寺社仏閣 ご朱印の旅

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ブログが面倒くさいので、掲示板で紹介していま~す。よろしくお願いいたします。
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また6、奈良の旅(2) - モリゾーのひとり言

2024/04/15 (Mon) 21:59:11

今年の桜の開花は蓋を開けてみれば例年通りで、早いという予報はハズれ、そこそこ長く持った感じ。岐阜や滋賀へと足を運び、満開の桜を堪能しましたが、毎年この時期に行きたいと思っている奈良宇陀にある佛隆寺の「千年桜」は、4月中旬ごろの見頃であるが、桜が散るのも早いので、そのタイミングが合わず、今年も逃してしまう始末。生きているうちに行けるのだろうか…と思いつつ、旅の欲望は衰えない。
さて、春なのに…昨年行った秋の紅葉シーズンのつづきを紹介。久しぶりの室生寺へも行ってきましたよ~

宇流富志彌神社 - モリゾーのひとり言

2024/04/15 (Mon) 22:00:02

名張駅前のホテルに宿泊し、2日目は早朝、名張駅から南西方向へ10分ほど歩いた所にある宇流富志彌神社へ。名張滞在時は何度となく訪れた当社は、元伊勢でもある。
天照大神の鎮座地を求めて倭姫命一行がこの地を巡幸し、2年間この地の「隠市守宮(なばりいちもりのみや)」で、天照大神を奉斎した所。「隠市守宮」は当神社の傍を流れる名張川の約200m下流の「蛭子神社」と推定していて、一行は奈良宇陀川から船でやって来て、名張川岸にある「弁天岩」で拝んだという伝承が残っている。この「岩」が当神社の御神体であり、御祭神が宇奈根命(うなねのみこと)。水、穀物の神様で、この岩が置かれている場所が名張川の“うねり”の傍にあることから「うねり→うなね?」となったと云われている。
…と、そんな話が2000年前のことだが、当神社は戦国期の天正伊賀の乱ですべて焼き討ちに遭い、古文書など焼失し記録的なものが残っていないという。もちろん、上記の伝承は「倭姫世紀神官後鎮座記」に記されていることでわかっている。
過去に名張の旅で、忍者関連の寺社を巡ったが、それにしても元々、この地にも「隠」や「陰」の文字があったなんて、“忍者の里”になるべくしてなった土地柄だったんだと改めて思う。
…で、早朝の境内は誰もおらず、鳥居近辺のモミジが彩りを見せ、中々に良い。社務所近くの鹿の銅像も、モミジを見上げているように観賞していて、静かな境内でお参り。今日一日、旅が上手くいく心持ちで神社を去る。

積田神社 - モリゾーのひとり言

2024/04/15 (Mon) 22:00:55

名張駅西口バス停から夏目バス停へ移動。春の名張の旅で紹介した積田神社へ。こちらの神社は参道に生えているイチョウやモミジが映えるこの時期、有名な神社。
そのために訪れたのもあって、さて、どうだろうかと参道を歩くと、モミジはもう少しといったところか、11月中旬でもやはり暖かい気候の影響を受けていて、全体的に赤くはない。
イチョウは黄色く色づいていて見頃。もう一週間ほどして“黄色い絨毯”の上を赤いモミジが彩る風景が見られることだろうと予想し、少し残念~。
こればっかりはしょうがないが、撮りながら参道を歩き、あいかわらずの境内でお参り。奥の「神柿」にも“挨拶”し、神社南側の一般道から歩くと、朝陽を浴び、眩しく黄金色に輝くイチョウの木…これを見れただけでも来た甲斐があったと、“秋の装い”を目にし、再び名張駅へ戻る。

室生龍穴神社 - モリゾーのひとり言

2024/04/15 (Mon) 22:01:58

近鉄名張駅から近鉄大阪線を西へ、室生口大野駅で下車し、バスを待つ。室生寺へは何回行っただろうか。今回訪れる目的は、紅葉狩りもそうだが、室生寺で、室生龍穴神社の御朱印がいつの間にかいただけることになっている情報を知り、訪れた次第。
室生寺へのバスの途中には、しだれ桜や摩崖仏で有名な大野寺があり、歩いて5分ほどのところ。塀からはみ出るほどのしだれ桜を愛でた記憶を思い起こしては始発のバスに乗り込む。まだ誰も乗り込まない車内で待っていると、西方面から来た近鉄の車両を目で追い、しばらくして乗客がぞろぞろと駅から降りてきて、バス車内はいつのまにか満車に。
バスは予定通り出発し進むにつれ、徐々に山深い景色へと変わる。川沿いの道を縫っていく車窓からは、寺内町の集落そのままに、道路や川の周囲は、以前来た時とは違う護岸工事だろうか、まだ工事中の看板も目に付き、台風などの被害があったのだろうかと想像する。
そうこうしていると、室生寺で下車する人、終点の龍穴神社へ行く人と半分に分かれ、バスは終点に到着。
杉の大木が結界を張っているかのように太陽の光を遮り、鳥居からの境内は全体的に昼でもうす暗い。来た人にしか分からないこの雰囲気…たまりません。
昔、何かの本で「山は神」であり、神聖なものなので入山するときは“入らせていただく”という気持ちで入らないと、遭難や滑落の事故を起こし、「山は人を選ぶ」と聞いたことがある。どこからか見ている、あるいは見られているかのように感じるのは私だけだろうか。とにかく何度来てもこの感じは変わらない。
室生龍穴神社は古来、国家的にも祈雨・止雨神として崇敬されるほどの「司雨神」を祀る。当社の背後にある奥宮から注ぐ渓流沿いに「龍穴」と呼ばれる岩窟があり、かつてはここで晴雨祭祀が行われていたと。なので、御神体が龍神の住処とされる「吉祥龍穴」で、後の桓武天皇となる山部親王が病気に侵されて「龍穴」で祈祷が上げられたという記録も残っており、病気が治り、天皇となった後に命令して造らせたのが室生寺。室生寺誕生前からすでにあった神社である。ちなみに、それを守る神護寺として「龍王寺」と呼ばれていた時もあったという。
現在の御祭神は水神様を司る高龗神(たかおかみのかみ)で、龍神と同一視されていて、その龍王は「善女龍王」と言い、昔はこの龍王を祀っていた社だったので、拝殿の神額には「善女龍王社」と書かれている。
その拝殿でさっそくお参り。とにかく境内の至る所にあるこの桧や杉の木の太さといったらハンパなく、この高さがより神聖な空間を作り出し、千年単位を積み重ねてきた大木に触れ、この空気感を味わう。

天岩戸神社 - モリゾーのひとり言

2024/04/15 (Mon) 22:02:54

室生龍穴神社から室生川沿いをひたひたと歩き、「吉祥龍穴」の案内看板のあるところから山道を上がる。もう3回は来ているので慣れたものだが、最初は林道を歩いているだけでも畏怖という言葉は違うが、何だか得体の知れない場所に向かっているんだということは分かり、その時の感覚は今でも覚えている。
九十九折の道を上がり、途中の天岩戸神社で少し休憩。ここまで来ればもう少しで龍穴にたどり着けるのは分かっているので、ゆっくりとお参り。
鳥居横にすでに見えている2つに割れた?巨岩が「天の岩戸」と表し、さっそく一礼して巨岩の間に立つ。神社の「参道」は誰もが「産道」を通って生まれることからきていると何かで聞いたが、ここに立てばやはり、特別な情にかられるのだろうか、上を見上げれば注連縄が両岩をつなぎ、禊をして天照大神を生んだ伊弉諾も想起する。
伊勢の二見ヶ浦の夫婦岩しかり、岩と岩の間から太陽が昇る信仰心、はたまた当神社の社名通り、天の岩戸にお隠れになった天照大神が闇から現れる伝説しかり、いろんな妄想が浮かびながら、メインの小さな祠でお参り。何気なしに撮った写真を見てみると、何となく伊弉諾の顔にみえるような…そんな霊的妄想をしながら雰囲気を楽しむ。

奥宮「吉祥龍穴」 - モリゾーのひとり言

2024/04/15 (Mon) 22:03:50

天岩戸神社から数分で「吉祥龍穴」の入口に到着。案内看板から谷へ下る階段を降り、龍穴が見える遥拝所へ。さっそく土足禁止の祭壇?っぽい建屋に靴を脱いで上がりお参り。遥拝所から正面下に見える龍穴には注連縄が飾られ、あの穴の暗闇奥深くに善女龍王がいると想像し、右手には一枚岩の岩盤、「招雨瀑」と呼ばれる滝が龍の形のごとく流れ、この水が室生川、そして奈良の木津川、大阪の淀川へと注がれていく源流の1つだと思うと、やはり畏敬してしまう。
善女龍王が住処としていた龍穴。なぜここに住み着いたのかという伝説がある。元は奈良興福寺近くの猿沢池に住んでいて、天皇の食事を奉仕されていた下級の女官が用無しにされ、たびたび池に身投げをしたことが苦になり、善女龍王は春日の山中に籠り、山中でも亡骸が多かったので、ここの静かな環境が整っていた?室生に移り住んだとのこと。ちなみに、京都神泉苑で弘法大師が雨法の祈祷をしたときに現れた神さまが善女龍王で、ちょこちょこ人々の生活に潤いを与えている。“自然の音”に癒され、岩盤を何とはなしに見上げていると、「あっ…」と柱状節理の岩の久にハチの巣(スズメバチ)が見え、距離にして大分遠いが、「これが自然の営み…」と垣間見、限のいいところで、善女龍王さまに別れを告げるのでありました~

室生寺(1) - モリゾーのひとり言

2024/04/15 (Mon) 22:04:40

龍穴から坂を下り、麓に降りてきて室生川沿いを歩く。室生龍穴神社に再び戻って来て、参拝客がちらほらいる姿を眺めていると、3人組の若い娘らに尋ねられ、「龍穴はここからどれぐらいかかりますか?」と道順を教えてあげる。やはり、ここまで来たからには「龍穴」をと考えることは同じで、その空気感をぜひ体感してもらいたいと、ちょっとおじさんモード全開?で説明する。
再び室生寺へ向けて出発し、専用駐車場までたどり着くと、観光バスが数台待機していて、午前中からの参拝客が来ているのだろう、紅葉の時期はやはり人気がある。
老舗旅館や茶店から室生寺境内へ室生川を渡す太鼓橋の上まで来ると、その眺めは、川沿いに並ぶモミジが見頃を迎えていてすばらしい。
橋から右に折れる参道、そして受付で拝観料を支払い、境内へ失礼すると、まずは宝物殿へさっそく拝観。昔訪れた時は宝物殿なんかあったかな?と記憶があいまいだが、国宝級の仏像などが安置されていて、釈迦如来坐像、十一面観音立像、地蔵菩薩に十二神将の内の6体等々、じっくりとその“お姿”を見る。釈迦如来坐像の耳の垂れ下がりの長いことといい、十一面観音立像の唇にはうっすら紅の色が見て取れ、彩色されていたことといい、仏像芸術を堪能する。

室生寺(2) - モリゾーのひとり言

2024/04/15 (Mon) 22:05:37

宝物殿での拝観を終え、いよいよ境内へと散策。仁王門を潜り、そこかしこにあるモミジの木々が見頃を迎え、特に、池から望む仁王門が絵になり、すばらしい。
鎧坂と呼ばれる石段を上がり、金堂や弥勒堂があるエリアに移動。杮葺きの屋根が特徴的な堂宇が山林の中で佇み、まずは弥勒堂でお参り。内陣には弥勒菩薩立像が安置されているが、厨子の中に納まっているので見ること叶わず。冊子によると、昭和28年(1951)の修理の際に、須弥壇下と天井から宝匧印塔の木製籾塔が多数発見されたとのこと。宝匧印塔は仏さまのお骨、仏舎利が入った石塔または墓塔、供養塔であるが、その形をした木製の中に仏舎利でなく籾(もみ)が入っていた?と。どうやらネットで調べたら、五穀豊穣を祈り、農民が奉納した、いわゆる“お供え物的”なことだろうか、それが古美術店で販売しているほどの価値があるもの?らしく、検索ページにずらりと紹介されている。
しかし、発見されるまでずっと籾塔が眠りについていた歳月は如何ばかりか、これまで弥勒堂でお参りをする人々は自然と、五穀豊穣の祈りも知らず知らずに一緒にしていたのかと考える。
弥勒堂から金堂へ。金堂は中に入れるので失礼すると、内陣に安置されている仏像群が眩しいほど(実際は眩しくはないが…)に“戦隊ヒーロー”のように並んでいる。
釈迦如来立像を中心に、右に薬師如来、左に文殊菩薩、その手前に十二神将の6体(
宝物殿で見た十二神将6体以外の残りの6体)が参拝客を魅了している。十二神将以外平安時代初期の作で、衣の流れるような線は優美に平安時代の特徴を表していて、ホッと一息、落ち着いてその“芸術作品”を味わう。

室生寺(3) - モリゾーのひとり言

2024/04/15 (Mon) 22:06:27

本堂、五重塔エリアへ移動。石段は二手に分かれ、西側の石段から上がる。本堂手前の敷地には玉垣に囲まれたため池があり、ここもモミジが彩りを見せ、絵になる。この西側には北畠親房のお墓があり、立派な五輪塔が建っている。北畠親房といえば、南北朝時代の後醍醐天皇を支えた重鎮。確か…四条畷の戦いで敗れて、今の奈良県五條市のどこかで亡くなった…ような話だと思ったが、ちなみにその三男が伊勢国の国司となり、その後、伊勢国を治めた大名が剣豪で有名な北畠具教。あの塚原卜伝に師事した…と、剣豪伝説は話が長くなるのでここではネットで調べてもらうとして…しっかりとここでも手を合わせる。
本堂へは中に入れるので失礼し、本尊如意輪観音菩薩にお参り。といっても厨子に入っているので見ることは叶わないが、ネットの写真には穏やかな表情のお姿、檜の一木造りというからすごい。本堂から出て建物の右手には桂昌院の五輪塔が建ち、桂昌院は徳川5代将軍綱吉の母で、寺の復興のために多額の寄付をしたことから、当寺が「女人高野」と呼ばれるようになった由縁はここからきていて、ほとんどの人が知らずにスルーして行ってしまう中、ここでもしっかりとお参り。
そして五重塔。本堂左手の石段を上がった高台に建ち、シンボリックに存在している。高さ約16m、国内で最小の五重塔で、平安時代初期の建造物。きれいなアングルで撮影できるカメラ設置台があり、そこには人の群れがいて賑わっていて、それはまさにお立ち台でポーズを決めるモデルのように五重塔が堂々としていて、憧れのスターを仰ぎ見るかのように…と妄想が過ぎましたが…そんだけ美しいフォルムを魅了している。
五重塔を横目に次は奥之院を目指す。

室生寺(4) - モリゾーのひとり言

2024/04/15 (Mon) 22:07:19

山上へと石段を上がる上がる…杉木立が林立する中の参道は昼間でも薄暗く、それが返って火照った体には涼しさが増し、ちょうど良い。だが、つらい…
休憩を入れながら「無明橋」という所まで来て、半分は来ただろうと目算し、登っている途中には「マムシ注意」や「落石注意」の看板があるが、自分との体力勝負に頭が持っていかれ、それどころではない。ひたすらに無心となって上り、ようやく灯籠堂の柱が見えてきた頃には石段の傾斜もきつく、立ち止まっている人がいて、同志のように声を掛け合い気力を振り絞る。
奥之院エリアに到達。最初の一歩目は「ファイト―!いっぱ~つ!」と心の中で叫び、「やったー!」と自分で自分を褒めたいと…どこかのフレーズを思い出しながら、達成感~
しばし休憩し、心を落ち着かせ奥之院を散策。灯籠堂は京都清水寺のような縣造(かけづくり)の柱で支えられていて、回廊をぐるりと歩ける西側には奈良盆地を見渡せる眺めが広がりベンチに座って最高の景色を拝む。灯籠堂の真向かいには大師堂が建ち、弘法大師42歳の頃の像が安置されている。扉は閉ざされているので、手前でお参りし、納経所内で再び休憩。所内のポスターを見ていると春夏秋冬、それぞれの風景が色を成し、いろんな表情を見せる室生寺…特に冬の雪景色は素晴らしく、いつか冬の時期にも訪れたいと、室生寺の魅力を再発見。久しぶりに訪れた室生寺で旅愁に浸るのでした~

とろろそば - モリゾーのひとり言

2024/04/15 (Mon) 22:08:07

麓まで戻って来て、太鼓橋を渡った界隈には食事処が軒を連ねる。昼過ぎの少し来客が途絶えた頃に「橋本屋」さんに失礼し、昼食タイム。こちらのお店では室生寺川沿いに並ぶ真っ赤なモミジを見ながらの食事ができるということで、座敷とテーブル席があり、やはり窓側の座敷には人がいっぱいで、テーブル席に着く。
メニューを見ると、自然薯を乗っけた蕎麦が有名らしく、迷わず注文し実食。
店の御主人が自ら、うずらの卵を割って自然薯の上に乗っけて下さり、見た目もイイ。昔の人はうなぎだけでなく、自然薯でパワーをつけた?というほど(知らんけど…)、疲れ切った体には一番の栄養だと何かで聞いたが、ずるずると喉を通り五臓六腑に染みわたる?かのように美味いモード全開で無心に食す。
一人前にしてはちょっと量が足りなかったかな?は否めないが、窓から見える紅葉の景色と相まっておいしく満足×2。

草餅 - モリゾーのひとり言

2024/04/15 (Mon) 22:09:18

ちょっと足りないお腹を満たすために草餅を…ということで、室生寺に来たら必ず立ち寄る「よもぎ餅本舗もりもと」さん。行列ができるほどの人気店?で、この日は運良く誰もいない。炙った草餅を2個お願いし、お金を払う頃には後ろに行列ができていて、やはり知っている人は知っている。
おみやげで10個入りのも販売しているが、過去に買って家で食べた時にはもう、餅が硬くなってしまっていたので、焼きたてのをその場で食べるようにしていて、バス停で頬張る。
その姿を見ていたバス待ち客が「私も」と買いに行き、これが〇〇効果(外発反応性?)というものか(言葉を忘れた…)と、バスが来るまで甘味を味わうのでした~

