寺社仏閣 ご朱印の旅

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また3、静岡の旅 - モリゾーのひとり言

2017/12/09 (Sat) 21:10:22

お久しぶりで~す。って、11月から一週間に一回のペースで旅に出かけている状態で、なかなかupすることができず、下書きはできているのですが、パソコンに上げるのに、暇がなくてなくて、どうもすみません…(林家三平風)
…ということで、時は、10月の3連休の最終日。土日祝日の日にしか、拝観や御朱印をいただけない寺社を知り、浜松、第2弾、日帰りで、直虎ゆかりの地へ行ってきましたよ~

蜂前神社 - モリゾーのひとり言

2017/12/09 (Sat) 21:11:27

浜松駅に到着し、今回は遠鉄バス1日乗車券を購入し、まずは元城町東照宮へ。ひょっとして休日は、御朱印がもらえるかも、と思い、再び訪ねてみるが、予想はハズれ、相変わらずの観光客、参拝客でにぎわう中、諦める。
浜松城入口バス停から和地山北バス停で和地山上バス停へ乗り換え、祝田(ほうだ)バス停で下車。数分歩いた駐車場にはそこそこ車が止まっていて、直虎ゆかりの地の幟が掲げてある。ちょっとした木立の中を歩き、一段高い敷地の境内に、拝殿がで~んと建ち、さっそくお参り。
蜂前神社の由緒によると、応神天皇の勅命で八田毛止恵という人が遠江に下向して、土地の123町を開墾し、八ヶ前(さき)の地に勧請したとある。祭神は「熯速日命(ひのはやひのみこと)」「甕速日命(みかはやひのみこと)」「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」の3柱。この3柱、日本書記では伊弉諾が火神軻遇突智を斬ったときに滴った血から生まれた神で、前2柱はあまり馴染みがない。「八」が「蜂」になぜなったのかはわからないが、よくある“転じて”という常套手段で変わったかもしれない。
当神社には直虎の花押が記された唯一の古文書を所蔵していて、当時、花押は身分のある男性が用いるものであったことから、直虎が男性として振舞っていたことがわかる貴重な史料となっていて、その花押(コピー)が、拝所に飾られている。
拝殿左手の社務所というか、“寄り合い館”のような長屋で、お守りや直虎グッズが販売されていて、ネットの情報では直虎の花押の入った御朱印長が色違いで紹介されていたが、氏子さんだろう、「それはもう売り切れましたよ」と残念~。御朱印は2つ。普通の御朱印と直虎の花押だけが書かれた赤い紙の御朱印。欲張りはせず、普通の御朱印をお願いし、よろしければ「来訪帳」に記帳してくださいと、住所氏名を書き、他にはどこから来ているのか、ちょっとだけペラペラとめくっていくと、遠くは北海道から九州まで、TVの影響力はすごい。大河ドラマは12月までだが、それまでまだまだ盛り上がることだろうと、お礼を述べ後にする。

