寺社仏閣 ご朱印の旅

80742
ブログが面倒くさいので、掲示板で紹介していま~す。よろしくお願いいたします。
(広告、宣伝などの書き込みはご遠慮願います。)

また32、京都の旅 - モリゾーのひとり言

2019/02/21 (Thu) 11:30:47

「京の冬の旅」も何回目だろうか、冬の京都に訪れるのが定番になってしまったが、御朱印も兼ね、文化財の特別公開が見られることもあって、今年も行ってきましたよ~京都。
…で、今年で53回目を迎える「京の冬の旅」のテーマは、「京都に見る日本の絵画」。全体的に長谷川等伯や狩野派など、京都で活躍した絵師がメイン。過去に見てしまっているお寺もあるので、まだ見てないところを観賞~

御霊神社 - モリゾーのひとり言

2019/02/21 (Thu) 11:31:43

京都駅地下鉄案内所で「バスなびマップ」を手に入れ、バス・地下鉄の2日乗車券を購入するが、いつの間にか300円安くなっていて、「京都、儲かってんなぁ~」と思いつつ、地下鉄京都駅から鞍馬口駅で下車。まずは相国寺慈照院を目指すが、その前に、駅から東にある御霊神社でお参りに。
鳥居付近の「応仁の乱 勃発地」の石碑・看板を見、歴史の凄いとこにいることを実感しながら鳥居を潜る。伏見城から移築された立派な楼門を見上げ、境内に入ると、何となくこんな感じだったかな?と、前に来た時を思い出すが、そんな程度でしか思い出せない。
手水舎で身を清め、参道正面の社殿でお参り。社殿内で宮司さんが複数の参拝客に祈祷をしているのを見、1月下旬とはいえ、まだお正月気分を味わう。
御霊神社は、平安遷都の794年に桓武天皇が非業の死を遂げた弟、早良親王の怨霊を鎮めるために御霊として祀ったのが始まり。その後、井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫を合祀して、神泉苑に六座の神座を設け、悪霊退散の御霊会が催されている。
境内を散策、松尾芭蕉の句碑や絵馬殿、応仁の乱の、畠山政長が陣を敷いた御霊の森を見、
社務所には「京都十六社めぐり」の幟が立っているが、違う種類の御朱印があればいただくが、同じものはいただかない主義なので、ここはスルーして次へ。

相国寺慈照院 - モリゾーのひとり言

2019/02/21 (Thu) 11:32:42

御霊神社から南へ。相国寺の敷地内に行けば、案内看板が立っているだろうと行ってみると、なかなか見つからない。「あれっ?」どこにあるのかわからず、結局、タブレット地図機能で検索すると、境内地より道路を挟んで北側にある。その方角へと行くと、土塀が道路に面して建ち、「ここだな!」と山門を入っていく。石組を配した枯山水庭園に、苔庭に松の古木が植えられていて、その中を石畳が続く、塔頭寺院ならではといった雰囲気で、受付で拝観料を支払う。
相国寺慈照院は、「京の冬の旅」では6年ぶりの公開となるお寺だが、私は初めて。玄関を入り、恒例となったボランティアガイドさんの説明が始まる。
慈照院は、初め大徳院と称し、後に室町時代、足利義教公の菩提寺となったことから、法号の「慈照」を名に改名された。当院の第7世にあたる仏性本源国師が、桂宮智仁親王や智忠親王と親交があり、桂宮家の菩提所となったため皇室とも深い関わりを持つようになったとし、障壁画や本堂内の本尊、十一面観音や親王の位牌、建物の造りなどを紹介して下さる。
本堂から眺める庭園には、「陸船松」と呼ばれる樹齢300年の松が植えられ、本堂内の寺宝、中国の歴代皇帝に纏わる故事を描いた81ある内の2巻の屏風絵が展示してある「帝鑑図」の説明を聞き、書院へと移動。桂宮の御学問所として建てられた「楼碧軒」に、朝鮮通信使に纏わる書画や屏風などの宝物、新聞記事が展示されている。
朝鮮との外交のために対馬に置かれた役所に、京都五山に列せられた寺院から僧侶が交代で派遣され、この寺院からも5人の僧侶が手伝いに行ったそうな。そんな交流もあり、朝鮮から贈られた数々の宝物が、書院からさらに奥へ行った宝物館にある。ガラスケースにそれぞれ5人の僧侶の自画像の掛け軸、朝鮮通信使が日本に来日した時に書き留めた記録など。中でも平成29年11月、ユネスコ世界登録遺産に登録された、朝鮮通信使に関する記録「韓客詞章」の巻物4巻が展示されている。ガイドさんの話によると、江戸時代、朝鮮通信使が大坂の港にたどり着いた際、慈照院の僧侶が日本を案内し、その旅を記録した中に、「富士山」や「大坂城」の文字があることから、訪れた先がわかっていて、その記録を譲り受けて、今まで倉庫に保管されていたそうな。そんな同じような宝物が長崎県でも史料が保管されていて、2年前に一緒にユネスコに申請したところ、登録され、今回の展示となったようだ。2007年には朝鮮通信使400年(…だったか忘れた)祭りということで、京都市中をパレードした祝賀もあったそうで、慈照院が朝鮮との貿易に関与していた歴史を知り勉強になる。
いろいろと教えて下さり、お礼を述べ、客殿の方へ。書置きの御朱印が4つもあり、すべて奮発購入。帰り際、御霊神社に立ち寄ったときの、境内に雪が一部、積もっていたことを思い出し、「京都では雪が降ったんですか?」と尋ねると、2日前に降っていたそうで、まだまだ寒さは続きそうだ~と、他愛もない会話で別れるのでした~

