にお邪魔し、御朱印を拝受。いろいろと情報を教えていただき感謝×2で、本日はここまで~
つづく…
飛騨高山の旅(2) - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 17:58:10
遅れまして…あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
新年早々、またまた飛騨高山へ行きまして…白川郷へ行ってまいりました。
まぁ~雪がすごいことすごいこと…
長野県の松本市に1年ほどいたこともあって、それなりの心構えはできているはずであったが、靴が…破れてしまって、冷たいのなんのって、現地の靴屋で購入し、さすが豪雪地域の靴屋さんは、雪対応の靴が豊富に揃っていて、しかもそこそこ安く、それはそれで助かった次第で。
…ということで、いずれ(いつになることやら…)載っけますが、昨年の飛騨高山のつづきの旅を紹介~
一本杉白山神社 - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 17:59:08
下呂温泉でゆったり旅の疲れを癒し、翌朝、JR下呂駅から9:00発の普通に乗車し、高山駅へ。本日のからくり奉納は11:00と13:00の時間帯なので、13:00を目指し、午前中は寺社めぐりをする。
まずは駅から南東に位置する高山善光寺へ。以前、訪れたことがあるお寺であるが、御朱印をいただくのを忘れていて、今回はどうだろうかと、お願いしてみる。住職さんも快く対応して下さり、本堂内へ上がらせてもらうことに。やはり善光寺といえば、「戒壇巡り」。暗闇の中を進み錠前を触れるイベント?だが、せっかくなので体験することになり、暗闇の中を手探りで進む。蝶番の錠に手で触れれば善光寺如来さまのご加護が得られる“ご利益”を授かり、無事”生還“。久しぶりの”暗闇体験“をし、感謝×2で住職さんにお礼を述べ次へ。
高山善光寺から歩いて5分ほどの所にある一本杉白山神社。書置きの御朱印があるとの情報をもとに訪れる。
当神社は、創建は不詳であるが、大宝年間、役小角が白山の遥拝所としたことが始まり。高山城主金森氏から庇護され、その後は高山藩が廃藩となると、天領陣屋の代官や郡代が庇護し、度々、社殿の修築が行われてきたとのこと。
何と言っても当神社の見どころは「矢立杉」。訪れた当初、拝殿前の杉が「矢立杉」かと思って見ていたのだが、旅後の調べで、社殿の背後にあるのが「矢立杉」だったようで、実際には見ていない。「矢立杉」は、役小角が逆に杉を立てたとも、武運長久を祈って矢を射立てたとも古俗があり、その枝から尖根(とがりね:容易に抜けない矢じりの形状)ひじりが発見されていることからも「矢立」と称されているのだろう。
当神社の隣の敷地には、高山陣屋の米蔵の守り神として祀られた陣屋稲荷神社も鎮座していて、お参り。結局、御朱印は置いてなかったが、木々が生い茂る境内は清々しく、しばらく佇む。
飛騨護国神社 - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 17:59:57
一本杉白山神社から東へ。高山陣屋まで来ると、春の高山祭で屋台を囲む群集・観衆の賑わいが今でも記憶に甦ってくる交差点があり、日枝神社御旅所も懐かしくお参り。さらに宮川に架かる中橋を渡り、高山城跡へと坂道を上がっていく。
辿り着いた飛騨護国神社も10年ぶりの訪れで、何となく境内の広さは憶えていて、「こんなもんだったかな~」とさっそくお参り。
英霊を祀る飛騨護国神社。元々、明治12年に飛騨国の神道普及の拠点として設立された「飛騨国高山中教院」が始まりで、伊勢神宮の御分霊を祀る飛騨大神宮、明治42年に戦没英霊を祀る護国神社が建てられる。江戸時代初期に高山城二の丸にあった英霊神社と、国分寺境内にあった飛騨匠神社も当社に移され、意外?と英霊だけでなく、御利益のある神社として親しまれている。
それぞれの神社にお参り後、社務所へ行くと、電子マネーで決済されるシステムもあり、「時代は変わったなぁ~」と思いながら、私はいつも持ち歩いている“現金”で御朱印を拝受する。穏やかな天候に恵まれ、英霊たちに感謝申し上げるのでありました~
宗猷寺(1) - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 18:00:55
護国神社鳥居から東の小路には、高山城跡の堀が見られ、風情が良い。そんな町並みの界隈をさらに東へ、坂道を上がると、門前通りのような道路に出て来て、目的の宗猷寺に到着。
当寺は高山城主、金森可重の菩提寺として、その嗣子の金森重頼と弟の金森重勝によって開基されたお寺。創建時は「新安国寺」と称していたが、重頼、重勝の法名にちなんで「宗猷寺」と改め、ほぼ高山市においては唯一といっていいい臨済宗の寺院だそうな。江戸時代後期には、山岡鉄舟の父である小野高福が飛騨郡代として高山陣屋に赴任していて、鉄舟は当寺で禅を学んだと伝えられ、境内には父母のお墓もある。
山岡鉄舟といえば、江戸無血開城の立役者として有名であるが、剣客であったことも有名である。幼少の頃から武芸を重んじる家であったため、新陰流や北辰一刀流の剣術、樫原流槍術などを学び、一刀正博無刀流の流派を自ら開くほど、それは激しい稽古を自ら望んで修行をしたそうで、「鬼鉄」とあだ名がつくほどであった。ちなみに、鉄舟は生涯一人も殺めていない剣客で、暇があれば座禅を組んで、書道の道にも励み、「剣・禅・書」の三道を極め、悟りを開いたと。
鉄舟は座禅をしながら亡くなり享年52歳。胃がんだったという。
そんな幼少期を過ごした鉄舟ゆかりの寺へ失礼すると、まず見上げた鐘楼の大きいこと…青年期は身長180cm以上で大柄な性格であったので、鉄舟の面影が何となく重なり、思わず立ち止まる。
境内は庫裏、本堂、観音堂と、北へと広がる敷地でそれぞれにお参り。西側に目を向ければ、高山市内が広がる町並みを背景に、鉄舟の父母の墓石が並んで建っている。
宗猷寺(2) - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 18:01:49
山岡鉄舟について、いろいろ調べているうち、鉄舟が弟子にも見せたことがない愛読書があるとのこと。「猫の妙術」という悟りを開くきっかけ?となったかはわからないが、教訓本で、内容は、家に出るネズミを捕らえるため、いろんな猫に依頼。が、どの猫も敵わず、最後に“名人”ならぬ“名猫”ともいえる古猫が造作もなく捕らえる話。
その夜、猫たちが集い、その古猫に教えを乞う。若い黒猫は所作を鍛錬したことを、少し年上の虎猫は気を修行したことを、さらに年上の灰猫は心を練ったことを語り、古猫はそれぞれの「慮」を指摘し、「実」を説いていく。
「心の中に我があるから敵がある。我がなければ敵はない」
「心にこだわりある場合は形にあらわれ、形がある場合は敵あり我ありで相対して争うことになる」
「心に何のこだわりもないようでなければ、変事に対応することはない」
…と、心の在り方を説いていく…だから、鉄舟は難しい交渉をまとめることができ、江戸無血開城の会議へと繋がっていったのかと。
「猫の妙術」は徳川吉宗時代に下総関宿藩に仕えた伕斎樗山(丹羽忠明)によって「田舎荘子」の一話に書かれた談義本。孔子や易経などの中国思想を取り入れた傾向があるとのことで、私は何となく「般若心経」の「色即是空、空即是色」を思い浮かべたが、何にせよ、剣術指南書として「敵とは何ぞや?」と、心の真理を説いているものと見て取る。
鉄舟がこの地で禅を学んでいたことを考えると、何とはなしに、私も目の前に広がる高山市街地を望み―庫裏で御朱印をお願いしている間―ちょっとだけ瞑想に浸る…そんな気分になるのでした~
からくり奉納 - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 18:02:42
桜山八幡宮で行われるからくり奉納は13:00から。1時間前くらいには現場にいた方がいいと思い、高山市街地を眺めながら“寺町通り”を歩く。外国人観光客が物珍しそうに寺の雰囲気を覗きこむ姿を見かけては、やはり高山市も観光地としての地位が上がった?のかと先を急ぐ。
江名子川沿いの下町情緒溢れる通りにも、高山祭の提灯が各玄関先に飾られていて、祭りの雰囲気を味わいながら、昨日訪れた相応院、その先の桜山八幡宮へと向かう。
境内は、からくり奉納が行われる屋台が1台、準備されていて、昨日のからくり会館前ではなく、社務所側の方に移動していて、そこそこの参拝客もいる。12:10頃から屋台の目の前に陣取り、私と同じように考える人はいて、徐々に人だかりができ、気が付いて振り返ると、あっという間に観衆の集合体ができていて、いよいよって感じ。
屋台上部を見上げると、本日の主役である布袋人形がすでにいらっしゃって、愛らしい笑顔を振りまき、からくり師による“演舞”を待っている状態。そして13:00。軽快な音楽とともに始まる。
高山祭のからくりは「能」の外題などを題材にした高度なもので、その内部構造は複雑。操作は糸で操るのだが、長年に渡る修練と経験と勘が必要で、早い人は小学生から練習を積んでいくほどと聞いている。その道の40、50年のベテランが操り手をまとめ、その方たちは数人しかおらず、組内の伝統的な継承をしている。
この布袋台は36条もの糸を8人で操るとのことで、男女2人の唐子人形が順番に5本のブランコを回転しながら飛びつたい、“布袋和尚”の肩と手に乗って喜遊し、“布袋和尚”
の左手の軍配の中から「和光周塵」と書かれた幟が出て来てフィニッシュを迎える。
唐子人形がブランコを飛び移ったり、布袋の肩に乗ったりした時は割れんばかりの拍手が沸き起こり、観衆は一つとなる。何とも”布袋和尚“の笑顔に皆、幸せな気分になったに違いない…私も含め、久しぶりに良い奉納演舞を見たものだと余韻に浸り、伝統的なからくり奉納を見ることができて満足×2。
山桜神社 - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 18:03:38
からくり奉納が終わると、街中を巡行する儀式へと移り、袴姿の祭り関係者たちが町を練り歩く。多くの観光客がその巡行にスマホを構え、写真を撮っている姿に、より“祭り感”を肌で感じ、限のいい所で群集から外れる。
宮川に架かる橋を渡り、商店街に入ると、町に馴染んだ神社へ向かう。石畳に狭い参道を歩くと、一瞬、京都の新京極界隈を想起させる佇まいで、提灯や馬が描かれた奉納絵馬が飾られ「あの馬か…」としばらく見つめる。
ここ山桜神社はその名称のとおり“山桜”が御祭神。“山桜”とは、江戸時代初期に実在していた「馬」のことで、高山城主の金山頼直公の愛馬のことである。
明暦の大火で高山藩の江戸屋敷が火に包まれたのを、“山桜”は百閒掘を飛び越えて頼直公を救ったという。その時、頼直公をはじめ、家臣3人を乗せて走ったと云い伝えられていて、晩年は中向町(現高山市東町)に厩舎をあてがわれ、“山桜”が死亡すると、その厩舎跡に社殿が建てられ、崇められたとされる。
今では家内安全、商売繁盛、火の用心の御利益があり、境内には当時、火消しの「馬頭組」が建設した火の見櫓もあり、火防の御神徳があるのが分かる。
そんな活躍した「馬」にお参り。拝殿というよりかは、どこかの集会所のような畳敷が広がる殿内で、神社の方が2人内職している中を訪ね、御朱印をお願いする。
書いてもらっている間、絵馬を観賞しながら、ひょっとして、“山桜”の名称は“桜山”からきているのだろうか…と想像しながら、神様となった“山桜”に別れを告げるのでありました~
飛騨高山の旅 - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:25:25
今年の紅葉は遅れた分、長く楽しむことができて、秋には岐阜県の高山祭、島根県浜田市益田市、名古屋市内紅葉の名所、山口県防府市と行ってきました。名古屋市内の旅は載っけようか迷っていますが、まだ何にも文章もまとまっていないので、遅れること間違いなくあしからず。
…で、今年もあっという間の1年。いよいよ来年は、世の中が変化していくような流れなのか…どうなのか…
神経痛(帯状疱疹後の)に悩まされながら、皆無事で乗り切れることを祈りつつ、毎度、つたない文章を読んで下さり、ありがとうございました~
また、来年もよろしくお願いいたします~
飛騨国分寺 - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:26:31
今回は秋の高山祭りをメインに、久しぶりの特急ワイドビューひだに乗ってJR高山駅で降りる。時刻は13:00ごろ。桜山八幡宮で行われる「からくり奉納」に時間までまだ余裕があると思い、その途中にある飛騨国分寺を訪ねる。
駅から北東方向へ商店街を歩き、「そうそう、これこれ…」と飛騨の町並みの空気を思い出しては、もうすでに大きなイチョウの木が目印となっている飛騨国分寺に到着。この日も、多くの参拝客で賑わっていて、特に外国人率が高く、三重塔の前で記念撮影をしているグループがいて、散策しているのが見える。
飛騨国分寺は今から約1250年前、聖武天皇の勅願によって建立、開基は行基菩薩による鎮護国家の祈願所として、本尊は薬師如来坐像の他、阿弥陀如来や聖観音、円空さんが造った弁財天を安置し、平家の守り刀であった小島丸太刀も寺宝として納められている。
そんな“重文”がそろう飛騨国分寺。境内の中央には大きなイチョウの木が生え、その根元の幹はかなりの太さで、年輪を重ねているのが見て取れ、御神木扱いで囲いがしてある。
このイチョウの木には“いわくつき”のエピソードが残されている。昔、七重大塔が建立された時、大工の棟梁が誤って柱を短く切ってしまい困っていた所、娘の八重菊の考えから、桝組で補い、塔は無事に完成した。が、棟梁の名声が高まるにつれ秘密を守るために、八重菊を殺し、境内に埋めて、塚の傍らに一本のイチョウの木を植えたという…(「殺しちゃうの…」)
この話…どこかで聞いたような…京都の千本釈迦堂(大報恩寺)のおかめさんと似たような話だが…
それにしても、口封じで娘を殺して埋めたというショッキングな話は、それこそ、このイチョウの木には八重菊さんの怨念が宿っている…ひょっとして、この木の高さって…七重大塔と同じぐらいの高さでは…と想像してしまい、ここへ訪れるたび、何ともその伝承に驚嘆してしまう。イチョウの木は火に燃えにくいという性質があることから、ある意味、お寺を守っているのだが、それ以上に八重菊が守っているのだろうと思わざるをえないエピソードがこの寺にはある。
本堂でお参り。本堂内拝観もできるのだが、からくり奉納の時間を考えて納経所で御朱印を拝受。私の前の方が外国の方で、今や御朱印は、世界的に広がりを見せているのか…と感心するのでした~
桜山八幡宮大鳥居 - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:27:33
飛騨国分寺から北東方向へ街中を歩き、市の中心を流れる宮川まで来ると、川の沿道には屋台のテントがずらりと並んでいて、人の賑わいがすごい。いつの間にか、弥生橋から北へ望む場所からは道路が車両通行止めとなっていて、秋の高山祭の雰囲気が一気に匂ってくる。
宮前橋へたどり着くと、桜山八幡宮の大鳥居がで~んと建ち、参道正面には屋台(山車)が曳き揃えられていて、すごい人。「あの人ごみの中を行くのか…」と覚悟を決め、いざ出陣~
屋台曳き揃え(1) - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:31:15
参道をゆっくりと歩き、それぞれの「屋台」を撮影。装飾はもちろん、飛騨の匠の技が生きる彫刻、華やかで鮮やかな色彩を帯びる赤い垂れ幕、屋台に乗る飾り人形等々すばらしい。