妙雲寺 - モリゾーのひとり言

2017/12/09 (Sat) 21:12:37

祝田バス停から北神バス停へ。バスを降りると、うなぎ屋さんがあり、長い行列ができていて人気の店なのだろう、甘ダレの焦げた匂いが漂う中、次に向かう妙雲寺へと足を運ぶ。境内は観光、参拝客でにぎわっていて、ネットの情報で、休日、ボランティアの方々がおもてなしをし、拝観できるということを知り、訪れた次第で、さっそく大きな本堂入口から入ると、受付に書置きの御朱印があり、こちらの御本尊は虚空蔵菩薩であることがわかる。本堂ではボランティアの方がすでに説明していて、私もその輪の中に入ってお話を聞く。
まずは井伊直虎と南渓和尚の位牌。実はこの位牌、最近発見されたそうで、NHK大河ドラマの始まる1年前(だったと思う…)に、歴代の住職の位牌の奥から掃除をしているときに出て来て、きれいに拭いたところ「直虎」であることがわかったという。井伊直虎が本当に女性であったかどうかという疑問が昔からあったが、この位牌の法名が「當寺開基妙雲院殿月舩裕圓大姉」で、最後に「大姉」と書いてあることから間違いなく女性であることが証明されたとのこと。父の直盛が桶狭間で戦死し、息女の次郎法師(直虎の幼名)が父の菩提を弔うために建てたのが「自耕庵」。現在の地より200mほど離れたところにあって、南渓和尚を請じて開山とし、この自耕庵が後に、直虎の法名にちなみ、妙雲寺と改め、この地に建てたのがこの寺の沿革らしい。元々、他のお寺の方が管理されていて、無住状態であったので、何も手を着けることなく、掛け軸や位牌など保管しっぱなしのままだったそうな。
本尊の虚空蔵菩薩は、その二人の位牌の奥に安置されていて見えない。まぁ~、今は二人が主役だからしょうがないか…って、なんにしろ、位牌にも本尊にも手を合わせる。
説明は続き、もう1つ発見されたのが、南渓和尚が描かれた掛け軸。鴨居の隙間にポンと無造作に置かれていたらしく、他にもそんな掛け軸がいくつもあったそうな。肖像画は右向きに顔が向いているので、生前に描かれたことがわかり(ちなみに、左向きは死後に描かれたもの)、椅子に座り、長い杖を立てかけ、立派な御様子。ボランティアの小話として、TVだったか、新聞記事だったかで知った山口県在住の、とあるお坊さん(だったかな…)が来られて、この方、水墨画とか掛け軸にお詳しい方で、小窓が開けっ放しの状態で床の間に飾ってあるのを見て、「こんなとこに飾ってないで早く、しまいなさい」とおっしゃったそうな。何でもその方が言うには、一目見るなり、相当価値のある掛け軸だとかで、湿度や風に晒されるだけで痛んでしまうのを心配し、ただ掛けてあるだけの展示に、管理がなってないと助言したんだとか。そんだけ価値のあるもので、ここで拝観できるのは今だけかもしれないと。龍潭寺(いずれ行きます…)という直虎の菩提寺でもあるお寺にも、同じお姿の肖像画の掛け軸があり、それとはどこか品があるとのことで、龍潭寺拝観時を楽しみにしたい。
そして、印象に残っていたのが、直虎のお墓ではないかという墓石。龍潭寺にも立派なお墓があるのだが、こちらは、妙雲寺から北へ数分、一昔前まで小高い丘の竹藪があって、そこにひっそりと小さな墓石だけが建ち、地元のおばあちゃんが毎日、拝んでいる姿を見、誰のお墓なのか疑問に持ったところからわかったそうな。ある時、強風に煽られ、倒れてしまったので、今では囲いの祠を建て、風除けをして祀ってあるとのこと。その墓石のある場所を教えていただき行ってみることに。分譲住宅っぽい一軒家が並ぶ道を歩き、今では土地整理で竹藪は見る影もないが、竹を根元から切った姿が残り、付近には花壇に花が植えられ、ちょっとした坂の上に祠がある。ここまでの道のりには案内看板もなく、地元では、本当はあまり知られたくないのでは?と、垣間見え、実際、お墓を見つけるのに、どこにあるのか気づかず通り過ぎてしまうほど(私がどんくさいだけかも…)。
お墓の前でお参り。直虎もたぶん、ひっそりと眠っていたかったのだろう、周りは長閑すぎるほどの環境で、妙雲寺での、あれだけの観光客の前でボランティアの方が説明したにもかかわらず、誰も来ないとは…まぁ~、その方が直虎にとってはいいのかもしれないが…とりあえず、手を合わせることができて感謝×2。

渭伊神社 - モリゾーのひとり言

2017/12/09 (Sat) 21:13:38

直虎の墓石から西へ行くと渭伊神社がある。説明看板によると、渭伊神社は創立年代の詳しいことはわからないが、井伊郷の産土神として信仰されてきていたとある。昔は、ここから南にある龍潭寺の境内にあったとかで、南北朝時代に現在の地に遷座されたらしい。
妙雲寺のお参りのついでに立ち寄る方も多く、境内地には大きな杉の御神木も聳えている。薬師山という山に囲まれた拝殿でお参りをし、「天白磐座遺蹟」なる案内看板に引き寄せられ、山道を上がる。「天白磐座遺蹟」は神の依代(よりしろ)の磐座とした古代祭祀遺跡とあり、昔はここで祈祷が行われた神聖な場所であったのだろう。巨大な岩がゴロゴロと“鎮座”していて、確かに祭礼場所であった空気感を醸し出している。
ネットの情報では、高さ7mに及ぶ最大の磐座の西壁直下は古墳時代の祭祀場として限定されていて、多量の土器や鉄鉾、勾玉などの遺物が、12世紀末には末法思想による経塚が巨岩群の中央に営まれ、渥美半島製の経筒外容器が和鏡とともに出土している。
…ということは、巷でいうパワースポット的な場所なのか~と、深呼吸し、“パワー”?をいただくのでした~