本法寺 - モリゾーのひとり言

2019/02/21 (Thu) 11:33:43

相国寺慈照院から次の本法寺へは、徒歩15分ほど。上御霊前通りを西へ、水火天満宮の前の公園までたどり着けば、この界隈は日蓮宗派のお寺が集まっているエリア。昨年の「京の冬の旅」では、妙覚寺を訪れ、寺宝や庭園のこと、「南無妙法蓮華経」の世界に触れたことが思い出される。
堀川通りから失礼して、大きな本堂、奥に多宝塔が見え、客殿玄関から入る。本法寺は今回で3回目。「巴の庭」と大きな「佛涅槃図」を拝観したことを憶えているが、今年の「京の冬の旅」のテーマ「京都に見る日本の絵画」としては、狩野山楽の「唐獅子図屏風」や本阿弥光悦の「花唐草螺旋模様経箱」が展示されているので、訪れた次第。
受付で拝観料と御朱印帳を預け、順路看板どおり進む。3つの築山を巴形に配した枯山水庭園「巴の庭」。半円を2つ組み合わせた「日」と、切石で十角形に縁どられた蓮池「蓮」を表し、「日蓮」の名にちなんだ意匠が見られる。この冬の時期は、積雪でもあれば風情を味わえるだろうが、正直、素人考えでは何か物足りない。パンフレットには紅葉の時期の写真が載っていて、やはり秋の時期でないと盛り上がらない。
次に、十(つなし)の石庭を眺めながら、廊下を歩き、巨大な「佛涅槃図」のあるとこへ。京都三大涅槃図の1つであり、長谷川等伯の長男、久蔵が25歳の若さで亡くなり、供養的な側面から描いたとされる61歳の時の作品。展示品は原寸大を複製したものなので、すご~く絵が荒く見えるが、毎年春の時期にモノホンが公開され、その時に見ているので、「まぁ、いいか」って感じ。
…と、ここで、本法寺の沿革について。まぁ~簡単にいえば、室町時代に日親上人が創建した日蓮宗で、この日親上人が他宗派批判を繰り返して、移転移転と破却に遭い、大坂堺に避難して後に、一条戻り橋付近で再興し、秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の影響で、現在地に移転と、移転の連続。そんな中、外護者であった本阿弥光仁・光悦の親子の支援を受けて、伽藍を整備し、京都の町に繁栄した(あと天明の大火で焼失とかありますが省略)…とまぁ~、本阿弥光悦の縁がある。
本阿弥光悦といえば、私にとっては「宮本武蔵」。史実で出会ったかどうかはわからないが、吉川英治の小説「宮本武蔵」で登場する。光悦は元々、刀剣の鑑定や研磨を生業としていて、足利幕府に仕えていた人物。そんな彼が「船橋蒔絵硯箱」や「楽焼白片身変茶碗」などの国宝級の芸術作品を世に残しているのも、いかに器用であったかがうかがい知る。「佛涅槃図」の後ろに展示されているガラスケースに「花唐草螺旋模様経箱」、「赤楽茶碗」「翁面」が展示されており、芸術的センスは、当時としては抜群であっただろうと、1つ1つの作品をじっくりと見る。
「佛涅槃図」を見下ろせる2階へと移動し、そこには狩野山楽筆「唐獅子図屏風」が展示。金箔の屏風に力強い獅子が1頭、大きく描かれていて迫力がある。ガイドさんによると、向かって右下に小獅子が1頭描かれていたらしく、金箔で消した跡があり、この獅子は親子を描いたのではないかとのこと。「なるほど~」と見入り、ひょっとしてもう一枚続きの屏風があって、そちらにつながっていた絵ではないかとも勝手に想像し、目に焼き付ける。
特別公開となった「唐獅子図屏風」だが、本法寺では、期間ごとに長谷川等伯筆の「波龍図屏風」など展示入れ替えがあるので、もう一度訪れるか迷うところであり、「唐獅子図屏風」と書かれた御朱印もあることから、「波龍図屏風」も…なんてあるだろうと、どうしようか…。
お礼を述べ、境内、本堂前にある、光悦お手植えの松と、空を見上げる長谷川等伯の銅像を見、気づいたら小雨が降ってきたので、等伯に別れを告げ、急いでバス停へ。