「高山祭」は、春の「山王祭」、秋の「八幡祭」を総称して言われるのだが、私は秋の「高山祭」は初めてで、春の「高山祭」は2回訪れている。秋の「高山祭」を経験して、どこか空気感というか季節感も相まって、しっとりとした“香り”が漂うようなそんな印象を受ける。法被を着た祭り関係者の表情や、江戸時代の参勤交代時での袴姿の人たちも“絵”になり、子供たちの姿も見、町あげての、祭りを盛り上げてるのが分かる。
…と、撮影に夢中になりすぎているとアナウンスが流れ、「からくり奉納」の事を放送しているのだが、はっきり聞こえない。とりあえず、桜山八幡宮の境内へと急ぐ。
桜山八幡宮 - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:33:46
屋台会館前の施設まで来ると、境内への進入を警察が封鎖している。
「あれっ…」
どうやら人数制限がかかり、これ以上、境内へは入れないことになってしまったよう。「からくり奉納」を見る場所は行けないようだが、拝殿へのお参りはできるようで、左側の裏参道からの案内により移動。稲荷、照崎、菅原などの摂社末社が並ぶ境内をそれぞれお参りし、本殿にも手を合わせる。
桜山八幡宮は仁徳天皇の御代、天皇に背いた凶賊、両面宿儺(すくな)の征討のため、勅命を受けた難波根子武振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)が官軍を率いて飛騨に入り、応神天皇の御霊を奉祀し、この桜山の神域で先勝祈願を行ったことが始まり。
その応神天皇=八幡さまの御分霊を奉還し、雅楽の調べと共に「御神幸」の行列、御旅所に“立ち寄った”(休憩、宿泊)後、氏子区域を巡幸して八幡宮へ帰る…これが一連の例大祭であるが、起源がいつかということは分からないらしい。分かっていることは、領国大名であった金森氏が天正15年(1586)に飛騨に入国して、元禄5年(1692)に転封するまでの間であったことは間違いないみたい。そんな祭りを継承されていくうちに、屋台にからくり人形が取り入れられるようになり、江戸時代にはほとんどの屋台でからくりが演じられていたそうな。そんで時代と共に、今では春の「山王祭」の3台を含め、4台となってしまったという。
なので、八幡祭りで奉納されるからくり屋台は1台のみ。「布袋台」と呼ばれる名称のごとく、布袋さんの人形が前面を飾り、何と言っても、男女の2人の唐子人形の空中ブランコの“曲芸“が見どころ。
…ということで、そのからくり奉納が催される屋台がある場所が神門から見下ろす形で見え、人がいっぱい。門口から覗き込むと、警察の方が阻止すべく「ダメですよ」と威嚇してくる。そこまで躍起になることでもないのに…と思いながら社務所で御朱印を拝受。
ちょうど祭り関係者の方とお話ができ、明日の細かい日程を教えてもらい、今日はからくり奉納が見られず残念だが、祭りの雰囲気を味わうだけにして楽しむ。
相応院 - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:34:54
からくり奉納が終わり、境内から人が散り散りになると、屋台会館から出された“布袋台”が見え、すかさず目の前に行き撮影。布袋人形は仕事を終えたにもかかわらず、笑顔を振りまき聴衆の撮影に応じている。明日は必ず観賞することを約束し、桜山八幡宮から南へ行った所にある相応院へ。
こちらも祭りの余韻冷めやらぬ参拝客がそこそこいて、境内の広さはそんなに広くない中、「重軽石」や水子観音の像などあり、まずは本堂でお参り。
本堂の建物の両脇には円空作とわかる仏様が安置されていて、稲荷尊天、薬師如来の2体がで~んと背高く見上げる。
相応院は明治以前は、桜山八幡宮の別当寺で「長久寺」と称していて、明治に神仏分離令によって、当時の住職兼神官であった桜山和尚が代官所(高山陣屋)へ願い状を出して、必死で守ったらしい。その甲斐あって、高山城主の金森家の菩提寺であった高野山の「相応院」の寺号と、この時、金森長近公から寄進された阿弥陀三尊の像や涅槃図などを譲り受け復興され、現在に至っているという。
また、高山陣屋からの鬼門に当たるということで、本尊を不動明王とし、鬼門除けの祈願所としての役割もあって、厄除けや火伏の不動などの信仰がある。
本堂の左手には納経所があり、円空さんが飛騨に来られた際に彫られた“円空仏”も何体かショーケースに飾られ、御朱印を直書きしていただいている間、じっくりと観賞。ここでも外国の方が御朱印帳を用意していて、御朱印は今や世界に浸透している?ようだ。
屋台曳き揃え(2) - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:37:54
八幡宮参道界隈を再び散策。このまま「宵祭」へとずっといたかったのだが、本日宿泊する場所が下呂市。電車で1時間は掛かり、ホテルのチェックイン時間が遅れてしまうので、提灯に明かりが灯る光景は、目にすることができない。ちなみに、高山市内のホテルは1カ月前からの予約でも空きがなく、もっと早くすればよかった~と後悔。まぁ~、下呂温泉の湯に浸かって疲れを癒せるだけでも良しとし、時刻は16:00ごろ、次第に屋台に提灯を付ける飾りつけが職人の手によって準備され、その取り付ける作業を見るだけでも、私を含め観衆は物珍しそうに見入る。
宵祭では天候によるが、屋台が夜の町並みを巡行し、昼間とは違った魅力を見せ、先頭では獅子舞が披露されるという。「あ~、見たかったなぁ~」と嘆きつつ、祭りの雰囲気をそのままに、時間となり、今日はここまで。
つづく…
また20、滋賀の旅 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:17:59
7月以来久しぶりの投稿ですが、この間、8月に帯状疱疹を患い、かなり痛い思いを経験したことから10月までどこにも行かず、治療に専念。いや~、夜も眠れないほどの火傷のような症状が右わき腹から背中にかけて出て、ほんとに辛かった~
今も帯状疱疹後神経痛に悩まされ(まだ体に跡が残っている…)、ようやく日常生活が戻ってきた感じだが、ほんと、50代以上の方はワクチンを打ったほうがいいです。
…ということで、これからはより健康に留意しないといけない歳になったということを自覚しつつ…今回は、先の5月に行った滋賀の続きの旅を紹介~
鏡神社 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:19:36
JR東海道線を乗り継ぎ、JR野洲駅に到着。駅南口から出るバス、美松台行きに乗り、道の駅「竜王鐘の里」バス停で下車し、まずは道の駅で近江牛でも食事しようと思っていたら、定休日!
「嘘…」と、他のお客さんも私と同様に立ち尽くし、何とはなしに閉じられた自動ドアを見つめる。
「道の駅って、定休日あるのかよ~」と、お昼を諦め、「観光観光…」と切り替え、道の駅から国道8号線を北へ繋がる歩道橋を渡り、鏡神社へ移動。
ここは蒲生郡竜王町。琵琶湖の東南部に位置する平野に、東は雪野山、西に鏡山という2つの山に囲まれ、それぞれの山に龍神が祀られていたことから「竜王町」という名称が当てられたとされる土地柄。その鏡山の北裾に鎮座する社、鏡神社は御祭神が天日穂尊(あめのひぼこのみこと)で、新羅国王子とされている。社伝によると、新羅国から来朝した天日槍尊が神宝の日鏡を「鏡山」に納めたとされ、創建は不明であるが、これを機に祀られたのであろう。天日槍尊は医師や陶物師、鋳物師、弓削師などの技術集団を従えて、近江国からその後、若狭国、但馬国へと住処を西へと定めたという。鏡神社の周りには須恵器や銅鐸などが発見されるほど「古窯跡群」が多数あり、ここで生活の場を営んでいたことが分かる。ちなみに、兵庫県豊岡市の出石神社には「禁足地」があり、天日穂命の墓所と言い伝えられ、一木一草も取ってはならず、踏み入れば祟りがあると云われている。
…と、御祭神についてはこれぐらいにして、当地には源義経ゆかりの地がある。「また18、滋賀の旅」で祇王寺を訪れた時のガイドさんに教えてもらった「烏帽子掛けの松」や「元服の池」があり、義経はこの“鏡の里”で宿泊されている。この「烏帽子掛けの松」が鳥居前にあり、古木となった木は裁断された状態で、屋根付きで鎮座されている。説明看板を見ると、そのまま烏帽子を松に掛け、鏡神社に奉納し、源九郎義経と名乗り上げ…と書いてあり、明治6年の台風で折損したため、幹の部分を残して保存したよう。まるで“お地蔵さん”のように佇み、松の木を仰ぎ見ては手を合わせ、鳥居先の木々生い茂る中の参道を上がり境内へ向かう。
視界が開けた境内には拝殿、本殿、祓い神の石碑、八幡宮などの摂社を祀り、お参り。ここで義経がお参りしたであろう伝承を肌で味わい、ここで平家打倒の誓いをしたのだろうかと、義経の足跡をたどることができて満足×2。
写真は烏帽子掛けの松
義経元服の池 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:20:42
鏡神社から西へ。交通量の多い国道8号線を歩くと「義経元服の池」がある。あると言ってもただの小さな“池”なのだが、そもそも義経が元服した地がどこなのかはわかっていない。資料の「平治物語」ではここで身を清め元服したとか、「義経記」では尾張の熱田神宮で元服式をしたとか、他にも説はいろいろあるようで、とにかく、有名人の名を借りて町おこしをしたい市町村はどこにであるので、そこら辺はあいまいに受け入れている。
…で、大きな看板が表示してある一角に、新緑のモミジが色鮮やかに芽生えていて、美しい。石碑の下には小さな池があり、中を覗くと、オタマジャクシが跳ね、義経は季節の風物を感じながらこの池に映る自分の姿を覗き込んだのであろうかと想いを重ねる。
吉川英治作の「新・平家物語」の中で、「英雄は称えられるが、悲劇を司る」というほど、義経は兄に裏切られ、日本武尊も父に裏切られ、織田信長は家臣に、西郷隆盛は政府に…といった、時代は違ってもその悲劇の運命をたどる英雄は人々に魅了されるべくしてなり、伝説として語り継がれるのだろうと。
義経はここから平泉へと旅立ち、目の前の国道8号線の行き交うダンプや大型トラックが、何か見えない平家の亡霊のように見え、後ずさりするのでした~
平家終焉の地 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:21:44
義経元服の池から反対車線の歩道に移り、旧中山道を歩く。今は普通の民家、土木会社がある道路だが、昔の人はここを往来していたと思うと、私も昔の人の気分になって妄想を重ねる。
20分ほど歩くと、幟旗を目印に林の中へと小道が続き、石碑や立て看板、お墓を祀る空間にたどり着く。
説明看板には冒頭「平家が滅亡したのは壇ノ浦ではなく、ここ野洲である」とある。壇ノ浦の戦いで敗れ、捕らえられた平家最後の総大将、平宗盛、清宗親子らは源義経に連れられ鎌倉を目指す。源頼朝に面会した後、京都に護送中、ここ篠原の地で義経は首を持ち帰るため父子を斬り、胴体はせめてもの情けから父子1つの穴に埋め、葬られたとされる。その際、近くの池で首を洗ったことから「首洗いの池」といわれ、父子の念が通じたのか、この池ではカエルが鳴かないということで「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている…と、この空間はかなり悲壮に満ちた平家終焉の地で、「宗盛胴塚」にさっそく手を合わせる。
木々が生い茂る中、風が心地よく流れ、切なさや果敢なさのような、ちょっとホッとしたような感情も相まって、その場の空気を味わう。傍らには、現在は事業開発の影響でその池はなく、地元の自治会が保存しようと復元に取り組むを看板に書いてあるが、石を囲っただけの小さな“空池”があるだけで、かろうじてその往時を偲んでいる。まさに“兵が夢のあと”のように、“源平総決算の地”にしばらく佇み、歴史の一端に触れるのでありました~
稲荷神社 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:22:38
道の駅竜王の里バス停へ戻り、野洲駅行き野洲中学校前バス停へ移動。バス停からすぐの稲荷神社を訪ねる。JR野洲駅から南東に位置する街中の神社であるが、御朱印が頂けるという情報だけで立ち寄った次第。社域はかなり広く、大木の御神木もあちこちに配され、玉垣のないオープンな感じの印象。
さっそく、手水鉢で身を清めようとしたが、ビー玉?が敷き詰められているので、手を洗うのは諦め、新築されたような真新しい拝殿から本殿へと回りお参り。愛宕神社の境内社にもお参りし、本殿には囲いの中に3社祀られていて、左側に古宮神社、右側に若宮社と建ち、由緒には壬申の乱で野洲の川原で戦死した人々の供養を祈願するために、石城村主宿祢が福林寺を建立し、その守護神として伏見稲荷大社から勧請されたとある。
壬申の乱は天智天皇の後継を巡って、弟の大海人皇子と天皇の息子の大友皇子による内乱。近江宮に遷った天智天皇は、皇太子の大友皇子に皇位を譲る約束までしていて、大海人皇子も了承していたが、天智天皇が崩御されると一転、弟は反乱を起こし、結局、大友皇子は自決、大海人皇子は天武天皇となって、飛鳥浄御原宮を居として再び飛鳥の地に都を遷す…と簡単に言えばだが、奈良、三重、岐阜、滋賀と広範囲に渡って戦乱が繰り広げられたことからすると、かなりの犠牲者が出たことであろう、権力争いに巻き込まれるのはいつも一般市民であり、残酷である。
そんな戦没者を慰霊するための神社とはつゆ知らず、境内を散策後、社務所へ伺うと人がいない。一応電話で聞いてみると、本日は宮司さんもお忙しそうで、御朱印はまた改めてということで、今日はここまで~
下新川神社 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:23:55
JR守山市駅近くのホテルに宿泊し、翌朝、バスターミナルから小浜行きのバスに乗り、下新川神社バス停へ。バスを降りて鳥居向かいの公園には、地元の方が植えたであろう花壇が「2024」のロゴを飾り、毎年作っているのだろうか出迎えて下さり、心が和む。
鳥居を潜り、長い参道には狛犬や御神燈があり、黒猫が石柱からひょっこりと顔を覗かせる中を進み、途中、左に折れ曲がる形の参道…「こ、これは御霊なのか…」と思いながら境内へと失礼する。
境内には愛宕神社、鹿島神社、白山神社とあり、拝殿から本殿へと行き、本殿前には「神使おしどり」の石碑の上に夫婦の“おしどり”が鎮座していて、仲良く同じ方向を向いている。この“おしどり”は、東国へ平定せんと琵琶湖の湖西より丸太の筏(いかだ)に乗って渡られた御祭神、豊城入彦命を湖上で案内先導したのがこの“おしどり”で、そのために祀られているらしい。
豊城入彦命(とよしろいりひこのみこと)は崇神天皇の第一皇子。第一皇子であるにもかかわらず、天皇の座を活目尊(いくめのみこと:後の垂仁天皇)に譲り、東国の統治者として平定行動を開始。東国平定は自らの進言だったのか、命令だったのかはわからないが、先ほどの直角に折れ曲がる参道を思い出しては、“恨み”があったのだろうかと沈思黙考する。
こちらの神社では「すし切り神事」が有名で、豊城入彦命が西近江の海賊を征伐し、当地に立ち寄った際、村人が琵琶湖で捕れたフナを塩漬けにして焼いた料理を献上し、その労を労ったことから「すし切り神事」が始まったとされる。古式にのっとり、袴姿で長い包丁を両手に持ち、パフォーマンス?する写真をネットで見たが、魚をさばく神事は何かニュースで見たような…いつかはその神事を生で見たいと、再び訪れることを願う。
本殿でお参り後、書置きの御朱印があるので拝受し、境内を散策。庭園とはいえないが、弁財天を祀っているかのような池があり、池の中央には菖蒲だろうか、可憐に花を咲かせていて涼しげ。光を遮る木々の中、しばらく佇み、癒しを楽しむのでありました~
