寺社仏閣 ご朱印の旅
また31、京都の旅 - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 15:51:00
「京の冬の旅」第2弾。ということで、懲りずに2月上旬、行ってきましたよ~
御香宮神社 - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 15:51:53
地下鉄で竹田駅へ。本数の少ない市バスを待つため、しばらく駅構内の“ボックス休憩所”でネット検索など暇を持て余し、旅のスタートはエンジンがかからない。
時間となり、ようやくバスに乗った車内では居眠りをしてしまい、あっという間に御香宮前バス停に到着。この地域は伏見区にあたり、幕末期でいうと寺田屋事件が起こった場所で有名で、酒造メーカーが点在しているところでもある。一度は訪れていて、各寺社を散策した記憶がよみがえるが、ここ、御香宮神社もその1つ。境内の桃山天満宮の御朱印を新たにいただけるということで訪れた次第。
御香宮神社は平安期、境内から病気に効く香水が湧き出たので、清和天皇からこの名を賜ったことから始まっている。神功皇后を祀り、秀吉は伏見城の守り神とした有名な神社で、書院の庭は小堀遠州作の石庭となっている(ネット参照)。
大きな鳥居から失礼すると、伏見義民蹟の塔や祠をはじめ、説明看板を読み、「そうそう」と思い出す。少し参道を歩くと右手に桃山天満宮があり、祭神の“道真さん”に手を合わせる。この時期の受験シーズン真っただ中、絵馬には合格祈願の文字が並び、自分もそんな頃があったなぁ~と、苦い経験を思い出す。再び参道に戻り、正面の拝殿へと行きお参り。すぐ横には「御香水」があり、ここでは当たり前のことなのだろう、地元の方たちが名水を慣れた手つきで大量にペットボトルに汲んでいる。
いろんな摂社・末社が祀られている社殿を見て回り、社務所へ。窓ガラスに1、2月特別の見本の御朱印が貼り出されていて、それをお願いしたが、売り切れで、桃山天満宮のみいただく。まぁ~、御香宮の御朱印はいただいているので、固執することもなく次へ。
大黒寺 - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 15:53:01
御香宮神社から坂道を下ると、近鉄や京阪の線路、アーケード街があり、街の雰囲気を味わう。次に向かう大黒寺は、伏見区役所の近くにあるので、地図を見なくてもだいだい検討はつき、あっという間に到着。
ここに来ると、大黒寺の向かいに金札宮があり、金運上昇のご利益があることから立ち寄った思い出がよみがえる。以前、金札宮を訪ねた際に、向かいの大黒寺の境内に入り、「金運清水」や「薩摩義民の殉難墓地」の石碑があり、普段は拝観できないので、写真を撮るだけの散策だったが、この「京の冬の旅」で初公開となり、特別拝観ができるということもあって訪れた次第。
さっそく受付を済ませ、本堂に上がり、学生によるボランティアガイドの説明を聞くことに。本尊は寺名のとおり大黒天。60年に1度、開帳される秘仏で、厨子に納まっている。御前立の大黒天が祀ってあり、等身大とのことで、次回は2044年の26年後。微妙な年代だが、写真で紹介されているので、それをじっくりと見る。毎月1日には大黒天に、境内にある金運清水の湧き水を供えるそうで、御利益がありそう。
話は伏見義民の英雄物語となり、伏見の殿様の賄賂や借金の悪事などに、町民が幕府に直訴し、町を救ったという話を聞き、離れへ移動。客殿には西郷隆盛や大久保利通らがたびたび集い、国事を論じ合った「会談の間」に入り、当時のままの机、硯があり、触れてもいいということなので触れてみる。当寺には、寺田屋事件で命を落とした薩摩藩士9人の墓があり、檀家であった井筒家によって遺体を大黒寺に運び、埋葬されたそうな。最初は簡素な造りの墓であったが、西郷が立派にし、墓碑銘を刻んだとのこと。その9烈士の時世の歌や書が展示されていて一通り見る。
