寺社仏閣 ご朱印の旅

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ブログが面倒くさいので、掲示板で紹介していま~す。よろしくお願いいたします。
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また30、京都の旅 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:15:52

毎年恒例の「京の冬の旅」。今年で52回目と、私も恒例となりつつある冬の京都の旅だが、今年の「京の冬の旅」のテーマは明治維新150年記念で、NHK大河ドラマの「西郷どん」にちなみ、西郷隆盛ゆかりの寺院が特別公開となっている。そして、今回は「京都刀剣めぐり」という企画をネットで知り、それも合わせて散策してきましたよ~

城南宮 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:16:46

地下鉄竹田駅へと移動し、歩いて20分ほど、安楽寿院や北向不動院の境内を横切り、西へと慣れた道のりを進む。もう何回来てるだろうか、つい最近でいえば、昨年の梅の時期に訪れ、それほど経っていないので“懐かしい”という言葉より、“久しぶり”という言葉が相応しく、大きな鳥居まで来ると、「これこれ」と、石碑に刻まれた「城南宮」の文字を見、立ち止まる。
今回なぜ訪れたかというと、鳥居までの参道の途中に祀られている「真幡寸神社」と、「正五九詣で」の御朱印がいただけるということをネットで知り、NHK大河の「西郷どん」との絡み(鳥羽伏見の戦い)もあって訪れた次第。
真幡寸神社は「延喜式」の神名帳にも記され、神紋が徳川家と同じ「三つ葉葵」であることから江戸幕府より問い合わせがあり、由緒を奉行所に回答した文書が伝わっている。真幡寸大神と応神天皇を祭神とし、平安遷都以前からこの地にあったとされ、この地に勢力のあった秦氏の氏神であったという説もある。
「正五九参り」は、神様とご縁が深いお正月、5月、9月の年3回、一年の節目節目にお参りする慣わしで、孝明天皇が御祈祷を修められたことから始まっている。
広い境内、まだ補修工事中の本殿が見え、拝殿へと移動しお参り。やはり、1月下旬の閑散期には参拝される方は少なく、あの神苑で見られるしだれ梅の咲く頃の、人の賑わいを思い出し、咲くのを待ちわびるかのように神苑入口を一時、眺めるのでありました~

神泉苑 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:17:42

竹田駅へと戻り、地下鉄を乗り継いで二条駅前へ。そこから市バスで(市バス地下鉄2日乗車券を利用)神泉苑前バス停で下車。こちらも昨年のツツジが咲く春に訪れ、“久しぶり”といった感じ。ネット情報で新たに御朱印が増え、今まで、平日はおろか、会うことさえままならぬ状態だったのが、ここ最近、平日でも寺務所が開いているとのことで、うれしい限り。
…で、あの、相変わらずの赤い橋に、善女龍王社を中心に、池のまわりの各お堂、水面に鴨の群れが泳ぎ、“アイドルアヒル”は朝からお昼寝タイムと、平和な境内を散策。
神泉苑の縁起はもう説明しなくてもいいだろう(ネットで調べてね…)、一言でいえば、雨乞いの神様が祀られているということと、キーワードでいえば「弘法大師」「桓武天皇」「静御前」等々と関係している。
御朱印をお願いしようと寺務所へ行くと、そのワードそのままに御朱印のお題目にもなっていて、いつの間にか8つもあり、“御朱印コレクター泣かせ”?である。手持ちの御朱印帳のページが一気に染まるのを覚悟して、前回いただいた「善女龍王殿」と「平安京延暦聖跡」以外をお願いし待っていると、節分祭りまでの間、特別な恵方の神様、歳徳神のお札が置いてあり、「節分か~」と、今年は仕事で行けないことを嘆き、悔やむのでありました~