兵主大社 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:24:50
下新川神社からお隣の野洲市へと、野洲川の橋を渡り、市境越え。滋賀県は本当に広大な田畑を所有している土地柄だと、ビル群の建物がない平野を歩き、1時間ほどで兵主大社に到着。参道の途中から入ってしまい、南側には朱色の立派な楼門、北側には拝殿本殿の境内が広がり、どの建物も茅葺きの屋根であり、一層古社であることを窺い知る。
拝殿でお参り。本殿は玉垣に囲まれ、左側の塀には「庭園拝観」の看板が。どうやら本殿の北側にかけて「平安の庭」という庭園が広がり、塀の隙間からちょっと覗くと、池に苔の生えた築山、低木や季節の木々植えられていて、石橋や飛び石も配され、回遊式庭園といったところか、拝観したい方は社務所までとある。次のバスの時間までには間に合わないので、今回は諦め、失礼ながら隙間からパチリと写真を撮り、境内を散策。
お参りする前から気になっていた狛犬。包帯をぐるぐる巻きにされた痛々しい様子を見せる狛犬だが、どうも包帯ではないらしい。「祈祷布」と呼ばれる代物で、手や足腰に病気持ちである人が狛犬にその部分に巻き付けると、病が治るという民間信仰で、御利益を得るための“方”らしい。狛犬が人の痛みを背負っているということか…やっぱし、その姿は痛々しく見える。
さて、当神社の由緒としては、景行天皇の御代、大和国の穴師に祀られていた社
(現、穴師坐兵主神社)が近江国に遷座し、欽明天皇の御代に、現在の地に社殿が造営されたのが始まりで、御祭神は八千矛神(やちほこのかみ)。元来、中国の八神信仰に由来する兵主(八千矛神)の神を渡来人が奉斎し、但馬国を中心に全国各地にお祀りした由来で、中世には源頼朝や足利尊氏によって造営されるほど、武士の崇敬を集め、「兵主(ひょうず)」という名称のとおり、勝負運や武運に御利益がある。
そんな“もののふ”というイメージにぴったりな“大社”という社格の高い境内の雰囲気を味わい、社務所で御朱印を拝受。この神社の社宝である刀の御朱印もいただき、帰りは参道から楼門へ。
1550年(天文19)に建立された朱色?の楼門。左右に翼廊のついた四脚門で、よく見ると翼廊の軒下には神様の名称のついた額が掲げられていて、たぶん、それぞれに神様が祀られているのだろう、入口楼門から“結界”としての役割を果たしている。楼門から境外に出て離れて見ると、改めてその美しいフォルムに、室町建築の時代背景が見えるようで、しばらくずっと眺めるのでありました~
高宮神社 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:25:50
兵主大社から東側にある五条自治会館前バス停からコミュニティバスを使ってJR野洲駅へ。次は彦根市へと向かい、JR南彦根駅で降りた東口からは直結してイオンがあるので、昼食タイム。久しぶりのマクドで英気を養い、南東方向へ歩いて20分ほどで高宮神社に到着。
この高宮の地域は中山道の宿駅「高宮宿」があった場所。江戸時代には戸数830戸余り人口約3500人余りと、かなり規模の大きい宿場であったという。高宮村を中心に周りの村は「麻」の産地ということから、その加工品の「高宮縞」「高宮上布」などの反物(織物)が有名で、街道沿いにたくさんの反物を販売していた風景が想像できる。
歴史的に見ると、「近江国風土記」には高宮郷との記述があり、また「正倉院文書」には郡内の里の紹介に、「太加美夜」とあり、昔から村落を形成し存在していたことが分かる。
そんな歴史ある高宮に鎮座する高宮神社。こちらも参道途中から失礼してしまい、東側に随神門、西を背に拝本殿が建っている。
高宮神社は今回で2回目。何となく境内の雰囲気は憶えていて、南側にある大屋根の休憩所、その向かいには木々生い茂る禁足地のような森が広がり、地元の憩いの場所のような印象が強い。この日は誰もいない境内だが、年末年始の参拝客で賑わうであろう想像が浮かぶほどの広さの中でお参り。
当神社の由緒によると、創立年代は不詳であるが、神社に関する古文書など歴史的資料が明治の大洪水で流され、残っていないという。古くは日吉大社領に起因する神社で、鎌倉時代末期創立ではないかとも云われている。
御祭神は大邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命…(長い…)、いわゆる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)であるが、相殿はその妻の木花咲夜比売命。宮崎県に天孫降臨した話をよく聞く瓊瓊杵尊であるが、一目惚れした木花咲夜比売命を娶る際、彼女の父、大山津見神から姉の石長比売命も併せて嫁がせたいという話がある。
「姉もセットで!?」とニニギは思ったであろう。普通の父としての立場なら2人の娘を嫁がせるなんて離れがたいものであろうに、同時に2人の姉妹を嫁がせたいというのは、どういうことなのか。石長比売命はたいそう醜い顔であった?ということなので…「いやいや、父親失格でしょ!」とツッコミを入れて見たくなるが、それにしても、話の筋の内容としては、この後、ニニギが姉だけを断わり、追い返すことで、父の怒りに触れ(とんでもない父親!)、姉は永遠性を司る女神なので、これ以降、寿命ができたという。この話を思い出すと、ニニギもご苦労なこったと毎回思いながら、話がズレてしまったが、境内の雰囲気を味わいつつ社務所へ。
前回訪れた時は宮司さまにお会いすることが叶わなかったが、今回はお会いでき、御朱印を拝受。次に向かう新神社の行き方を教えてもらい、感謝×2でお礼を述べ、後にする。
新神社 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:26:52
高宮神社から北西の方向へ歩いて30分ほどで新神社に到着。ちょうどカーブする道路沿いに鳥居が建ち、鬱蒼と茂る木々の中の石段を見つけ登る。こちらの神社を知ったきっかけは書置きの御朱印が境内に置いてあるという情報もそうだが、名称のインパクトに魅かれたことでもあり、「新神社…」「新しくできた神社だからそう名付けたのか…」はたまた「シン・ゴジラとかシン・仮面ライダーなどの“シン”?なのだろうか」と、変な妄想を思い浮かべてしまったことからも、これは訪れるべきと思った次第。
境内は広く、幣殿、本殿、社務所と至って普通の神社の建物が配されていて、本殿は石段を上がった一段高い場所にあり、格式の高い神社であると感じる。
さっそくお参りし、幣殿の柱付近に備え付けてある冊子と数種の書置き御朱印を拝受し、冊子の由緒を読んでみる。
新神社は彦根市円町にあり、彦根城より南に4kmほど離れた場所にある。創基年代は不詳。現在、ここより東側の斜面に高松稲荷神社があり、この神社の創建が鎌倉時代(寿永2年:1192)で、昔はこの高松稲荷神社が当地にあったそうで、室町時代に移転した可能性が考えられるとされる。移転され、空いたこの地に、比叡山の麓にある日吉大社の西本宮より大物主大神を勧請され創建されたとあるので、創建は室町時代だと思うが、高松稲荷神社が創建された以前は“不詳”と書いてあるとおり分からないが、ひょっとして、当地を治めていた首長のお墓(古墳)だったのか?とか、加持祈祷を行う場所だったとか?想像が膨らむ。
…で、江戸時代まで「新宮大権現」と呼ばれていたとし、明治に入り「新宮神社」から「新神社」と改められ、現在に至るという。まぁ~、「シン・神社」なわけないか…と、当たり前な歴史沿革を見てホッと?しているが、こちらの神社、雨乞いの御神徳があり、背後にある「雨壺山」の山頂で、昔は干ばつ時に祈祷を行い、祈願成就する習わしが伝わっているとあるので、あながち昔から神様がいたということは間違っていないのかも。修験者の神社とも言われているので、何とも霊験あらたかであると、境内の雰囲気を改めて肌で感じ、境内にある御神木のところへ。幹の内部が真っ黒に焦げていて、雷が落ちたのだろうか?と中を覗く。ブラックホール?のような大きな“口”を開け、不思議の国のアリスを想像しながらも、何もない穴に手を合わせ、木に触れ“ごあいさつ”。御神木を前に「芯」が通っている生命力をいただき、「シン・神社」に訪れることができ、今回はここまで~
また19、滋賀の旅 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 16:56:11
愛知県内の神社を巡ろうと、電車に乗ってすぐにアナウンスが流れ「この先、人身事故により○○駅から不通になります」と。この日は、午前中までに行きたい神社があり、遠回りしても行ける路線だが、何となく「これは、おしらせ現象か…」と思い、急遽中止に。私が勝手に捉えている「おしらせ現象」発動が久しぶりにはっきり現れ、まだ訪れてはいけないということ?なのだろうと解釈。ほんとのところは分からないが、まぁ~、気温38度予想だったので、初めから行く気がない…とも思ったのだが…
…で、今回は、ゴールデンウィークに行った日帰り旅。藤の花を見に行ってきました~
建部神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 16:57:04
とある休日。本日は日帰りということで、名古屋から東海道線を経由してJR能登川駅で下車し、八日市駅行きのバスに乗って伊野辺バス停へ移動。
ここは東近江市の西寄りに位置する場所で、滋賀県で「建部」といえば大津市にある「建部大社」が近江一ノ宮として有名だが、この建部神社は、その大社の元宮としている。
集落の中の道を南へ歩いて行くと、木々生い茂る森が見え、その木々たちもかなり背が高い。
鳥居前には神武天皇遥拝所の石柱が南を背に祀られていて、その方角に橿原神宮があるのだろうと想像する。その石柱の反対側に鳥居が建ち、さっそく境内へ失礼する。
参道からの広い社域、拝殿本殿と建つ周りはいろんな木々が生えていて、かなり年数が経っている巨木が目立つ。
今回、なぜこの神社を訪れたかというと、親族に手術入院が必要になり、「癌封じのケヤキ」があるという情報を知り、訪れた次第。
昼間でも薄暗い雰囲気がよりいっそう、神域の霊験あらたかさを醸し、そんな中で、手水舎で身を清め、本殿でお参り。
「癌封じのケヤキ」は本殿左側に“鎮座”していて、一目見て、その異様な雰囲気におどろおどろしい。全体的に木の幹の形が、ゾウが宿っているのではないかというくらいの瘤(コブ)が大きく、この瘤が病気を封じ込めてくれるとされている。ケヤキの横にある「雨壺」に手を合わせてから願いを込め、瘤に触る作法らしく、手術の成功やその後の回復、再発防止の願を掛け、なんとか病気を封じ込めてくれることを願う。
この日も、夫婦で参拝している方々がいて、やはり想いは同じ…この世の中、2人に1人はガンになる時代…癌克服・撲滅を祈る。
社務所を尋ねると、宮司さんが対応して下さり、数種類の御朱印を拝受。癌封じのお守りは、あのケヤキの皮や枝から一部を切り取ったもので、しっかりと購入し、御祭神の日本武尊に感謝を申しあがるのでありました~
大城神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 16:57:55
伊野辺バス停からJR能登川駅行きに乗り、途中、金堂バス停で下車。ここは、かつては近江商人が住む五箇荘という地で、商人の町並み風情が色濃く?残る観光スポット。交流館や屋敷跡などが並ぶ集落は、道路も整備されていて、町おこしに力を入れている?のが分かる。
町並みを歩き、その中にある大城神社に到着。大きな鳥居を潜り、こちらも巨木が目立つ境内に失礼し、拝殿本殿、摂社や牛の石像、道真公の石像など、菅原道真公を祀っているのだとわかり、拝殿でお参り。
ネットによると由緒には、推古天皇の御代、厩戸皇子が小野妹子に命じて当地に金堂寺を建立され、その鎮守社として創建したのが始まり。室町期では領主であった佐々木氏の居城、観音寺城の鬼門に位置していたことから守護神として崇敬、庇護されていたと。
あと、NHKの朝ドラのロケ地であったこともあり、一時期は「聖地巡礼」で訪れる参拝客も多かったとか。そんな境内を散策し、自然の息吹を感じるほどの広さに、清々しさを感じながら、賽銭箱に書いてあった宮司さん宅の案内どおり赴き、社務所?へ移動。書置きの御朱印を拝受し、やはり話題は、NHKの朝ドラのことで、私はあまり見てないので分からないが、好きな人にはロケ風景を撮った写真を見せてくれるようで、テレビの影響力はすごいなぁ~と、お礼を述べ後にするのでした~
立木神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 16:58:46
とある休日。今回も日帰りということで、名古屋から東海道線を乗り継ぎ、JR草津駅へ。
駅から南西方向の旧東海道を真っすぐ歩くと、草津宿の資料館などがあり、街道筋に見る趣に歴史を見る。草津市役所近くの交差点に差し掛かり、道路を跨いだ先に見える赤い橋、赤い鳥居を見、立木神社にたどり着いたことが分かる。
立木神社は今回で2回目の訪れであるが、ここもあんまり記憶がない。社域の雰囲気が木々に囲まれた広い敷地だったことは憶えているが…さっそく鳥居から失礼すると、どうやら東側の鳥居から入ってしまったようで、参道途中、立派な随神門が目の前に現れ、傍らには藤棚が春の装いでしだれている。
今回の日帰り旅は、「藤の花」をメインに4つの社を訪れる予定で、この時期にしかいただけない御朱印も兼ね、以前から気になっていた「四社めぐり」の企画がある事を知り、その最初の1社目がここ、立木神社。
立木神社の由緒によると、称徳天皇の御代、今から約1250年前に武甕槌命(たけみがづちのみこと)が白鹿に乗って、大和国に行く途中、この地に立ち寄り、柿の木でできた鞭を地面に刺し、「この木が生え付くならば、吾永く、大和国三笠山(春日大社)に鎮まらん」と言い、その後、柿の木は立派な大樹となり、里人が御神徳を称え、この木を崇めるための神殿を建てたことが始まりとされる。「柿の木」といえば、三重県名張市の積田神社も同じようなエピソードだったような?気がするが、鞭を地面に刺して生えてくる?トンでも話を、確か菅原道真公が刺した割り箸が生えた…兵庫か岡山の神社でも同じ話があったような…神の為せる業があってオモロイ。
そんな柿の木よりも、今は境内にある松の大木の方が立派に目立ち、まさに龍神が宿っているかのようなうねりの枝が見事で、仰ぎ見ながら拝殿へとお参り。柿の御神木は本殿右手側に玉垣で囲われ、意外と小さい。たぶん、何代目かの柿の木なのだろうと、今は黄緑色の葉を付け、ひっそりと佇む”姿“に何とはなしに拝む。
境内を散策。境内には旧東海道と中山道との分岐点を示す石柱の道標があり、県内最古という。徳川時代の参勤交代の時には、草津宿を通過する際、当神社で安全祈願を行う大名もいたそうで、交通安全の守護神としての御利益があり、崇敬されていたとのことなので、今回の、旅の安全の御神徳を得られたことはうれしい限り。
社務所を伺うと、隣に白いテント下でお守りや御朱印対応している巫女さんがいて、「四社めぐり」のための、4社すべての書置きの御朱印が拝受できるようで、すべてお願いし、地図もいただく。あと3社を目指し、再びJR草津駅へ移動。
惣社神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 16:59:30
JR草津駅バスターミナルから水生植物公園行きのバスに乗り、志那中町バス停で下車。北へ歩いて10分ほどの惣社神社に到着。集落の中の、地元の神社~といった感じの佇まいで、鳥居から失礼し、普段は無人である社務所が開いていて、氏子さんだろうか、姿が見える。