また6、奈良の旅(1) - モリゾーのひとり言

2024/03/30 (Sat) 17:54:10

ようやく春本番といった感じで、桜も開花を始め満開を待つのみ。すでに岐阜市内の早咲きのしだれ桜を見に行ってきましたが、初夏の気温にこの先が心配。とりあえず、花粉や黄砂を気にしながら今年はどこへ行こうか…
今回は11月下旬に行った奈良の旅。三重県名張市を跨いでの紅葉旅の紹介~

長谷寺(1) - モリゾーのひとり言

2024/03/30 (Sat) 17:55:24

近鉄名古屋駅から伊勢中川駅を経由し、大阪線に乗り換え、長谷寺駅へ。
何年振りだろうか、春の時期に訪れた記憶はあるが、その時に、あの、本尊の大きな十一面観音さまの足に触れた特別拝観は印象的で、それ以来、来てない。
長谷寺駅からの階段坂道を下る…「そうそう、こんな感じ…」と、長谷寺への門前町の街道を歩くと、緩やかな上り坂に、草餅やうなぎ、うどん…と老舗のお店がずらりと両側に並び、目移りしてしまう。この秋の時期もやはり、参拝客は多く、門前通りは活気があって良い。
いつしか見とれているうちに、仁王門にたどり着き、さらに団体客のツアーがぞろぞろと現れ、すごい人。
さっそく、受付で拝観料を支払い、仁王門を潜ると、あの、長い石段登廊が上へと続き、「長谷寺といえば…」って感じで、登廊の周りには春の時期に咲く牡丹が植えられていた花壇が懐かしく、その頃を思い浮かべてはゆっくり歩く。
登廊の途中には、清浄院跡地に建つ「宗宝蔵」という宝物殿に立ち寄り、国宝や重文の仏像、経典などを拝観。再び登廊を上り、蔵王堂を経由して鐘楼のある場所にようやく到着。
納経所には長い行列が続き、御朱印人気の高さが窺え、まずは本堂へと失礼する。

長谷寺(2) - モリゾーのひとり言

2024/03/30 (Sat) 17:56:19

本堂に祀られている本尊、十一面観音菩薩立像に“ごあいさつ”。10mを誇る御丈を見上げれば、その巨大さが身に染みて迫力を感じる。近江国高島から来た楠木の霊木を用いて3日間で造り上げたというからすごすぎ。現在の像は、天文7年(1538)、東大寺仏生院の実清良学の作と云われ、両脇には難陀龍王と雨宝童子が仕えている。金ピカに輝く十一面さまを参拝客は見上げ、その圧倒的な存在感に誰もが手を合わせる姿は、何事にも逆らえないような…自然と拝んでしまう…そんだけ多くの人の心を受け入れてくれるほどの器が無限大に大きく深いのだろうと、じーっと眺めてしまう。
お参りを済ませ、本堂前面の舞台へ移動すると、すばらしい景色…この上なく晴れ晴れとした空気感に、ここに来た人でないとわからない、心が洗われるような…そんな感覚を実感。
西側の五重塔付近に目を向ければ、モミジが彩り、ここまで登って来た“ご褒美”が用意されていて、しばらくこの景観を楽しみ、納経所で御朱印を拝受し次へ。

長谷寺(3) - モリゾーのひとり言

2024/03/30 (Sat) 17:57:13

本堂裏手のモミジを愛でながら、大黒堂、弘法大師御影堂、本長谷寺へとお参り。長谷寺の縁起として、御病気だった天武天皇のために道明(どうみょう)上人が「銅板法華説相図」を鋳造し、初瀬山の西の丘に安置したことが始まりで、それを納めるために精舎を造営した建物が「本長谷寺」。この建物が長谷寺のルーツということでしっかりとお参り。
この「銅板法華説相図」を長谷寺のHPで見たが、中央に三重塔、その周りの上部には千体仏のような小さな仏さま、中央にはちょっと大きめの仏さま、下段には銘文とその端に金剛力士像が描かれ、詳しいことはわからないが、法華経を表しているとのこと。この時代(白鳳時代)に造られた鋳造物としてはまさに宝で、日本最古の金剛力士像とも云われ、当時はこれを安置することで、人々の救済を図っていたのだろうと、歴史を垣間見る。
ちなみに、「本長谷寺」を建てた4年後に、東の丘に御本尊を祀ったのが徳重上人で、西国33観音霊場を開かれたお方で、門前町の法起院にお墓がある。
その本長谷寺から五重塔(昭和に入って初めて造られた)を見上げ、納骨堂付近のイチョウの木が黄色く色づき、地蔵菩薩の石像が喜んでいる?かのようにコラボしていて、映えていて美しい。
奥之院へは時間の都合上行くことは諦め、本坊へと向かい、本坊から本堂の景観、ずいぶんと広い敷地を散策したもんだと、皇室たちが植えられた木々に見守られながら、仁王門に戻ってきて、まだまだ参拝客の入りが多く、秋の長谷寺を満喫するのでありました~

談山神社(1) - モリゾーのひとり言

2024/03/30 (Sat) 17:58:10

近鉄長谷寺駅に戻り、大阪線を西へ桜井駅で下車し、駅南バスターミナルから奈良交通バスに乗り込む。やはり奈良県の紅葉の名所といえば、談山神社は外せない。
今回で3回目となる訪れであるが、いずれも秋の時期で、大賑わいの中の散策を楽しんだ記憶がある。そんな人気の高い談山神社へのバス停には数人しか待ち人おらず、「あれっ、人少ないなぁ~」と思いつつ、まぁ、午後だからだろうとバスに乗り込み、車窓を眺める。
国宝「十一面観音立像」が安置されている聖林寺を過ぎ、徐々に山深い谷へとバスが走ると、対向車の観光バスや一般客の車とすれ違い、細い道では譲り合いの精神で、ひっきりなしに下ってくる。心配せずともやはり、人気の談山神社だと眺めながら、あっという間に終点談山神社バス停に到着。駐車場には満車になるほどの観光バス他、人もかなり多く、さっそく案内看板通り、参道につながる道を歩く。昔訪れた時は、東大門から鳥居までの坂道を歩いて来たものだが、その道の途中から合流し、参道坂道には相変わらずのモミジの木々、目移りしそうなお土産店や茶店が軒を連ね、賑わいを見せている。
鳥居前まで来ると、この雰囲気…何年ぶりだろうか、一礼して入山料を支払い、境内に入ってすぐの社務所に立ち寄る。本当はお参りしてからが礼儀だが、人が多いので先に御朱印帳を預けて番号札をもらう対応でも大丈夫だったので、お願いしいよいよ境内へ。

談山神社(2) - モリゾーのひとり言

2024/03/30 (Sat) 17:59:02

ここは「多武峰」と呼ばれる明日香から北東に位置する場所。あの有名な、中大兄皇子と中臣鎌足が藤の花が咲く頃に、今の本殿の裏山で極秘に談合をされた、後の大化の改新に繋がる歴史的な舞台である。中大兄皇子は天智天皇となり、鎌足が病になったとき、自ら病床を見舞い、後日、「藤原」という姓を与え、藤原氏はここから始まったとされる。
藤原鎌足没後に摂津国阿威山(現、大阪府高槻市)に御墓が造られたが、唐より帰国した長男の定慧和尚が父の遺骨の一部を多武峰山頂に改葬して十三重塔と講堂を建立し、初めは「妙楽寺」と称し、その後、大宝元年(701)に神殿を建て、鎌足公の御神像を安置して談山神社を創建した…と簡略ではあるが、HPに由緒が書かれている。
二人の出会いは“蹴鞠会”のときで、すでにこの頃からリフティング文化?があったことは「へぇ~」だが、それよりも、後の藤原氏の、皇室に取り入るための悪行?はある意味、ここから始まっていて、今年のNHK大河ドラマ「光る君」にも悪徳ぶりは描かれていて面白い。
なぜか「談合」という言葉から、B’zの「Liar!Liar!」の曲が浮かび、「先生はママと 政府は火星人と 警察は~悪い人と~ ぼくの知らないとこで とっくに話がついてる~ それって談合社会~」と口ずさんでしまう。入鹿の知らないとこで“暗殺”が話されてるとは、本人も思いもよらなかったであろう。
そういえば、最近読んでる本(高田崇史など)で、「蘇我入鹿は天皇だった!?」とか、「藤原鎌足は百済王の弟で帰化人だった!?」とか、おもしろ話を知り、歴史書は勝者の都合で勝手に書いたり、書き換えることができる論理の上、真実が闇に葬られることは考えられることで、今もしかり、“知らないとこで話が着いてる”政治とか、“お主も悪よのぉ~”といった癒着はあり、結局、今も昔も変わっていない…という、日本の歴史は繰り返されている。
…と、話が逸れてしまったが、そんなことを考えては、紅葉の彩りの美しさに何となく“裏がある”ような空虚感?虚無感?を感じてしまう。

談山神社(3) - モリゾーのひとり言

2024/03/30 (Sat) 17:59:58

長い石段をゆっくりと上がると、途中には、拝殿を支える柱の床に白砂が敷き詰められていて、直線的な模様と柱の影がうまい具合に交差してアートを感じる。登り切った正面には鶴の形をした手水舎があり、丁寧に清め、楼門からつながるように拝殿内へ靴を脱いで失礼し、廊下に並ぶ吊り灯籠がモミジと絵になり、写真を撮りまくる。
横に長い畳敷きの空間では、厳かな雰囲気の中、お参りし、殿内からの引戸口から見える外のモミジが額縁に収まったかのようにしばらくそれを見て癒される。
楼門から西の向かい側へと散策すると、当神社のシンボル的な十三重塔が建ち、いつ見ても素晴らしい出で立ちが存在する。十三層に重なった屋根の“ウェハース”は芸術そのもので、よくこんな形を思いついたものだと感心し、ある一定の距離から綺麗に写真が撮れるように、カメラ専用台まで用意されていて、“モデル並み”?に撮影。権殿や講堂などの伽藍を見、石畳の広場には、夜のライトアップ用に飾られた、竹でできた球体のオブジェが数種、アート作品ばりに配され、境内の空間を演出している。ライトに照らされたモミジも見てみたいが、バスの最終時刻が迫っているので急ぎ社務所まで戻り、御朱印帳を拝受。鳥取の旅での“モミジ狩り消化不良”を解消し、本日はここまで~

つづく…

また2、鳥取の旅(5) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:03:54

「2025年7月…」というキーワードを耳にし、それって何?と調べたら、「!?」。
本当なのだろうか…と、100年周期?でやってくると云われている南海トラフももうじきだと不安を隠せないが、備えあれば何とやらで、一応準備はしている。いろいろとあらゆる方面から調べていたら、天王星がふたご座に重なると、突発的なことが起こる!?なんて情報も出て来て、過去に第二次世界大戦が起こったとかetcあり、とかくオカルト方面に走りがちになってしまうので、ここら辺でこの話はお開きに。
…で、鳥取の旅も最終日。鳥取市内を中心に紹介~

興善寺(1) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:04:54

最終日は鳥取城跡周辺を散策。鳥取県警察本部裏手から東へ行くと興善寺がある。黄檗宗らしい中国様式のような山門から境内へ失礼すると寺域が広く、左手に墓所、正面に本堂、本堂左手から石段を上がった所にも墓所、右手に庫裏と配置され、本堂前の庭で朝の清掃をしている住職さんにご挨拶。
境内を散策してから拝観することを伝え、まずは墓所めぐり。こちらのお寺には剣豪のお墓や、伊賀鍵屋之辻の仇討でお馴染み?の渡辺数馬のお墓もあり、案内看板通り、左手の鐘楼脇から墓所へ移動。
こちらの墓所には臼井本覚のお墓がある。鳥取藩きっての剣豪で、丹石流の使い手と云われる実戦兵法の達人。池田忠雄公がまだ岡山藩主であった頃、臼井十太夫(本覚)と村山越中という藩士がいて、村山は口が悪く、臼井を誹謗中傷することたびたびであった。臼井は取り合わないでいるうち、村山は他の藩士とトラブルを起こし、相手を斬って出奔してしまう。村山は加賀藩の前田利常公に仕えたが、ここでも臼井への誹謗をくりかえし、長続きせず浪人の身となり、次に村山が転がり込んだのが、備中松山藩の池田長幸公のところで、それでも村山は臼井への侮辱を平気で他人にしゃべり、ここに至って臼井は、もう見過ごすことができなくなり、村山が駕籠に乗ってやってくるのを一刀のもとに討ち果たした経緯がある。これに怒ったのは村山の妻。夫の仇を討つことを幕府から命令してほしいと訴えたが、認められず、臼井はお咎めなしとなり、寛永9年(1632)、池田家国替えに伴い鳥取藩士となった…
ということで、一刀のもとに討ち果たした腕前は相当なもので、剣豪に相応しいほどの手練れ。それにしても、一歩間違えれば臼井が罪を背負ってしまう話だが、現代でもマンションの騒音トラブルで人を刺してしまい事件になってしまうケースはニュースとかであり、やはり我慢も限界を超えてしまうと自分が被害者から加害者の立場になってしまうこともあるので、良識ある人間ならわかっていると思うが、そこは気を付けないといけない。
と、話がそれてしまったが、そんな臼井さんの墓前で手を合わせ、次へ。

興善寺(2) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:05:54

次は本堂裏手のお墓へ。こちらには「疋田流眞理開祖」の猪多伊折左(いだいおりのすけ)と、渡辺数馬のお墓がある。猪多伊折左は槍術を大成させた藩士。柳生石舟斎の「柳生新陰流」は有名だが、元は石舟斎の師匠、上泉信綱が興した流派。その信綱の弟子の柳生石舟斎や疋田景兼が新陰流の名を継承し、新陰疋田流は疋田景兼の弟子である猪多が素槍を用いる「新陰疋田流刀槍二術」の極意を相伝。寛永9年(1632)、池田光仲公に従って鳥取藩士となり、400石の知行を得て、薙刀や剣術、十文字槍、鍵槍などの技を指導し、門弟は多数に上るほど全国各地に伝えられたという。ちなみに、鳥取では現在、槍術は絶え、薙刀のみ継承されているそうで、こう見ると、鳥取藩は荒木又右衛門しかり、剣豪ぞろいの藩士がいたことを知り、池田光仲公は武道の精神から、健康な身体を鍛える鍛錬を推奨するマニフェストを掲げた大名であったのかもしれない。
そして渡辺数馬。“伊賀の仇討ち”を検索してもらえれば分かるので説明しないが、こんな所にお墓があるとはつゆ知らず、“槍術の先生”がお隣にいて、心強いだろうにと、お二人の墓前で手を合わせ、歴史に名を残した“大物”?に想いを馳せる。

興善寺(3) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:07:09

剣豪好きなので話がずれてしまったが、“お墓参り”を済ませ、いよいよ拝観。庫裏から書院へと移動し、興善寺庭園を眺める。
…と、その前に、興善寺の縁起について。黄檗宗である興善寺は池田家の菩提寺であり、伊達家の「大年寺」、毛利家の「東光寺」と並び、黄檗三叢林の筆頭として「聖賢林」と呼ばれていたそうな。天正年間、池田輝政公が岐阜城主の時代、長男、之助の追善のため、御局の広徳院が「龍峰山広徳寺」を建立し、妙心寺の宿老、湖叔宗を住持に迎え開山したことに始まる。その後、輝政公が三河城主となり、広徳寺もお引越し、その際に「広徳山龍峰山」と改め(なぜひっくり返したのか…)、姫路、岡山に転じ、池田光仲公時代に妙心寺派から黄檗宗へと改宗。光仲公の逝去に伴い、寺号を「龍峰山興善寺」と改称…と、いろいろと端折ったが、第4世の和尚が摂津富田の普門寺にいた隠元さん(黄檗宗開祖)を訪ねたのがきっかけで宗派を変えたらしい。
そもそも、この現在地は、池田光政公が国清寺という寺を建立した跡地で、庭園はそのままに、興善寺に引き継いでいて、建物も変わらず使用された造り。なので、作庭の時期は光政公が鳥取在藩の時にはもうあったと推定できる。
そんな庭を眺め、池泉式庭園を堪能。背後の久松山の山裾に、築山を盛り上げ、サツキやツツジだろうかの低木が植えられ、枯滝の石組を鶴石組みとし、池の出島を亀石として配置。池には睡蓮の葉っぱが浮かび、奥の木々にモミジがあるが、見頃ではないのが残念。あと一週間後に来れば満足な風景が見られただろうにと、こればっかりは仕方がない。
庭園を静かに観賞した後、まだ本堂でお参りをしてなかったので、合掌。黄檗宗っぽい雰囲気を味わいつつ、京都宇治の黄檗寺を思い出しながら次へ。

栗渓神社 - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:08:17

興善寺から東へ、住宅街の中の坂道小路を上がっていく。たどり着いた駐車場は、山を削ったような敷地になっていて、見上げれば崖上の社務所付近のモミジが見頃を迎えていて、陽光が当たっている所は紅葉が進んでいる。これまでの鳥取市内の訪れる場所、紅葉には恵まれず、“消化不良”のまま最終日はやっと愛でることができて、陽気に鳥居を潜り石段を上がる。
石段参道を上りきると、ムクノキの巨木に挨拶し、左手に境内は広がり、幣殿、拝殿、本殿などの建物が古めかしく建っている。
栗渓神社は社伝によると、因幡国内に疫病が流行した際に、播磨国の広峯神社の牛頭天王の御分霊を勧請したことに始まり、江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていて、明治に入り、栗渓神社と改称される。牛頭天王はいわゆる、素戔嗚尊。京都の八坂神社も同じ祭神で、京都に疫病が蔓延したのを鎮めるために広峯神社から牛頭天王を分社し奉祀したのが、今の八坂神社なので、牛頭天王の本家が広峯神社ということになる。
疫病退散に御利益がある牛頭天王。なぜ、「牛」なのか?
ちょっとネットで調べてみたら、天然痘に限っていえば、牛痘にかかった人(牛飼い)は天然痘にかからないということに気付いた医者がいて、それがイギリスのジェンナーという人物。天然痘ワクチンを開発し、近代免疫学の父と呼ばれた人で、1800年頃にそれに気付いたのだが、そんな医学の進歩もない遥か以前から日本では、知ってか知らずか、牛頭天王に縋りついていた?(頼っていた?)奇蹟って、「すごい!」と、この関連性の偶然はなんなのだろうと…
で、境内には、遠吠えをするかのように顎を上に向けている狛犬に挨拶し、拝殿でお参り。本殿側へとぐるりと回り、杉やヒノキの巨木が林立し、裏手には稲荷神社の摂社も祀られていてここもお参り。木々に囲まれた境内の雰囲気を味わい、社務所で御朱印を拝受。
帰りの石段参道を覆うモミジの木々が赤く染まっているのを見ながら、ゆっくりと後にするのでした~