そしてもう一人、江戸時代中期の薩摩藩士、平田靱負(ゆきえ)の墓もある。この方、木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)の治水工事の責任者として働いた人物。幕府の命により、薩摩藩が行った事業で、資材はすべて薩摩藩が出し、幕府は財政を削ぐ狙いもあったといわれている。莫大な金や労力を使い、犠牲者が出たことで、責任を取って自決したとされている。その平田靱負の肖像画や書も展示されていて、じっくりと拝観。真面目そうな“おじさん”の顔を見、「がんばりましたね(心の声)」と声をかけ、墓地へ移動。
横一列、9烈士の墓が並び、その向かいに平田靱負の立派な墓が建ち、手を合わせる。隣は幼稚園の施設なのだろうか、園児たちの声が聞こえてきて、ここで園児たちを見守ってくれているんだなぁ~と、勝手に思い、冬空に射す日差しが少しだけ暖かい気がしました~
写真は山門に乗ってる大黒さん。島津家の十字家紋が印象的。
泉涌寺(1) - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 15:54:00
大黒寺近くの肥後町バス停から大石橋バス停で乗り換え、泉涌寺道バス停で下車。泉涌寺への案内看板がある交差点を南東方向へ歩いていき、徐々に緩やかな上り坂に差し掛かると、「これこれ」と懐かしい。泉涌寺へはもちろん訪れていて、この上り坂筋には塔頭や西国33観音霊場の今熊野観音寺があり、すべて立ち寄っている。木々が生い茂るトンネルを抜けると泉涌寺への入口、大門がで~んと建っていて、さっそく近くの受付で手続きを済ませる。
泉涌寺は「御寺(みてら)」というほど、皇室から深く帰依せられている寺。四条天皇が当寺に葬られてから歴代の天皇の山陵がここに営まれるようになり、皇室の菩提所として信仰を集めている。もともとは、弘法大師がこの地に庵を結んだことからであるが、その後、月輪(がちりん)大師俊芿(しゅんじょう)が中国の宋の法式を取り入れて大伽藍を築き、寺地の一角に湧き出る清泉をもとに「泉涌寺」と改めたという(冊子参照)。
そんな厳かな雰囲気漂う境内の大門から下る坂道の先に、これぞ泉涌寺という、パンフレットや広告でもお馴染みの仏殿の景色が見え、写真を撮る。仏殿の脇には、今でも湧き出る泉涌水があり、祠も祀られている。
さっそく仏殿に入り、三世仏にお参り。天井には狩野探幽筆の「幡龍図」が描かれ、仏殿を守っている。説明によると、内陣左から阿弥陀、釈迦、弥勒と祀られていて、過去、現在、未来と、三世に渡り、人類の安泰と幸福を願い、南宋の習いに沿ったもので、座像は運慶作と伝えられている。三世仏の後ろに回り込むと、後壁にも観音さまが描かれていて、これも探幽作。じっくりと拝観し、いよいよ隣の舎利殿へ。
泉涌寺(2) - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 15:54:59
舎利殿は「京の冬の旅」では初公開。「舎利」とは、お釈迦さまの骨ということぐらいは、いろんなお寺を巡っていてわかっている。細かく言えば、骨を細かく砕いたものを「舎利」といい、そこから転じて「ごはんつぶ」=「しゃり」という言葉は豆知識で覚えている。
中に入るとカメラクルーが撮影していて物々しいが、ガイドさんが付き添い案内してくれ、ガイドさんによると、読売テレビの取材で、前日(だったかな?)に女優さんがナビゲート役にもう前撮りをしていたらしい。
…で、カメラクルーはほったらかしにして、堂内の説明をして下さる。舎利殿は1668年、