南を背に建つ拝殿本殿へ行く途中に藤棚があり、観賞は後にして、まずはお参り。
惣社神社の御祭神は志那津彦命・志那津姫命。往古は「科戸明神」と称えられ、大津宮の繁栄とともに、科戸ヶ浦には湖上に要港を備えていたことから尊崇されていたという。天智天皇の御代に、「意布伎神を鎮座して…」と資料に書かれていることから、「意布伎」つまり、「伊吹山」のことであろうか、伊吹山から吹き下ろす風、帆を受けて船を動かすための風、「風神」さまを祀ったということらしい。なので、こちらの神社では「風神踊り」という、「風招」の大団扇を持って神歌とともに天を仰いで踊る特殊神事がある。小ぢんまりとした神社でありながら、立派な風習があるんだと、いつかは見てみたいとも、境内を見渡しながら神事の想像をする。
さて、藤棚の観賞をと、規模は小さいが、紫・白色の垂れ下がった花が香りを放ち、しばらく撮影に夢中になる。クマバチもこの時とばかりに、やけに多く飛び交い、クマバチの性格は大人しい?ので気にすることはないが、花粉を集めては掻き入れ時のように花から花へと移り忙しそう。
ぐるりと藤棚を一周し、堪能~。次は志那神社を目指す。
志那神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 17:00:21
惣社神社から北北西の方角にある志那神社へ。歩いて30分ほどの距離を集落から抜け、周りに建造物がない田畑広がる風景を眺めながら、畦道を進む。用水路沿いの道を歩いていると、地元の方に「志那神社かい?」と声を掛けられ、道順を教えてもらい、地元の優しさに触れ、“旅人”を労って下さり感謝×2。
先ほどの惣社神社、これから向かう志那神社、三大神社の3社を合わせて「志那三郷の藤」と呼ばれていて、この時期は祭りのように参拝客が多く、この日も志那神社鳥居前にはそこそこの人がいて、繁盛しているよう。
鳥居からは真っすぐの参道、境内は、東を背に拝殿本殿が建ち、小ぶりな藤棚もちゃんとある。
志那神社の御祭神は惣社神社と同じ、志那津彦命・志那津姫命、伊吹戸主命。創基年代は不詳であるが、元々は「意布伎神社」と称していたという。江戸時代までは「白山大権現社」であったが、明治以降に今の社名となり、やはり、風の神を祀る社として有名だったらしい。
ここ志那町自体が琵琶湖の東岸湖辺に位置し、古代より風待ちの湊(港)として湖上交通の要衝であった。氏子の多くが船を所有し、湖上と関りが非常に強い土地柄であったことから、風を神格化して祀ったものとされる。
そんな風の神さまを祀る境内を散策していると、小雨がポツポツと降ってくる。最近、龍に纏わる神社をお参りしたせいか、小雨が降る現象が多く、私は龍に憑りつかれているのかもしれない。そんな中で拝殿でお参り。境内社は白山神社、八幡神社、黒姫神社などが祀られ、藤棚もこの時期は目立つように“長い花”を付けている。社務所近くの藤棚には白一色の藤の花が垂れ下がり、返って珍しい品種?なのだろうかと観賞。ちなみに、「惣社大藤の縁起」には、天武天皇の病除けに、仏法興隆を祈念して藤が供えられたことに始まると伝えられていて、長く天雅に降り注ぐイメージが「藤」に例えられたのだろうかと妄想する。
こちらの社務所も期間限定で開所されていて、御朱印も頒布されている。風の神さまに、今日はあまり風雨にならないようにお声かけをし、次の三大神社へ。
三大神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 17:01:10
志那神社から南へ20分ほど、小雨が降る中を歩く。4社御朱印巡りの最後は三大神社。鳥居付近に到着すると、ボランティアの方たちが交通整理をしていて、駐車場には多くの参拝客の車がとまっている。
三大神社も一度来ている。が、記憶がない。藤棚で有名ということは知っていたが、以前に訪れた時は時期ではなく“枯木”の時だったので、印象が薄かったのかも。
さっそく鳥居を潜り、いきなりの藤棚の、紫色の“のれん”が、今日訪れた、どの社よりも長い穂をつけ、それが本殿先まで参道沿いを埋め尽くし、見事に咲いていて、「砂擦りの藤」とも呼ばれ、2m近くも長い穂をつけることもあるという。
奈良の談山神社でも説明したが、藤が咲く頃に病床の天智天皇を見舞った中臣鎌足に、「藤原」の姓を授けたエピソードから、藤原氏を名乗ることになったが、摂政関白の位にあった藤原氏の隆盛を祈念して植樹された“古老”で、戦国時代には織田信長侵攻の兵火によって焼失したが、その後、根元から再び芽生え、今の巨木に育ったというからスゴイ。
見事に咲き誇っている藤棚はコンクリート製の柱で支えられていて、根元を見れば黒々とした太い木の、まさに“老藤”であることが分かり、この日のために植木屋さんの苦労が垣間見える。藤棚の向かいには売店やお土産コーナーが並び、今どきのフルーツサンドまで販売していて繁盛しているよう。目移りしそうな露店を過ぎ、まずは本殿でお参りをと、行列ができている後ろに並び、順番を待ちお参り。
三大神社の御祭神は惣社、志那神社と同じ、風の神様。「三大」という名称は「三大大権現」からきていて、志那津彦命・志那津姫命、大宅公主命を合わせた3柱で構成されている。大宅公主命の読み方は「おおやけこうしゅのみこと」「おおやけくにぬしのみこと」などと読み、「記紀」にも出てこない神様。ネットで調べてもよく分からないが、欽明天皇の皇女・妃に「大宅皇女(おおやけのひめみこ)」という人物がいる。同一人物であるかはわからないが、社伝によれば、ここ吉田の住人「売太包光」という漁師が漁をしていて、拾い上げた光る木片がこの皇女の霊であるとのことで、応徳元年(1084)に、その御神託のもとに、国府に赴き、国司の援助を受けて社殿を造営したとあることから、つながりのある家系なのだろうかと妄想する。
そんな神さまたちに見守られながら、老若男女、犬からコスプレイヤーまで幅広いいろんな”人種“が藤棚に魅了され、私も撮影に夢中になり、ゆっくりと散策するのでした~
うばがもち - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 17:02:01
JR草津駅に戻り、駅構内の売店を覗いていると、和菓子を販売する店に立ち寄る。
「うばがもち」と呼ばれる、小箱にちいさな餡ころ餅が“乳”の形のように整っていて、お土産に2箱購入。
中には由緒書きの紙が入っていて読んでみると、近江源氏の佐々木義賢が織田信長に滅ぼされ、その際、曽孫を乳母に預けて、地元草津に戻り、生活の糧に餅を作っては売り、いつしか、誰が言うともなく、それが「姥(乳母)が餅」となったそうな。
北斎や広重などの浮世絵や浄瑠璃で、その評判が全国に広がり、草津名物として有名になったとか。
小箱の中には6粒の餡ころ餅が入っていて、これをお湯に入れて溶かすと、おしるこが作れると書いてあり、食べ終わった後で見てしまったので、残念無念…
そんでも、味わった感想は、伊勢名物の「赤福」を小さくしたバージョン?のような…
地元の名物を味わうことができて、旅の思い出がよみがえるのでした~
また18、滋賀の旅 - モリゾーのひとり言
2024/07/02 (Tue) 16:16:47
桜の旅、第2弾は滋賀県。というか、前回も訪れた滋賀県であるが、考えてみれば、近江国108霊場を制覇したとはいえ、メインはお寺ばかりで、滋賀県の神社もそこそこ訪れてはいるが、まだまだ知らない神社が多々ある事に気付く。今また、改めて行ってない神社を調べ、今後も訪れる予定?ではある。
…ということで、もう7月なのに、桜の旅~
上野神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/02 (Tue) 16:17:56
JR東海道線を乗り継いで、JR篠原駅で下車。南口から北東方向へ数分歩いていくと上野神社がある。ここは近江八幡市の南西に位置する場所。線路近くに建つ、道路に面した鳥居付近には桜が満開を迎え、良い雰囲気。上野神社はネットによると、御祭神は須佐之男命だが、当初の御祭神は鴨建角身命(かもたてつぬみのみこと)らしく、延暦13年(794)に鎮座され創建されたとある。鴨建角身命といえば、東征で神武天皇を先導したあの、八咫烏の化身であるが、この御祭神を祀った人が物部宿祢、高比古(たかひこ)という人物。射術の名人らしく、狩りに出掛けたある日、嵐で視界が悪くなり、地に伏して嵐が去るのを待っていたところ、老翁が現れ、上野村の安泰の御神託を受けられ、こうして高比古が“八咫烏”を祀ったことがきっかけとのこと。その後、伝教大師が社殿を修復し、須佐之男命を主祭神として神仏習合の形で七堂伽藍、神社を建立したという。
そんな“八咫烏”が隠れ神様的存在?で宿る境内は、今は子安神社、大神神社、稲荷神社、多賀神社、新宮神社…といろんな境内社が祀られていて、明治天皇や神武天皇の遥拝所の石柱が建ち、いろんな神様がいる。本殿でお参り後、御朱印について、宮司さん宅の所在地図が社務所に貼り出されていて、その通りにお伺いし、御朱印を拝受。春の陽気にウキウキした気分で次へ。
大笹原神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/02 (Tue) 16:18:50
JR篠原駅に戻り、JR野洲駅へ移動。駅南から出るコミュミニティバス“おのりやす”の篠原コースに乗り、大篠原バス停で下車。交差点を南東方向へ道なりに集落の中を歩くと、日野川の支流、何と言う川か分からないその川に架かる橋が見えてきて、その先の公園に桜が満開を迎えている。地元のお年寄り方が花見をしていて、のんびり気分で寛いでいる姿にこちらも少し花見見物。
そこから木々が生い茂る真っすぐな参道が続き、別世界へ誘われるかのような、神社特有の空気を感じる。
ここは野洲市大篠原という場所。「大篠原」という地名でありながら、「大笹原」という社名になっている。当初、不思議に思っていたが、どうやら明治の神仏分離令の時、境内社にある、昔から祀られていた地元神、篠原神社(餅の宮)と同じ社名は付けられないという政府の意向があったのだろうか、このことから一文字変えて「笹」にしたらしい。
その、大笹原神社の位置する南側一帯は、「天王前」といい、「天王」すなわち牛頭天王、「厄除神」「薬師如来」といわれる素戔嗚命が祀られ、「天王さん」として親しまれているという。
なので、ここから近い岩蔵寺には重文の薬師如来立像が安置されていて、神仏習合の名残も窺い知る。
赤い鳥居から参道を歩き、途中から左に90°折れる形は怨霊を封じ込める形…だろうかと思いつつ、広い境内にたどり着くと、後光が射したかのように境内全体を照らし、そんな中さっそく拝殿でお参り。
拝殿の奥には玉垣で仕切られた内陣に2社殿が建ち、本殿、左手には餅の宮が祀られていて、本殿は国宝、餅の宮は重文である。本殿は室町時代に岩倉城主の馬淵定信が再建したもので、三間社入母屋造の檜皮葺の屋根、東山文化を表す彫刻がスゴイとのことだが、遠いのでよくわからない。餅の宮は春日造り、至って本殿を支える、仏像でいうところの“脇侍”?といったところだが、社名の由縁通りだと、こちらが“主役”といった感じ。本殿右手にも3社の境内社が祀られていて、今にして思えば、何が祀られていたのかは思い出せないが、ちょこんと3兄弟の従者?のように建っている。
この地域には良質の餅米が作られる産地として知られ、粳(うるち)を植えても糯米(もちこめ)になるとされていて、これも「餅の宮」の御神徳による”賜物“?と勝手に想像する。
境内を散策。東側には「寄倍(よるべ)の池」というおどろおどろしい?池があり、説明看板には「池」ではなく「沼」と、かなり深いらしい。どんなに日照りが続いても、常に満水で枯れたことがないと。しかも、二基の御神輿が沈められたままであると伝えられ、何かしら神威が働いているのかも…と。
「あなたが落としたのは金の斧か銀の斧か…」みたいな童話の妄想が始まり、静寂の中で池だけを見つめていると、ブクブクと神輿が上がってきそうな…いやいやヨーダじゃないし…と、この雰囲気を楽しむ。
御朱印は拝殿の所に書置きのがあるので拝受し、そういえば、当社は、近江源氏の佐々木氏も祀られているので、「大笹原」の「ささ」は「佐々木」氏からも来ているのだろうか…と想像が止まらないのでした~
妓王井川 - モリゾーのひとり言
2024/07/02 (Tue) 16:19:48
野洲駅近くのホテルで一泊し、翌朝、駅南のレンタサイクル屋から前回と同じように駅構内を横切り駅北口へ。
前回、妓王寺への拝観を断念したが、今回は予約を取り付け、リベンジ?を果たすため訪れることとなったが、その前に、そのゆかりとなる妓王井川周辺の桜並木が見頃であろうと、目算を付けた場所から川の土手へと移動し、案の定、朝から“白いブロッコリー?(桜です…)”が並び、輝きを放っている。
堤防からは自転車を降りてゆっくりと歩き、地元の方々と挨拶を交わしながら春の陽気に包まれ、満開の桜に小鳥たちも楽しんでいるように木々を移動している。桜とのコラボは、城郭や富士山などの背景に相性があるが、川沿いも同じように決まって桜が植えられているのは、聞いた話だが、昔は、土手を作るのに人出が足りず、そのため、見物人が自然と土手を固めるために桜を植えたという…昔の人の知恵はすごいなぁ~という話を思い出す。
長く続く土手を踏み染みながら、途中の生和神社近くの橋まで差し掛かり、生和神社鳥居付近も桜が見頃で思わずパチリ。満開の桜を愛でながら、野洲川から引っ張ってきた支流、妓王井川の水濠が、この土地に潤いを与えたエピソードの、歴史の一端に触れ、妓王に対してのリスペクトをしつつ、花見を観賞するのでありました~
錦織寺 - モリゾーのひとり言
2024/07/02 (Tue) 16:20:42
妓王井川から離れ、レンタサイクルで妓王寺を目指すが、まだ約束の時間まで余っているので、妓王寺からさらに北西方向へ足を延ばし錦織寺へ。
田園風景が広がる中の、遠くに目を向けると、ポツンと桜並木が合図のようにその背景に大きな屋根が見え、明らかに“お寺”であることが分かる方向へ移動。
ここは木部という集落で、錦織寺の隣には木部神社があり、まずは地元の氏神さまにご挨拶。お参り後、錦織寺駐車場に自転車を停め、山門から正式に失礼する。寺域はかなり広く、大きいお堂が建つ伽藍となっていて、銅像を背景に集団で撮れる長い椅子も設置してある。
錦織寺は「にしこり」ではなく「きんしょく」と読む。宗派は浄土真宗で、銅像はもちろん親鸞さん。親鸞さんが関東から京都へ帰る途中、錦織寺に立ち寄ったとされるゆかりの地。
元々は、この地に比叡山三代座主の慈覚大師の指示で御堂が建てられ、そこに毘沙門天像が安置されていた所で、この毘沙門天が親鸞さんの夢枕に現れ、親鸞さんはここに来たという。そして近江の人々に念仏の法を説き、経文などに節をつけた「田植え唄」も伝わっていて、親鸞さんの教えが今日にまで至っていると。
御影堂や阿弥陀堂の前には親鸞さんの“生い立ち”がパネルによって説明、紹介され、関東から京都へ向かうまでの“足跡”を知り、知識を得る。
過去に浄土真宗のお寺は各地、訪れているが、どこも大きすぎるというくらいのインパクトある建造物、“荘厳”という文字が相応しい印象があり、ここ錦織寺も御影堂、阿弥陀堂とお参りしたが、堂内の畳で一人寝そべりたい…くらいの広さに圧巻。
天安堂には毘沙門天が安置されているが、扉が閉じられているので見ることは叶わず、その前でお参り。ちなみに、この毘沙門天像は最澄が比叡山の北谷で見つけた霊木から造られた像で、京都鞍馬寺の毘沙門天像を同じ霊木だそうな。
…で、広い境内を散策し、宗務所へ移動すると、受付の窓に御朱印の貼紙が。だいたい浄土真宗は御朱印をしないところがほとんどであるが、ここは頒布していて、ありがたく拝受。
親鸞さんの教えが今も息づいている錦織寺を訪れることができて満足×2。