写真は「天白磐座遺蹟」の岩。

宝林寺 - モリゾーのひとり言

2017/12/09 (Sat) 21:15:10

北神バス停から石岡バス停へ移動、湖北五山の宝林寺を訪ねる。国道362号線を東へ15分ほど歩き、休日ということもあって駐車場にはそこそこ、参拝客の車が止まっていて、入口へと石段を上がると、受付があり、拝観料を支払う。
いただいた冊子によると、宝林寺は黄檗宗のお寺で、黄檗宗といえば京都宇治の萬福寺の中国風建築の伽藍を思い出す。江戸時代、近藤家の2代目当主、登之助貞用の招きに、明国の僧、独湛禅師によって開創され、以来、近藤家の菩提寺として遠州地方の黄檗文化の中心地として栄えたとある。創建当時は七堂伽藍を有し、建物の多くは中国明朝国の建築様式で、今もその面影を残しているとのことで、やはり思った通り、境内は黄檗文化の流れを汲んでいる。
受付で、それぞれの建物ごとに“説明テープ”が流れるボタンがあるので、押して説明を聞いてくださいと案内され、まずは藁葺の立派な仏殿へと入る。本尊の釈迦三尊像を中央に、両端に24善神立像が並び、京都宇治の萬福寺と同じ様式。テープが流れるボタンを押し、説明を聞いたが、24の仏像群を前に、今となっては内容が何だったのか憶えておらず、それほど善神像に圧倒された印象。釈迦如来に手を合わせ、案内の矢印通りに進み、仏殿の裏へと行くと、「金鳴石」なる、大きな平ぺったい石の上に、小石が置いてあり、読んで字のごとく響かせてみる。木琴の石版?のような澄んだ音が鳴り、説明には金運や商売繁盛にご利益があるとされ、卑しく何回も叩く。龍文堂というお堂近くの石段を上がり、方丈へ。
方丈は禅問答をする場として、住職の“起居堂”として建立されたもので、開創した独湛禅師の等身大の木像が安置されている。ここでもお参りし、庫裏で御朱印をお願いする。御朱印帳に先ほどの妙雲寺の書置きの御朱印を挟んでいただけなので、糊で貼ってくださいと注意され、その場で貼り、もう一度お願いする。呼び出しを受け、書かれた御朱印を見て満足…「あれっ!(上下逆に書いてある…)」この寺ではこういう形式なのか?とも思ったが、いやいや、注意した人が間違えているやん…
そう思ったら笑えてきて、これはひょっとして禅問答なのか?と帰路、私の頭を悩ませ続けるのでありました~

浜松八幡宮 - モリゾーのひとり言

2017/12/09 (Sat) 21:16:21

石岡バス停まで歩き、タイミングよく来たバスに飛び乗り、浜松駅へと移動。今日はここまでにしようと思ったが、ふと勘で、事前に調べていた浜松八幡宮に行くか、前回の旅で遠州八大不動の不動院兼務の龍禅寺に行くか、バスの時間帯をタブレットで調べていると、浜松八幡宮へのバスがやってきたタイミングといい、遠鉄1日乗車券は、遠鉄電車にも乗れることもあり、行くと決意。
八幡西バス停で降り、遠鉄電車の高架橋が建つ下の交差点を東へと歩くと、明らかに遠くからでも森が生い茂る景色が見え、吸い込まれるように鳥居へと到着。
浜松八幡宮は、昔は、許部(こべ)の里という、前回、浜松七福神で訪れた南区小沢渡町に祀られていて、「許部神社」と平安時代の延喜式に記されている。現在の地に遷座されたのが天慶元年(918年)というから、かなり歴史はある。海運の神として知られる玉依姫命を主祭神として後に、源義家公により八幡之柱(品陀和気命、息長足姫命)が勧請され、武家の守護神としても崇敬を集め、家康が浜松入城の際、浜松城の鬼門鎮護として崇めたとされる(冊子参照)。
広い参道を歩き、社殿に近づくと、「雲立楠(くもたちのくす)」という巨大な楠の木が出迎えてくれ、千年を超える樹齢は静岡の天然記念物に指定されているのは当たり前で、幹の下部には大きな空洞が見え、その形は何かを想像させる(ここでは言えません…)。
あの、徳川軍と武田軍が激突した三方ヶ原の戦いで、敗走した家康が武田軍の追っ手を逃れ、この楠の“洞窟”に身を潜めたと伝わり、そのころから空洞ができていたことが分かる。家康は一心に八幡神に拝むと、楠の木の上空に雲が立ち昇り、白馬に乗った老翁が現れて、浜松城へと導いた?と言われていて、その故事をもとに、「雲立楠」と呼ばれているらしい。
そんな巨大な御神木をしばらく見上げ、社殿へと行きお参り。境内は東照宮に、お稲荷さん、も祀られていて、参拝客も少なくなった夕暮れ時の中、散策し、社務所で御朱印をいただく。
帰り際、鳥居近くに「颯々之松」と呼ばれる松が植えてあり、看板を読んでみる。
「ざざんざのまつ?」
「ザザンザ?」
なぜか、ターミネーターの、あのテーマ曲を口ずさんでしまったが、どうやら“音”という意味では近いところがあって、室町6代将軍の足利義教公が、富士山見物に下向した際、この松の様子を「ざざんざ」と謡ったそうな。風に揺れた松をオノマトペにして表したと思うが、相当強風のときだったのだろうかと想像する。そして、伝承では、当神社が現在の地に遷座したとき、白狐が浜から携えてきた松の苗木が繁茂して「颯々之松」になったとされ、その後、浜の松が転じて里の名が「浜松」となり、この地が「浜松」の名称の起源になったと伝わっている。
「へぇ~」と、「浜松」は白狐が絡んでいるとは知らず、その白狐って、ひょっとして、お隣愛知県の豊川稲荷の白狐かな~と、幅広い想像をしてしまい、今日、最後に訪れた地が「浜松」の起源のあるとこと知って感慨深くなり、「よかったー」と鳥居で一礼するのでした~


写真は「颯々之松」。

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