吉川経家銅像 - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:09:16

鳥取県庁の裏通りを歩き、北西方向へ。すでに鳥取城跡の石垣が見える堀の外に来ると、吉川経家公の銅像がある。甲冑に身を包んだ険しい表情からは、この世の世知辛い世の中を憂いているのか、はたまた鳥取市全体を慈愛の心で見守っているのか…と、そんな、どちらともいえない表情で、で~んと前を向いている。
鳥取城で自分を犠牲にして、籠城していた人たちを助け、後に語り継がれる英雄となった吉川経家公。現在は、鳥取の人たちにとって誇り高き英雄となったであろうと、秋空に映える背景の銅像を見上げ手を合わせる。
こうして現地に訪れることで、その実感が湧き、その土地の風土に触れることができて、やはり旅はいいもんだなぁ~と旅愁に浸るのでありました~

仁風閣 - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:10:09

吉川経家公の銅像から鳥取城跡南側に位置する大手門へ。堀に架かる橋を渡ると、修復工事中の足場が組んであり、看板には、どこかに連絡すれば大手門(中御門)内部を見学できるようになっていて、ヘルメットが数個、棚に置かれている。時間の都合上、私はスルーし、西側から城内へ移動。
久松公園が広がる北側には、明治時代に建てられた「仁風閣」が威風堂々と、広い敷地にポツンとあり、前面の芝生と玉砂利で設えた、どこか殺風景な庭が、それでいて明治時代のノスタルジックな景観となっていて、雰囲気を醸し出している。
仁風閣は明治40年(1907)5月に建てられ、鳥取池田家の14代当主、池田仲博侯爵が宮内省匠頭であった片山東熊(とうくま)工学博士に、別邸として設計を依頼し、後輩にあたる鳥取市出身の橋本平蔵工学士が監督したとされる。片山氏は赤坂離宮をはじめ、京都国立博物館など明治の洋風建築を設計し、当時の宮廷建築の第一人者と云われた人物。そんな彼が建てた白亜の木造2階建ての造りは、フランス風ルネサンス様式を基調とした佇まいで、城内にありながら見事にマッチ?して、和洋折衷の趣が見て取れる。
内部を見学することもできるが、こちらも時間の都合上パスし、鳥取城内へと歩く。

鳥取城跡(1) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:11:18

西坂下御門を潜り、城壁を見ながら道なりに石段を上がると、二の丸跡に到着。二の丸の手前には「右膳ノ丸跡」という場所があり、江戸時代には城代の屋敷が建てられていて、昭和の戦後には進駐軍の宿舎が設置されていたこともあるらしい。
二の丸の立派な石垣近くには、小さなお墓があり、「澤市場屋」という、鳥取城が築城される以前からこの地に住んでいた町人がいたそうで、初めは天暦2年(1185)頃にこの地にやって来た平家一門の武士、小澤小左衛門という人が久松山の山裾にあった「澤市場村」に住み着いたのをきっかけに、代々、この地に根差してきたと。城主でもないご先祖さまのお墓が城内に残され、お参りすることを許されたということは、それなりに特別な町人だったということなのだろうか。
そして二の丸には、江戸時代初期に鳥取藩主が住んでいたとされる「二の丸御殿」があったとされ、今は石垣が眺められる広場となっていて、一角には石切り場跡の案内看板が立ち、ここで石が採れたり、石垣を積み上げるための石をカットしていた人夫を想像する。
鳥取城跡には櫓や天守などの建物がないが、ない分、ここに御殿などがあったと想像しがいがあり、城内を散策することで歴史の一部に触れたような、そんな見聞を感じながら三の丸へ移動。

鳥取城跡(2) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:12:17

二の丸から本丸跡へ行くと、登山道入口に鳥居が建つ中坂稲荷神社があり、「殿さまとキツネ」と題して案内看板がある。日本の城には「ヌシ」と呼ばれる妖怪や神様がいて、鳥取城にも「ヌシ」がいるらしい。それがキツネで、殿さまの用事を果たすために江戸へ使いに行ったとか、殿さまの可愛がっていた鳥を部下が食べて?しまって、代わって部下を処罰したとかの伝説が残されていて、久松山の中腹にはそのキツネの稲荷神社が祀られ、今も城跡を見守っているらしい。そんな“キツネ”に手を合わせ、石段を上がり風呂御門跡へ。
長く伸びた石垣はまるで、戦艦かとイメージしてしまうほどのスケールの大きい跡地で、“甲板”から“船首”へと行って、映画「タイタニック」の、あのシーンのように腕を広げる…ということはしないが、鳥取市内を一望でき、さらに三の丸(天球丸)跡へ移動。
城主となった池田長吉公の姉、天球丸がここに居を構えたという曲輪で、江戸時代には実質的に本丸跡にある頂上、山上の丸でなくここで藩政が行われていた場所。庭園跡には巨大な松が2本、会話するかのように生えていて、ここからも鳥取城下の街並みが見渡せる。
幕末期には武術の稽古場「御蔵」が建てられていたこともあったようで、鳥取市内には剣豪のお墓が多いことから、その所以が垣間見える。
久松山頂上の本丸跡への登山は準備もしてないし、時間の都合でパスし、三の丸跡から表御門跡、そして巻石垣跡へ。

鳥取城跡(3) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:13:27

鳥取城跡といえばこれ、「巻石垣」。他の城では見られない唯一の“球体石垣”。石垣の補強のために江戸時代後期に築かれたそうで、目の前に見えている巻石垣は復元したもの。
天球丸の石垣が文化4年(1803)に崩れそうになったのを、川の護岸や港の突堤を修理する方法が採られ、亀の甲羅状に石を積み上げたもので、これが芸術性を帯びた形となっている。
「ごはん大盛!」と注文して食堂のおばちゃんが丁寧に盛り付けてくれる…そんなイメージを浮かべ、巻石垣を眺めるのでありました~

旧宝隆院庭園 - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:14:28

三の丸跡から下って、鳥取西高校の脇を通り、今は大手門の修復工事関係者の車両が止まっている駐車場から、旧宝隆院庭園へ入る。
といっても、仁風閣裏手の敷地が旧宝隆院庭園なのだが、鳥取城跡の山下の丸跡を一周した形でこの場にいる。
で、その名の通り「宝隆院」は11代藩主池田慶栄公の未亡人の宝隆院のことで、12代藩主池田慶徳公が扇御殿の跡地に造った池泉式回遊庭園。
鶴を模った池には亀島を浮かべ、久松山を背景に渓流の石組、滝口、松や椿を配し、この時期は何といってもモミジが見頃を迎えていて美しい。
庭園に一角には「宝麻庵」の茶室があり、先ほど鳥取城跡には建造物がないと紹介したが、後で調べたら、現存する唯一の遺構としてこの「宝麻庵」があり、東に目を向ければその茶室、西には仁風閣と、東洋西洋の建造物が眺められ、それぞれにマッチしている。
これが和洋折衷ってことか…と、ゆっくりと散策し、最後に赤く染まったモミジを拝むことができ、旅の締めくくりにはもってこいの庭園でした~

また2、鳥取の旅(4) - モリゾーのひとり言

2024/02/13 (Tue) 20:01:43

まだまだ寒い日が続きますが、もうすでに私の目は痒い症状が出ていて、花粉症の季節到来か?って感じ。「あー早く過ぎ去ってしまえ~」と憤るばかりですが、こればっかりは仕方がない。暖冬のせいか、桜の時期も早まる予想が天気予報でやっていたが、春を告げる?節分の日は京都へ行き、いろいろと散策。いずれ載っけますが、花粉症も“鬼は外~”と退散してほしい今日この頃であります。
さて、鳥取の旅も4日目。鳥取市より南西に位置する鹿野町を中心に紹介~

加知茂神社 - モリゾーのひとり言

2024/02/13 (Tue) 20:02:47

4日目は鹿野町を中心に、鳥取バスターミナルから鹿野営業所行きのバスに乗って1時間ほど、バスは途中の白兎海岸や浜村温泉地を経由して、宮方バス停で途中下車。
両側に草木が生える参道をまっすぐ歩き、鳥居からの神域に、朝方ということもあって静寂が身に染みる。
加知茂(かちみ)神社は通称「飯田の森」と呼ばれる所にあり、境内には樹齢千年以上の大杉があるほどに鬱蒼と茂る木々に囲まれている。創立年代は不詳であるが、昔は勝宿大明神と呼ばれ、中世以降の武将に崇敬され、吉川元春が戦勝祈願し寄進状を当神社に納めた、今では宝物として語り継がれている。
御祭神は彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、鵜草葦不含命(うがやふさあえずのみこと)、玉依姫命(たまよりにめのみこと)の3柱。いわゆる、火遠理命(ほおりのみこと)=山幸彦とその山幸彦の子と妻である。ちなみに、山幸彦は初代神武天皇の祖父にあたり、山幸彦の子は、鵜の羽で葺(ふ)いた産屋がすべて葺き終わらぬうちに生まれたため、このような名前になったことで知られる。
山幸彦といえば、釣針を失くして海へ探しに行くが、海の神様の娘、玉依姫と恋に落ち…という神話や、それが元ネタとなって“浦島太郎”の話ができた?ことで知られるが、御利益はというと、山で弓を使って狩猟するのが得意で、そこから派生?して農耕の神、商売繁盛、航海安全、縁結びと多彩である。
そんな山幸彦に“あいさつ”しようと神門を潜り、広い境内に失礼して拝殿でお参り。神社の雰囲気を味わいながら散策し、社務所で御朱印を拝受し感謝×2。
帰り、神門下のベンチでバスの時間まで待っていると、神橋近くの地面に落葉に紛れて紫色の“玉”を見つける。ブルーベリーのような形状に「なんだこれは?」とじーっと眺め、ドングリ?ギンナン?と、山幸彦の贈り物?…と、秋を装う季節を肌で感じるのでありました~

譲傳寺 - モリゾーのひとり言

2024/02/13 (Tue) 20:03:51

宮方バス停から鹿野町温泉公園バス停で下車。公園脇を西へ歩くと、譲傳寺に到着。
広い駐車場から山門まで石畳が続き、「譲傳寺」のごつい石碑を見ては、“僧兵”のイメージが湧く。「えっ…そんなお寺じゃないよね…」と思いつつ、境内へ失礼すると、いきなりの住職さんとの対面にさっそくご挨拶。庭の掃除をしている住職さんから「御朱印?」と問われ、「えぇ…それもありますが…」と、お参りをする前から御朱印帳を預け、書いて下さる間に本堂で手を合わせる。
境内は開放感ある敷地となっていて、苔の生えた地面にサツキやツツジの低木が並び、地蔵菩薩の石像、鐘楼、亀井家の墳墓などの説明案内があり、雰囲気を味わう。
譲傳寺は応安5年(1372)、笑巌宥閣が小別所村に創建、当初は法成寺と称していたが、(省略)室町時代末期に、当時の鹿野城主、亀井茲矩公によって現在地に移され、譲傳寺と改称し、亀井家の菩提寺となる。当寺の裏山(弁天山)には、亀井家一族の墓が眠っていて、三州吉田城の城主、松平玄蕃頭忠清(茲矩公の次男の娘、時子の婿)のお墓もあり、時間の都合上、麓からのお参りをする。
境内を散策していると、住職さんが御朱印帳を持ってきて下さり、少し談笑。名古屋からの訪れに労って下さり、鹿野町でのいろいろな情報を教えてもらい感謝×2。お礼を述べ次へ。

鷲峰神社(1) - モリゾーのひとり言

2024/02/13 (Tue) 20:04:59

鹿野町温泉公園バス停から立町バス停へ移動し、まずは南にある観光協会の“童里夢”へ。
10月頃から事前にメールで情報を仕入れていて、「あ~、あの時の…」と職員さんに理解され、感謝を伝える。スムーズな対応からレンタサイクルをお借りし、さっそく西へと走らせ、河内川と呼ばれる河川沿いに雄大な山並みが続き清々しい。
鹿野町は鳥取市の西側に位置し、全体の80%が山林で囲まれた土地柄。南の鷲峰山などに水源を持つ河内川を中心に、流域には小平地が開け、水田畑地となっていて多雨地にもなっている。
なので、自転車を走らせていると、その水田地帯が広がる景色を見ながらのチャリ漕ぎは、都会では味わえない風景。しかも、聳える山の大きいことよ…これぞ、旅をしていると感じる。
30分ほどすると鷲峰神社社務所の案内板を見つけ、鳥居を潜ったすぐのところに社務所があり、まずはこちらで事前にお願いしていた書置きの御朱印を拝受。普段から無人である社務所なので、訪れたこの日に合わせ開けて下さり、10月下旬に訪れた東村神社、山口神社と、今日訪れる鷲峰神社、茂宇気神社の計4種が入った封書が置かれていて、中身を確認し、ありがたくいただく。
さっそく社務所から参道坂道を上がり、木々の中を抜け、神門付近にたどり着くと、さすが鷲峰山からの水源が溜まっている池?があり、池の中央に“亀”のように模した石が配置されていて、水面に映るモミジはまだ緑色だが、波紋で揺らめく“水鏡”は癒しを与え、しばらく休憩。後にネットで調べて分かったことだが、この池の中には3つの石組があり、神社の御祭神、3柱を表しているのでは?と。そんでもって、この石組が発見されたのが、令和3年3月と最近で驚。「へぇ~」と、今にして思えば、確かに神々しさがあった…とその雰囲気を憶えている。
…で、境内に失礼すると、手水舎にも流れ落ちる出水には、ここも亀に模られた石が鎮座していて身を清める。

鷲峰神社(2) - モリゾーのひとり言

2024/02/13 (Tue) 20:05:46

鷲峰神社は「わしみね」ではなく「じょうほう」と読む。由緒には孝元5年(紀元前210年)、今から約2200年前、八千矛神が天羽車大鷲(あまのはぐるま)に乗ってこの山に降りられたことから「鷲峰」と名付け、社を祀ったとされる。
鷲峰山は大山と背比べをした民話があり、鷲峰山が大山より高かったので、大山の神様が悔しがって、柄杓で頭をすくい取ったという話らしい。大山は以前、「米子の旅」で紹介した(壹宮神社)高麗山との“背比べ対決”もあったが、どんだけ勝ちたいんだよ…と、ふと思うが、大山を訪れた時の、霊験あらたかなる神域を肌で感じたことは、「なるほど」と納得できるほどの勝ち誇った?山であることは間違いないだろう。
そんな鷲峰神社にお参りしょうと拝殿へ向かいお参り。向拝上の彫刻がすばらしく、鷲や龍の姿があって見入ってしまう。そういえば、「大鷲に乗って…」はちょっとファンタジーすぎるが、「天羽車」という言葉は、三輪山系の話にも出ていて、大巳貴命がそれに乗って茅渟縣(ちぬあがた:堺市泉北辺り)に降り、大陶祗(おおすえつみ)の娘、活玉依姫(いくたまよりひめ)を妻にしたという、「天羽車」は孫悟空の「筋斗雲」か!とツッコミたくなる。
…と話が逸れてしまったが、本殿側へと回ると、モミジが緑鮮やかに生えていて、山深い所では紅葉もまだまだなのだろうと、赤く染まったモミジを想像して散策。境内には石段近くにある狛犬、あの、川六さん製作の“チャウチャウ犬”が鎮座し、愛嬌がある狛犬にこちらも思わず笑顔になり、狛犬に別れを告げる。

茂宇気神社 - モリゾーのひとり言

2024/02/13 (Tue) 20:07:30

再び、レンタサイクルで南西へ緩やかな県道?を走る。河内川を横目に30分ほどで茂宇気神社に向かう橋を渡り、広い駐車場に到着。鳥居から右手へ、山の縁(へり)を歩くように参道が続いていて、しばらくすると、真っすぐ延びる石段、左に折れて石段、さらに第2鳥居から石段…と、休憩を入れながら登る。
第2の鳥居付近には、芳名帳なるノートが置かれていて、小休止のインターバルを取れるように設置してあるのか、考えられていると勝手に思い、宮司さんのお心遣い?に感謝し、記名する。そして、管から水が常に溢れ出ている手水石鉢で身を清め、拝殿でお参り。
ネットによると、茂宇気神社の御祭神は、天照大神、大山祗神、倉稲魂命の3柱。創立起源は不明だが、その昔、妙見大権現と称したと記録に残っているらしい。池田家の寄進を受け、元禄5年(1692)に妙見茂宇気宮と改称し、明治に入って、今の名称になったという。
石段は105段あり、文政7年(1824)に人力で完成しているとのことで、登った感覚としては105段以上あるような気がしてならないのだが…
確かに、適当ではないが、人の手で作られたことが分かるくらい、石段に踏み込む足幅が狭く、上りはいいが、下る時は足を横にして接地しないと危ない。帰りは十分注意して降りなければいけないが、しかし、よく石段を上まで運んだものだと、昔の人のご苦労を心な中で、感謝で労う。
「もうけ」という言葉から金運や財運の御利益があると口コミでは書いてあったが、この場所に来れたことで、十分授かったような気がして、山の中での「気」を感じ取り、しばらくこの空間を味わうのでした~