虫生神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/02 (Tue) 16:21:35
錦織寺に行く途中に気になった神社に、まだ時間があると、立ち寄ってみることに。
木々が生い茂る中の参道を行き、石柱には「虫生神社」とあり、よく見ると「虫」の文字の上に「′」が付いている。何か意味があるのだろうかと、小さな鳥居、その先の参道もまた直立の木々が天へとすっくと伸び清々しく、神門に到着。
さっそく境内へと失礼し、桜が見頃を迎えていて、地元の神社~といった感じ。
ネットによると、「虫生」は「むしゅう」と読み、住所も野洲市虫生とある。かつてこの地域は服部郷があり、この内の錦織部の人々がここに居住し、天智7年(668)に創建したと伝わる。「虫生」という名称はあんまり聞かないが、どうやら静岡や長野、千葉にも同じ地名の名称があり、「虫生」というイメージから「蚕(かいこ)」「服織」などに関連しているのか、「服部」は「機織り」に転訛した言葉?だし、「錦織」という名称からも、かつてこの地は、養蚕が盛んな土地柄ではないかと想像する。
御祭神は月読命(つきよみのみこと)。月を司る神で、「ツキ」を呼び込む御利益があり、あまり出会わない神様。私が訪れた記憶としては、伊勢の「月読宮」、京都の「月読(夜見)神社」ぐらいだろうか、全国に祀られている社もそんなにないような気がする。
そんな月読命さまにお参りし、境内を散策。傍らには弁財天を祀る池があり、桜の花びらが風に揺れて散るさまが風流である。見頃の桜を愛で、妓王寺での約束の時間が迫ってきたので、急ぎ元来た道を走る。
妓王寺 - モリゾーのひとり言
2024/07/02 (Tue) 16:22:33
妓王寺へは以前来ているので、道程は分かっている。集落の中の細い道を走らせ、ちょうど案内の方と会い、ご挨拶。ちょっとした空き地に自転車を停め、山門の躙り口から失礼し、「寺」というか「庵」といった印象の、質素な佇まいを醸す建物で、庭には季節の草花?が生え、妓王・妓女姉妹の供養塔2基、案内板も設置されている。
さっそく堂内へと上がり、まずは本尊の阿弥陀如来さまにお参り。その後、妓王に纏わるビデオを見ながら、案内の方がいろいろと解説して下さる。
妓王は江部荘に生まれ、貧しい生活の中で育ち、白拍子(平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指す)となり、京へと上がり、洛中洛外でその名が響き渡るようになり、時の相国、平清盛が、ある遊宴の席でその白拍子を知ることとなり、清盛の寵愛を受け、殿中に仕えるようになる。そんな“シンデレラガール”となった彼女であったが、3年後、若き白拍子、仏御前の登場により、清盛も目移りしてしまったのか、馬上鞍替え、清盛から退出を命じられ、妓王はいたたまれず、妹の妓女と母の刀自(とじ)と共に出家、嵯峨野に庵を結び、仏門に入ってしまう。時に妓王22歳、妹の妓女19歳である。ちなみに、仏御前も"馬上"から捨てられ、妓王姉妹、妓王の母を含め4人で一緒に仏道に励み、後世を遂げたという。
そんな一時の寵愛を受けた妓王であるが、この地元に貢献したエピソードは前回も話したが、野洲川から水路を引き、この枯渇した大地に潤いを与え、この土地を豊かにさせたことが語り継がれていて、清盛との出会いがなければ、この地域はどうなっていたであろうかと、案内の方もその功績を称え、伝えていることを学ぶ。妓王は8月25日に亡くなり、今でも毎年、その日に法要が行われ、妓王屋敷跡で地元の方々が集まって同様に営まれるんだとか。
堂内の鴨居には写真パネルが飾られ、NHK大河ドラマ「平清盛」が放映された年は、ものすごい人が訪れた話や妓王井川の桜並木の話とかいろいろとお話して下さり、感謝×2。
最後に御朱印があるかどうか聞いてみると、尼僧が数年前に亡くなり、今は無住状態。地元のボランティアの方々が歴史を伝えているそうで、だから御朱印はないとのこと。
妓王の人となりに少しでも触れることができて、案内の方にお礼申し上げるのでありました~
八幡堀遊歩道 - モリゾーのひとり言
2024/07/02 (Tue) 16:23:38
JR野洲駅に戻り、JR近江八幡駅へ。バスターミナルから長命寺行きのバスに乗り、八幡山ロープウェイ口バス停で下車。川を遊覧する八幡堀めぐりやロープウェイ、日牟禮神社などで有名な近江八幡市内の城下町を散策する。
…といっても、近江八幡の城下町は過去にほとんど見て回っているのだが、桜の時期は来たことがなく、八幡堀に咲く桜をメインに訪れた次第。
やはり観光客の姿、観光バスの多さにはどこもごった返していて、メインの白雲橋の上、堀に咲く桜を撮ろうと渋滞が起こっている。そんな場所を避けるように、橋から堀へと下る遊歩道へ移動し、川の水面ギリギリと同じ石畳の遊歩道は、人一人が通れるくらいの狭さだが、体感温度が1度下がったような涼しい雰囲気を醸し出している。川をスイスイ渡る遊覧小舟が静かに通っていく光景は風情があり、桜も見上げる形でイイ。
ゆっくりと西へと進み、途中、“地上”へと上がると、観光客も少ない場所にまでいつの間にか移動していて、花見を堪能~。
桜の時期は短い期間なので、満開の、このタイミングに訪れることができて、今回も良い旅となりました~
また3、岐阜の旅 - モリゾーのひとり言
2024/06/27 (Thu) 11:48:30
今回は3月下旬と4月上旬に行った日帰り旅。満開の桜の時期をドンピシャで訪れるのは場所や天候によって難しく、情報が頼り。以前、富士山と桜のコラボを目的に静岡県のとある川沿いからの写真を撮ろうと訪れたが、富士山が雲に覆われ、こればっかりは運もあり、仕方がない。
そういえば、富士登山に関して徴収すると、ニュースでやっていたが、あの“世界遺産”って何なんと思ってしまう。世界遺産登録されてしまうと、人々が殺到し、その遺産が蝕んでいくようなイメージがして、本来の「価値あるものを後世に伝えていく」意味がどこか、「政治的なプロパガンダのための、単なる観光誘致」のような印象で、ダメですなぁ~と…
話が変な方向へ行ってしまったので…と、とりあえず、第1弾の桜の旅~
智照院 - モリゾーのひとり言
2024/06/27 (Thu) 11:49:21
とある休日。JR岐阜駅に到着し、広いバスターミナルから関市方面のバスに乗り、岩田バス停で途中下車。ここは岐阜市中心部から北東方面の長良川南に位置する岩田という場所。バス停から岩田西の住宅街を歩き、岐阜七福神や美濃新西国の霊場でもある智照院をまずは訪ねる。
鐘楼門を潜った境内は小ぢんまりとしていて、十三重石塔や延命地蔵尊、恵比須さんのお堂が配され、落ち着いた雰囲気。
HPによると、正徳元年(1711)に岩田村に住む孫次郎さんの娘さんが「智照庵」という庵を建て出家し、智照元明尼として白夜観音をお祀りしたことが始まりのよう。その後(省略)、宝暦11年(1785)に現在の三重県松阪市にある薬師寺の僧、大成誓道大和尚が諸国遍歴の途中にこの地に留まり、当山で一生過ごされ、およそ100年後、薬師寺の第12世佛山道穏大和尚を招いて開山されたとのこと。
境内の墓地には古墳跡があり、岩田山の南西山麓に分布する岩田古墳群の一号墳という、合計7基の古墳が確認されていて、現存するのはその2基のみで、ここ智照院古墳が最も保存状態が良く、円墳と伝えられている。内部は横穴式で須恵器や金銀メッキの耳飾りが出土しているそうで、古代、集落の形成がされていたことが分かる。
本堂や恵比須堂?でお参り後、さっそく墓地へ移動し、その石室を見る。フェンスに囲まれた中に長くのびる石室跡。明らかに人の手が加えられた岩が積み重なり、石観音?さまが祀られている。この地で集落を営んできた生活を想像し、長良川の鮎でも採りにいっていたのだろうかと、古の想いに重ねるのでありました~
伊波乃西神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/27 (Thu) 11:50:20
智照院から北へ集落の中を歩き、道路に面した鳥居、そこから参道が真っすぐ延びる先の景色が何とも…この神社の風格を表しているというか、きっと社格が高いことが何となく分かる。
鬱蒼と茂る木々で囲われた参道を歩き、徐々に心が洗われていく?かのような神聖な空気に清々しさを感じ、パァ~と開けた境内は、横に長い拝殿、その奥は祭壇のように一段高い本殿が祀られていて、それ以外スッキリとした社域となっている。
伊波乃西神社の御祭神は、日子坐命(ひこいますのみこと)。第9代開化天皇の第4皇子である。日子坐命の親族周りには、岐阜市内にある伊奈波神社の御祭神、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の祖父を始め、岐阜市内にある金神社や橿森神社の御祭神が親族にあたる血筋となっていて、まさにこの地を見守っている神様たち。日子坐命の子、八瓜入日子命(やついりひこのみこと)と共に、美濃国の治山治水などを開発し、この地で亡くなっていると伝わる。
日子坐命は「古事記」によると、崇神天皇の命により「四道将軍」として(と思われる)旦波国(丹波)を治めていた玖賀耳御笠(くがみみのみかさ)を討伐し、その後、御子が本巣国前国連に命じられるにあたり、同行してこの地に来られ、地域の安定をもたらしたことは先に述べたとおりである。その丹波には、日子坐命の“土蜘蛛伝説”が残っていて、丹波の各地にはその名残の地名があり、ここではその話は面倒なのでカット(調べてね…)。そんな日子坐命がこの地を発展させた功績に手を合わせ称える。
…で、実は、この1週間後の4月上旬にも訪れていたことを記す。町の案内板に例祭がある情報を知り、ひょっとして御朱印がいただけるのでは?という期待を胸に訪れたのである。
が、何時に行われるかまでは把握できておらず、ただ境内の雰囲気は前とは違っていて、拝殿前に、横に長い建屋の舞台、そこに大量の紅白の餅が積み重ねられていて、餅投げが行われるのが分かる。お参り後、氏子の方だろうか声を掛けてみると、午後4時ごろに子供神輿や餅投げが始まるようで、御朱印はないとのこと。コロナで中止を余儀なくされた例祭が復活ということもあり、久しぶりの開催だと言う。
「午後4時か…」
時間の都合上、ちょっと無理かもしれないが、その氏子さんにお礼を述べ、あの、餅投げで賑わう光景を妄想力で満たし、後にする。
日子坐命陵墓 - モリゾーのひとり言
2024/06/27 (Thu) 11:51:12
伊波乃西神社から北の山腹あたりに日子坐命の陵墓があり、行ってみることに。山林の中の参道、自然石で作られた山道は、誰も通らないであろう苔が生えていて、それが返って良い。足元に気を付けながら注意していると、模様の入った「石」を発見し、それが“日子坐命の姿”と勝手に妄想。確かにここに“存在している”と思いながら、陵墓に到着。
今は宮内省の管轄だが、昔はここに社殿があり、伊波乃西神社と称していたので、昔の人は直接、陵墓にお参りをしていたということか。
陵墓特有の鳥居からは石柵で囲われていて、中には巨岩が1つ見える。この巨岩が石室の天井石と考えられているので、この下に眠りについているのだろう、しっかりとお参り。
地元民からかなりの信望を集められた日子坐命。今もこの地域を見守って下さいと、一礼するのでありました~
林陽寺 - モリゾーのひとり言
2024/06/27 (Thu) 11:52:02
陵墓から鳥居へと戻り、さらに北へ移動。集落からすでにしだれ桜が遠くに見え、そこだけ明るくなっているように目立っている。林陽寺のしだれ桜は開花満開の時期が早い。その存在を知ったのは昨年の4月上旬のもう、葉桜の頃で、今年はぜひにと訪れてみたいと思い、見頃の3月下旬の本日、願いが叶ったので嬉しい。
林陽寺は延暦13年(796)、弘法大師により草創し、全国行脚中、ここに留まり村社の八幡神社(今の伊波乃西神社)の南に堂宇を建立し、自ら薬師如来像を造って本尊として、その背後に曼荼羅を添えたと伝わる。さらにその18年後に再来し、芥見の願成寺(いずれ紹介)において大日如来を刻み、灌頂の法を行ったとされる。ちなみに「灌頂」とは、仏さまと縁を結ぶための儀式、つまり、弟子が一定の資格を備えたことを証明する法で、北大路欣也が演じる映画「空海」で、曼荼羅を敷いた上に樒(しきみ)の葉を目隠しで落し、その葉が落ちた位置に描かれている仏さまと縁で結ばれるという…もちろん空海は大日如来で、そのシーンを憶えている。…とまぁ~、紆余曲折、その後、無住になったり再建したりして林陽寺は今に至っている。
そんな歴史ある当寺に、樹齢200年になるとされるしだれ桜がある。暖かい気候ならば、3月の中旬ですでに満開を迎えるというしだれ桜。山門まで来ると、その存在感に圧倒され、この日も多くの参拝客で賑わい、少し雨が降ってきたが、撮影に夢中になる。
駐車場にはちょっとしたお土産や和菓子販売などをしており、裏山にも小ぶりのしだれ桜の“共演”と、堪能しつつ本堂でお参り。
こちらには岐阜七福神の布袋尊を祀り、そのお堂でもお参り。書置きの御朱印を拝受。しっかりとしだれ桜を愛で、寺から離れた集落の畑に咲く菜の花からのコラボ写真を撮り、日帰り旅はここまで。
願成寺 - モリゾーのひとり言
2024/06/27 (Thu) 11:52:52
とある4月上旬の休日。先ほど述べた伊波乃西神社に立ち寄ってから岩田バス停に戻り、長山行きのバスに乗って芥見南山バス停で下車。そこからコミュニティバスに乗り換え、緑山東・願成寺バス停へ移動。
願成寺は今回で2度目。やはり境内にある「誓願桜」を見に来ているが、もう10年以上は経っているだろうか、境内の様子は、誓願桜以外憶えていない。あ、そうそう、1つだけ仁王門付近で地元の方とお話をした“Qちゃん”話は憶えていて、この付近で走る姿を見かけたという談笑で、道路に面した仁王門を見、その時の記憶は蘇る。
境内へとさっそく失礼すると、誓願桜が風に揺れて、少し葉が増えているが、花は咲いていてギリギリ間に合ったよう。
誓願桜は国の天然記念物。ヤマザクラの変種ということで世界に1つしかない。中将姫が植えたと伝わる樹齢1200年くらいの桜は、20~30弁の花弁を持つ珍しい“代物”。そんな“誓願桜”といわれるくらい、中将姫が祈った「人々が幸せになるように」の願いは、叶えられていると、じっくりと観賞。
境内を散策すると、本堂はもちろん、境内にある白山神社、弁財天を祀る池など初めて来たかのようにやはり憶えていない。しっかりと境内の雰囲気を肌で感じ、春の陽気に包まれる中お参り。
願成寺の由来は、美濃の豪族、村国男依が祀った仏像を泰之登という僧が現在地に移して建立し、奈良時代、聖武天皇の勅願によって諸堂が整備され、「願成寺」と命名された…という簡略した説明だが、大仏の鋳造計画、夢のお告げ童子の話など、いろんな伝説があるが、ここではカット(調べてね…)。
…ということで、誓願桜に見守られながら、バスの時間までベンチに座り、ゆったりとした時間を過ごすのでありました~
龍雲寺 - モリゾーのひとり言
2024/06/27 (Thu) 11:53:44
緑山東・願成寺バス停に戻り、大船霊友会講堂前バス停へ。芥見大船交差点にある山田川沿いの桜並木が見頃を迎えていて、思わず道草。芥見大船という地区を西へ10分ほど歩き、龍雲寺に到着。
岐阜七福神の毘沙門天を祀る龍雲寺。石畳から先の参道を歩くと、広い敷地に正面に毘沙門堂、回廊が左右に延び、左は本堂、右は庫裏へと繋がり、まずは本堂へ。
本堂前にはディズニーの、シンデレラだったか白雪姫だったか忘れたが、7人の小人みたいに七福神の石像がかわいらしく並び、“ごあいさつ”。本堂前でお参りし、毘沙門堂へ赴くと、普通の家のように玄関口から失礼し、呼び鈴を押す。御朱印をお願いすると、「どうぞ」と本堂へ参内させてもらい、回廊をつたい本堂でもう一度お参りし、毘沙門堂でもお参り。