後水尾天皇の御代に再興されたもので、国の重文に指定、娘の明正天皇が京都御所から、今でいう図書館のような建物の一部を移築したといわれている。室町時代には猿楽師の世阿弥がこの場所を能舞台として謡曲「舎利」を演じられたことで知られ、謡曲「舎利」とは、簡単にいうと、足疾鬼(そくしっき)という鬼が舎利殿にある「仏牙舎利」を盗み、それを舎利殿の守り神である韋駄天が取り返そうする話。
その「仏牙舎利」(釈迦の歯)が内陣中央、舎利塔に収められていて、その脇に月蓋長者と韋駄天が安置されている。1255年、中国の宋から清来されたものであるが、月輪大師俊芿が南宋の大しょうこく寺(漢字がわからない…)で出会い、最初は日本に持って帰ることができなかったが、弟子の湛海律師に受け継がれ、持ってこられたとのこと。はるばる中国からやってきて、700年ほどの時を経て、今もって守り続けられている釈迦の歯。まったく関係ないが、自分のことながら、去年、前歯が欠けてしまい(鉄柱にぶつけ…)10年ぶりに歯医者に行って治療してもらったが、何と虫歯がないという、驚くべき診断に、これからも歯は大事にしないといけないなぁ~と、“守る”という意味で思考が飛ぶ。
天井に目を移し、狩野山雪筆の「龍図」が描かれていて、江戸で描き、分割されてここに運ばれたという。ガイドさんが床についている印のとこまで案内し、ここで手を打つとその反響音が、天から降る龍の鳴き声?のように聴こえることから通称「泣き龍」ともいわれていると。ガイドさんに勧められ、柏手を打つと「…鳴き声?」、凡人にはただ響く反響音しか聴こえないが、「なるほど…」と気を使う。
…そして、舎利塔の前には皇女和宮の小さな念持仏が祀られていて、拡大写真で紹介。堂内左手には釈迦如来図があり、7万108文字の経文で、金泥で施され、大正天皇が病にかかり、早く治るようにと描かれた代物や、釈迦如来像の掛け軸等々を拝観し、満足×2。境内、唐門や霊明殿、大門近くの、信長が建てた楊貴妃観音堂の伽藍を散策し、次へ。
高台寺天満宮 - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 15:55:57
泉涌寺道バス停に戻り、清水道バス停へ移動。八坂の塔への道から北へ外れ、高台寺の圓徳院の近くまで来ると、通りには京都らしく、人力車が数台止まっている。高台寺の緩やかな上り坂の石段参道を歩き、山門をくぐると、目の前に高台寺天満宮、左手に高台寺への拝観受付への石畳が続いている。高台寺は紅葉の時期、夜間拝観で訪れたことがあるが、もう10年以上は建っていて、今回訪れた高台寺天満宮のことは「あ~、こんな社があったようなないような…」と、印象がなく、ネットでこちらの御朱印がいただけるという情報が元で立ち寄った次第。
…ということで、改めて社殿を見、まるで祇園祭の山車のようなコンパクトな外観のイメージがし、中を覗くと菅原道真像が祀られている。立て看板の説明には「網敷天神 菅原道真公」と書かれ、北政所が崇敬していた網敷天神像で、道真公が大宰府に流されていくとき、船内に敷物がないため、船の友綱を撒いて円座とし、憤怒の形相をあらわにした像であると。藤原時平の裏切りは相当堪えたのか、怒った姿もわからないではないが、それを戒めとしているのだろう、その像の前でお参りし、近くの売店で御朱印をお願いする。ここから近くの利生堂というところでも御朱印をしていただけますよと、受付の方が紹介して下さり、行ってみることに。
高台寺利生堂 - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 15:57:09
東に目を向ければ、東山を背景に霊山観音の大きな観音像が顔を出し、周りは広い駐車場となっている一角に、真新しいお堂が見える。お堂といっても、休憩所のような新しい建物で、早速行くと、入口では靴を脱いでくださいとビニール袋が用意されていて、そこは広いホテルのエントランスのように、赤い絨毯が敷かれ、注意書きがなければ靴のまま入ってしまいそうな雰囲気。