妙心寺東海庵 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:18:39

神泉苑バス停から京都バスで妙心寺前バス停へ移動。南門から境内へと入り、塔頭寺院が並ぶ石畳を歩く。「京の冬の旅」での妙心寺の特別拝観は、三門と東海庵のみ。三門は以前拝観し、その三門を見上げながら釈迦の弟子である十六羅漢像や天井に描かれている飛龍があったことを思い出す。
東海庵にたどり着き、受付手続きでガイドブックと書置きの御朱印をいただき中へ。“エントランス”には韋駄天だろうか、小さな木像が祀られていて、「ようこそ」と迎えてくれ、奥へ行くと3つに分かれた部屋、そして枯山水の庭が広がる。ガイドさんの説明によると、「室中の間」と呼ばれる襖絵には狩野派による松に鶴などの花鳥や秋草が描かれていて、作者は不詳。「???(忘れた…が竹で作られている)」という欄間で仕切られ、中央の間には妙心寺派の1つ、東海派を興した悟渓宗頓(ごけいそうとん)の像が祀られている。
枯山水は何もないまっさらな庭。時代劇に出てくる「お白砂」で、あたかもゴザに罪人が座れば大岡越前か遠山の金さんかと想像したくなるが、ガイドさんによると、禅をするため、何もないことで集中できる意味合いがあり、もし岩とか配置されていたら、それに目がいって雑念が入るからと。「なるほど~」と確かに殺風景のように見えるが、理由を聞いて納得。お礼を述べ、廊下を奥へ進むと、小ぶりな枯山水。こちらは白砂の波が円形に形作られ、7つの岩が配されていて、先ほどのよりこちらは見栄えがいい。写真を撮り、さらに奥へ行くと、木々が植えられた小ぶりな庭園。亀や鶴、薬師三尊、滝を模した盛土に、木々や岩々が配され、わかりやすくガイドさんの説明を聞く。中でも左右の端っこに置かれた2つの手水鉢の石が、円柱と横に長い直方体の変わった形に作られていて、どこから掘り出してきたのか、よく見つけてきたなぁ~と感心。これぞ京都らしい家屋の風景に、ゆっくりとじっくりと拝観するのでした~

わら天神 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:19:36

妙心寺北門前バス停から北野白梅町バス停で乗り換え、わら天神バス停で下車。こちらも随分前に訪れているが、新たに摂社の六勝稲荷神社の御朱印がいただけるということで伺った次第。第一の鳥居をくぐり、直角に参道が続く第二の鳥居を抜ければ「そうそう」と、こちらは“懐かしい”。「京都十六社まいり」と書かれた幟を見、「なるほど」と思い出す。京都では正月から2月の15日まで十六社、全部お参りすれば、記念品がもらえる企画があって、もちろん過去に十六の社は回っているので必要ないが、ここもその1つだったのか~とすっかり忘れている。
わら天神は安産のご利益で有名。正式名称は「敷地神社」で、古くは北山の神として、大古山背国(山城国)葛野郡衣笠村に降臨された天神地祇で、天長八年(831年)に、この地に氷室が設けられ、その夫役が加賀国より移住し、その地で崇敬していた菅生石部神の分霊を勧請して、子々孫々の氏神とし、北山の神の西隣に祀って、祭神を菅生石部神の御母木花開耶姫命と定めたとある(ネット参照)。稲藁の護符を授かることから「わら天神」と呼ばれるようになり、藁に節があれば男児、無ければ女児が生まれるという。
摂社の六勝稲荷神社は試験合格のご利益があるとされ、平安京遷都の際、平野神社(桜の名所で有名)の地主として、伊勢、石清水、加茂、松尾、稲荷、春日の六柱を勧請したのが始まりとされている(ネット参照)。
両社でお参りし、社務所で御朱印をいただく。社務所では赤ん坊を連れた家族連が祈願受付をしていて、ここの神社らしさを味わい、後にするのでした~