ネットによると、当寺の毘沙門天は、奈良信貴山の朝護孫子寺から分身を迎えたという。大正時代、夜海門和尚の夢枕に毘沙門天が立ち、龍雲寺の脇陣として人々に商売繁盛、家運繁栄を祈らんとお告げがあり、毘沙門天のためにお堂を建てたそうな。夢に出てきた毘沙門天は“虎”に乗ってきたのだろうか…と突飛な妄想をし、当寺もタイガースファンだろうか…と勝手に思いながら、毘沙門天の御神徳を受け、御朱印を拝受。毘沙門天に感謝を伝え、後にするのでした~
清水緑地 - モリゾーのひとり言
2024/06/27 (Thu) 11:54:31
JR岐阜駅に戻ってきて、気になっていた場所へ。本日、岐阜駅に到着するJRの車窓から見えた公園に桜が見頃を迎えていて、帰りに立ち寄ってみようと、さっそく駅南口から信号を渡った東側に公園が広がり、人の多さに、かなり“憩いの場”であることが分かる。
噴水やちょっとした小川で子供たちが遊んでいたり、木々も適度に植えられていて、環境が整っている感じ。堤防沿いにも桜並木が植えられ、人々が往来している。
散策すると、いろんな品種の桜の木があり、春らしいピンク色の色彩が人々を明るくしていて、駅近くということもあって老若男女、思い思いに楽しんでいる。
ここは「清水緑地」という公園で、元々あった天満公園と、その公園に隣接する清水川が一体化する緑地づくりを進めた事業で、2001年から整備され2005年に完成し、記念式典も行われたらしい。
満開の桜の時期ということもあって、遊歩道の一角には“酒飲みグループ”が盛り上がっていて、近づかないように避け、やっぱり、素面(しらふ)で桜を愛でるということが、より季節の移ろいを感じることだと、そういう感覚が分からないかなぁ~と、“年老いた想い”で散策するのでした~
また17、滋賀の旅 - モリゾーのひとり言
2024/06/18 (Tue) 18:12:45
私の住む名古屋市では、プレミアム商品券が今日、抽選発表であるが、当選したであろうか…
非常にありがたい企画で、1口1万円とし、3000円が付いてくる。5口まで応募でき、3口お願いしたのだが、どうか当選してくれ~と願うばかり。物価の高い世の中…何とかこの夏を乗り切るための「お金がほしい~」のは誰もが思うことで、「定額減税」って何なんだよ…だったら、旅行支援の企画ももう一度行ってほしいと願う今日この頃。
…で、今回の旅は3月下旬に行った桜開花時期の旅~
小汐井神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/18 (Tue) 18:13:47
JR名古屋駅から東海道線を西へ、大垣駅、米原駅と乗り継ぎ、JR草津駅へ約2時間の、いわゆる新幹線を使わず“鈍行”で降り立つ。
駅から東口に出て、商業施設の中を10分ほど歩くと、街の中に小汐井神社はある。
鳥居付近の桜が見頃を迎えていて、そこそこに参拝客もいて、さっそく境内へと失礼し、本殿以下、いろんな境内社が祀られているのが分かり、まずは本殿でお参り。
小汐井神社の社名は、昔から本殿後方にある「小汐井」という古池にちなみ、古来は「女體大権現」「女體大明神」(なんて読むか分からない…が、「體」は「たい」「てい」「からだ」と読む)と称していた、田心姫命を御祭神に祀られていた神社。江戸時代には中山道最初の神社として賑わい、令和5年で1160年を迎えたという。
その本殿をぐるりと裏へ廻ると、田心姫命(たこりひめのみこと)の想像上のお姿が描かれていて、ここでも手を合わせる。田心姫命は宗像三女神の内の1柱で、別名「奥津嶋比売命」ともいう。天照大神と素戔嗚とのうけい(誓約)において、素戔嗚の身に付けていた十拳剣から生まれた女神で、海上守護や航海安全の御利益、財宝の神として知られ、大和朝廷は朝鮮への渡航、つまり玄界灘を守護する女神として古くから重要視されて崇めてきた。ちなみに、琵琶湖に「沖島」という存在を知り、いずれ訪れることになるのだが…この島に田心姫命を祀る神社がある。
本殿から「小汐井池」に移動すると、水天宮が鎮座し、親子犬の石像が配され、安産の御利益も得られるスポットもあり、御神木のムクノキも辛抱強く生えている姿を見、散策。
社務所で御朱印を拝受。境内の桜を愛でながら、田心姫命に感謝申し上げるのでありました~
草津川跡地公園 - モリゾーのひとり言
2024/06/18 (Tue) 18:15:05
小汐井神社から南へ数分、桜並木があるという草津川跡地公園へ移動。平成14年に旧草津川が廃川となり、広大な敷地が生まれた跡地に、まちづくりの資源として活用された公園。なので、堤防の形はそのままに、土手を上がる感じで上がると、見通しの良い遊歩道、そこに桜並木がズラリと植えられ、期待していたほどの咲き具合はまだまだだが、3分咲きといったところか…見下ろす川跡には、大勢の家族連れが平日にもかかわらず、賑やかに遊んでいて、快い空間となっていて、カフェなどの施設も備えている。
しばらく散策し、ベンチでコンビニおにぎりを頬張り休憩。桃の花だろうか、見事に大輪を咲かせている周りにはカメラを構える人の姿が集まっていて、後で私も撮りに行こうと、その様子を眺めながら昼食タイムを過ごす。
馬路石邊神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/18 (Tue) 18:16:01
JR草津駅からJR守山駅へ移動し、北東方向へ歩いて20分ほど、馬路石邊神社に到着。天武天皇の御代に、白鳳3年(663)創祀され、元々はここを拠点としていた豪族の石邊氏が氏神として奉斎していたらしく、朱鳥元年(686)に大己貴命を合祀したと伝わる。現在は須佐之男命、大己貴命の2柱が祀られ、地元に根付いた神社~といった感じ。
赤鳥居から参道を歩き、たどり着いた神門の立派なこと。中学男子の刈上げを連想させる?ほどの茅葺屋根のひさしが太く、思わず触りたくなるような(触れませんが…)造りになっていて素晴らしい。
神門から境内へ失礼すると、右手側は木々に覆われた森となっていて、正面に拝・本殿と配され、さっそくお参り。幣殿の一角に松ぼっくりが数個入った箱が置かれ、「ご自由にどうぞ」とある。1つ1つがかなり大きい松ぼっくりに、この森で育った?のだろうかと、神聖な気もちで森の中へ。木々の中にはいろんな摂社末社が祀られていて、神々が、時にはこの森で談合でもしているのだろう…と妄想し、今日は初夏に近い暑さだが、涼しい風が通り抜け、心地良く癒されもし、しばらく佇む。
社務所で御朱印を拝受し、一時の“オアシス”に触れ、感謝を申し上げ後にする。
菅原神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/18 (Tue) 18:17:02
JR守山駅に戻り、JR野洲駅へ。駅南口のレンタサイクルで自転車を借り、野洲市内を散策する。線路より北側に移動する手段が分からず、受付の人に尋ねると、駅構内にあるエレベーターを使い自転車を引いて渡れるそうで、駅構内を渡った時はなんとなく背徳感を感じつつ無事、駅北口に移動。駅から北東方向へ自転車を走らせ途中、永原という集落付近で北西へ進め、30分ほどで案内看板を見つけ、大きな鳥居からの参道がまっすぐ延びている道を行く。
神門前にたどり着き、公民館の広場や民家の桜が3分咲きと、まだ早い桜を愛で、自転車を停め境内へ。
4本の連理の大木が幣殿に向かって並んでいる光景が目に飛び込んできて、その近くには「昭和の宮」という昭和天皇、皇后を祀る境内社があり、珍しい?とお参り。そして、その4本の大木が誘われるように拝殿本殿、いろんな境内社が祀られていて、さっそくメインの拝殿でお参り。拝殿の屋根の向拝下には菅原道真公のお姿を描いた顔が飾られ、右手には牛の石像、梅の木も植えられ、“道真公といえば的”なシンボルが配されている。
菅原神社の創祀は不詳。江戸時代の話としては、この地域の永原という集落に永原御殿というのがかつてあって、徳川将軍上洛の際の休泊所として「御殿守護の社」として「永原天神」とも呼ばれていたとか。
ネットでの情報によると、道真公の命日にあたる2月25日には「火渡り神事」というのがあり、その名の通り、願い事が書かれた護摩木に火を点け、煙がくすぶる中を裸足で渡る神事だそうで、足の裏に付いた墨の形を家に飾ると願い事が叶うとのこと。よくニュースとかで見る神事だが、裸足で遊ばない現代人にとっては…いや原始人じゃあるまいし…原始人でも渡りたいと思うだろうか…心頭滅却すればなんとやら…いやいや、無理でしょ。と妄想が止まらないが、願いを叶えるためには火の中に飛び込む勇気も必要か、そんな覚悟がないと願いも叶えてもらえないのかもしれない。
本殿の横には左に八幡さま、右に蛭子さまが祀られていて、ぐるりと本殿を廻り、十二支の置物や占い石などを見、散策。
社務所で御朱印を…と思ったが不在のようで、天神さまに感謝申し上げるのでありました~
土安神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/18 (Tue) 18:17:52
菅原神社から北へ自転車を走らせると、小さな神社がある。案内看板には土安神社とあり、この地域の妓王物語に纏わる神社らしい。平家物語に登場する「白拍子」といったらわかるだろうか、別名「妓王」ともいう、平清盛の妾?というか…清盛に気に入られた人物。
妓王の出身である野洲の地域が不毛な土地柄で、飢えていたのを妓王が清盛にお願いし、土地の治水改良した話がある。その際、工事に息詰まり、夢の中で童子が現れ、治水の手法を授けたんだとか。野洲川から水路を引き、上流を妓王井川、下流を童子川と名付け、いつしかここの御祭神としてこの童子を祀ったんだとか。そんな内容の案内看板を読み、「へぇ~」と境内へ。境内はシンプルすぎるほどの社が1つ、さっそくお参り。童子命という御祭神そのままの神さまに"あいさつ"し、妓王物語の歴史に触れる。
妓王屋敷跡 - モリゾーのひとり言
2024/06/18 (Tue) 18:18:42
集落の中の小路を行き、妓王寺に到着。かたく閉ざされた山門に案内があり、拝観希望の方は事前予約が必要で、電話番号が書かれている。今回は拝観する予定はなく、妓王ゆかりの地を訪れるだけなので次回に…ということで、塀から中をちょっと覗く。小さな庭に石塔や案内看板を遠目に見、いずれまた訪れるであろう期待をそこに預け、自転車をその妓王が暮らしていたという屋敷跡へ移動させる。
農道のポツンと木々が生えている場所、木々に囲われている土地に大きな顕彰碑だろうか、石碑が建ち、妓王の存在を称えている。NHKのおとな人形劇「新・平家物語」(深夜)を最近見ているのだが、ちょっと話の内容が違うのが気になりつつも、清盛に愛された妓王、それほどまでに美しい容姿であったということは想像でき、野洲に住んでいた子供時代は貧しい生活を敷いてきた、そこから清盛に見初められた出会いと奇跡…そして、出家…と話はここまでにして、とにもかくにも、ここから見渡せる、目の前の広大な田畑を、野洲の土地に潤いを与えた功績は、計り知れないと肌で感じるのでありました~
生和神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/18 (Tue) 18:19:38
JR野洲駅へ戻る途中、「生和神社」という看板を見つけ、立ち寄ってみることに。交差点を東へ進めると橋があり、ここが野洲川から治水のために引いた妓王井川だと気づき、川の両サイド土手にはまだ開花してない桜並木が並んでいる。その橋を越えてすぐのところ、道路に面して鳥居が建ち、さっそく境内へと失礼する。
木々に囲まれた境内には拝殿、その奥に本殿とあり、本殿は“両翼を広げた”塀続きの中門を挟んで奥の敷地にあり、左手に日吉神社、右手に春日神社と配されている。
さっそくお参り。
ネットの情報によると、御祭神は藤原忠重公。藤原鎌足の末孫あたる人物で、藤原氏の荘園があった「富波之荘」の領主としてこの地を開拓。その際、村人を悩ませていた大蛇退治の伝説があり、とかく滋賀県は大蛇とかムカデとか退治話をよく聞く。この大蛇伝説にちなみ、当神社の神事には、大蛇に見立てた太い藁造りの縄に、かなめの葉を付けて大蛇が出た道に吊り下げ、一年の無病息災を祈る祭りがあるらしく、この地域にとっては大蛇を忌み嫌う風習があるのだろうかと妄想する。
そんな伝説の残る境内を散策し、社務所で書置きの御朱印を拝受。行く予定ではなかった神社に出会えて、これも何かの縁と、感謝申し上げ、今日はここまで~
沖島(1) - モリゾーのひとり言
2024/06/18 (Tue) 18:20:46
近江八幡駅付近のホテルに泊まり翌朝、駅前バスターミナルから堀切港行きのコミュニティバスを利用し、30分ほどで堀切港に到着。
前回、奥津嶋・大嶋神社を訪れた際に知った、琵琶湖に浮かぶ沖島の存在。元祖?ともいうべき(元祖は福岡県宗像市に属する九州本土から約60km離れた玄界灘の真っ只中に浮かぶ沖ノ島であるが…)奥津嶋神社がその沖島にあるということで、琵琶湖といえば竹生島しかないと思っていたが、近江八幡の対岸から約1.5km離れた沖島に定期船が出ていることを知り、これは訪れるべきと来た次第。
定期船の10:15分発を目指したが、まだそれまでには時間があり、休憩所内の島民小学生が書いたであろう素朴な案内を見る。
沖島は日本でただ1つ湖に人が暮らす島。現在の人口は約240人で、主に漁業で生計を立てていて、漁業水揚げ量は琵琶湖全体の半分を担うほど。歴史的に見ると、和銅年間に近江の国守であった藤原不比等が奥津嶋神社を建立し、湖上交通の安全を祈る「神の島」として崇められたらしい。人が住むようになったきっかけは保元の乱の後、源氏の落人7人が山裾を切り開いて漁業を生業として居住したことに始まり、明治の頃には石材採掘が盛んになり、瀬田川の南郷洗堰や琵琶湖疎水に、沖島の石が使われたとされている。
そんな沖島へ渡るべく休憩所で待っていると、知らないうちに港には「おきしま通船」を利用する乗船客で並び始め、最後列の所で私も並び、港に船が着岸し、順番に乗船を始める。
…と、船長が「定員オーバーなので、折り返し戻ってきま~す」と。
「うそ…」
私の10人ほど前から乗船できなくなり、再び待つことに。乗れるだろうと高を括っていた私が悪いのだが、「私が1番に来て乗れない!?」腹立たしさを抑え、春は繁盛期なのだろうと、港では漁師さんらが船から魚を陸揚げしている姿に私を含めた待機人は珍しそうに見入り、それが時間を忘れさせてくれ、ヒマを持て余すのでありました~
写真は奥津嶋神社からの撮影。
奥津嶋神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/18 (Tue) 18:21:53
何とか沖島港に着いた時間は11:00ごろ。帰りの乗船時間を考え、計画していた予定より滞在できなくなってしまい、とりあえずはこの旅の目的である奥津嶋神社へと足を運ぶ。「神社」と大きな看板が指し示す方向へ歩き、漁港の雰囲気を味わいながら、寄せ合うかのような家屋が建つ集落の細い小路を進み、“山裾のはじまり”のようなところに石段、鳥居を見つけ到着。
山の斜面を削った境内は狭い土地に拝殿本殿が建ち、島ならでは?の至ってシンプルな造り。本殿でお参り後、沖島漁港や東側の島全体を眺められる景色に癒され、しばらくのんびりとした雰囲気を体感。
奥津嶋神社は先にも述べた藤原不比等が創建。古来、琵琶湖は「淡海(おうみ)」と称されていて、不比等の諡名(いみょう:おくりな)は「淡海公」と付けられているほど、近江国守であり、彦根に住んでいたことが分かっている。