中に入ると、礼拝堂のように椅子が並べられ、ぐるりと一周、壁一面に釈迦涅槃図が描かれていて、壁の釈迦が本尊となっている。“眠りについている”お釈迦さまに手を合わせ、休憩がてら椅子に座り、壁画を見、見上げると天井には、天使のような羽衣を着た飛天が天へ誘うように泳いでいる姿があり、しばらく見とれてしまう。壁の隅には縦長のエアコンが設置されているが、よく見ると、壁画の一部と同化し、考えられている。説明によると、法要や講演会を催すために作られたお堂で、高台寺所蔵の涅槃図をデジタル複製で貼り巡らせ、ハスの花をイメージし、八角形にしているとのこと。嘆き悲しむ弟子や動物たちの表情を1つ1つ見、ここに訪れた人が何かしらの、生や死を考える場所なのかなぁ~と思い、限をつけ、受付で御朱印をお願いする。「安心」という珍しい御朱印の題目に「なるほど~、そうきたか~」と何となく、ここの涅槃図から、そう書いた心理がわかるような気がして後にするのでした~
斎宮神社 - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 15:58:13
祇園バス停まで歩き、二条駅前バス停へ移動。そこから京都バスに乗り換え、有栖川バス停へ。行く予定ではなかったが、ネットで、自分で御朱印のハンコを押す神社があることを知り、夕暮れ前に立ち寄ることに。立ち寄るといっても、嵐山方面の遠くまでの移動距離だが、自分でハンコを押すということは、社務所には誰もおらず、時間を過ぎても大丈夫だろうと思い、訪れる。
斎宮神社はネットの情報によると、天照大神を祭神とし、伊勢神宮に仕える斎宮(いつきのみや)が有栖川通りに野宮を設け、ここに籠って示禊、祓の儀が行われた旧跡とのこと。話は変わるが、2年ほど前に三重テレビで「斎王」のことを全10話に渡って放映していて、皇女たちの生活や時代変遷を紹介。ある程度の内容は知っていたが、この場所で斎宮のことに出会うとは、改めてもう一度ビデオを見なおしたいと思う。
道路に面し、木製の鳥居が見え、境内に入ると、さざれ石や椋の大木が目立ち、散策。拝殿でお参りをし、社務所へ行くと、情報どおりスタンプセットが置かれていて、見本どおり御朱印帳に押印する。その間、社務所から人の話し声が聞こえ、無人じゃないんだ~と、思うことは…、まぁ~、それぞれの神社の都合もありますから…ありがたく御朱印をいただき今日はここまで。
大久保利通旧居跡 - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 15:59:13
西陣周辺のホテルで宿泊。堀川今出川バス停から河原町今出川バス停へ移動。今まで京都に来て、一回も立ち寄っていない「出町ふたば」の和菓子屋さんに行こうと、朝一で訪れる。有名な「豆餅」は、毎日1000個以上が売れる定番の和菓子に、行列はいつものことで、テレビでも紹介され、朝9:00頃、すでに行列ができている。
私を挟んで前後、外国人で、人気のスポットとしても有名なのがわかる。
豆餅2個と幸福餅1個を購入し、後ほど紹介。
河原町今出川の交差点を南西方向へ行き、大久保利通旧居跡の石碑を探す。「京の冬の旅」のテーマは明治維新150年記念。ということで、薩摩藩士の大久保さんが京都に住んでいた場所を訪ねる。そこは京都御所の東側。岩倉具視と討幕のための、朝廷工作にあたり、上洛して以降、京都に滞在することが多くなり、この地に邸宅を構えた場所で、御所に近い。
石碑がどこにあるのか、最初は見つけられなかったが、民家と民家の塀の隙間にちょこんと建っていて、今は忘れられたかのように石碑が佇んでいる。写真だけ収め淡々と次へ。
宝蔵寺 - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 16:00:15