建勲神社 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:20:43

わら天神前バス停から建勲神社前バス停へ。南東方向に延びる道を歩くと、大きな鳥居が見えてきて懐かしさを憶える。
建勲神社は織田信長公を主祭神とした神社。秀吉が信長公の霊をなぐさめるために船岡山に寺を建立し、信長像を安置しようとして正親町天皇より天正寺の寺号を賜ったが、寺の竣工が途中で終わり、その後、船岡山は信長公の霊地として大切に保護され明治に入って、明治天皇より戦国乱世において天下統一、朝儀復興などの事業を進めた信長公の御偉勲に対し、「建勲神社」の神号を賜り、山麓から山上の現在の地に移建した歴史がある(ネット参照)。
今回訪れたのも、「京都刀剣めぐり」と呼ばれる企画をネットで知り、どうやら今年で6回目とのこと。今どきのゲームのキャラクター人気にあやかり、火が付いたようで、年寄り?にはよくわからないが、有名な刀剣を所蔵している神社、4社を巡り、集めたピースでストラップが完成するという”数珠つながり的?“な催しのよう。その1つが建勲神社ということで再び訪れた次第。船岡山に建つ神社なので、石段を上がるにも息を切らして登った記憶がよみがえり、ゆっくりと歩く。山の中腹にある、末社の義照稲荷社をお参りし、頂上にたどり着くと、舞殿に拝殿と並び、早速お参り。若い女性の参拝客がほとんどで、刀剣が趣味という、まったく似つかわしくない、明らかにゲームキャラクターの人気で訪れていることが想像でき、アニメの力は「すごいなぁ~」と感じ、社務所へ行くと、そのキャラクターのポスター他、神社らしくお守りやストラップなど関連グッズが置いてあり、繁盛しているようだ。刀剣めぐりの御朱印と「天下布武」と書かれた御朱印帳、書置きの「不動行光」の御朱印をいただき、あと3社目指し旅の糧とする。


写真は境内からの眺め。比叡山が見える。

常林寺 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:21:48

建勲神社前バス停から出町柳駅前バス停へ移動。大通りに面して、質素に常林寺の山門が建ち、中に入る。「京の冬の旅」特別拝観は一部を除いて10:00~16:00までと決まっていて、到着した時刻は15:40ごろ。苔が敷き詰められた庭を通り、受付で「時間は大丈夫ですか~」と尋ねると、まだ大丈夫で、客殿に失礼する。
ガイドブックによると、常林寺は「萩の寺」として親しまれ、浄土宗のお寺。魯道(ろどう)上人を開山とし、秀吉の都整備に伴い、寺町通り荒神口付近に建立されたが、焼失し、元禄に入って現在の地に建立されたとある。
早速本堂に上がると、格天井の下の内陣に阿弥陀如来が祀られていてお参り。右に観音菩薩、左に勢至菩薩が安置され、阿弥陀三尊はもともと、別の寺に祀られていたものを明治時代に移されたようで、ガイドさんによると、江戸時代後期の作とか…詳しいことはわからない。
格天井の一桝一桝には、四季折々の花が描かれていて、日本画家の野村はるみさんの作品。日展の審査員をされてた方で、もうお亡くなりになったが、伴侶がつい先日訪れていたとのことで、その分野では有名な方なのかもしれない。ちなみに、野村はるみ氏はここの住職のおばにあたるとのこと。他にも菊紋入りの衣をまとった帯刀僧形像や、戦火を逃れた聖観音菩薩像などが展示されていて、ゆっくり拝観。
本堂から書院へ行くと、「勝海舟の間」があり、8畳ほどの広さはあろうか、床の間に八角形の机が置いてある。ここで実際、勝海舟が常宿していたと伝わる部屋は、子母澤寛(しもさわかん)の小説「勝海舟」に登場し、新橋―横浜間の鉄道を作った勝の弟子である佐藤政養がちょくちょく訪ねて来てたそうな。この部屋から東にある庭には、近くの鴨川からの支流が流れていたそうで、かつては両方の川に囲まれた中洲に建っていたとのこと。今は建物で遮られているが、遠くは東山から比叡山の山並が眺められた景色が広がっていたという。そしてもう1つ、隣の部屋には坂本龍馬もたまに逗留していたとのことで、こちらの部屋は見ることができない。
「へぇ~」と、当時の想いに浸りながら、欄間に掲げてある、横に長い額の説明を受ける。
法然上人の弟子の源智上人から念仏の教えや考え方、心構えを亡くなる前に紙に書いて残してほしいと、法然上人が残した「一枚起請文」。直筆は金戒光明寺に保存してあり、これは明治になってから同じ門徒の一人が書いたものとのこと。
次に、念仏を唱えれば誰でも極楽浄土に行けるという教えを、既存の他宗派が猛反発し、これに対し、攻撃したり批判したりしない誓いの文章を作り、天台宗の座主の方に行いを自重し、弟子たちに署名しなさいと言っている場面を描いた「法然上人絵伝」。巻物48巻のうちの1つで、デジタル撮影されたものを知恩院から記念としていただいたものらしい。他にも勝海舟と同世代の知恩院75世の鵜飼徹定が書いた「南無阿弥陀仏」もいただいたもので、浄土宗満載。
隣の部屋には岸竹堂の描いた「釈迦三尊」の壁画。本尊の裏の壁に貼り付けてあったものを壁から離して修復したという。そして、その隣には当寺、御朱印帳の表紙に描かれている野村はるみ氏の「萩・桔梗の絵画」とお腹いっぱい。
ガイドさんにお礼を述べ、境内の角にある地蔵堂へ。常林寺が建つ以前から旅人の信仰を集めていて、子授け、安産にご利益があるそうな。地蔵堂の前に建つ灯篭は、明治天皇からいただいたとのことで、裏に菊の御紋が刻まれていて、それが証明になっている。
境内を見渡し、ちょっとだけ黄梅が咲いている冬の庭に、9月頃には萩が咲くと言われていたことを思い出し、しばらくその景色を想像するのでした~