御祭神は多岐理比売命(たこりひめのみこと)。いわゆる田心姫命、宗像三女神の長女である。ちなみに、沖島には東側に三女の市杵嶋姫を祀る厳島神社がある。こうなると、二女の多岐都比売命(たきつひめのみこと)はどこに?祀られているのか?と思ってしまうが、沖島にはこの2つしか神社がないので、ひょっとしてどこかに眠ってらっしゃるのかと妄想する。
そんな琵琶湖を見守る御祭神の目線で、ここから航海する船を目で追い、風光明媚な景色をしばらく眺め、奥津嶋神社からもう一段上の山神神社へ移動。簡易な社が祀られていて、木でできた灯籠も斜めに倒れた状態。縁起は分からないが、「山神」ということは、この山が「頭山」という山なので、この山の氏神を祀っているのだろう。それと、沖島は花崗岩で形成されているので、明治期に採掘された採石場でもあったことから、何らかの“鎮め”にも崇められていたのかもしれない。
山神神社でもお参りし、無人の社務所でセルフスタンプを御朱印帳に押し…
「あっ!」
朱肉のスタンプに黒インクが混じって変な色に…まぁ~ここに来れたことだけでも満足とし、”気にしない気にしない“と、一休さんのように唱えるのでありました~
沖島(2) - モリゾーのひとり言
2024/06/18 (Tue) 18:22:44
沖島コミュニティセンター近くの公園には、桜が見頃を迎えていて撮影タイム。船の時間を気にしながら、民家の中の細い小路を東へ向かい、おきしま展望台に到着。が、何もない…高台まで上がって眺めても、そんなに美しいとまではいかない景色に「?」が浮かぶが、案内看板には、旧小学校跡地を改良したとある。何か、季節の木々を植えるとか、小学校の名残になるようなものとか置いてあれがいいのに…と思うのだが、何だか殺風景である。
そうこうしていると時間も押し迫ってきたので港へと戻り、島民による土産等の販売で活気がある。観光客は群がり、港は繁盛している様子で、そんな雰囲気を味わいつつ、定員オーバーで乗れなくなる恐怖を察知し、早めの乗船。船内でしばらく窓から望む漁港を見ていると、隣の漁船にサギが一羽、獲物を狙っている。普段、お目にかかれない風景や光景を見つつ、沖島に来れてよかった~と、今度はゆっくり島の魅力を堪能できればと、今回も満足する旅でありました~
また16、滋賀の旅 - モリゾーのひとり言
2024/06/04 (Tue) 21:32:27
早いものでもう、梅雨の季節到来。台風がさっそく1号発生し、熱帯低気圧になったが、今年は台風の襲来が多いかもしれないのか、今年は辰年ということもあやかって、“龍”に纏わる寺社をお参りしたせい?で、私の周りでは出掛けるたびになぜか雨が多い。「龍神が憑いているのか…」とは思わないが、降るなら小雨にして下さいと、お願いしつつ…
今回は、滋賀での旅のつづき~
林立神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/04 (Tue) 21:33:29
近江八幡駅近くのホテルで宿泊し、3日目の朝。本日は朝から雨で、用意していた折り畳み傘をさし、JR能登川駅へ移動し、駅から西へ歩いて10分ほどの林天神社に向かう。
ネットの情報で、御朱印を拝受できる情報を機に訪れたが、道路に面した小さな鳥居から失礼し、境内に入ると、社務所がない。「?」と思いながら、境内を散策し、牛の石像にご対面。…ということは、祀られているのは菅原道真公であると分かり、牛を撫で、砂利を踏みしめながら拝殿へ。境内を見回しながらよく見ると、北側に大きな鳥居が建ち、あちらが“メイン”の参道ということか…で、拝殿本殿は東を背に建てられていて、さっそくお参り。
由緒によると、当社より南に位置する猪子山には古墳時代後期の群集墳があり、この山を社霊の山として、さらにその山から南にある繖山(きぬがさやま)の麓から遥拝する宮、岩船神社(平安時代前期に創建された)が起源とされている。繖散山の「繖」は、天を覆う天蓋(てんがい)ともされ、そこから?天常立命を奉斎することになったと伝えられ、後に菅原道真公も祀られたとのこと。道真公が福井県の気比神社からの帰りに立ち寄られたことからの由縁があり、琵琶湖の東縁の街道筋を歩いてきたのだろうと想像する。
本殿を囲う玉垣には、社務所への案内板があり、地図が載っていて、てっきり境内にあるのかと思いきや、ここから離れた場所にあると。ちなみにその社務所はいつも開いているわけではなく開所日がネットで示されていて、事前下調べに本日訪れている。
北に建つ鳥居から退所し、その先は公園となっていて、西洋の神殿や城郭の石垣などが配置され、コンセプトの分からない公園を横切り、住宅街を北西方向へ歩いていく。
辿り着いた社務所には民家の一角を改造?したような造りで、入口から靴を脱いで失礼するシステムで、いろんなお守りや絵馬が並び、壁には月替わりの御朱印がずらりと貼り出されて豊富。私は数種の御朱印をお願いし、誕生月の御朱印は龍の絵馬もいただけ、感謝×2。
京都の北野天満宮での節分祭りのことをお話して談笑し、お礼を述べ後にするのでした~
豊満神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/04 (Tue) 21:34:28
JR能登川駅に戻り、東口のバスターミナルから愛知川駅経由のバスに乗って、福祉総合センターバス停で下車し、南へ歩く。雨が降る中、途中の高校を通り過ぎ、20分ほどで豊満神社に到着。道路に面して朱塗りの四脚門、道路を越えた反対側には竹藪と参道先に鳥居が建ち、西から東へ入る様式である。
さっそく境内に失礼すると広い敷地に、横に長い拝殿が建ち、石畳の参道周りは何もなく、それがすっきりしていて清々しい気分。
豊満神社の御祭神は大国主命、足仲彦命(たらしなかひこのみこと=仲哀天皇)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后)、誉田別命(ほむたわけのみこと=応神天皇)の4柱。大国主命以外は夫婦とその子という、おなじみの神様。「豊満」は「とよみつ」と読み、当地の大國荘(旧愛智郡)の産土神であった豊満大明神を創基年代は不明であるが、祀っていたことが始まり。神功皇后の三韓征伐の折に、この辺りの竹竿で軍旗を作り、戦場に持参して勝利を治めた伝説から、当神社の竹を旗竿に用いると必ず勝つということで、源頼朝や豊臣秀次、佐々木、京極、六角氏など多くの武将が戦勝祈願をした、「尊崇この上なし」と伝えられている。
そんな勝運や厄除けの御利益のある拝殿でお参り。向拝下には書置きの御朱印があり拝受。拝殿左手の方へ行くと、軒下には「ハート石」なる“重軽石”のようなアイテム?があり、愛知川の河原で氏子さんが見つけ奉納したもので、恋愛成就の占いもある。
さらに本殿側へと移動すると、森の入口に「美人の木」なる椋の木があり、樹齢約300年という、根の部分が地上にむき出し、それはヘビのように盛り上がっていて、ちょっと不気味にさえ見える。木に触れると美肌の御利益があるとのことで、一応触れて“ごあいさつ”。
境内には他に摂社の〇下神社(忘れた…)、八大龍神社などが祀られていて、こちらもお参り。
勝運伝説の竹藪は四脚門を出て、参道脇にあり、こちらは細い竹が垂直に伸び「なるほど…」と、旗を作るのには適した竹であると納得し、風に揺れる竹をしばらく見上げ、名称からして「豊満」とは、女性に御利益のあるようなイメージがして、あの「ハート石」も、それをコンセプト?に神社を盛り上げていこうとしているのだろうか…と、勝手に妄想するのでした~
奥津嶋・大嶋神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/04 (Tue) 21:35:24
来た道を戻り、再びJR近江八幡駅へ。バスターミナルから長命寺行きのバスに揺られ、渡会バス停で下車し、小学校や田畑広がる中の道を北へ歩く。雨脚がひどくなる横殴りの雨の中、集落に建つ東側の鳥居から失礼し、奥津嶋・大嶋神社に到着。
参道は西側の鳥居に繋がっていて、その中央北側に本殿、南側には神池?があり、まずは拝殿の屋根の下にて“雨宿り的空間”に身を寄せ、ほっと一安心。
当神社の由緒によると、両社とも成務天皇の御代に、武内宿祢により創建されたとされ、元は別の場所に鎮座していたという。本殿が名称のとおり二棟あり、向かって右が奥津嶋神社、左が大嶋神社で、2つは幣殿によって繋がっていて、奥津嶋比売命を御祭神とする奥津嶋神社は建物の大きさについて、大国主命を祀る大嶋神社よりも小さく造られていて、内陣の位置もやや低く奥まっている。が、奥津嶋神社の方が名神大社に列せられていて、大嶋神社は式内小社として祀られていることから、“外ヅラ”は控えめにしているが、家では“かかあ天下”といったところだろうか。
それから、奥津嶋神社に関していうと、地図上で当社より北に位置する琵琶湖には「沖島」という島があり、そこには奥津嶋神社が祀られているのを発見し、ここを奥宮、当地を里宮としている関係性もあるのかも…と思ってしまう。
大嶋神社は、近江八幡市では有名な日牟禮八幡宮の摂社として祀られていたのを合祀したとも云われていて、すでに鎌倉時代以前から一緒に祀られていたとされる。
さて、ちょっと気になった、この地域の「むべ」なる果物を紹介。「むべ」ってなんぞや?と初めて聞く名称だが、天智天皇に献上したこの地方の果物らしい。天智天皇が「奥島庄」に立ち寄った際、子供8人を持ち、非常に長生きをしている上に病気もしない老夫婦に出会い、尋ねたところ、「この地に伝わる果物を毎年秋に食しているから…」と、その果物を見せ、天皇は一口すると、「むべなるかな(もっともであるなぁ~)」と召し、この時に発した天皇のお言葉「むべ」をそのまま果物の名称にしたという話。ネットでその写真を見たが、「あけび」を小さくしたような果物で、現在ではどうだろう…「むべ」なんて店先に並んでいるのを見たことがないから、出回っているのかわからない。“長寿の果物”というなら一度は食べてみたいが、そんでも天智天皇は、毒身もせず、未知なる果物をよく食べたものだと感心する。
そんなこの地域に伝わる長寿にあやかりお参り。書置きの御朱印が置いてあるので拝受し、その後、境内を散策。西側には鬱蒼と茂る木々の中に、白山神社の石碑だけが建っていて、地図上で見ると、当社より北側にある山の中の白山神社のことだろうか、こちらでお参りできるように麓に社が祀られているのだろうと、こちらもお参り。
しとしと降る雨の中、なんとはなしに神池を眺めていると、「金の斧銀の斧」の話を想起し、“金のむべ銀のむべ”あなたならどっち?と女神が話しかける妄想で楽しむのでありました~
天之御中主尊神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/04 (Tue) 21:36:14
渡会バス停に戻り、長命寺方面、水茎焼陶芸の里バス停で下車。ここから藤ヶ崎龍神社へ行く予定だが、バス停を降りた目の前に鳥居が建ち、ちょっと気になったので立ち寄ってみることに。
鳥居前の灯籠、石碑には「天之御中主尊(あまのみなかぬしのみこと)神社」と書かれていて、御祭神がそのままの社名となっていて分かりやすい。
鳥居を潜り、「あれっ…来たことあるかも…」とデジャブのような、長年いろんな神社を巡っているので、このような感覚に陥ることがあるが、まぁ~気のせいだろうと、もやもやしたまま長い石段参道を歩き境内へ。境内にはお寺を思わせるような幣殿、その前に黒い神馬が片足をあげ、“ようこそ”と出迎えてくれ、幣殿を回り込むように奥へと行くと本殿が鎮座していてお参り。
由緒によると、創立年代は不詳で、かつては「虚空蔵大菩薩神社」という社名で長命寺の鎮守社として下八王子を勧請し祀ったとのこと。仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つ、本地垂迹説の教えからさまざまな仏は化身となった権現(神の仮の姿)であるという思想、たとえば、天照大神=大日如来とか、八幡神=阿弥陀如来とか、素戔嗚命=薬師如来とか、それぞれの各お寺によって上記の考えで祀られていたことから来ているのだろう。なので、こちらでは虚空蔵菩薩=天之御中主尊ということで、社名もいつしか改名された(たぶん、明治時代の神仏分離令のとき)よう。
こちらの神さまは「古事記」では神々の中で最初に登場する神さまで、天地創造の神。以前、岡山の旅だったか、北極星の神格化である妙見菩薩と習合されるようになった話もあるが、こちらでは虚空蔵さんを習合して祀られたということらしい。
社務所近くには、龍の置物?の口から水がじょぼじょぼと小池に流れ落ちる姿を見て、龍神さんにもう少し雨脚を弱くして…と願い、社務所に置いてある書置きの御朱印を有難く拝受。
結局、思い返しても訪れてはいない神社であると、この出会いに感謝し、次は藤ヶ崎龍神社へ向かう。
藤ヶ崎龍神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/04 (Tue) 21:37:05
計算では歩いて50分ほどはかかるだろうか。それにしても、雨がだんだんひどくなってきてる中、無謀にも行こうとする変わり者の私にとって、これまでの風雨の中での経験(尾張33観音霊場、知多半島を巡った時の、そりゃもう、ひどい嵐の中の巡礼)があるからこその、“たいしたことない”が生き、ただひたすら、さざなみ街道という琵琶湖沿いを連なる道路をそのまま歩くだけなので簡単。とはいうものの、初めての土地の散策は注意が必要で、そこは心してかからないといけない。
さざなみ街道は琵琶湖の縁に沿って通る、サイクリングロードも兼ね備えた、整備された道路。晴れの日であれば、琵琶湖が望める最高の景色であろうが、そんな景色を望める風景はなく、ただ、足元の水たまりの多いこと、それだけが気になって景色どころではない。水捌けの悪い歩道は永遠に水たまりが続き、ずっと足元を気にして、俯いて歩くのがストレスになってきて、横殴りの雨は下半身をずぶ濡れにさせ、靴の中の足がもう、ふやけているのが分かる。
…と、心が折れそうになりながらも、“ナニクソ”の精神でようやく湖岸緑地公園にたどり着き、公園内を横切って砂浜を歩き駐車場に到着。こんな日に訪れる参拝客もいないだろうにと思っていたが、車が2台止まっていて、参拝を終えた人が車に乗る様子が見え、ちょっと一安心。道なりに参道を進むと、湖岸には琵琶湖を背にして小さな赤い社、そして、伊勢の夫婦岩の縮小版のような岩が鎮座し、さっそくお参り。
藤ヶ崎龍神社はここから南に位置する五社神社の境内社。御祭神は龍神であるが、伝説によると、この龍神さま、瀬田の唐橋で藤原秀郷と出会う大蛇だという。大蛇の天敵である大ムカデを退治してほしいとお願いされた秀郷は、三上山に棲む大ムカデを見事退治し、お礼として米俵などを贈られ、しばしの滞在をお願いされるが、追討の任のため辞退したところ、藤原の一字をもらい、この地を「藤ヶ崎」と名付け、麓の洞窟を龍神の妻の別宅としたという話がある。実は、このムカデ退治の話は、大蛇(龍神)VSムカデのファンタジー?話ではなく、古代の製鉄氏族と製銅氏族の対立を象徴していると。…と、憶測の域であるが、この話は長くなるのでここまでとして(あとは調べてね…)、そんな龍神伝説を祀る境内には、その“別宅”がある。湖岸の向かいにも鳥居が建ち、岩の割れ目が2つ、離れて祠が祀られている。雨が降っているので洞窟の中へは入らず、手前でお参り。動物侵入除けのフェンスがしてあり、隙間から中を覗くと、龍の置物など祭壇が設えてあり、隙間の幅は大人一人入れるくらいの狭さ。もう一つ隣にある祠はより岩幅が狭く、中に入ってお参りするには気合?がいるほど。過去に訪れた出雲の韓竃神社や愛知県猿投山の岩屋神社の“岩狭スポット”を思い出しながら、全国にはまだまだこういった狭い洞窟の神社があるのだろうと、龍神さんに「雨脚が弱くなる」ようにお願いし一礼する。