写真は参道からの鷲峰山

鹿野城跡公園 - モリゾーのひとり言

2024/02/13 (Tue) 20:08:22

茂宇気神社から帰りは緩やかな下りの道なので、レンタサイクルを漕がずともスイスイ先を進める。鹿野町の中心地に戻ってくると、道路が観光用に整備された石畳に変わり、鹿野城跡公園へ向かう。
鹿野城跡のお堀には観光客の姿がちらほらいて、一角にお堀を覗いている集団がいる。私も近づいて覗いてみると、人慣れしている白鳥が1羽いて、羽を伸ばし、鹿野城跡のアイドル的存在なのだろうか、餌をねだりに愛想を振りまいている。
そんな白鳥とお別れして、いよいよ鹿野城跡へ。
鹿野城跡は戦国時代の城主、亀井家の居城跡。鹿野は軍事上の拠点であったことから、T字路やI字路が多く、内堀外堀の遺構が残っている。亀井茲矩公はしっかりとした町づくりを行ったことで、今でも京格子のある町屋が点在し、風情ある城下町の名残としてある。
そんな城跡は、桜の名所として有名らしく、モミジも鮮やかに色づく。…と言いつつ、今年の暖かさの影響で、11月中旬だというのにまだ緑。期待していただけに、こればっかりは仕方がないのだが、とりあえず、天守台跡を目指すべく、城跡内にある城山神社の鳥居からスタート。
山城らしい山道を歩くと、確かにモミジがあちこちに生えていて、まだ緑色でもそれはそれで楽しめ、山道はハイキングコースのように整備されていて分かりやすい。途中の城山神社にたどり着き、お参り後、山の中腹ではあるが、見晴らしが良い。鹿野町から広がる田園地帯、そして奥に見る日本海…としばらく眺望を見ながら休憩。
ここまで来たからには天守台を目指そうと、再び山道を歩き、到着~
何もない天守台…そりゃそうだと思いながら、木々から覗かせる景色が、北は日本海、南は山並みの中の田園風景が見え、ここからの眺めを、亀井氏も見ていたのであろうと、歴史の一部に触れたかのように重ね合わせる。モミジは残念だった?けど、登り切った達成感で満足し、しばらく休憩~

雲龍寺 - モリゾーのひとり言

2024/02/13 (Tue) 20:09:19

麓に降りてきて、再びレンタサイクルで城下町を東へ。小川を越えた風景は、田畑が広がり、遠くの峰々が連なる山々が続き、どこか荒涼さを感じるような印象もある。真っすぐ延びる畦道を進み、その先の山の麓に、ポツンと建物が建っているのが見える場所へ移動。
「雲龍寺」と刻まれた石碑の向こうは駐車場になっていて、石垣に囲まれた敷地の山門までバリアフリー様式の坂道が続き、その手前には「池田政綱公 菩提寺」の石碑が建っている。
さっそく山門を潜り、境内に失礼すると、石畳の先に本堂があり、周りはちょっとした庭にモミジが植えられていて、少し紅葉している。あと5日ぐらいで彩るだろうモミジを愛でては残念がり、本堂前でお参り。
雲龍寺はネットによると、当時、気多郡司であった紀氏常によって建立され、天正年間に譲傳寺の僧、忠岳和尚が「双樹林山涅槃禅寺」と称し、再興したと伝わる。池田家の家老、日置忠俊が鹿野城主時代に水谷集落内へ移転し、その後、現在地に移されたとある。
こちらは紅葉の名所として知られ、秋限定で公開される庭園があり、今年は限定2日間で、そのどちらの日も日程が合わず、来週となってしまうので、せめて外からでも拝もうと訪れた次第。
本堂の左手からは石段が上へと続き、何の気なしに石段を登る。すると、鳥居があり、近くには簡易な社殿に「愛宕神社」の文字があり、ここから続く石段が見えるのだが、この先に本殿があるのだろうと、“登りたくない人は簡易な社殿でお参りを済ませる用”なのだろうと、私は気合を入れて本殿を目指す。すぐ着くだろうと高を括ったのが大間違いで、これが頂上までかなりの石段を登ることに。その途中には、本堂の裏庭、いわゆる庭園が広がっているのが見えて、とりあえずは愛宕神社をお参りしに上がる。広い敷地にポツンと社殿が建ち、相当古そうな神様にお参り後、石段途中のとこへ。
ベンガラ色の屋根瓦の本堂や庫裏の建物、その手前には山の借景を活かした庭園があり、私はその山側の斜面から見ている。庭園は池泉式庭園らしく、確かにモミジが多く紅葉の名所であることは納得だが、なんせまだ色づいていない。やはり、今年の暖かい気候の影響から色づきも遅れていて、例年であれば今が見頃だろうと嘆く。またいつか…と思いを寄せ、石段を再び下っていると、「ヘビ~」に遭遇。しかも青い。
ヘビは“龍神の使い”なんで、金運財運の御利益。茂宇気神社を訪れた効果がここで発揮されたか…と勝手に思いつつ、この出会いに感謝。
…で、ひょっとして御朱印を拝受できるのだろうかと、庫裏でピンポンすると、住職さんが対応してくれ、書いて下さる間、本堂内へ案内して下さる。
本尊は聖観音菩薩だろうか、内陣には池田家の家紋の入った提灯を掲げてあり、そんな中でもう一度お参り。御朱印を拝受し、感謝×2でお礼を述べるのでありました~

幸盛寺 - モリゾーのひとり言

2024/02/13 (Tue) 20:10:13

レンタサイクルを観光協会の「童里夢」に向け走らせ、鹿野町最後に訪れる場所は、その目の前にある山中鹿之助のお墓がある幸盛寺へ。
幸盛寺は宝徳年間(1449~1451)、証誉慧鏡が開山したのが始まり。当初は持西寺と称していたが、文永元年(1592)、当時の鹿野城主、亀井茲矩公が現在地に移し、現名称に改称していて、亀井茲矩公は尼子氏の遺臣である山中鹿之助幸盛の娘婿だったことから、幸盛の菩提寺として庇護し、毎年、蔵米を奉納していたという。
そんな当寺を、かつては鐘楼門だったような山門から境内へと失礼し、まずは本堂でお参り。本尊は阿弥陀如来像で、運慶快慶が彫刻したと伝わる。亀井茲矩公の夢に、味野村(鳥取市)にあった願行寺から「遷仏しろ」とお告げがあり、今日に至っているとのこと。本堂の一部は明治時代、小学校に提供していたらしく、何となく境内全体が校庭のような雰囲気があるなぁ~とは感じていたが、ここで勉学を学んでいた子供たちの声が聞こえるかのように想像する。
次は山中鹿之助のお墓へ。大きなイチョウの木が生えている周りには、無縁仏?のお墓がぎっしり。その先の墓所入口に分かりやすいように石碑が建ち、山中鹿之助以外にも亀井茲矩公の姉のお墓、鹿之助に殉じた十三勇士などもある。
山中鹿之助幸盛は尼子氏の家臣。毛利元就との戦に敗戦し、再び尼子家の再興のため尽力。結局のところ、毛利元就には敵わず殺害されてしまう悲運な人物。だが、その尼子氏に対する忠義や智勇は、後世に伝えられるほどの優れた持ち主で、「山陰の麒麟児」とも呼ばれ、戦国ファン?なら人気のある武将の一人と数えられている。
鹿之助に関しては、生誕地の島根県安来市、島根県松江市の松江城や鳥取県米子市の弓ヶ浜半島、尼高城、鳥取市の鳥取城、若桜の鬼ヶ城、兵庫県佐用郡の上月城、岡山県高梁市の備中松山城、広島県福山市の鞆の浦等々…ゆかりの地を訪れたことが思い出され、今にして思えば、いろいろ巡ったものだと振り返る。
鹿野町の名称は「鹿之助」からきているのか?(違います…)と思えてしまうほど、鹿野町に訪れることができ、感謝を込め、お墓の前でお参りするのでした~

また2、鳥取の旅(3) - モリゾーのひとり言

2024/01/31 (Wed) 21:13:40

最近、久しぶりの「信長の野望」にハマり、戦国武将の情報を得ては、意外と勉強になる。ゲームですから、今川氏が関東圏を制圧してたり、信長を家臣にしたりと、ありえない状況で進行していくのは痛快で、オモロイ。しかし、なんで本願寺家がこんなに強いのか、と、思いながら、今日も楽しんでおりますです。
さて、鳥取の旅も3日目。今回は鳥取の北東に当たる地域を中心に紹介~

御湯神社 - モリゾーのひとり言

2024/01/31 (Wed) 21:14:39

3日目は鳥取市より北東の地区、岩美町へ。リアス式の浦富海岸を始め、岩井温泉の保養地、かきつばた群落のある唐川湿地などが観光地として有名であるが、今回はまず、岩井温泉の地へ向かう。鳥取バスターミナルから1時間ほど、御湯神社入口バス停で下車し、北へ数分のところにある御湯神社へ。
御湯神社は平安時代初期、皮膚病を患っていた藤原冬久がこの地を訪れ、巫女の教えに従って御井のお湯に浸すとたちまち病が癒え、それ以来、御井神(みいのかみ)を祀り、社を創建した、岩井温泉の守り神として尊崇されてきた由来がある。藤原冬久は、藤原冬嗣の子孫という伝承があるが、詳しくは分からない。ある異説では、京にて、長男を退けて次男の冬久を立てようとした母に、それでは道義に反するとして、狂人を装って家を出て、流浪の旅に出た先が、ここ岩井の地であったという。なんにせよ、この地には冬久の故郷、京都の宇治にちなんで「宇治」という地区が温泉街と蒲生川を挟んだ対岸にあり、庶民から「宇治長者」と呼ばれ、温泉の評判が清和天皇の耳に聞くところとなり、冬久に材木と土地を下賜、これによって冬久の子孫が代々、温泉の経営に当たったというから、その功績は計り知れないものがある。
そんな岩井温泉は1300年の歴史があるとされ、「湯かむり」という独特の入浴方法が伝わる。頭に手ぬぐいを乗せ、柄杓でポカポカと湯を叩きながら汲んでは頭に被る。そんな風習が江戸時代末期から始まったとされ、少しでも長く湯に浸かり、温泉の効能にあやかるためと云われている。
…で、結局のところ、時間の都合上、温泉は次の機会に…ということで、そのルーツである御湯神社を訪れるだけにする。
参道途中には、かつて岩井小学校があったとされる敷地が石碑と共に空しく広がり、寂しくイチョウの木が揺らめいている。その脇を通り、石段を上り、境内にたどり着き、さっそく拝殿でお参り。こちらでも「麒麟獅子舞」の例祭が伝わるというから、池田光仲公の精神が浸透していて、温泉街を練り歩くのだろうかと想像する。
御祭神は先ほども述べた御井神(みいのかみ)、つまり大国主命と八上比売命の間に生まれた御子のことで、父母含めた3柱が“家族経営”で祀られている。
境内から眺める雄大な山々には、うっすら雪化粧の光景が望め、冬久さんもこんな遠い地まで来て、同じ景色を見ていたのであろうかと、参道石段の途中にある宮司さん宅で御朱印を拝受し、次へ。

網代神社 - モリゾーのひとり言

2024/01/31 (Wed) 21:16:17

蒲生川を渡り、バス停まで岩井温泉街を歩くと、良い意味で、寂れた一昔前の昭和を想起させるような町並みで、岩井の土地柄に触れる。
岩井温泉バス停からJR鳥取駅行きのバスに揺られ、島めぐり遊覧バス停まで移動。こちらでは浦富海岸を巡る「島めぐりツアー」があり、その日の海の状態によって欠航もあるが、この日はネットの情報では「運航可」になっていて、訪れた次第。
鳥取にも沿岸部を巡るツアーがあるとは知らず、どうしても砂丘のイメージが強いが、浦富海岸の岩礁や“岩美ブルー”と呼ばれる海の色彩が見られ、特に夏の季節に観光客が多いとのこと。
さっそく遊覧船のりば受付へ行くと、次の出発時間は1時間後。それまでどうしたものか…ネット検索し、歩いて15分ほどで行ける網代神社を発見し、行ってみることに。漁港が見える橋を渡り、ナビ通りボートなどが停泊している港沿いを歩き、途中、野良猫の視線を浴びながら「網代隧道」と呼ばれるトンネルを潜り、網代港に到着。その港から東に聳える山々の谷に位置する網代神社は、いかにも港町の神社といった感じを醸し出し、鳥居横の宮司宅も漁師町っぽい風情が漂う。
長い石段を上がり、てっぺんの境内にはシンプルに拝殿が建ち、お参り。振り返れば網代港の平和な景色が広がり、来て良かったとしばらく眺める。
網代神社の御祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)つまり、応神天皇。社伝には石見国西川浜田(現在の島根県浜田市)の住民が日比屋(現、北の地にある岩本)に漂着し、その郷土の氏神であった八幡宮を勧請し、後に網代谷に移住するとともに当社も現在地に移遷されたとある。古くより「正八幡宮」と称していたが、明治に入り、網代神社と改称され、「正八幡宮」と聞いて、岡山だったか島根だったか、同じ名前の神社を訪れたことがあるような…何かのつながりがあるのだろうかと勝手に想像してしまう。
高台からの眺望を楽しみ、鳥居横の宮司宅を訪ねるも留守のようで、御朱印は諦め、遊覧船のりばに戻る。

浦富海岸島めぐり - モリゾーのひとり言

2024/01/31 (Wed) 21:17:52

受付の係の方に「船酔いされやすいですか?」と質問され、今まで乗り物酔いはないので「いいえ」と応えチケットを購入。時間となり、いよいよ遊覧船に乗船する。
乗客は10人ほどで、エンジン音が響くとカモメが船に寄ってきて、餌を求めているのだろう、これも演出という点でカモメを撮りまくる。開放感あふれる船尾に座り、船は出発。水しぶきを上げながら港を離れていき、ガイドのアナウンスが流れ、まずは鳥取砂丘が遠くに見えるポイントからスタート。船は上下に揺れながら北東の岩礁地帯の海岸沿いに移動し、岩礁の説明をしていく。
今日の波の高さは少し荒れているようで、それが返ってスリルというか、“アトラクション”を楽しみ、受付で体調面を聞いてきたことが今になって「そうだったのか…」と思い出しながらも、そんなことは忘れてしまい、雄大な自然の切り立った岩礁を望む。所々で揺れが大きくなり、撮影するにもタイミングよくシャッターを押すのが難しく、それも楽しいと、鳥取にこんな観光地があったなんて感動する。
今日の天候は曇り空だったので、“岩美ブルー”と言われるエメラルドグリーンっぽい色は拝めなかったが、晴れた日は透き通った色をした海が広がるようなので、またいつか乗船したいと願いつつ、約1時間のクルージング…「観光してるなぁ~」という実感を楽しむのでありました~

イカ墨バーガーと岩美ブルーサイダー - モリゾーのひとり言

2024/01/31 (Wed) 21:18:45

ツアー後、バスの時間まで余裕があるので、お隣の施設にある食事処で昼食。ハンバーガーを売りにしている軽食屋?さんで、受付でのメニュー表を見ているとインパクトのあるバーガーを発見。“イカ墨バーガー”なるものに魅かれ、店員さんに聞いてみる。
「この黒いのは…」
「イカ墨を練り込んだ黒いバンズに、中身はホタルイカをフライにしたものを挟んだバーガーですよ」と。
「なるほど(そうだよね…)」
これはご当地グルメにちがいないと、ポテトと“岩美サイダー”なる、これまたブルーハワイっぽい色をしたサイダーとセットでお願いする。
店内は海外の海沿いのオシャレなカフェをイメージしたような造りで、居心地が良く、“らしい”雰囲気の中、呼び出しベルが鳴り、セルフで取りにいく。
さっそく席に着き“黒いハンバーガー”を実食。
「なるほど…こうきたか…」
初めて食べる味なので、どう表現したらいいか分からないが、美味いことは美味しい。イカイカした?感じはなく?思っていたほど塩辛くもなく、そんでもホタルイカの風味は鼻に抜け美味い。中身は他にもキャベツ、レタス、砂丘らっきょうを使用したタルタルソースもアクセントになっていてグッド。岩美サイダーも合い、一気にごちそうさま~
食後の至福の時間…何気なく岩美サイダーの製造元が気になり、瓶のラベルを見ると「〇〇県!?(見ない方がよかったかも…)」
まさかの県外に驚いたが、こういうことはよくある?ことで、気にせず…ご当地食材を堪能するのでありました~

円護寺 - モリゾーのひとり言

2024/01/31 (Wed) 21:19:42

お腹を満たし、島めぐり遊覧船バス停からJR鳥取駅行きのバスに乗り、渡辺美術館バス停で途中下車し、北園ニュータウン行きのバスに乗りかえて、円護寺前バス停で下車。住宅街の坂道を上がり、入り組んだ道の狭い小路を歩くと円護寺がある。
円護寺は、摩尼寺でも述べたが、長者夫婦が子授けにこちらの大日如来さまを拝んだことで娘を授かった話が思い出されるが、それ以外にもこの辺りは古代遺跡群や、吉川経家公の墓所があり、鳥取城跡からは北西の位置に当たる場所である。
ネットによると、天長7年(730)湖山郷の長者によって初めは「円郷寺」として建立。時代を経て、戦国時代の相次ぐ戦乱によって衰退したが、天禄8年(1695)に観音堂を再建し、今の名称に改称した沿革。本尊は十一面観音。長者夫婦が願掛けした大日如来じゃないの?と思いながらも、戦乱の世で焼失したり、阿弥陀如来や薬師如来の仏像も安置しているというから、時代の流れによって本尊が十一面観音さまに変わったのだろう。
石段を上がると山門があり、山門の柱の中に、なぜか狛犬のような?小さな“お姿”が鎮座していて珍しい。境内は狭い敷地に、観音堂、奥に瘡守稲荷の社が並び、石造の観音さまがお出迎え。両神仏にお参りし、帝釈天誕生のきっかけとなった円護寺を訪れ、境内から久松山を望む。そういえば、ネットの表記には「えんごじ」と書いてあったが、バスのアナウンスは「えんごうじ」と発音していたのが気になったが…昔の呼称で読むのだろうかと、休憩がてら、しばらくぼーっとするのでありました~