下鴨神社 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:22:50

常林寺から高野川を渡り、下鴨神社へ。もみじの時期や葵祭の流鏑馬神事等、何回も訪れているが、新たに摂社の御朱印もいただけるというネット情報を知り、立ち寄った次第。糺の森といわれる中の長い参道を歩き、途中に、東西に建つ鳥居が見える摂社の河合神社にまずお参り。祭神は神武天皇の母、玉依姫命で、女性守護の信仰を集める神社。美麗のご利益がある境内には、女性の姿がほとんど。絵馬が手鏡の形をしていて、顔の表情を自分で描き、願い事をする(…だと思う)ものが拝殿横に飾られ、そこだけ女性の念が強い(…と感じる)。
こちらには鴨長明の方丈の建屋が復元展示されており、当時の質素な生活の様子が想像できる。鴨長明は河合神社の神官の子として生まれた、「方丈記」で有名。国語や歴史の教科書で一度は聞いたことがあると思うが、詳しいことは面倒くさいので…(自分で調べてね…)
河合神社から再び参道へ、本殿を目指し歩くと、楼門手前にはえんむすびの相生社があり、ここも女性客で賑わっている。立派な楼門を潜ると、正面は舞殿、中門に仕切られた本殿、右手には御手洗社がある。下鴨神社の本殿は2つあり、西本殿に国家安泰、厄除けなどのご利益ある賀茂建角身命、東本殿には縁結び、安産、育児のご利益ある玉依姫命が祀られていて、中門と本殿の間に「言社(ことしゃ)」といわれる7つの社がある。それぞれに干支を守る神様が祀られていて、それぞれに参拝客は、各自の干支に手を合わせていて、私もお参り。
下鴨神社は正式には「賀茂御祖(かもみおや)神社」といい、鴨川の下流に祀られていることから「下鴨神社」と呼ばれるようになった…と、歴史はHPを見ていただければ、歴史ある神社だということはわかっているので、ここも説明しないが、みたらし団子発祥の地という食い気に関しては説明したい。まぁ~、あまりにも有名な話だが、御手洗社のすぐ横にある御手洗池から出てくる「水の泡」を模倣…、後醍醐天皇が行幸の際、御手洗池で水を掬おうとしたところ、1つ大きな泡が出、続いて4つの泡が出てきた逸話による説、もう1つ、人間の一頭四肢を表し、人形に模して厄除けのために作られた説とある。どっちにしろ、みたらし団子を食べれば、どっちでもいいか~となるだろうが、その有名店が下鴨神社西にあることは知っていて、いつか行きたいとは思っている。
神楽殿で御朱印をお願いすると、河合神社は現地でいただけるということで、てっきりこちらでいただけると思い、いただいた後、急いで河合神社へ。確か17:00までと表示してあったので、長い参道を速足で歩く。ギリギリ何とか間に合い、ホッと一安心し、今日はここまで。