しばらく、湖岸からの、どんよりとした風景を眺め、打ち寄せる波だけを癒しとし、今日はここまで。
賀茂神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/04 (Tue) 21:37:57
最終日は近江八幡市内をレンタサイクルで回る。駅前のレンタサイクル屋で自転車を借り、さっそく西へ走らせ、森尻町地区の桐原小学校を起点に北へ移動。空は曇り空と思いきや、小雨がパラつく天気で、「どうか、雨が降らないように…」と祈りながら自転車を走らせる。
30分ほどで到着した賀茂神社。境内南側の、明らかに例祭で行われる流鏑馬神事の直線馬場のような道路に出てきて、本殿が東に祀られているのが見えるので、西側にメインの鳥居が建っているだろうと、私は南の小さな鳥居から失礼する。
賀茂神社といえば、京都の上賀茂神社や下鴨神社を想起するが、こちらの神社は吉備真備が創建したという。聖武天皇の御代に、度重なる天変地異に国民の安寧を願うため、唐で陰陽道を学んで帰ってきた吉備真備に、災いを封じてもらうおうと、相応しい場所を探したところ、この地が「気」が集まる「聖域」であると悟り、創建を決めたと。ネットによると、元の本殿の位置は東ではなく、正確には南東を背に建っていて、南西(裏鬼門)からやってくる災いを封じているんだとか。
御祭神は賀茂大神様で4柱の神様の総称をいう。賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)=八咫烏、賀茂玉依比売命(かもたまよりひめのみこと)=八咫烏の娘、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)=八咫烏の子、火雷命(ほのいかづちのみこと)=大山咋神=八咫烏の娘の婿…ということで、八咫烏は賀茂氏祖先で、ちなみに京都の上賀茂神社の御祭神は賀茂別雷命、下鴨神社の御祭神は八咫烏と玉依姫命である。
…で、そんな賀茂さんを祀る境内は、拝殿前に白蛇が住んでいるという“神杉”と呼ばれる御神木、西鳥居正面に“連理の真榊”、社務所横に“樫の木”、本殿横に“夫婦杉”と、いろんな種類の木々が生えていて、それらに見守られながらお参り。そうそう、本殿の奥には鬱蒼と茂る森があるのだが、そこに祭祀跡として陰と陽を表す2つの“山”があり、中心は不思議にもまったく草が生えないんだとか。そこへは恐れ多くて入ることは止めたが、昔は祈祷所として何かしらのパワーを授けてもらっていたのかもしれない。
それから、先ほどの“直線馬場”は、毎年5月に行われる大祭「足伏走馬」という古式競馬の神事の道路で、元々この場所に、日本初の国営牧場があったとのこと。馬の大切さを推進した天智天皇が牧場を築き、馬の調教や繁殖に力を注がれ、大祭は平安時代から行われていたと。この土地柄は馬にゆかりのある聖地だと知り、神馬の銅像を眺め、いつかその大祭を見てみたいものだと、社務所で御朱印を拝受し、お礼を述べ次へ。
五社神社 - モリゾーのひとり言
2024/06/04 (Tue) 21:38:50
賀茂神社からしばらく北へ移動し、雨脚が強くなってきたので、一時、民家の倉庫の軒先で雨宿り。撥水加工のスポーツコートを着ているので、振り払えば水滴は落ちるので便利はいいが、視界が悪い運転はちょっと不便である。空を見ていると、もうすぐ雨雲が抜ける様子が窺え、もうしばらく待機。小雨になったところで再び集落の中を走り、五社神社に到着。
鳥居前の広いスペースには公民館だろうか、建物があり、その近くに自転車を停めさっそく境内へ。
境内も清々しいほどに広々としていて、子安神社、稲荷社、護国神社他、摂社末社が祀られていて、中央、提灯が掲げられた拝殿、その奥に腰を上げた狛犬たちが見守る中、神門を潜り本殿でお参り。
この地は「牧町」という集落で、古来、“牧の地”には天智天皇が大津京時代に、牧場に定められた土地柄。先ほどの賀茂神社と同様に、“馬”を育てる牧場として、まさに“牧”の字が地名に残されている。五社神社の創基年代が不詳であるが、桓武天皇の御代、この地を、皇子の神野親王(後の嵯峨天皇)に下賜したところ。後に日吉社領に寄附され、日吉の神領となったと伝えられている。
御祭神は大国主命、下照姫命、事代主命ほか5柱が祀られていて、本殿の左側には八幡宮、右には皇大神宮が祀られていて、しっかりと御神徳を拝受。賽銭箱に「御朱印をどうぞ」という貼紙があるが、「どこに?」と探してもないので諦め、境内を散策。
玉砂利を踏みしめながら、昨日訪れた境外社の藤ヶ崎龍神社のことを思い出し、龍神さまにお参りしたので、雨が止まないのだろうか…と、雨粒が玉砂利に当たる音が何となく心地よく、もうすでに靴はビショビショで、龍神さまには「参りました…」と、本日はここまで。
滋賀の旅を堪能しました~
また40、京都の旅(2) - モリゾーのひとり言
2024/05/30 (Thu) 22:38:15
引き続き、2月上旬に行った旅。内容は京都から滋賀へ移行~
長五郎餅 - モリゾーのひとり言
2024/05/30 (Thu) 22:39:45
2日目。「京の冬の旅」の各寺の拝観開始時間は10:00から。なので、それまでどこへ行こうか考えていたが、そういえば、前日に長五郎餅を食べ損ねたことを思い出し、本日、日曜日も営業していることを機に、朝から和菓子とヘビー?だが、北野天満宮へと向かう。
長五郎餅は過去に一度、おみやげとして食べたことがあり、食べた時、幼稚園のころに頂いた紅白餅の味に似ていて、外側についている白い粉(片栗粉です…)が手や口に残って印象的だったことを憶えている。そんな懐かしの味をもう一度、食そうと、境内北側のお店に伺うと、午前中なのにそこそこの人がいる。店の前ではお土産用に販売していて、朝から繁昌してる様子で、店内で食事される方は受付で“おうす”と“煎茶”を選び、券を購入してから中に入るシステムで、“おうす”の意味が分からなかったが、たぶん“抹茶”のことだろうと、“おうす”をお願いする。
店内は、土間の上に畳の台を設え、20人は入れそうな狭いスペース。が、見上げれば、天井は昔の家屋を思わせる黒い梁木で支えられていて高い空間となっている。畳の上に置いてある火鉢で暖を取れるようになっていて、なかなか昔ながらの演出?も醸し出し、そこそこの先客が食している。
適当に空いてる席に座り、運ばれてきた“おうす”と長五郎餅のセットをさっそく実食し、懐かしい味がよみがえってくる。
長五郎餅はその名の通り、製作した河内屋長五郎が北野天満宮の大茶会で豊臣秀吉に献上し、大いに気に入られ、秀吉から「長五郎餅」と名乗るようにと言われたほどの餅。薄皮の餅であんこを包んだシンプルで上品な味で、この時代の味がどうか分からないが、昔ながらの和菓子を堪能。“おうす”の苦みとマッチして、朝からゆっくりとした時間を過ごすのでありました~
相国寺慈雲院 - モリゾーのひとり言
2024/05/30 (Thu) 22:41:12
北野天満宮前バス停から東へ、今出川バス停で降り北へ。相国寺境内からちょっと離れた塔頭寺院慈雲院を訪ねる。
「あれっ…来たことあるかも…」と、周りを見回すと、かつて「京の冬の旅」で訪れた「相国寺慈照院」が西側にあり、慈雲院はその北側に居を構えている。慈照院では「棲碧軒」の書院や「陸船松」の庭園、朝鮮通信使の文書などを拝観したことを思い出しては、「時の移ろいは早いものだなぁ~」と懐かしさに浸りながら慈雲院の入口へ。
京都らしい石畳と庭の風情を眺めながら受付で拝観料を支払い、ここでも先に書置きの御朱印を拝受し中に失礼する。
本堂の仏間ではボランティアガイドさんが説明をしており、華頭窓からの奥に本尊の釈迦如来像が安置されていてさっそくお参り。
歴史としては、室町時代中期に、相国寺第42世住持の慈雲院の開祖、瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)が創建され、室町幕府8代将軍の足利義政に重用されて、日本初の外交史書とされる「善隣国宝記」を編集するなどの文筆に長けた僧侶とのこと。その後の江戸時代には慈雲院第9世の梅荘顕常(ばいそうけんじょう)も詩文に長じて、絵師の伊藤若冲との親交や、煎茶道の祖とされる黄檗宗の僧、売茶翁とも交遊があったとされる。
本尊の右隣には開祖の瑞渓周鳳の像も安置されていて、ガイドさんの説明を聞きながら本堂前の枯山水庭園を鑑賞。シンプルに白砂が横に、まっすぐに引かれた線を目で追い、端っこには石が配置され、奥には苔の地面から生える木々と、落ち着いた雰囲気を味わう。廊下の突き当りには、室町幕府11代将軍の末裔阿波公方(あわくぼう)と呼ばれた足利義俊筆の「松鶴図」や狩野探幽の弟子の別所如閑が描いた「釈迦三尊像」を見、さらに奥へ。
本堂北側の廊下には絵師、岸連山が板戸に描いた「虎」があり、元は二条家の屋敷にあったものと伝えられている。板戸に描かれているので、絵が剥げ落ちていて、「虎」は何となく分かるが、剥げ落ちた板戸の木目が虎の模様に見えて、これも偶然なのか…計算されたのか…それも含め観賞。ガイドさんによると、受付の正面にも「虎」を描いた板戸があるとのことで、帰りにそちらも見ると、「…」。
こちらの板戸は普段から生活する上で開け閉めをしていた使用感があり、擦り切れた傷があちこちに…「虎」の絵は描かれているものの、残念というか、たぶんその価値を知らずに使い続け、後からその価値を知ったのだろう…そんな宝物も「愛嬌」と、いろいろと拝観し、寺宝を堪能するのでありました~
永興寺 - モリゾーのひとり言
2024/05/30 (Thu) 22:42:30
本日はこの後、滋賀県の近江八幡へ行く予定で、京都を離れる前に山科に立ち寄りたいお寺があり、さっそく地下鉄東西線で、御陵(みささぎ)駅で下車。駅から北へ20分ほど坂道を上がると、途中、山科疎水の橋を渡り、広めの駐車場的寺域へと失礼する。
永興寺を知ったのは、今年が辰年ということもあって「龍」にちなんだお寺を検索していたら、境内に龍のオブジェ?がある写真を見つけ、訪れた次第。ネットによると、曹洞宗の道元禅師ゆかりのお寺ということで、建長6年(1254)に弟子の詮慧(せんね)和尚が永興庵を建立したのを機に、大正時代まで京都のあちこちに再建していた沿革がある。
本堂は平成8年に再建され、堂内には天井に「龍図」が描かれているようで、一般開放はしていない様子。境内を散策するのは自由なので、参道からの林立する木々を眺めながら歩いていくと、観音像がお出迎え。山門までの石段から右手に目を向ければ、現代様式の樹木葬?ではないが、カーブの斜面に仕切られた石垣が並び、墓石のない墓地だろうか、がある。
山門を潜り、右手側すぐにあの「龍」のオブジェがいきなり現れ、龍の背骨?がうねっていて「これが…」とカメラに収める。石橋を造る時に使う技法だろうか、円を描くようにきっちり石が組み合わされていて、杭のように突出した“骨”がリアルさを醸し出し、全体的に時計の歯車のようにも見える。
「龍の頭はどこに?」と、周りを見回すが、胴体しかなく、ひょっとして、作者の意図は本堂の天井に描かれている「龍図」に繋がっているコンセプト?なのだろうかと想像する。
その龍の背骨の隣には大黒天が祀られていて、お参り。木彫りの大黒天さまは社殿に祀られていて、幅ぎりぎりの空間に窮屈そうに鎮座しているにもかかわらず、笑顔で迎えてくれる。
本堂へは鉄柵で入れないようになっているので、その手前で手を合わせ、本堂左手にある稲荷神社へ移動。
こちらの神社、愛知県豊川市のあの、豊川稲荷から勧請された稲荷社で、京都では唯一の豊川稲荷らしい。こちらでもしっかりとお参りし、辰年にちなんだお寺を訪ねることができて満足×2。
立志神社 - モリゾーのひとり言
2024/05/30 (Thu) 22:43:54
JR山科駅からJR草津駅で、草津線に乗り換え、JR三雲駅へ。ここは滋賀県湖南市三雲。滋賀県での「近江国108霊場」ですべての“市”を廻っているので、大体の土地勘は分かっている。つもりだが、そんな中でのこの地域は、あまり慣れていない。
駅から西へ住宅街を歩き、田川という川に架かる橋を渡って20分ほどで立志神社に到着。鳥居を抜け境内に失礼すると、どうも東側の鳥居から入ったようで、南側に立派な鳥居を見、境内中央には舞殿?が配されている。玉垣の囲いからの本殿は、本殿内の社を守るための建屋が建っていて、中に入ると、真ん中に国之常立神が祀られている社殿、左手には恵比須社と八幡社、右手には熱田社と多賀社が祀られていて、それぞれにお参り。
実を言うと、今年は、地元の神社に初詣してなく、滋賀県の熱田社でお参りするとは、これも何かの縁と、しっかりと手を合わせ、境内を散策。
高い木々が生い茂る社域に、金刀比羅社や愛宕社、稲荷社…と末社が多い。神輿殿の壁に飾られたカラフルな傘が何のためなのかは分からないが、インスタ映えすること間違いなしの境内の雰囲気を味わう。
社務所でいただいた冊子には、由緒に、欽明天皇の御代に、飢餓に苦しむ民を救いたいと全国12ヶ所の神社にて五穀豊穣のお祈りをした、その立志神社が祈願所のひとつとされているらしい。「天地の根源神」として御神格のある国之常立神(くにとこたちのかみ)は、天地を開ける最初に出現した神様であると書かれていて、この三雲の地を守っている。
そんな神社の御朱印を拝受し、名古屋からの訪れに労って下さり感謝×2。このご縁を大事に「また来ます」と後にするのでした~
鞭崎神社 - モリゾーのひとり言
2024/05/30 (Thu) 22:45:11
JR三雲駅へ戻り、JR草津駅で乗り換え、JR南草津駅へ移動。駅バスターミナルからイオンモール行きのバスに乗り、矢橋東口バス停で下車、南へ数分の鞭崎神社へ。
ここは琵琶湖でいうところの南西に位置する矢橋という地域。昔は、草津の宿場で、矢橋の渡しから舟に乗るか、遠回りとなる東海道を進み、瀬田の唐橋を渡るかの分岐点で、「急がば回れ」という諺が生まれたとされる場所である。江戸時代では徳川家康が上京に際し、矢橋の港から舟に乗り、本多家の居城である膳所城に入ることがあったということで、その折には、こちらの鞭崎神社にも参詣されている。そんな交通の要衝にあった当神社の北の鳥居から失礼すると、参道先には膳所城の南にあった大手門が移築現存されていて、国重文に指定されるだけあって立派な佇まい。境内は広く、神楽殿?拝殿本殿、摂社末社、馬の銅像など配され、ガラス張りの中の展示品もあり、目を引くものがあるが、とりあえず拝殿でお参り。
御由緒によると、白鳳4年(675)、天武天皇の命を受けた大中臣清磨が矢橋の地に八幡宮を創建したのが始まりとされ、神主の紀是尚が、天皇の御代が長く続くことを祈願されたと伝わっている。歴代の皇室から尊崇され、「勅願の宮」として寄進、菅原道真や源頼朝など参詣されるほどの神社だそうな。そして、この矢橋では竹林で作った乗馬用の鞭や琵琶湖の葦を用いた矢(鏑矢)の生産が盛んな地域で、参勤交代で行き交う武将たちが多く買い求めたとして、古くから鞭や矢にゆかりのある地だとしている。
…ということで、境内を散策していると、先ほどのガラス張りの建屋の中に鞭が数本、展示されていて、有名どころ?の競馬の騎手が使用していたものを紹介している。「へぇ~」と、やはり鞭にもそれぞれにこだわりがあるのだろうか、素人目には同じように見える鞭だが、握り手やしなり具合とか、プロともなるとオーダーメイドで発注するのだろうと、唸る。
御祭神は、元は八幡宮ということで、おなじみの応神天皇他7柱が祀られていて、国家鎮護の神、文武必勝の神など、生活の安寧、勝運をもたらす御利益もあり、八幡宮らしい?武勇に絡む雰囲気が境内を散策していて、何となく肌で感じ取れる。
社務所には書置きの御朱印が置かれていて、矢橋在住の大津絵師の先生が描いた柄らしく、拝受。鞭崎神社を通して、矢橋の地域の特色を学ぶのでありました~
「また16、滋賀の旅」へ、つづく…