吉川経家公墓所 - モリゾーのひとり言

2024/01/31 (Wed) 21:20:35

円護寺から10分ほど東へ歩くと吉川公園があり、ここに、吉川経家公のお墓がある。
吉川経家公といえば、有名な「鳥取城渇殺し」。
天正9年(1581)、織田信長の中国征伐軍の総大将、羽柴秀吉が因幡地方への攻略を展開。その際、鳥取城主の山名豊国は降伏しようとしたが、家臣の頑強な抵抗に遭い、家臣は城主を追放。吉川元春に頼み、文武両道に長けた吉川一門中の名将を派遣してもらうよう、来たのが吉川経家公であった。客将として迎えた鳥取城に、秀吉は2万人の兵によって城を包囲し、食料や物資の輸送を遮断し、いわゆる「兵糧攻め」を開始。その間4ヶ月。城内に草木や獣類、死体の肉も食い尽くすほどの凄惨な飢えに、経家公は、自らの命と引き換えに城兵の命を助けるようにと、ついに降伏し開城。秀吉は一人で責任を負おうとした経家公の“義”に感動し、浅野長政を使いに出して酒肴を贈り、籠城戦の労をねぎらったという。ただし、城主を追い出してまで戦に持ち込んだ家臣たちは“許すまじ”と切腹を命じたという。
そんな立派な吉川経家公は、鳥取県民にとってはヒーロー的な存在なのだろうかと、公園内にある墓所でお参り。誰もいない静かすぎる公園でひっそりと佇み、近くにある大樹が経家の大きさを表しているかのように生えていて、何気なしに見上げるのでありました~

砂の美術館(1) - モリゾーのひとり言

2024/01/31 (Wed) 21:21:30

吉川公園バス停から渡辺美術館バス停に戻り、岩美岩井線行きのバスに乗り換えて砂丘東口バス停で下車。鳥取砂丘入口の交差点を北へ砂の美術館へ向かう。
今回の旅で鳥取砂丘へ行きたかったが、時間の都合上行かずに砂の美術館だけでも行っておかないとと思い、入館。さすが人気の美術館。入館者は多く、鳥取の砂丘を体験してからこちらに来る人もいるだろう、サンドアートを堪能しに向かうと、「第14期エジプト編」と題している。受付でパンフレットをもらい、これまでに世界各地をテーマにして作品を制作展示しているようで、1年から2年周期で展示物を変えている。
…で、今回はエジプト編。ルクソー神殿から始まり、右回りで順番に見ていく。カイロのバザール、古代エジプトの生活などなど…すばらしい作品が続き、奥へ行くと、メインのツタンカーメン王の墓の発掘、ピラミッドとスフィンクス…と見応え十分。
パンフレットによると、制作方法は砂と水だけ。のり等の凝固剤は一切使用せず、圧縮して砂の塊を彫刻する。鳥取の砂は細かいパウダー状の砂で、砂の粒子がよくかみ合うことから、崩れるリスクの高い造形に耐えられる性質らしく、その上、砂像彫刻家の経験とテクニックがあるからこその造形が完成すると。砂像彫刻家は世界11カ国20名で作品を制作。世界規模でこの美術館は成り立っていると思うと、来て良かったと。
終盤はクレオパトラ、ロゼッタストーン…とお腹いっぱい。
2階にある展示室から3階へ移動し、全体を俯瞰して観賞。おみやげコーナーを見て回り、外の展望台へ。

砂の美術館(2) - モリゾーのひとり言

2024/01/31 (Wed) 21:22:24

展望台へ向かう途中にもサンドアートが展示されていて、飽きないように工夫されている。鳥取砂丘が一望できる展望台に行くと、観光地ではおなじみ?の“平和の鐘”が設置してあり、カップルがちょこちょこ鳴らし響く中、夕景の砂丘がお目見え。
一眼カメラを持ってきているので、遠くの砂丘に歩く人の姿も見え、よく見るとパラグライダー?をしている人がいて、たぶん許可を取っているのだろうが、風に乗って浮遊していて、そんな姿を撮りまくる。
最近のニュースで、鳥取砂丘に外来植物の影響で雑草が生え、草原化している話を耳にしたが、すべて、人の手によって草刈りをしないといけないらしく、観光客が呑気に楽しんでいる裏では、非常事態が発生しているなんて知る由もないだろうが、そんなことをふと思い出しながら、段々空の模様が暮れてきて、本日の日の入りは17:00ごろ、閉館時間も同時刻なので、夕陽が沈む写真を撮るためギリギリまで粘る。
今日は、雲がそこそこ現れているのでどうだろうかと、この砂丘と空と海の景観があるだけでもまぁ~いいかと半分諦めで、本日のシメを、夕陽と付き合うことにしました~

また2、鳥取の旅(2) - モリゾーのひとり言

2024/01/29 (Mon) 11:14:39

2月になると、待ちに待った京都の節分祭り“鬼法楽”の季節。今年はどこに行こうかと計画を練っていますが、なんせ今年は2月3日が土曜日。相当の人出が予想されるので、どうしたものかと…
で、鳥取の旅はまだまだ続きます。2日目は鳥取の南東部を中心に紹介~

若桜神社 - モリゾーのひとり言

2024/01/29 (Mon) 11:15:28

2日目は鳥取市から南東に位置する若桜町へ。兵庫県や岡山県境に近い若桜町は、ネットによると、その93%が山林で、人口約4千人の町。平安時代に作成された「和名類聚抄(わみょうるいじょしょう)」によると、「若桜郷」という記述があり、名称は履中天皇の御代(5世紀前半)、「伊波札若桜官」に奉仕した「若桜部」にちなむという。
「若桜部」は、平安時代の天皇の直属の、天皇を支える集団で、その「若桜部」がこの地に移住したことから定着したとされている。
そんな歴史的背景のある若桜町へは、JR郡家(ごうけ)駅から若桜鉄道が通っていて、レトロ感満載の車両、時にはSLの車両も走行するローカル鉄道がある。町は観光客誘致に、昨今の鉄道ファンを巻き込んでの“推し”なのだろう、HPで紹介されていて、事前の情報を元に鉄道で…と思ったが、時間の都合上、鳥取駅バスターミナルから若桜町へのバスがあるので、それを利用。八頭若桜線のバスで1時間ほど、若桜駅前バス停に到着し、レトロの町並みを見ては歩いて若桜神社へ。
本日は一日雨の予報だが、鳥居前にたどり着くと、一時の晴れ間が射し、付近のモミジが見頃を迎えていて撮影タイム。やはり、山間の地域は気候的に寒いので、モミジの色合いが進み、早く彩るのだろうと、川沿いに連なるモミジを愛でる。参道を歩いていると、地元の人に声を掛けられ、「どちらから?」の問いに「名古屋からです」と応えると、
「え~、そんな遠い所からよく来ましたね~」と驚かれ、鳥取でもこの地域に来る人は珍しいんだとか。
この後、歩いて1時間ほどの江嶋神社へ行くことを告げると、「え~」とさらに驚かれ、労をねぎらって下さり、いろいろと談笑し、感謝×2で情報を教えてもらう。
別れを告げ、さっそく境内の木々生い茂る石段参道を上がり、徐々に息が白くなるほどの肌寒さとなり、神門を抜け、広い敷地に建つ拝殿に到着。
若桜神社は、当社から東南に位置する若桜鬼ヶ城の初代城主、矢部氏が創建。江戸時代には鳥取藩主の池田氏の庇護を受け、古くから松上大明神として信仰を集めている。御祭神は国常立命。他に14柱も合祀されており、境内は鎮守の森なる原生林で形成されていて、県の天然記念物の指定を受けている。なので、たどり着いた時の、空気の新鮮なことよ…雨が降っているせいなのか、原生林の息吹というか、静寂でありつつ”森の声“が聞こえる。
広い境内には苔の生えた地面、しっとりとした空気感、さらに石垣を築いてある“祭壇”に拝殿が建ち、拝殿前には4本の杉の大木が均等に生え、神々しさが漂う中でお参り。
境内を散策し、神楽殿を見、こちらの神社でも、湯所神社で紹介した「麒麟獅子舞」の例大祭が行われるということなので、赤い衣装を身に纏って舞を披露するのだろうと想像し、そういえば、内田康夫原作の「鳥取雛送り殺人事件」のロケ地として、浅見光彦もここを訪れたと知ったが、物語の世界では「麒麟獅子舞」のシーンはあっただろうかと、ふと耽る。
久しぶりに、サウナでいう…“整う”感じを味わい次へ。

若桜弁天宮・江嶋神社 - モリゾーのひとり言

2024/01/29 (Mon) 11:16:17

若桜神社からさらに南へ山の中を歩いて行くと、鬼ヶ城跡と江嶋神社へ向かう道標に差し掛かり、案内看板のてっぺんには可愛らしい鬼のオブジェがしがみつき、ようこそと迎えてくれている。
1時間ほど、昼間でも薄暗い山林の道を上がり、ようやくたどり着いた駐車場からさらに鳥居の先、山道が続く。参道脇には渓流が流れ、雨が降っているので水量が多く、勢いよく流れる光景に少し荒々しさを感じながらも、苔生えた参道も滑りやすいので、神経を使いながら、時には、今にも落ちそうな奇岩や巨木を見上げては、社域の雰囲気を味わう。ようやくたどり着いた拝殿本殿を前に「やったー」と思わず気持ちは跳ね、さっそくお参り。
若桜弁天宮・江嶋神社は伝承によると、文治年間(1183~1189)、平家一族の小松備中守平師盛卿がこの地に落ち延び、平家の氏神である厳島神社の御祭神、市杵嶋姫命いわゆる弁財天を勧請したのが始まりとされている。元々は、大岩(弁財天)が御神体として祀られていて、本殿背後に苔の生えた大岩が鎮座していて、古代では祭祀場として、自然崇拝していたのではないかと考えられている。明治の神仏分離令による廃仏毀釈運動から信仰も薄れたが、大正5年(1916)に三倉池ノ谷村の池谷神社と、足谷村の虎石神社を合祀して江嶋神社に社号を改め再興を果たしたとされている。
そんな風致に富んだ境内は、大岩からさらに上に登ると小さな祠があり、こちらが弁財天の奥宮?といったところか…こちらにもお参り。
多鯰ヶ池弁天宮でも説明したが、弁財天=ヘビの使いが絡み、当社では昔、白蛇、金色蛇、金色カエル(?)などが実際に出現したとも云われ、「なるほど…この山の中だったら、生息していても不思議ではないか…」と、霊験あらたかな山中の雰囲気を肌で感じ、しっとりとした境内をしばらく佇む。
境内を散策し、そういえばお参りの際に、若桜神社社務所が留守だったので、「どうかいらっしゃいますように…」と少しお願いしていたことを思い出し、山中では電話が通じなかったので、麓に降りて念のため電話してみる。すると宮司さんと連絡でき、その後、両神社の御朱印を拝受。いろいろと談笑し、宮司さんにも弁財天にも感謝申し上げるのでありました~

宇部神社 - モリゾーのひとり言

2024/01/29 (Mon) 11:17:08

若桜駅前バス停に戻り、鳥取駅行きのバスに乗り、内吉方バス停で途中下車。岩美線のバスに乗り換え、宮ノ下バス停で下車する。ここは国府町。鳥取市内でいう東側に位置し、因幡国庁があった地域。門前町の参道を北へ歩くと、「宇部神社」の石碑周りには、もうすぐ色づきそうなモミジが生えていて絵になる。
鳥居を潜った参道は左に折れる形で、石段が“天”へと続き、山林が生い茂る薄暗い雰囲気。境内にたどり着くと、あれほど降っていた雨がいつのまにか晴れ間が射し、より社地が広く見え、拝殿の破風に施された装飾が金色に輝いていて眩しい。
宇部神社は、大化4(648)に孝徳天皇の創建と伝えられていて、平安時代より県下一之宮として信仰されてきている。御祭神は武内宿禰命。景行天皇より、成務、仲哀、応神、仁徳天皇の5朝に仕え、わが国で最初の「大臣」の称を賜った人物。360歳?まで生きたという伝説から長寿の神として崇められ、かつては、当社の社殿と、武内宿禰命の顔の図柄が載った日本銀行が発行した1円、5円紙幣があり、お金にご縁があるということで、商売繁盛の神様としてもご利益がある。
拝殿でお参り。境内を散策すると、ちょっとした庭園には池に鯉が泳ぎ、この水が「七宝水」という稲葉山の中腹から湧き出る清水であるらしい。身体を美しく整える7つの恵みがあるとして古くから病気平癒に、地元ではよく飲水されているんだとか。そしてこちらでも「麒麟獅子舞」の奉納神事が行われているそうで、鳥取では各町で例祭の日には、舞を見ることができるようだ。
社務所で御朱印を拝受し、鳥取の一之宮に訪れることができて感謝×2。

池田家墓所 - モリゾーのひとり言

2024/01/29 (Mon) 11:22:19

宇部神社から歩いて数分、坂道を上がると池田家墓所がある。紅葉の名所で有名という情報を元に訪れたが、この日、訪れた11月中旬でも、今年は暖かい気候に伴い、まだ、紅葉の進み具合は全然で、目算が外れた感じ。そんでも、鳥取藩池田家の、歴代の藩主が眠ってらっしゃるので、“ご挨拶”のためにお参りに。
整備された駐車場から入口を目指し門にたどり着くと、池田家の家紋の垂れ幕が厳かな雰囲気を醸し出し、こちらも厳粛な気持ちで失礼する。
池田家墓所は、初代鳥取藩主の池田光仲公が逝去し、奥谷というこの地に埋葬されたことが始まり。光仲公は江戸の岡山藩邸で生まれ、父は岡山藩主の池田忠雄、祖母は徳川家康の娘、督姫で、光仲公は家康のひ孫にあたる。3歳の時に父が病死し、幼くして藩主となり、8歳になると元服の儀式は、三代の徳川将軍家光の前で行われ、将軍の「光」の一文字を授かり、「光仲」と命名せよと賜る。国替えにより、岡山藩主から鳥取藩主となり、18歳で鳥取城に入るが、鳥取城では15年間、藩主は不在で、荒尾氏をはじめとする家老たちが藩の政治を取り仕切っていた。そのため、政(まつりごと)に口を挟む隙がなく、光仲公は鳥取東照宮創建を機に、政治の権威を取り戻すことになる。自然を愛し、市中の子供たちを集めて川魚採りや相撲大会などを行い、特に武芸を好んだ光仲公は、先に述べた剣豪らを取り立てたりと、体力づくりを推進した。
それと同時に精神面から、中国の明国から僧侶を招いて学問を活かし、王が「仁」(慈しみと思いやりの心が大切だという教え)の政治を行うときに「麒麟」が現れる故事にちなみ、「仁」の教えを忘れないようにと「麒麟獅子舞」を作り、いくつかの神社で御幸祭が行われるようになった話は先にも述べたが、そんな初代光仲公より11代までのお墓がずらりと各所に並び、敷地内は広い。
2代綱清公を除くお墓には、亀の背に墓標を乗せた「亀趺円頭」という形式が取られ、この亀にはあるはずのない耳があり、これは中国から伝えられた神獣で、身分の高い人にしか使用されないんだとか。そんな立派な各墓所には昔、廟門を建っていたというから、お金をかけて管理していたことが分かる。
墓所を巡り、雨が降って来たので休憩所へ移動し、壁には秋の景色を捉えた写真が飾られていて、毎年、写真コンテストも行われているよう。真っ赤に彩られた時に訪れたかった後悔を忘れるように、モミジの写真をしばらく観賞するのでありました~

大雲院 - モリゾーのひとり言

2024/01/29 (Mon) 11:23:33

宮ノ下バス停から鳥取駅方面のバスに乗り、立川大橋バス停で下車。北へ数分歩くと大雲院がある。中国33観音霊場の第33番札所で、本当は結願で訪れる札所であるが、遠方からの訪れは時間に余裕がないので、そこは“悪しからず”と、さっそく駐車場のような敷地から失礼する。
草花が生える庭の奥が庫裏だろうか、その隣に本堂が建ち、まずは拝観のための受付を済ませる。本堂に案内され中に入ると、ストーブがごうごうと稼働していて堂内は暖かい。今日は一日、雨や雹(ひょう)が降った厳しい気温だったので、この暖かさはありがたく、ホッと胸をなでおろす。
堂内は中央に丈六阿弥陀三尊、その周りを囲むように西国33観音霊場の観音さまがズラリと並び、足元を見ると、お砂踏みも自然とできるように配置されていて、1つ1つお参りをしては、訪れたお寺の風景を思い浮かべる。
大雲院は鳥取藩主池田光仲公が19歳の時、鳥取に東照宮を勧請し、その祭礼を司る別当寺として建立された。当初は東隆寺淳光院と称し、徳川将軍の位牌安置所・藩主の祈願所としての役割をもっていて、かつては門坊4カ寺を有する大寺院であったとされている。その後、明治の神仏分離令によって現在の地に移り、鳥取大地震によって諸堂を失い、仏像や古文書なども失われたという。
そんな小規模になってしまった当寺の寺宝の中には、元三慈恵大師を本尊とする元三大師堂や徳川3代家光公から13代家定公の位牌、歴代藩主の位牌を安置する御霊屋があり、本堂から廊下を渡り、順番に拝観。
元三大師堂は樗谿の地にあったのを当地に移転したもので、唯一の“名残建造物”。厄除けに御利益のある元三大師に手を合わせ、次はお隣の御霊屋へ。薄暗い中の内陣正面に多宝塔を安置し、その左右に徳川将軍7基の位牌と鳥取歴代藩主の位牌が並び、歴史の重厚さを肌に感じる。
拝観を終え、中国33観音霊場の御朱印を拝受し、お寺の方と少し談笑。暖かくなったり寒くなったりと、今年の気候変動に憂い、体調管理に気遣って下さり感謝×2でお礼を述べ、後にする。