粟田神社 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:23:54

知恩院前バス停から近い梅本町のホテルで一泊し、翌朝、知恩院の山門をくぐり、白川沿いを北東へ歩いて行く。青蓮院門跡のある道を通り過ぎ、小路を進むと粟田神社の参道に行き着き、急坂の参道を上がり到着。「京都刀剣めぐり」の1つ、粟田神社は、紅葉の時期に一度訪れていて懐かしい。刀剣めぐり以外にも摂社の御朱印も新たに頂けることを知り、訪れた次第。
手水舎の水の表面が凍っているのを見、余計に身も引き締まる思いで、本殿でお参り。境内、いろんな摂社に手を合わせ、神楽殿の舞台には今年の干支にちなみ、型紙で作られたいろんな犬が飾られ可愛らしい。朝からちらほらと参拝客が訪れていて、女性ばかり。“刀剣キャラクター”の人気でか、はたまた京都十六社参りの、最近の御朱印ブームか、神社に訪れる方が多くなったことを実感し、私もその一人だが…、社務所で御朱印をお願いする。摂社の鍛冶神社と刀剣御朱印をいただき、お礼を述べ後にする。

豊国神社 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:24:54

神宮道バス停から市バス101系統で、博物館三十三間堂前バス停で降り、京都国立美術館の横を北へ行くと、大きな鳥居が目立つ豊国神社にたどり着く。こちらも「京都刀剣めぐり」の1つで、過去に一度、隣の方広寺と一緒に訪れている。名称通り、秀吉を祀っているだけあって、境内は広く、参道正面に見える唐門が威厳の象徴であるかのように建っていて、しばらく眺める。
秀吉の遺骸は阿弥陀が峰の山頂に葬られているが、昔は中腹に、その麓に廟社が祀られていて、徳川幕府により取り壊され、秀吉の御廟は新日吉神宮に一旦遷される。明治に入り、当地に社殿が再建、復興され、唐門は伏見城の遺構と伝えられていて、ちなみに唐門は国宝に指定されていて、二条城、南禅寺の金地院を経て、ここに移築されたもの。
立派な唐門の下で手を合わせ、社務所へ。社務所で御朱印をお願いし待っていると、気づいたら私の後ろには女性ばかりの列が続き、ここでも“刀剣フィーバー”は衰えていない。まぁ~、歴史の入口は違っても、そこから興味を持ってもらえれば日本も安泰かな…とおじさんは思うのでありました~

新日吉神宮 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:26:08

豊国神社から東へ、智積院のある交差点から京都女子大学方面へと向かう上り坂を上がれば新日吉神宮がある。ここも一度訪れていて、こちらは新たに摂社の御朱印がいただけるということで訪れる。当初、「しんひよし」と呼んでいて恥ずかしい思いをした笑い話だが、今はちゃんと「いまひえ」と読める。
新日吉神宮は平安末期、後白河上皇が院の御所を定められたとき、皇居の守護神として、比叡山の守護神、日吉社(現、日吉大社)を勧請し、東山の麓に創祀したのが始まり。「新しい日吉神社」という意味もあり、850年以上経つが「新」が付いている(ネット参照)。
楼門の手前には山口稲荷神社があり、しっかりお参り。楼門をくぐり、広い境内、まずは正面の本殿へと参道を歩き、お参り。本殿左手の方へ行くと、本殿向拝柱上部に猿の彫刻が扇子をもって参拝者を見守っている姿を双眼鏡で覗く箇所があり、改めてバードウォッチングならぬモンキーウォッチングをする。そして、豊国神社(樹下社)、愛宕・秋葉神社が並ぶ摂社をお参りし、本殿裏にある御神木にご挨拶。樹齢800年ぐらいの「スジダイ」(椎の木)は豊国大明神が宿っているかのように、神社を見守っているかのように生えている。一周する形で本殿左手には飛梅天満宮が祀られ、すべての摂社をお参り。社務所ですべての摂社の御朱印をお願いし、滞りなく次へ。