河原町今出川バス停から南へ、河原町三条バス停へ。河原町の商店街アーケードを歩き、宝蔵寺に到着。こちらのお寺、伊藤若冲の墓が眠る菩提寺で、訪れたこの日、2月8日は若冲の生誕された日。寺宝展や生誕会が行われるということをネットで知り、訪れた次第。
伊藤若冲は江戸時代中期、京都高倉錦小路の南東角にあった青物問屋「枡屋」の三代目、伊藤源左衛門の長男として生まれ、父が42歳の若さで亡くなり、若冲23歳で4代目源左衛門となる。30代のころに絵画を志すようになり、次弟の宗巌に家督を譲り、茂右衛門と改名し画事に専念。京都を代表する画家として弟子が10人以上確認されているほど活躍、菩提寺である宝蔵寺には、作品が弟子を含め多く所蔵されている(冊子参照)。
宝蔵寺はもともと寺町にあり、秀吉の区画整備によって、今の裏寺町に移転、幕末の禁門の変で全焼し、本堂は昭和に入って建立されたそうな。
山門をくぐり、草木が生える境内に、正面に本堂、左手に庫裏があり、本堂前には伊藤若冲一族のお墓が並んでいる。本堂に上がると、拝観されている方々が結構いて、若冲ファン?だろうか、知っている人は知っているんだなぁ~と、本尊の阿弥陀如来に手を合わせ、さっそく奥の客殿へと移動。一室には、若冲、その弟子たちの作品が展示されていて、「竹に雄鶏図」「髑髏図」等々、水墨画が並び、じっくりと拝観。普段は、一般拝観はしていない宝蔵寺の寺宝を見ることができ、満足×2。生誕記念の御朱印をいただき次へ。
妙覚寺 - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 16:01:21
河原町の商店街で早めの昼食をし、河原町三条バス停から北へ、河原町今出川バス停で乗り換え、西へ堀川今出川バス停で乗り換え、北へ天神公園前バス停で下車。大通りを東へ渡れば、水火天満宮や本法寺、茶道で有名な表・裏千家の庵が周辺にある懐かしい町並みを歩き、妙覚寺に到着。ここも「京の冬の旅」では初公開となる日蓮宗のお寺。狩野一族の菩提寺でもあり、今回は偶然にも宝蔵寺といい、絵師つながりで訪れる。
参道を歩き、広い境内に本堂がで~んと建ち、庫裏へ移動。庫裏の前には立派な松の木が植えられていて、冬らしい茶色い苔の庭が癒しを与えてくれる。
受付で御朱印帳を預け、ボランティアガイドの案内で、まずは当寺の歴史と庫裏について。日蓮宗ははじめ、京都では受け入れられず、迫害を受け、日像上人が全国に布教活動をし、修行13年、27歳のころに後醍醐天皇に公に認められ、妙顕寺を建立することを許される。日蓮宗の後継者争いから身を引いた日寛(にちじつ)上人が、豪商の小野妙覚が寄進された四条大宮の土地に日像上人を開山として建てたのが妙覚寺で、4回の移転を伴い、現在の地にある。庫裏はいわずと知れた台所のこと。天井板が外され、梁がむき出しになっているのが特徴で、台所にちなみ、大黒天が祀られている。
本堂へと案内されると、内陣には釈迦と四天王の顔が描かれた、横に長い絵が展示してあり、まだ制作中とのこと。画家の塩沢文男氏の作品で、今年5月に、開眼法要が行われる予定なんだとか。今後300年間は保存される計画とのことで、本人がこの場で忙しく描いている。
本堂から見える庭は、「法姿園」と呼ばれ、法華経の教えである「諸法実相」という「あるがまま素晴らしい」という意で、毎朝の掃除のみの手入れだけなので、「あるがまま」といった感じそのまま。モミジが植えられていて、秋には特別拝観もあるそうで、またぜひ訪れたい。本堂の角に移動し、縁側から見る、外に建っている「華芳塔堂」の説明を聞く。お堂内には厨子があり、厨子の中に石塔があり、この石塔が「華芳塔」といわれている。かつて比叡山で修業されていた日蓮大聖人が、密かにご自身が書き写した法華経を納めるために石を彫って作られた塔。残念ながら中に納めていた法華経は紛失してしまったが、「華芳塔」は信長の比叡山焼き討ちをも耐え、残ったもの。厨子は「華芳宝塔」といい、桃山時代に作られ、観音開きの両扉には狩野派の絵師による中国風の衣装をまとった六神将と四仙、外側には四天王が描かれている。