観音院 - モリゾーのひとり言

2024/01/29 (Mon) 11:24:35

大雲院から立川町の小路を北へ歩き観音院へ。こちらも中国33観音霊場の32番札所で、立派な庭園があることで有名。モミジが色づく季節が11月中旬だろうと予測したにもかかわらず、今年は寒さが訪れず、池田家墓所での青モミジを見ているので、こちらの庭園でもまだ色づきは赤くはないだろうと思いながら、滞在期間の最終日に訪れたとしても紅葉にはなっていないなら、諦めて庭園を眺めようと山門を潜る。
山門から続く坂道を上がり境内に失礼すると、生えているモミジがもう少しで色づき始めている頃で、もう一週間後だったか…と、庫裏の受付で拝観をお願いし中へ。さっそく書院へと案内され、いきなりの庭園の景観に「おぉー」と息が漏れる。
池泉式庭園は説明によると、書院の正面に池を採り、対岸は山の斜面を利用した築山、中央には低い滝の石組み、池の左手には長円形の低い島を浮かべ、亀に模した石を配し、右手に出島として石を組んであるのが鶴島としている。築山にはツツジなどの低木、その左右奥にはモミジが植えられていて、やはり赤くは染まっていないのが残念だが、いつの間にか運ばれてきた抹茶や茶菓子のお接待を受け、ゆっくりと時を過ごす。
観音院は宣伝法印という人物が開基。始めは栗谷の地(後に紹介…栗渓神社辺り)に寺地を与えられ、雲京山観音院として建立。寛永16年(1639)に現在の地に移り、東照宮別当寺淳光院(大雲院)が建立された慶安3年(1650)頃までには諸堂も完成し、庭園もこの事業の一部として作成されたとされている。石灯籠などの人工物はなく、飾らない庭園は“自然”を意識した造りとなっていて、いつまでも見飽きないほどに眺めてしまう。
モミジが見頃の時に来たかったが、まぁ~、“これはこれ”で庭園の美しさを観賞し、御朱印も拝受。癒されるのでありました~

芳心寺 - モリゾーのひとり言

2024/01/29 (Mon) 11:25:34

観音院から樗谿公園、そして馬場町へ足を運ぶ。本日最後は、日蓮宗大寶山芳心寺。
山門から長い坂道、そして石段を上がると、境内は正面に本堂、右手に日蓮さんのお骨が安置されている御真骨堂、鐘楼、庫裏と配置され、清潔感漂う雰囲気。
芳心寺は天文13年(1544)京都妙顕寺の僧、日廣上人の開基にして備前岡山の庭瀬口に池田家の祈願所として正福寺を創建したのが始まり。池田光仲公が3歳の時に、鳥取へと国替えになり当地に移転。正徳3年(1713)、光仲公夫人の法号、芳心院殿妙〇〇春大姉(忘れた…)にちなみ、芳心寺と改称する。
光仲公夫人の芳心院殿は、徳川御三家の紀州、松平頼宣の二女(茶々姫)にして、あの水戸黄門の光圀公とはいとこ。夫人は法華経の篤い信者で、ちなみに母は加藤清正の二女の長女。父頼宣の母は徳川家康の側室、お万の方にあたる。このお万の方も日蓮宗信者で、日蓮さんの御真骨を一部、分与され、その孫にあたる芳心院殿に授与され、当寺に奉納された経緯がある。
その御真骨が眠ってらっしゃるお堂でお参り。長い歴史を連綿と引き継いで、当寺に安置され、これからも見守られ続けていく…御真骨の偉大なる力に頭が下がり、ある意味、宗教とは恐ろしいものだと感じる。
庫裏で御主題をお願いし、待っている間、西陽が境内を染め、今日一日雨であったが、最後に晴れ間が差し、心洗われるかのように光を浴びるのでありました~

また2、鳥取の旅(1) - モリゾーのひとり言

2024/01/18 (Thu) 15:23:11

最近、健康診断の結果に、視力1.5がついに0.9にまで落ちてしまったことにショックを受け、まぁ~歳のせいだろうと思ってはいるものの、なんとなく認めたくないもので、やはりスマホの画面だろうか…と、その影響は少なからずあるな…と。
やはり、遠くの景色を眺めるという点では、旅は“視力回復の薬”なので、やめるわけにはいかないな…と、勝手に思う日々をすごしておりますです。
…てなわけ?で、11月中旬に行った4泊5日の鳥取の旅~

聖神社 - モリゾーのひとり言

2024/01/18 (Thu) 15:24:06

前回同様に、お世話になる駅近のホテルに荷物を預け、鳥取バスターミナルから市内循環している100円バスで、行徳公園入口バス停へ。ここは鳥取駅から北西1kmちょっとの千代川の東側に当たる「行徳」地区という場所。集落の中の参道を歩くと鳥居が見えてきて、境内は大木の木々があちこちに生えていて、地元の神社といった感じ。
聖神社の創建年代は不詳であるが、現在の本殿は宝永7年(1710)に再建されたものらしい。地元の「因幡志」には「祭神は二座、吾勝尊(あかつのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」とあることから、当初は2柱祀られていて、「吾勝尊」が「聖(日知り)の神」として信仰されたところから「聖大明神」「聖神社」と命名されたのではないかと云われている。明治に入り、恵比須社を合祀し、今では事代主神を加えて3柱他祀られている。
拝殿では七五三詣での家族連れが祈祷をしていて、静かにお参り。ぐるりと本殿を一周し、11月なのにまだ色づいていないイチョウの木を見上げ、「秋は来るのだろうか…」と、昨今の夏日に、これはいよいよ異常気象と嘆く。
境内を散策後、社務所へ行くと、書置きの御朱印があり拝受。宮司さんは七五三詣での対応に忙しそうなので、話を聞きたかったが諦めて次へ。

常忍寺 - モリゾーのひとり言

2024/01/18 (Thu) 15:24:53

聖神社から北へ移動。細い路地を歩き、目の前に現れた寺域に清潔感が漂う。山門前の松の木を愛で、境内へ失礼すると、松のちょっとした庭の先、参道が本堂へと続いていて、左手には宰師堂?に回廊、かつて本堂の建物に使用されたであろう主棟鬼瓦が置いてあり、右手は庫裏、本堂手前には日常上人の銅像が配置されている。
こちらの寺、常忍寺は日蓮宗のお寺。創建は寛保2年(1742)、お万の方(徳川家康の側室、養珠院)の発願により開山。お万の方は日蓮宗に篤く帰依したこともあり、日常上人の誕生地である当地に創建を望んだが、生きている間は許されず、さらに孫である芳心院(茶々姫)が鳥取藩主池田光仲公の正室となり、創建に尽力したものの叶わず、陽の目を見たのは、鳥取藩の許可を得て約100年後のことだったらしい。
日常上人(富木常忍)は鳥取市生まれ。父の代に下総(千葉)に移住し、下総の豪族になっている。若いころから日蓮を支援し、日蓮が佐渡に流された時も物心両面から支援したという。日蓮さんが亡くなると出家して「日常」とし、千葉県には今も日常が開創した法華経寺がある。(ネット参照)
そんな日常さんを偲ぶかのような銅像に手を合わせ、本堂でもお参り。庫裏で御主題をお願いし、感謝申しあげるのでありました~

玄忠寺(1) - モリゾーのひとり言

2024/01/18 (Thu) 15:25:39

常忍寺からさらに北へ、用水路のような川沿いを歩き玄忠寺に到着。ここ玄忠寺には、荒木又右衛門のお墓がある。「伊賀の旅」ではちょこちょこ名前を挙げていた人物だが、いわゆる、あの“仇討ち”である。最初は、地図上に表示された名称の発見が訪れるきっかけだが、「なぜ鳥取に?」という疑問が湧き、どうやら話は”仇討ち“後のことらしい。お寺も、又右衛門に関する記念館を併設していて、”又右衛門推し“を前面に、庭園やふすま絵の拝観ができるお寺となっている。
山門から失礼し、いきなり左手の石畳先には立派な又右衛門のお墓があり、玉垣や灯篭で囲まれ整備されている。荒木又右衛門は伊賀服部郷荒木村の出身で、奈良大和郡山藩の剣術指南役として、その剣豪ぶりは、身長180cmはあったというから豪胆?であったとか。
「荒木」という姓は本名ではなく服部丑之助という。荒木村から一山超えた所に服部半蔵一門の集落があり、荒木もその系統に属すが、大柄な体格であったため忍者の道を諦め、剣術の道を志したとされている。
そんな彼に手を合わせ向かいの記念館に入る。

玄忠寺(2) - モリゾーのひとり言

2024/01/18 (Thu) 15:26:25

記念館に入ると、案内の方が展示物を1つ1つ説明して下さり、分かりやすい。伊賀上野の仇討ちの話から始まり、仇討ち時に身に着けていた銅鉄製の鎖帷子、剣難除けのお守り、決闘で実際に使用し折れた大刀と差添え、鉄扇、柳生新陰流に入門した際に描いた起請文、歌舞伎や映画、漫画などの展示物を見学。
…で、仇討ちのその後の又右衛門はどうなったか。仇討ちを果たした後、決闘の地を統治していた藤堂藩、荒木が在籍していた大和郡山藩、そして仇討ちの発端となった岡山藩(国替えの為、仇討ち後は鳥取藩)の3藩が、又右衛門の身柄引き受けをかけて、“スカウト合戦”が行われていたよう。そりゃ~、うちの藩に来たら、その名声は知れ渡ることまちがいなし…今でいう大谷翔平のごとく「来て~」というラブコールがすごかったとか。そして最終的に鳥取藩に。ところが、鳥取に到着した2週間後に謎の死を遂げ、享年40歳、この地に祀られた…という。
「なるほど…それでこの地にお墓があるのか…」と、案内の方の説明で分かり、荒木氏の活躍を称え、改めて人となりを知ることができて満足×2。次は本堂へ。

玄忠寺(3) - モリゾーのひとり言

2024/01/18 (Thu) 15:27:27

庫裏から客殿に案内され、なにやら襖にユニークな絵が描かれている。墨一色で描かれた人生訓のような言葉を添えて、僧侶の絵が幾重にもあり、「羅漢ふすま絵」というらしい。描いたのは倉吉市出身の高木百拙。絵に留まらず、粘土で自由に造形した「泥仏」や、色紙などを展示。あの、棟方志功との交流もあるお方のようで、棟方志功の作品も展示している。
高木百拙はペンネームで、本名は高木啓太郎。初めは写真活動をきっかけに、大山の地蔵仏の写真集を出版し、それ以来、墨絵や水彩画、書、焼き物など幅広いジャンルに表現の場を求めていった。シベリア抑留の過酷な経験から、収容所での仲間たちの顔が浮かび、泥仏から「シベリア達磨」と呼ばれる作品もあり多岐にわたっている。
そんな百拙さんの作品を見、亀や鶴を石に模した庭園を眺め、本堂へ。本尊の阿弥陀如来や荒木又右衛門の位牌に手を合わせ、お腹いっぱいで観賞し、面白い解説をして下さった案内人に感謝×2。剣豪、荒木又右衛門が眠るお寺に訪れることができ、お礼を述べるのでありました~

景福寺(1) - モリゾーのひとり言

2024/01/18 (Thu) 15:30:57

玄忠寺からお隣の学成寺へ。境内に安置されている地蔵菩薩像に、虎の模様のマスクが着けられていて、「阪神タイガースファンだな…」と察する。御主題をお願いしに庫裏へ伺うと、住職さんが本堂へと案内して下さり、お参り。名刺サイズの大きさに“一言教訓”なる言の葉が並べられていて、有難くその言の葉を受け取り、帰り際、今年優勝した阪神タイガースについて聞いてみる。
「鳥取の方々は阪神タイガースファンが多いのですか?」
「周りには多いですよ。広島カープファンはあまり聞かないなぁ…」と。
山陰地方の野球ファンは広島ファンだとばかり思っていたが、そういうものなのかなぁ~と、こればっかりは一概には言えないが、「へぇ~」と、なんとなく鳥取は兵庫県寄りだから阪神ファンなのだろうかと、お礼を述べ次へ。
学成寺の斜め向かいにある長栄寺にも立ち寄り、御主題を拝受し、さらにお隣の景福寺へ。
こちらの境内には有名どころのお墓がある。後藤又兵衛基次一族のお墓、剣豪、羽田郷右衛門のお墓、鳥取藩城代家老、荒尾家の歴代のお墓他、鳥取藩側用人の御用絵師のお墓等々。
景福寺は荒尾家の菩提寺として元々は、兵庫県川辺郡猪名川町にあったが、姫路城下に境内を移し、荒尾家の主君、池田家が岡山、鳥取と移封されるたびに随行した経緯があり、現在もそれぞれの土地に「景福寺」があることから、曹洞宗「四景福寺」と呼ばれている。
ちなみに、後で調べて分かったことだが、姫路の「景福寺」は、地元の方に姫路城が綺麗に撮影できる所を案内してもらった場所が、この寺であったことを知り、改めて当時の旅の思い出がよみがえる。

写真は後藤又兵衛一族のお墓

景福寺(2) - モリゾーのひとり言

2024/01/18 (Thu) 15:31:52

立派な本堂前でお参り後、墓地へと移動すると、案内看板通りまずは後藤又兵衛一族のお墓へ。大坂夏の陣で討死した亡骸を、荒尾家出身の妻が当地まで運んだ時の想いは如何ばかりか…、奈良宇陀市にある「又兵衛桜」を見に行った旅を思い出し、手を合わせる。
剣豪、羽田郷右衛門のお墓はちょっと形が変わっている。太い円柱の石に、刀の鍔(つば)のような形が施されていて、剣豪らしさ?を表しているのだろうか…、その柄の部分にはハートの形の猪の目があるので、余計に「?」が浮かぶ。説明看板には、羽田郷右衛門は戦場往来の具足剣法を伝えた人物とある。鳥取藩池田光仲公に召し抱えられた時のエピソードとして、「飯粒で糊を作る技」と同じで、武士が弓馬槍刀を心得るのは当然と、「別に名乗るほどのものではない」と答えたという。
「なるほど…」藩主もその豪胆さというのか、その一筋縄ではいかない性格を読み取ったのだろうか、芯のある武士であると見抜いた光仲公もすごい。
そして、鳥取藩士や、日本で最初にアイヌ語辞典を残した画家、鳥田元旦にもお参りし、荒尾家の歴代の墓所へ。横一列に並んだ立派なお墓を前に、池田家を支えた“勇姿”?たちが夕陽に照らされて眩しく、この土地を今も守り続けているかのように佇む“姿”に一礼して、手を合わせるのでありました~

写真は羽田郷右衛門のお墓

追記 - モリゾーのひとり言

2024/01/31 (Wed) 21:31:31

なぜかわからないですが、一部のパソコンでは、写真が横になってしまう事象が発生しているようです。

御容赦を…

鳥取の旅(3) - モリゾーのひとり言

2024/01/08 (Mon) 18:36:39

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
元日からの突然の地震に航空機事故。正月早々の出来事に、今年はどうなってしまうのか…年末年始は仕事で、正月から気合は入っているつもりだが、今年はより注意深く気を引き締めて行かないといけない。
今年は辰年ということで、「龍」のように…行きたいものですが、あまり“昇天”しすぎるとロクなことがないので、控えめに。
…ということで、10月下旬に行った鳥取の旅、最終日を紹介~

賀露神社 - モリゾーのひとり言

2024/01/08 (Mon) 18:37:30

最終日。賀露港行きのバスに乗り、賀露神社前バス停で下車。ここは鳥取市街地から北西6km、一級河川、千代川の河口に位置している賀露港、いわゆる鳥取港であるが、歴史的に見ると、戦国時代には毛利氏の因幡への進出の際に使用されたり、秀吉の鳥取城攻めでも重要な拠点となった場所。さらに江戸時代には、北前船の寄港地として賑わい、海外への窓口ともなっていたところ。
そんな港町にある地元の神社。バス停からすぐの集落の中に鳥居が建ち、小高い丘を上がるように石段を登る。随神門を潜ると、広い境内には、黒松が背高くあちこちに生えていて、その中で狛犬ならぬ“狛虎”も鎮座し、出迎えてくれる。
御祭神は大山祀命、吉備真備公、猿田彦命、木花咲耶姫命、武甕追命の5柱。創建年代は不明であるが、宝亀8年(777)文武天皇御代に、伊予国から大山祀命を勧請し、当時の5ヶ村の総鎮守として奉祀、吉備真備公の神霊を当社でお祀りした等々の沿革がある。
吉備真備といえば遣唐使。唐から帰朝の際、風浪の難に遭い、賀露沖の鳥ヶ島に漂着されたという故事にちなみ、分霊を奉祀したそうだが、その時、賀露の住民たちが船で賀露の浜までお連れしお助けしたことを由来とした「ホーエンヤ祭」が鳥取県無形民俗文化財として、2年に1度、4/29の日に大祭として当社では行われている。「ホーエンヤ」とは、「奉曳(ほうえい)」の意味で、神輿や神官、獅子、武者行列などが舟に乗って千代川を下る祭りで、「ホーエンヤ」という言葉を聞くと、島根県松江市で10年に1度行われる「ホーランエンヤ祭」が思い出されるが、ひょっとしてこの名称はここから来ている?のか。ちなみに、「ホーランエンヤ祭」は松江城の中にある稲荷神社から御神霊を神輿に乗せ、阿太加夜神社へと川を船で渡る神事である。
…とまぁ~、賀露の人たちには心の拠り所として欠かせない神社で、その境内を散策し、社務所へ。御朱印をお願いしている間、ずっとニワトリたちが近くに屯していて、餌をねだっているのか人恋しく佇んでいる。それを見ながら待っている時間を持て余すのでありました~