清水寺成就院 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:27:24

七条バス停から清水道バス停へ移動。法観寺の八坂の塔が見える小路を歩き、外国人を含め観光客がかなりいて、もう当たり前の光景である。二年坂、三年坂を上がり、清水寺への“おみやげ街道”の人・人・人をかいくぐり、朱色の仁王門にようやく到着。清水寺も何回来ているだろうか、今回は「京の冬の旅」で特別拝観をしている清水寺成就院に来たが、実はこちらの塔頭寺院は過去、秋の特別拝観のときに訪れていて、そのときは御朱印がなかったが、今回いただけることを知り、訪れた次第。
受付で書置きの御朱印もいただき、中へ通された部屋は「月の庭」が眺められる広い座敷。なんとなく「そうそう、これこれ」と記憶が蘇ってくる。ガイドさんの案内により、まず成就院の歴史について触れる。成就院は、応仁の乱後に清水寺を復興した願阿(がんあ)上人によって創建され、代々住職は、清水寺の建物修繕計画や財務などお金の管理を担当してきたとのこと。
幕末には月照上人、5歳違いの弟、信海上人が住職を務め、月照上人は「勤王僧」として西郷隆盛と知り合い、幕府の目を盗んでいろんな情報活動をしていたそうな。僧侶だと言い訳が立つことから、連絡役を務めていたが、やがて怪しいと幕府から目を付けられ、京に居れなくなり、島津家を頼りに薩摩へ逃れる。が、島津斉彬が亡くなり、居場所がなくなった月照上人は日向(宮崎)へ船で護送されるが、暗黙の了解で殺してしまえという内内の命令を察したのか、自らの命を絶つ、というエピソードがあり、「そうだったんだぁ~」と歴史を学ぶ。
次は「月の庭」へ。ガラス引き戸を開け、縁側に出て説明を聞く。まずは灯籠。庭の中央に1本の灯籠があり、そこから一直線上に遠くの山の中腹にも1本の灯籠がある。遠近法を使い、庭に広がりを見せているという。左手には山の斜面に、下は丸く刈り込まれた低木、上へ行くほど四角に刈り込まれ、そうすることで山の起伏を自然に溶け込むように仕組まれていると。手前の石組は、加藤清正公が朝鮮出兵で朝鮮から持ってきた岩と、左手奥には手水鉢があり、「誰れ袖」といって、着物の袖のにおい袋のような形になっていて、加工されてない自然石というから驚き。
樹齢400年の侘助椿に、秋には月の光が池に映り、一直線に横切る工夫もされていて、室町時代、将軍家の文化的アドバイザー、相阿弥という人物が元を設計したらしい。江戸時代に入ってからは小堀遠州が手を加えたそうで、国の特別史跡に指定されている。ガイドさんの説明がなければ、ただの美しい庭園としか、前回来た時もそうとしか思わなかったが、「なるほど~」と知識を深めおもしろい。
「月の庭」を観賞し、縁側廊下を伝い、衣装が展示されている部屋へ。白と紺の衣が展示され、前者が月照上人、後者が西郷隆盛が身に着けていたそうで、月照上人の衣装は鹿児島湾で入水したときに実際に着ていたもの。見た目、襦袢(着物の下に着る下着)のように見え、下僕の方が残しておいたという。その下僕の方も幕府からどこに逃げたのか追及され、拷問されてついには舌を噛み切って自らも死を選んだという、なんとも果敢ない時代である。ちなみに、清水寺はその下僕の子孫に、月照上人の遺産を残してくれた感謝として、境内に茶屋の営業許可をしていて、「舌切り茶屋」として今も健在。その子孫には俳優の近藤正臣で、ひいおじいちゃんにあたるというから驚き。
「へぇ~」と、いろんな話が聞けて満足×2。写真撮影はできないが、成就院の歴史が聞けてガイドさんにお礼を述べ後にする。