渡り廊下を渡り、最初に見た本堂だと思っていたお堂は祖師堂といわれていて、江戸中期の建立。内部は豪壮な天蓋に、中央に日蓮大聖人、右に日朗上人、左に日像上人の三菩薩坐像が祀られていて、すべて等身大で、聖人たちの面影を今に伝えている。そして、内陣を取り囲むように、先ほどの塩沢文男氏作の十二支の絵画が並び、1つ1つ見て、三菩薩に手を合わせ、祖師堂奥の壁に祀られているとこへ移動。狩野元信筆の「大涅槃図」、幅4.6m高さ5.9mにおよぶ釈迦入滅の姿をとらえた絵をしばらく見、ガイドさんが説明して下さる。
釈迦如来は北を枕に、右脇を下にして眠りについていて、その周りに嘆き悲しむさまざまな弟子や動物たちの姿…、高台寺利生堂で見た「涅槃図」と絵の構図は変わらないと思いながら…8本の沙羅双樹のうち4本が黄色く枯れていると。沙羅双樹は常緑樹で、枯れることがないのに、釈迦の死の悲しみのあまり、枯れてしまったという表現をされている。そして、左から2番目の木の上に、赤い袋が引っかかっていて、釈迦の母君が天上の世界から死を聞きつけ、何とか助けたい一心で、薬の入った袋を落とすが、奇しくも木に引っかかって取れなかったという意味を表し、「薬を投げる」→転じて「投薬」という言葉が生まれた起源でもあるとのこと。「へぇ~」と詳しい案内を聞き、「なるほど~」といろいろ知識を深める。
もう一度、三菩薩像の正面に立ち、荘厳できらびやかな内陣を見、日蓮宗の総本山、身延山久遠寺を思い出しながら拝観できたことに感謝。手を合わせるのでありました~
薩長同盟と薩摩旧邸跡 - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 16:02:25
妙覚寺から東へ、地下鉄鞍馬口駅へ向かう。その道中、薩長同盟が行われた場所と伝わる近衛家別邸の御花畑屋敷跡、小松帯刀寓居跡の石碑があることを知り、立ち寄ることに。以前はここではなく、一条戻り橋辺りに石碑が建っていたが、2016年鹿児島県歴史資料センターの資料により、ここではないかという説が有力視され、今ある場所に移動している。石碑の敷地内に喫茶店があるので、ここにかつて家屋が建っていたのだろう、想像しつつ、想いに馳せる。喫茶店に入りたかったが、定休日のようなので諦め、薩摩つながりで、最初に薩摩藩邸が建てられた場所へ。
地下鉄鞍馬口駅から四条駅へ移動し、人の流れが激しい駅構内から地上に出、大丸百貨店を目指し歩く。デパートが立ち並ぶ四条通りは、相変わらずの賑わいで、そんな中、大丸百貨店の敷地に建つ石碑を探すが、見つからず、路駐している車の影に隠れているのを発見。「薩摩屋敷之址」と刻み込まれた石碑に、案内看板を一通り読み、「ここか~」と、ここでも想いに馳せる。蛤御門の変で焼失するまで160年間ここに置かれ、後に、前回訪れた相国寺の境内に設け、今は同志社大学となっているが、地図上で見ると京都の商いの中心地から御所の北近くに引っ越していることから、皇族との関係性を保ちたいという望みもあったのだろうと垣間見、いろいろと想いを巡らせる。今年は“薩摩イヤー”(勝手に銘々)で、鹿児島県の旅はたぶん無理だが、京都のゆかりの地だけでも訪れることができてよかったーっと、思うのでありました~
コーヒーと豆餅 - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 16:03:32
さて、今回の旅の行程はすべて周り、どこかへ行く予定がないので、どこぞで休憩をと、ネット検索し、京都御所内にある富小路休憩所へ。地下鉄四条駅から丸太町駅で下車し、東に向かう市バスに乗って裁判所前バス停で降りる。歩いて数分、ここは御所の敷地内の南東に当たる場所で、テニスコートなどのスポーツ施設があり、ジョギングやウォーキングをしている人を見かける。