長田神社 - モリゾーのひとり言

2024/01/08 (Mon) 18:38:25

しばらく賀露の海岸沿いを歩くと、海の幸を食せる食堂の店が並び、「カニ」の文字がやけに目立つ。冬の山陰といえば、やっぱし名物の「カニ」だろうと、まだ午前中なのでどこも開いている店はなく、仕方なくJR鳥取駅行きのバスに乗り込む。
市街地に戻り、県庁日赤前バス停で下車し北へ。鳥取県庁の西通りを進むと、鳥居が見えてきて、そこからさらに生活道路を歩くと、左手には鳥取西高校のグランドや校舎が見え、その先の長田神社に到着。ここは鳥取城跡の東側に位置し、長田神社は鳥取城の産土神として崇敬されてきている神社。
元々、鳥取城は久松山に築城された山城で、久松山の南方の山麓に奉斎していた社を、1545年、因幡国布施の城主、山名誠通が築城の際、城内鎮座の長田大明神を城外東南に奉還され、以後、鳥取城の崇敬社、城下の民への総氏神として祀られたのを機に、現在に至っている。
石段を上がり、境内池沿いに生えているモミジがうっすらと赤みを帯びていて、ここでは見頃ももうじきか…と思いながら、神橋を渡った先の石段上の神門を潜り、拝殿幣殿でお参り。
樹齢300年はあるオオケヤキに触れ、境内の雰囲気を味わい、提灯に描かれた神紋が「鯛」を開いた珍しい形になっていて、思わず微笑む。
鳥居付近の社務所まで戻ると、人の気配がなく、お守りやお札等、書置きの御朱印も置いてあり、セルフということか…1枚拝受し、鳥取の氏神さまにお礼を述べるのでありました~

樗谿(おうちだに)公園 - モリゾーのひとり言

2024/01/08 (Mon) 18:39:21

長田神社から鳥取県警察本部の裏を通り、南にある馬場町へ移動。鳥取東照宮を目指し、城下町界隈を散策すると、樗谿公園に出てくる。鳥取東照宮へ行くまでの公園内の参道には、歴史博物館「やまびこ」や小さな動物園などの施設があり、この日も、平日にもかかわらず、そこそこの参拝客で賑わっている。
樗谿公園は昔、この地に樗(おうち)の木(5月頃に少し青みがかった薄い紫色の花を咲かす別名センダンともいう)があったことから「樗谿」と呼称され、鳥獣保護区として天然記念物の「キマダラルリツバメチョウ」が生息し、「ホタルの里」としても有名らしい。
そんな公園にはモミジも植えられていて、もう少しで見頃の様子を呈していて、太陽が当たるところは色づきもいいのだろう、撮影しながらゆっくりと散策。
しばらくすると、雲行きが怪しくなり小雨が…。参道の脇に生えている大樹を雨しのぎに、鳥取東照宮へと向かう。

鳥取東照宮 - モリゾーのひとり言

2024/01/08 (Mon) 18:40:12

鳥居から左に折れ、小橋を渡ったところには権現茶屋があり、事前の情報ではこちらで御朱印がいただけるということなので、とりあえず先に進む。
今年はNHKの大河ドラマ「どうする家康」を放映していたことから、“家康イヤー”ということで、鳥取東照宮に参拝する人は多いのだろうか、石畳参道は賑わいを見せている。
鳥取東照宮は池田光仲公が創建。光仲公は家康のひ孫にあたり、池田氏は元々、尾張織田家の家臣。池田氏初代信輝公の母が織田信長の乳母であったことから、信輝公が成人した後は、信長の片腕として活躍。
信長の死後、豊臣秀吉の家臣となり、小牧長久手の戦いで信輝公と長男元助公が戦死し、残った次男輝政公が池田家を継ぎ、関ケ原合戦後、播磨の藩主となる。輝政公の後妻は家康の娘、良正院で、良正院も長男忠継公も早世され、池田家は三男の忠雄公が継ぎ、その忠雄公の子、光仲公が鳥取藩初代藩主となり、その後12代まで続く。
その光仲公が創建した東照宮は明治に入り、徳川排除の時代の流れを経て、「樗谿神社」と改称され、神仏分離の影響から別当寺であった大雲院(いずれ紹介)は、立川町へ移動、長く続いていた「権現祭り」も衰退していったという。ちなみに、現在は「鳥取東照宮」という本来の名称に再び改称された年が平成23年10月と、つい最近のことなので驚き。
250年以上も続いた長期安定政権の江戸幕府。“権現さま”に平和安泰の祈りを拝殿でお参りし、しっとりとした雨の中、今回の旅の感謝を申し上げるのでありました~

鳥取の旅(2) - モリゾーのひとり言

2023/12/28 (Thu) 14:06:01

早いもので今年も終わりに近づいてきてしまいました。旅を通じていろんな人にお世話になり、これからもお世話になる予定で、感謝に堪えません。来年はどこへ行くのだろう?と、期待が膨らむ年末ですが、また同じフレーズで締めたいと思います。
今年もヘタクソな文章を読んで下さり、ありがとうございました~。
また来年もよろしくお願いいたします~

多鯰ヶ池弁天宮 - モリゾーのひとり言

2023/12/28 (Thu) 14:07:06

3日目。鳥取砂丘方面のバスに乗り、砂丘東口バス停で下車。今日は10月下旬の巳の日。巳の日にだけ社務所が開くという情報を元に、多鯰ヶ池弁天宮に訪れた次第。
もう鳥取砂丘入口の交差点から北へ行けば砂丘美術館、鳥取砂丘のある観光地だが、その南側に鎮座する多鯰ヶ池弁天宮は知る人ぞ知る、隠れ観光地?の1つ。バスを下車した乗客は、砂丘方面へと歩いていくが、私は交差点の南に建つ鳥居から坂道を下っていく。
徐々に木々生い茂る森の中へと移動し、ハイキングコースのような参道を歩くと、木の枝や木に巻き付くツルなどがヘビの形に何となく見えてしまい、自分の中ですでに、ヘビの“縄張り”に入ったという感覚が脳に刷り込まれてしまっている。
多鯰ヶ池の畔に鎮座する弁天宮は、江戸時代末期以前、相州(神奈川県)の江の島から分霊を勧請されたという。弁天さんといえば、七福神の中で唯一、女性の神様であるが、美に、知恵に、音楽と、芸術を司る神として知られる。元々は河川の神=水の神として崇められていて、水の神の使いはヘビとされ、その関係性が生まれたとする説があり、ちなみに宇賀神はサンスクリット語の「ウラガ」(蛇)、インドでは白蛇のことを「ウガヤ」と言い、そこからきている。それがいつしか、縁日の巳の日に弁天宮にお参りし、お札をもらうと財産を得ることができると広まり、今度は蓄財の神として信仰され、「弁才天」ではなく「弁財天」に転化していった…と、簡単に説明したが、ここ、多鯰ヶ池弁天宮も巳の日は特別な日で、こちらでは蛇の好きな?生卵やお酒をお供えする崇敬者がいるようだ。
4つか5つぐらいの鳥居を潜り、石段を上がった拝殿でお参り。境内を散策し、奉安殿や地蔵堂、お種社にもお参り。
こちらの神社には「お種伝説」と呼ばれる言い伝えがある。むかしむかし…長者さんの元に新しい使用人が雇われ、その名をお種という。ある日、使用人たちで休憩していると、決まってお種さんが甘い柿の実を持ってきてくれ、みんなに評判を得ては日々を繰り返していた。そのようなことが何度もあり、ふと、あの甘い柿はどこから持ってきているのか、お種さんの後を付けてみることに。すると、お種さんが池の畔で白蛇に変身し、池の島へと渡ると、そこの柿をもいでいて、その場面を見てしまった村人は驚いて長者に報告すると、それ以降お種さんは戻ることなく、多鯰ヶ池の主になったとさ…(おしまいおしまい…)
ということで少し端折ったが、その後、長者の家に住んでいた老婆がそれを哀れと思い、お種社を祀ったという伝承で、お種さんが今でも池から見守っている。お種社から見える多鯰ヶ池を望み、今でもあの甘い柿は植えられているのだろうかと、なんとはなしに白蛇伝説にあやかり、もう一度手を合わせる。
とかく嫌われてしまう蛇だが、財運をもたらしてくれるヘビにたまには感謝し、社務所で御朱印を授かり、感謝申し上げるのでありました~

鳥取縣護国神社 - モリゾーのひとり言

2023/12/28 (Thu) 14:07:53

砂丘東口バス停から子供の国バス停へ移動し、急坂を下る。鳥取砂丘の南側から望む景色を見ては、私が今歩いている界隈の、展望台のような施設ががらんどうとしていて、経営難で倒産したのだろうか、むなしく“奇怪遺産”となっている。
そんな建造物を横目に、今度は急坂を上がると大きな鳥居が現れ、道なりに参道を進む。
鳥取県の護国神社にお参りすべく、境内の敷地に失礼すると、広く、高台の場所にあるので、手水舎近くからの眺望が素晴らしく、鳥取砂丘が一望できる。
境内にはかつて英霊たちが操縦した飛行機のプロペラや英霊たちを称える石碑が建ち、「鳥取少年飛行隊」という文字に、やはりグッとくるものがある。
さっそく拝殿でお参り。訪れた各県の護国神社をそこそこお参りしているが、いつ来ても厳粛な気分になるのは私だけだろうか…日本のために戦った英霊たちに思慕し感謝する…そんな気持ちでお祈りする。
拝殿横にあるちょっとしたスペースには、錆びた機関銃や若者の白黒写真が数多く飾られ、多くの犠牲を伴った戦争はどれだけ愚かなことかを、改めて考えさせられ、胸が締め付けられる。
社務所で御朱印を拝受し、宮司さんからありがたいお言葉を頂き、ここから見える鳥取砂丘が何となく物悲しい雰囲気に見え…しばらく旅愁に浸るのでありました~

大森神社 - モリゾーのひとり言

2023/12/28 (Thu) 14:08:48

子供の国バス停から相生町バス停へ移動。大森神社入口の交差点を南に下り、道沿いに神社の玉垣が連なる沿道を見ては、東側の小さな鳥居から失礼する。
「大森」という名称のごとく、昔は大きな森がこの辺りにあったのだろうか、境内にはケヤキの御神木をはじめ、松、杉、銀杏、樫、桜、榊、椿と、多種に飛んでいる。
由緒書によると、御祭神は大国主神、少彦名神、事代主之神の3柱で、事代主之神は美保神社から御座船で賀露港(白兎神社より東に位置)に上がり、境内の別殿で祀られ、恵比須講などが行われていたという。古来より大森大明神と称し、元宮と奥宮があって、現在地の社地は奥宮の地で、元宮は大森町のどこかということでわかっていない。明治に入り、大森神社と改称し、そのまま地元に崇敬される神社となったそうだ。
拝殿でお参り。境内を散策し、いろんな木々が生えている…この季節はイチョウが彩りを…と見上げるが、昨今の暖かさの影響でまだ黄色く色づいていない。木々もまだ青々としている中で、今年の紅葉は遅れるのだろうかと心配し、社務所で御朱印を拝受。お礼を述べ次へ。

出雲大社鳥取分社 - モリゾーのひとり言

2023/12/28 (Thu) 14:09:59

相生町バス停から川端一丁目バス停へ移動し、商店街を西へ。少し迷いながらも出雲大社鳥取分社に到着。出雲大社の分社は、倉吉や隠岐の島(西郷)などお参りをしてきたが、やはり鳥取市内にもある事を知り、訪れた次第。入口の右側にはお稲荷さんを祀る赤い鳥居や祠が建ち、まずはお参り。拝殿前の駐車スペースのような敷地はがらんどうに広々としていて、拝殿向拝上に飾られている注連縄は、「さすが」といった感じで立派で、出雲大社の分社だけはあると納得。
さっそく、出雲式の参拝方法(2礼4拍1礼)でお参りをし、大国主命にご挨拶。シンプルな拝殿の右側にはガラスサッシで仕切られた社務所があり、御朱印をお願いしにピンポンすると、宮司さんが快く応じてくれ、拝受。次は摩尼寺へ山を歩いていくのだが、気になっていたことをちょっと聞いてみる。
「これから摩尼山に行くんですけど、クマって出るんですか?」
「…」
さすがに唐突過ぎる質問だったので恐縮だが、
「いや~、クマが出るなんて聞いたことないですね~」と。
最近の、熊の出没ニュースが気になっていたので鳥取県はどうなんだろうと…一先ず安心して、労までねぎらって下さり感謝×2。丁寧にお礼を述べ、後にする。

真福寺公園 - モリゾーのひとり言

2023/12/28 (Thu) 14:10:45

川端一丁目バス停で待っていると、「トイレできるとこ…」と、東に公園表示があったのでそちらへ。用を足してから気づいた公園は、動物たちを管理する檻がいくつもあって、まさに小さな動物園。意外と広い公園は遊具もあり、子供連れの親子さんたちがちらほらといて、賑わっている。
動物はニホンザル、ミーアキャット、ヤギ、ウサギ、鳥類などなど見物でき、無料で楽しめ、つい、バスの時間を忘れ、童心に帰って、動物たちを観賞し、なかなか見応えがある。
たぶん鳥取市内では有名な公園なのだろう、バスの時間を1本遅らせて、しばらく散策するのでした~

摩尼寺(1) - モリゾーのひとり言

2023/12/28 (Thu) 14:11:59

川端一丁目バス停から北園ニュータウン行きのバスに乗り、摩尼寺口バス停で下車。ここから山深い摩尼山を目指し歩く。中国33観音霊場の特別霊場にあたる摩尼寺は、摩尼山の中腹に位置し、承和年間(834年頃)、円仁(慈覚大師)によって開山、御本尊でもある帝釈天の出現霊場として、因幡地方の信仰を集めてきた古刹。
林道をひたすら道なりに進み、途中、クレーン射撃場への道案内看板があり、「クマ出没注意」の文字が…。
「クマ出るじゃん…」
一気に緊張感をもって歩くようになり、舗装されたアスファルト道路をひたすら登り、
ようやく門前の宿場のような雰囲気漂う参道にたどり着いたのは、バス停から約30分後と、“クマ効果”もあってか、意外と早く到着する。
石段までの参道周りには、お食事処や宿場の建物が並び、自家用車が停まっているものの、どこか寂れた…営業しているんだか分からない、シーンと静まりかえった…たとえば、辺境の地で見知らぬ旅人が町にたどり着き、監視されているかのような…そんな西部劇のイメージをしながら、その先の、壁のような石段を見上げる。
慣れとは恐ろしいもので、もう、こういう壁のような石段を見ても、躊躇なく上り、途中の仁王門も立派であると、休憩を入れては、さらに上段へと目指すと、90度に折れ曲がった先の山門を見上げ、ようやく到着。
山門を潜り、境内へ失礼すると、境内は思ってもみないほどの敷地が広がり、正面に本堂、右手に閻魔堂、十王堂、三祖堂、善光寺如来堂と、堂宇がバラエティ?に富んでいる。

摩尼寺(2) - モリゾーのひとり言

2023/12/28 (Thu) 14:12:59

まずは本堂でお参り。本尊は千手観音と帝釈天だが、どこにもその姿はなく、厨子に納まっているのだろう。
こちらの奥之院には帝釈天が降り立ったと伝わる「立岩」があるそうで、代々、その伝説は受け継がれているそうな…

昔々あるところに…何不自由なく暮らす長者夫婦がおったそうな。夫婦には子供がなく、豊かな中にも、どこか寂しさを抱いて生活していて、そんな中で、なんとか子供がほしいと円護寺(いずれ紹介)の大日如来に願をかけに行っていた。
やがて満願の日の朝、不思議な夢を見て、奥さんは身籠り女の子が誕生。長者は大変喜び、大切に育てた。ところが、子供が8歳になったある日、突然、娘の姿が見えなくなり、夫婦は八方手を尽くし探したが、見つからず、すっかり疲れ切った夫婦は高い山に登り、何気に海を見ていると、にわかに空が曇り、波が立ち、龍神が海の中から空へと舞い上がり、姿こそ龍神だが、よく見ると「わが子ではないか!?」と。
あっけに取られて見ていると、空の彼方から金色の光が龍を包み、捧げるように空に舞い上がって、それは帝釈天の姿となって大きな岩に降り立った。
自分たちの育てた子が帝釈天の仮の姿であったことを知った夫婦に、帝釈天は感謝の意を伝え(省略)、空へと舞い上がって消えてしまう…

…ということで、帝釈天は女の子だった!?という伝説がこちらの寺では残されているが、帝釈天といえば、白い像に乗ったイメージが仏像などでよく見る。梵天とペアを組み、仏教を守る役割を担う神様であるが、インドでは戦いの神でもあり、あの阿修羅にも勝った武勇伝は有名。唯一、髪を結い上げている姿は女性らしい!?ように見える?それだけが類似点だろうか、お釈迦さまをお守りする地位の高い帝釈天ゆかりの寺に来られて、満足×2。
境内を散策し、奥之院にある「立岩」へ行ってみたかったが、時間の都合上諦め、納経所で御朱印を拝受。住職さんとの談笑の中で、クマが出るか聞いてみると、鳥取砂丘でもクマが出没したことがあると言う。
「えっ、砂丘でクマが…」
「クマも必死で生きていますからね~」
最近の熊出没映像から、クマに乗った金太郎…ゾウに乗った帝釈天…とイメージし、
「金太郎は帝釈天!?」と勝手に妄想が膨らんで、その加護が帰路でも発揮しますように…と、祈るのでありました~

湯所神社 - モリゾーのひとり言

2023/12/28 (Thu) 14:14:06

摩尼寺口バス停まで無事戻り、JR鳥取駅行きに乗って湯所バス停で途中下車。ここは鳥取城跡北西側に当たる湯所町という集落で、その名称の通り地元の神社に立ち寄る。
湯所神社はネットによると、古くは荒神社と称されていて、やはり鳥取城の守護として、例祭などの神輿巡行の際には、城内の青木之馬場に神輿渡御が許されていたと云われている。
御祭神は須佐之男命、櫛名田比売の夫婦の神様で、家内平穏などの御利益があるとして崇敬されている。
たどり着いた鳥居周りは駐車場があり、最近整備されたような石段参道もきれいに整えられて、さっそく境内に失礼する。
境内にはちょっと変わった狛犬が鎮座されていて、こちらの春祭りで行われる「麒麟獅子舞」に準えた“獅子”がいる。麒麟獅子は細長い頭に一角を持つ神獣で、邪気を払うと云われ、因幡・但馬の一部地域では約180の村々に継承されていて、かなりインパクト大。祭りの日には緋色の衣装に身を包んだ獅子が舞い踊る姿を、保存会のHPで見たが、その見た目の派手さから華やかなことであろうと想像する。
そんな愛嬌のある神獣を見ては、拝殿へと向かいお参り。
本殿側へと移動すると、「タゴガエル」という在来生物が生息している案内看板があり、石像も鎮座。目じりに黒い筋の入った特徴的なカエルで、春の時期になると活発となり、境内に姿を見せねど、鳴き声が響き渡るとのこと。本殿の背面の壁には確かに湿気を含んだ土壁があり、「へぇ~」と、自然環境が整っている土地柄であることが分かる。
神社の雰囲気を味わいつつ、帰路、氏子さんだろうか、ちょっと談笑し、訪れた翌日が秋祭りが行われるらしく、準備で来ていたようで、いろいろと神社の情報を教えていただき感謝×2。お礼を述べ、後にするのでした~