御辰稲荷神社 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:28:33

清水道バス停に戻り、熊野神社前バス停で下車。東へ数分歩くと、そこは平安神宮の北側に位置していて、時代祭の賑わいを思い出す。その通りに面して御辰稲荷神社の鳥居が建ち、敷地は狭い。当神社は過去に一度訪れていて、いろんな石神さまに手を合わせた記憶がある。
元々この場所は平安神宮北側一帯に広がる深い森であり、「聖護院の森」といわれ、その森の東南の田んぼの真ん中に「飯成社」と称し祀られていたそうな。江戸時代に入り、東山天皇に仕えた新崇賢門院(しんすうけんもんいん)の夢枕に白狐が現れ、辰の方角で待つようにとお告げがあり、その方角が「聖護院の森」で、行くと祠があり、その後社殿を建てたのが御辰稲荷神社のはじまり(ネット参照)。「辰」は「達」につながり、芸事の上達のご利益から、かつて芸妓らの信仰があったとされる。
福石は、かつて白川橋の畔に貧しい夫婦がいて、100日の願掛けの日に、妻が手にした真っ黒い小石を神棚に祀り祈ったところ、すぐに身ごもり、美しい娘を産んだという話があり、幸福、願い事が叶う福石大明神として祀られている。
今回、こちらでも新たに石の大明神の御朱印がいただけるということで訪れたが、相変わらず小さな鳥居や祠、石があり、腰を低くして移動しつつ、“密集境内”はパラレルワールド?であるかのように、各石神さま、お稲荷さまにお参り。社務所で御朱印をいただき次へ。

相国寺林光院 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:29:45

熊野神社バス停から北へ、百万遍バス停で降り、京大生で賑わうマクドで昼食。再び百万遍バス停から西へ、同志社前バス停で降り、こちらも学生が多くいる中を相国寺へ向け歩いて行く。
相国寺は臨済宗相国寺派の大本山。金閣寺や銀閣寺もその宗派の塔頭に含まれる。法堂、方丈、庫裏が立ち並び懐かしい感じだが、こちらの寺も「京の冬の旅」企画に参加していて、相国寺の塔頭では林光院と豊光寺が特別拝観をしている。
総門をくぐって、しばらく参道を歩いた右側に林光院があり、さっそく受付を済ませ中へ。ガイドさんがちょうど説明をし始めたとこで、ちょこんと座敷に座り説明を聞く。
今いる本堂には「龍虎図」の障壁画が描かれていて、インパクト大。描いたのは藤井湧泉という方で、25年前に中国から来日し(今は帰化)、あの伊藤若冲に師事していたんだとか。ここの住職さんが当時、藤井氏が48,9歳だった頃にお願いし、本堂には「龍虎図」と「蓮」のみを描く条件以外、他の書院の部屋は自由に描いてもいいという、住職さんの太っ腹も垣間見えるという。
本尊の地蔵菩薩像を正面に、右の襖に「龍」、左の襖に「虎」が描かれ、「虎」というよりは猫にも見え、眠っている姿が愛らしい。説明によると、龍の気配を感じた虎が、目を開けなくても薄々、龍の存在はわかっていますよ…といった情景を表しているらしく、中国では悟りを得た仙人は、生きた龍と虎と一緒に昼寝をするという云われ、韓国では「招き虎」といって、福を呼び込むという云われがあり、それらの意味合いも含めたコンセプトで描かれたそうな。
そして歴史については、足利将軍4代目の義持の弟、25歳で亡くなった義嗣の菩提を弔うために夢想国師を勧請とし創建されたとのこと。当初は二条西ノ京の、紀貫之の屋敷跡にあったと伝わり、その後、移転を繰り返して相国寺山内に移ったという。
薩摩島津家とのつながりもある。時は関ケ原の戦い。西軍についた島津義弘軍は敗戦、伊勢街道から堺港への脱出ルートを案内したのが、大阪の豪商田辺家で、1500人ほどの家来がわずか80人程度になるほど過酷な逃避行であったが、無事薩摩に生還。お礼として島津家から当時、密貿易をしていた琉球王国の薬や調合を伝授され、あの田辺製薬のルーツはここにあるのだ(知らなかった…)。ちなみに、庇護した田辺屋今井道興という人物で、この方の子孫が今の住職さんに当たる。
そんなつながりもあり、幕末期には、今は同志社大学の敷地だが、薩摩藩邸の長屋を建てた窓口が林光院で、蛤御門の変で亡くなられた方の慰霊碑が山門を出て東側に建っている。
書院の方へ移動すると、上段の間から順に、佐賀唐津の「松図」、「蓮と葡萄」「梅」「牡丹」などの襖絵を観賞。書院南側の庭には「鶯宿梅」が1本、植えられていて、小さなつぼみ状態で咲くのを待っている。
この「鶯宿梅」の逸話も紹介。平安時代、村上天皇の御代、御所の清涼殿の梅の木が枯れ、代わりに市中の梅を求められた。紀貫之の屋敷の梅が天皇の命で移植されたが、紀貫之の娘が、梅が「戻ってきたときに、宿るべき場所はどこ?」と言ったら何て答えたらいいの?という別れを惜しむ歌を短冊に書いて添え、それを天皇が見て、心打たれ梅を返したという話。あとは先ほどの歴史が語るように、屋敷跡に林光院が創建され、移転のたびに梅の木も一緒に運び、継ぎ木をしながら今に至っている。まさに林光院の宝物といっていい「鶯宿梅」は、3月上旬に咲く予定ということで、「京の冬の旅」の期間が3月18日まで、まだ間に合うので興味のある方はぜひ、足を運んでみては…