休憩所に入り、軽い飲食もできるので、ホットコーヒーをお願いし、待ちに待った豆餅と一緒にいただく。豆餅ははっきり言って消費期限がない。いや、あるにはあるが、せいぜい1日で、翌朝には味が変わると聞いていて、その日のうちに食べるのが正解なのである。
いただいた冊子には、「出町ふたば」は明治32年の創業。初代の三次郎が生まれ育った石川県加賀小松にあった豆餅を、京都の地で根付かせたいと、「赤えんどう」を使った「大福餅」を作ったのがはじまり。「赤えんどう」は北海道美瑛、富良野産、中のこしあんは十勝産小豆を使っており、餅米は滋賀羽二重糯米を使用。掲載されているロゴマークが下鴨神社の神紋にあたる葵の葉が2枚描かれており、想像だが、そこから「ふたば」と店名が決まったのだろうかと。とにかく“繁盛”という言葉がまさにピッタリの和菓子屋さんだが、“繁盛”という裏にはここまで培ってきた苦労は、あの厨房?で忙しく手を器用に動かし続けている職人技から垣間見える。
…で、さっそく実食すると…、文句なし。感想はあえて言いません。っていうか、表現が見つからないし、一生に一度は味わってほしい。無難にコーヒーを頼んだが、豆餅に合うだろうかと、ちょっと失敗したかなっと思ったが、これがよかった! コーヒーの苦みが甘さを抑え(もちろん、豆餅だけで食べてもそんなに甘くはない)、ペロリと一気に食べ満足×2。
幸福餅は栗がベースだろうか、こちらも文句なし。次は違う和菓子も購入してみたく、休憩がてらゆっくりと「おやつタイム」と洒落てみました~
みたらし団子 - モリゾーのひとり言
2018/03/08 (Thu) 16:04:45
休憩所で京都の情報をネットで調べていると、そういえば有名どころでまだ、訪れていない場所があったことを思い出し、「豆餅」「下鴨神社」つながりで、加茂みたらし茶屋の行き方を地図検索。下鴨神社から西に位置する「加茂みたらし団子 本家 亀屋粟義」へは、下鴨神社前バス停から近く、行こうか行くまいか悩む。…っていうか、「今、豆餅食べたばっかやん」と自問自答し、お腹具合と相談。「よし、行ける!」と決断し、河原町丸太町バス停から北へ、1本で行ける市バスに乗り込み、バス停から数分歩いて到着。
店に入ると、ほとんどの席が埋まっていて、奥の席に座り注文。メニューを見ると、みたらし団子以外にもぜんざいやわらび餅もあり、甘味処といった感じ。名物のみたらし団子を頼み、あと飲み物を…「えっ、コーヒー、抹茶が売り切れ…」と少し思案していると、店員さんから「ゆずティー」を勧められ「では…」とお願する。
瓢箪のお盆がおしゃれな風合いを醸し出し、店員さんに撮影の許可をいただき、みたらし団子とゆずティーを実食。みたらし団子には爪楊枝が1本刺さっていて、「なるほど~これで串から引き抜くのか~」と、実際、この動作をすると、何か、お上品になった感じがして1玉1玉、“霊魂”を胃袋に取り入れるかのようにしてほおばる。普段、焼き鳥やおでんとか、そのまま串を口にもっていって引き抜く食べ方が主流だが、なるほど!こういう食べ方もあるのかと、さすが“京都”といった感じ。
前回の下鴨神社の項で紹介したが、「水泡」や「五体」の由来説明が壁に貼りだしてあり、昔はみたらし団子に限らず、団子は神前に供え、祈祷をした後、それを家に持ち帰って食した風習があることが書かれていて、「団子」って、季節を通して「端午の節句」や「中秋の名月」「お月見団子」、「お彼岸のおはぎ」…おはぎは違うか…で、よく考えると、神格化した代物だなぁ~と改めて気づき、“ご利益団子”としていただくのでした~
ちなみに、別腹に「豆餅」、別腹に「みたらし団子」と、お腹を満たし、その日の夕食は大丈夫かと思ったが、これまた、しっかり胃袋を満たし、別腹はやっぱし別腹、ブラックホールは存在する…などと呆れる想像をするのでした~