鳥取の旅(1) - モリゾーのひとり言

2023/12/19 (Tue) 19:42:30

8月以来の久しぶりの投稿。今年の秋は10月下旬、11月中旬と鳥取の旅、11月下旬に奈良県へと行ってきました。今年の紅葉の見頃は推測できず、紅葉に合わせた鳥取の旅のつもりがハズレで、行った当初は、まだモミジも青々としていて、昨今の温暖化の現象はどうなってるんだ…と、これはいよいよヤバいことになってきていると。
…ってなわけ?で、10月下旬に行った鳥取の旅の紹介~

東村神社 - モリゾーのひとり言

2023/12/19 (Tue) 19:43:22

JR鳥取駅に到着したのは14:00頃。名古屋からだと姫路経由で特急「はくと」に乗って行くのがベストで、前回の倉吉へ行った時と同じ移動手段である。
荷物を今日から3泊お世話になるホテルに預け、再びJR山陰本線で西へ、青谷駅を目指す。
鳥取市青谷町といってもピンとこないが、本当に何もないのになぜ、この場所を訪れたかというと、いずれ訪れる東隣の鹿野町にある茂宇気神社・鷲峰神社の存在を知ったからで、ここの宮司さんが青谷町の東村神社・山口神社も兼務し、御朱印を拝受できるということで訪れた次第。
駅前は綺麗に整備されているが、人の姿は老人がちらほらいて、片田舎の様相を呈していて、30分ほどバスを待つ。日置線のバスに乗り込み、しばらくの車窓からの風景は、田畑広がる雰囲気のまま、河原バス停で下車。東の橋を渡り集落の中を歩くと、数分で東村神社に到着。
鳥居前の灯籠が変わっていて、“軽石”のように窪みの穴が幾重にもあり、珍しい石材を使用していると、神社のシンボル的存在なのか、この神社自慢の“代物”なのだろう、灯篭に見入り、早速石段を上がる。
苔の生えた石段、草ぼうぼうの参道を経て随神門を潜ると、さらに祭壇のように上に石段が続いていて、拝殿でお参り。
東村神社の御祭神は茅野姫命(かやのひめのみこと)で、いわゆる草の神、野の神である。なので、境内には草をわざと生やしている?のか(…いや、ただの清掃不足だろう…)「なるほど…」と勝手に解釈し、雰囲気を味わう。
ネットによると、狛犬が江戸時代に活躍した、「川六」という石工人が造ったそうで、この地域には数々の狛犬作品を安置しているらしい。自然石に乗った狛犬は長年の劣化で欠けている部分もあるが、渦巻き状や螺旋状の線が入った“彫り”が見え、丁寧な仕上がりだと、素人目から見ても頷ける。そんな狛犬たちやイチョウの木から落ちた銀杏の実が大きいこと大きいこと、緑に覆われた境内でマイナスイオンを吸い、茅野姫命に感謝申し上げるのでありました~

山口神社 - モリゾーのひとり言

2023/12/19 (Tue) 19:44:03

集落から南へ、農村地帯が広がる山里の景色を眺めながら、いつしか小川沿いの農道を歩き、地元の人が健康のために散歩をしている姿を見ては、夕暮れ時の、ちょっとした就労後の雰囲気に似た空の明るさの中、長閑な環境に癒される。
20分ほどしてたどり着いた山口神社。常に小川のせせらぎの音が聞こえ、“自然の音”に傾けながらさっそく赤い屋根の随神門を潜り、赤い屋根の拝殿でお参り。
御祭神は大山津見神、保食神、豊受神と拝殿に表示されていて、主に山の幸、海の幸、農業、金運、健康の神であることが分かる。詳しい縁起はネットを見てもわからないが、ここから荒神山?の入口にあたる麓なので“山口”と、そのままの名称となっているのだろう。
こちらも境内には川六作の狛犬たちが鎮座していて、尻尾の彫刻は東村神社で見た狛犬と変わらず風化しているものの、立派である。
本殿側をぐるりと一周し、向拝下の彫刻も素晴らしく、しばらく見入っては静かな境内でその時を過ごす。
神社近くのバス停で帰りのバスを待っていると、17:00の時報チャイムが鳴り、音楽が村中に響き渡る。どこか懐かしい心情にかられ、トンボが飛び交う中、地元の犬の散歩をしている方と少し談笑しては、別れをするのでありました~

宝泉寺 - モリゾーのひとり言

2023/12/19 (Tue) 19:45:08

翌朝、鳥取バスターミナルから吉岡温泉行きバスに乗り、吉岡温泉口バス停で下車。ここは吉岡温泉町。地図を俯瞰して見ると、鳥取駅から南西に位置している場所で、鳥取市内の温泉地の1つである。バス停から温泉地らしく、宿場の通りを散策し、温泉地には欠かせない薬師如来さまを祀る宝泉寺へと足を運ぶ。
お城のような高台に、まっすぐ延びる石段が続き、境内には立派な本堂がで~んと建っているのが見え、上がる。境内には清潔に保たれた庭があり、その中の瑠璃光座像の背後には、借景とした山が広がり、見晴らしが良い。
宝泉寺は応和2年(962)、葦岡長者という人物が開基したお寺。長者の娘の皮膚病を薬師如来に祈願したところ、温泉を発見し、その湯で完治したという言い伝えがあり、それが吉岡温泉の始まりとされている。
江戸時代には鳥取藩主池田何某の「御前湯」が置かれた温泉地として栄え、今でもレトロな町並みを見せてくれている。
本堂でお参り。御朱印は“書置き”がファイルボックスにあり、拝受。その後、宝泉寺から西へ少し行った所に、葦岡長者の古墳(円墳)があり、横穴式石室が見える。大正3年に発掘されたが、学術的な検証はされず、石壁や石棺が崩れそうになっていたのを、文化庁の許可を得て昭和58年に再調査。盃や鉄製品、釣針などが出土し、漁撈集団との関連をうかがわせるものだと推定している。
吉岡温泉の生みの親、葦岡長者に手を合わせ、“祖先”に感謝の意を告げるのでありました~

写真は葦岡長者のお墓

天日名鳥命神社 - モリゾーのひとり言

2023/12/19 (Tue) 19:46:19

葦岡古墳から西へ、田園風景広がる道を1kmほど進むと、正面にこんもりとした森が見え、次の目的地、天日名鳥命神社はあそこだな…と分かる。
天日名鳥命神社は通称、「天鷺の宮」という。「鷺」は「三祇」であるという説から3柱、天日名鳥命、天穂日命、天日鷲命を指す。この3柱を祀る神社がそれぞれ、昔は存在していたのだが、焼失などから1つにまとめられ「天三祇宮」になったと伝えられている。
天日名鳥命(あめのひなとりのみこと)は、父神である天穂日命(あめのほひのみこと)の子神で、天穂日命といえば、大国主神との国譲り交渉後に、天照大神から選ばれ、遣わされたものの、数年報告しなかったという神様。
天日鷲命は天手力雄命(あめたちからおのみこと)の子神。天照大神の天岩戸隠れの際、殻・木綿などを植えて白和幣(しらにぎて:紙垂(しで)のような白いひらひらのもの)を作った、いわゆる紙・麻を作ったことから紡績業製糸業の神様で、後に阿波国を開拓し、麻を殖産した阿波の忌部氏の祖先にあたる。
そんな3柱を祀る神社の鳥居は北側に位置し、狛犬も長年の風化に遭い、形がかろうじて原型を留めている状態。創建年代は不詳であるが故のかなり古い歴史を持つ。
鳥居を潜り、急な石段を上がっていくと、参道はコンクリで舗装された道となっていて、木々生い茂る森の中を歩く。辿り着いた境内にはシンプルに拝殿本殿が建っていてお参り。
拝所にあるケース箱にはスタンプが置いてあり、それには「サギ」の鳥が描かれていて、「天サギの宮」であることが分かる。
そういえば…3柱の1つ、天日鷲命は「ワシ」だよな…と疑問を持ちつつ、社域の雰囲気を味わい次へ。

写真は田園風景。

吉岡神社 - モリゾーのひとり言

2023/12/19 (Tue) 19:47:05

再び吉岡温泉の中心地に戻って来て東へ。バスの時間まで1時間ほどあったので、温泉でもと思ったのだが、看板に「吉岡神社」と表示してあったので立ち寄ってみることに。
温泉街よりも民家といった集落に移動し、箕上山登山口となっている鳥居から木々の中へと入り石段を上がる。参道は左に折れ曲がる形で、すぐに境内にたどり着くと、拝殿本殿と、そこだけの空間にスポットライトのように陽光が射して、神々しく見える。ちょっとぬかるんだ地面の先に、いかにも古めかしい狛犬たちが鎮座し、そんな中でさっそくお参り。
吉岡神社の御祭神は伊邪那岐・伊弉冉神だと思う。思うというのは、ネットで調べてもよくわからず、沿革すらも載っていないので詳細は不明。「吉岡」の名称から当町の氏神さんを祀っているのだろうか、たぶん…「葦岡」長者さんが関係していることは間違いないと推察する。
本殿をぐるりと一周してみると、いたってシンプルな造りで、見た目何となくか細い感じ。吉岡の地で末永く見守って来た労を称え(そんなエライ立場じゃない…)、これからも地元の人たちから頼られる存在で生き続けるよう願うのでありました~

山王宮日吉神社 - モリゾーのひとり言

2023/12/19 (Tue) 19:47:56

吉岡温泉バス停から鳥取駅行きのバスに乗り、布施バス停で途中下車。日吉神社入口の交差点を北へ数分歩くと、三角州のような敷地に目立つように鳥居が建ち、そこから西へ一般道兼参道が真っすぐ続いている。軒を連ねる民家は、どことなく昔から寄り添ってきた氏子さんたちの家だろうかと参道を歩き、たどり着いた木々の、こんもりとした森の中へさらに石段が上へと続き、登る。
日吉神社といえば、あの滋賀県にある日吉大社。こちらの山王宮日吉神社は室町時代に、守護職であった山名氏が分霊を勧請し奉祀したのが始まりとされ、山名氏は近江国の日吉大社そっくりに、当神社の西側にある湖山池を琵琶湖に見立てて、山王権現はもとより、九院の仏閣まで巡らし、近江湖畔の地名を置いたとされるほど。
…で、時代は戦国時代へと移り、秀吉の因幡攻めで焼失し、その後(省略…)、池田藩へと変わり復興。藩の祈願所として、池田藩主代々は元服までの若殿や姫君を氏子と定めて参拝を怠らなかったと。
そんな崇敬ある“お猿さん”は、昔から“勝さる”や“魔去る”に準え、魔除け厄除けの御神徳として境内にはあちこちに石像が散りばめられている。手水舎から始まり、石段の脇の足元、屋根の上など“お猿さん”によって守られていて、本殿にたどり着いた両脇には“ボス的存在”の“お猿さん”が、向かって左手には子供を抱えた母猿、右手には神幣を担ぐ父猿とインパクト大。
当神社によると、この金幣が昔、純金で「眩しいほどに光を放っていた」と語り継がれていて、昭和の戦争で金属回収されたため、現在の銅像は昭和25年に再建されたものだそうな。
“お猿さん”に見守られながら拝殿でお参りし、境内を散策後、社務所で御朱印を拝受し、感謝申し上げるのでありました~

湖山神社 - モリゾーのひとり言

2023/12/19 (Tue) 19:48:42

参道へと戻り、集落の中の小道を北へと歩いていく。途中、「和泉式部の胞衣塚」の看板を見つけ、少し寄り道。
「この地に和泉式部?」と、鳥取に何か関連があったかな?と思ったが、ネットで調べてみると、式部が生まれた時の胞衣(胎盤)を埋めたところがここで、天明7年(1787)に鳥取藩の待医であった阿部惟親が石碑を建立したとされている。
寛政年間に成立した因幡地方(鳥取県東部)の歴史書「因幡志」には、和泉式部は因幡国守、大江定基の娘であり、その別荘があった湖山池の畔で生まれたと記されているらしい。が、生誕地は全国に数か所あるという伝承があり、信憑性は薄い。
閑静な住宅地にポツンと石碑が建ち、何となく手を合わせ目的地、湖山神社を目指す。
小山をぐるりと回るように歩くと、明るく開けた社域にたどり着き、鳥居の先に石段参道が上へと続き登る。
この地域は因幡国の中心地として栄えた場所で、裏山城という、ここから200m程南に離れた因幡天神山城の出城で、前後に成形した山城跡とされている。なので、山城らしく石段を登るたびに、鬱蒼と茂る木々へと変貌し、頂上に到達した時には、今は本殿が建っているが、その脇には生活で使用したのだろう池のような跡があり、山城であったことが何となく分かる。
御祭神は素戔嗚命。由緒には近世まで今宮大明神と称していたが、明治元年に湖山神社と改称されたらしい。拝殿でお参りし、本殿をぐるりと散策すると、本殿の玉石垣に尾車門徒の相撲力士の名が4人ほど刻まれていて、「尾車」と言えばあの大相撲の「尾車部屋」。ネットで調べてみると、創設した尾車文五郎がここ湖山町の生まれであると。
尾車文五郎(本名、小松吉五郎)は天保12年(1841)に生まれ、小松弥一郎の次男として16歳で上京し、東京相撲の玉垣部屋に入門。四股名を勝山芳蔵として、最高位は前頭五枚目まで昇進した。37歳で引退、初代尾車文五郎を襲名して「尾車部屋」を創設、明治の横綱、大砲(おおづつ)や大関、荒岩(あらいわ)などの力士を育て、板垣退助が相談役、後援者に就くなどして尾車部屋は繁栄したとのこと。明治10年に創設された尾車部屋は徐々に衰退し、昭和15年に閉鎖。その後、昭和62年に佐渡ヶ嶽部屋付親方となっていた元大関、琴風が独立して再び創設されたが、令和4年に閉鎖された話は最近のこととして知られている。ちなみに、この尾車文五郎のお墓が、ここから北西にあたる鳥取商業高校の近くに祀られている。
…と、話が逸れてしまったが、「尾車部屋」のルーツがこの地にあったとはつゆ知らず、鳥取は砂丘だけではない歴史があるんだと再認識。「へぇ~」と神社の雰囲気を味わいつつ、社務所で御朱印を拝受。そういえば「湖山」という名称…なんとなく力士の名に相応しいから、そんな力士がいてもおかしくない…と、想像するのでした~

白兎神社 - モリゾーのひとり言

2023/12/19 (Tue) 19:49:34

湖山神社から北へ。JR山陰本線の線路を越え、昼時であったので、スーパーで弁当を買って休憩所で昼食タイム。
その後、湖山バス停から鹿野方面のバスに乗り、白兎神社前バス停へ移動。車窓から日本海の海原が広がり、海岸に打ち寄せる波や砂浜を見、その景観に、一気に旅愁が迫ってくる。
バス停に到着すると目の前が道の駅、その隣が白兎神社となっていて、鳥居が建つ広場前にはなぜか3匹の白猫が佇んでいる。
「ウサギではなくなぜネコが?」と思いながら、その“3姉妹”は参拝客を迎えるように逃げもせず堂々と“ステージ”に立っていて、この神社のアイドル的存在なのだろうかと写真撮影に応えている。
そんな“癒し”を受けながらさっそく石段を上がると、神話のアートサンドがお目見え。さらに石段を上がった先の御身洗池の脇を歩き、手水舎で手を清めるとメロディが流れ、あの「因幡の白兎」神話の内容が詩になっている「大黒さま」という唱歌を聴き、境内の雰囲気を味わう。
白兎神社は御祭神を白兎神とし、保食神、豊玉姫命を合祀して祀られ、白兎海岸の南、砂丘上に鎮座。この土地は日本海岸地方の原生林景を今に残していて、昭和12年に国の天然記念物に指定されている。「古事記」の記述にあるように、皮を剝がされたウサギを治すため、大国主神は蒲(がま)で包んだことから医療・動物医療の発祥の地として、また、白兎が予言した八上姫との縁から縁結びの神として信仰されており、「因幡志」によると、慶長年間(1591~1615)に鹿野城主亀井茲矩公が再興されたと載っていることから400年前にはすでにこの地にあったと考えられている。
そんな神社の拝殿前に行くと、向拝上の注連縄が素晴らしく、その下でお参り。ぐるりと本殿を回ると、「菊座石」と呼ばれる本殿を支える礎石が菊の文様になっていて、皇室とのつながりが深いことも分かる。が、ある意味、菊の紋章を柱で押さえつけているようにも見え、大丈夫だろうか…と思ってしまう。
そして社務所で御朱印を拝受。卯年の今年に訪れることができて、良かった~と感謝申し上げるのでありました~

淤岐之島 - モリゾーのひとり言

2023/12/19 (Tue) 19:50:22

白兎神社から白兎海岸へ歩道橋を渡り、海岸沿いを散策。
北西方向に浮かぶ淤岐之島(おきのしま)は白兎神が住んでいたという島。ワニザメをだまして陸に渡ろうと考えたが、だまされたことを知ったワニザメは噛みつき、白兎は皮を剥がされてしまう…と、結局、大国主神に助けられたが、救いの神がいなかったら「死な場の白兎」になっていたのか…と勝手に想像を膨らませつつ、やはり海を眺めていると、飽きないほど時間の感覚が薄れていく。
しばらく、打ち寄せる波や、鳥取コナン空港から飛び立つ飛行機を眺めては、この景観に癒されるのでありました~

おまけ - モリゾーのひとり言

2023/12/19 (Tue) 19:51:17

白兎神社に白猫…
黒い三連星ならぬ、白い三連星か!とツッコミを入れてみたくなる…


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