豊光寺 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:30:46

相国寺の方丈の北側にある豊光寺へ移動。白壁が続く塀にぽっかり口を開けた山門から入り、ちょっとした庭を見ながら受付で拝観料を支払う。
案内された本堂には金ピカの本尊、釈迦如来像、その左右に和尚さんの像が祀られている。ガイドさんの話によると、相国寺の92代目の住職、西笑承兌(せいしょうじょうたい)和尚が創建、天明の大火で焼失し、廃絶の危機に遭ったが、明治に入り塔頭寺院の慧林院と、その子院、冷香軒の客殿を移築し、豊光寺に合併したという。その慧林院と冷香軒の開祖が太嶽周崇(たいがくしゅうすう)和尚で、その二人の僧侶が右に西笑承兌、左に太嶽周崇が祀られているとのこと。
そしてこの寺では明治期の廃仏毀釈の際に、日本の禅宗を守るために奔走した荻野獨園(おぎのどくおん)和尚の存在が大きいという。方丈内の座敷には、その頂相図の掛け軸が展示されていて、その勇姿を拝むことができる。他にも足利10代将軍の義稙の肖像画、獨園和尚に参禅した山岡鉄舟の書など公開。“渋め”の寺宝を拝観し、南に広がる庭園を眺め「禅」ならではの雰囲気を味わう。

藤森神社 - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:33:51

地下鉄今出川駅から竹田駅へ。東口バス停から中書島行きのバスに乗り、藤森神社前バス停で下車。藤森神社も「京都刀剣めぐり」の1つで、これで満願。紫陽花まつりでも有名な藤森神社は、菖蒲の節句発祥の神社として知られ、「菖蒲」から「勝負」、「勝運」ということなのか今日ではなぜか、馬の神様として競馬関係者、競馬ファンの信仰を集めている。
そんな藤森神社は約1800年前に神功皇后によって創建され、皇室ゆかりの古社。昔は近郊に3つの社があり、それらを合祀したとある。なので、祭神が素戔嗚、日本武尊、応神天皇など12柱もある(ネット参照)。
鳥居から広い参道を真っすぐ歩き、拝殿でお参り。境内は節分祭りの準備で関係者が忙しく働いている。社務所に行くと、ここでも女性客が多く、刀剣の御朱印をお願いしていて、お参りもせず直接立ち寄る姿を見かけ、「おいおい」とツッコミを入れたくなるほど、ゲームキャラクターは人気のようだ。
今回は京都でかなりの御朱印をいただき、懐事情も心配だが、多くの寺社をめぐることができて満足×2。ちなみに、2月上旬にも「京の冬の旅」、行ってきましたので、乞うご期待…(期待するほどでもないけど…)

おまけ - モリゾーのひとり言

2018/02/24 (Sat) 22:35:15

上2つは「京の冬の旅」のスタンプラリーでいただいた景品。クリアファイルは裏表それぞれに相国寺林光院の「龍虎図」の「龍」と「虎」が。

 「京都刀剣めぐり」の集めたピースの完成品。それぞれ「京都刀剣」「心願成就」「各神社の神紋」「社名」が印字されている。

 京都のおみやげで目を引いた「抹茶カレー」。まだ食べてはいないが、どんな味だろうか…

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