神泉苑 - モリゾーのひとり言

2019/02/21 (Thu) 11:34:38

堀川通りを南へ。堀川寺之内バス停から堀川御池バス停で下車、タイミングよく京都バスの嵐山行きのバスに飛び乗り、神泉苑前バス停で降りる。何回も訪れている神泉苑。1月限定で「鵜森」の御朱印がいただけるということで、鳥居を潜ると、あいかわらずの池にはカモが冬なのに元気である。お参り後、法成橋から鳥たちの姿を何気もなく眺めていると、一羽のサギが境内に溶け込んでいる。置物かと思ったが、時折、足が動くのを見、「まさに詐欺師」としょーもないダジャレを思い浮かべつつ、サギではないが、「鵜森」の御朱印をいただく。
なぜ「鵜森」なのかは、神泉苑のHPを見ていただくとして、神泉苑の御朱印の数もどこまで増えていくんだぁ~と、神泉苑さんの狙いが何となく垣間見えた気がして…お礼を述べ後にする。

善想寺 - モリゾーのひとり言

2019/02/21 (Thu) 11:35:41

神泉苑前バス停から二条駅前バス停で下車。千本通りを南へ、壬生操作場前バス停で降りる。この界隈も懐かしい。坂本龍馬ゆかりの武信稲荷神社を訪れたことがあり、この近くに今回の「京の冬の旅」初公開となる善想寺がある。
冊子によると、善想寺は想阿善悦(そうあぜんえつ)の開基、法名の二字を取って善想寺と名付けられた浄土宗のお寺。平安中期の上皇の御所があった四条後院の跡地に建てられ、この地に祀られていた「石仏阿弥陀如来」の歴史があることから創建された。
こちらのお寺は仏像がメイン。さっそく町中に溶け込んだ山門から失礼し、受付を済ませ本堂へ。荘厳な内陣の正面に本尊の阿弥陀三尊像が祀られていて、脇侍は少し膝を曲げ、腰をかがめているかのような観音菩薩と勢至菩薩が安置されている。その両脇壇にも阿弥陀三尊像が祀られていて、左側には長野県の善光寺式阿弥陀三尊像。光背は船形になっていて、一光三尊形式、脇侍が御両人とも胸の前で両手を水平に重ねる、変わったポーズを取っている。
お参りをし、左手に寺宝の掛け軸と屏風がある。ガイドさんによると、京都出身の絵師、円山応挙、40歳の作品で「七難図」、それから「法然上人絵伝」の屏風を展示。「法然上人絵伝」は大原問答をしている法然上人と、天台宗の高僧や比叡山の僧侶たちとの様子が描かれている。
お礼を述べ、境内の墓地に「石仏阿弥陀如来」があるのでそちらへ。花崗岩で彫られた石仏は、今も信仰の対象となっていて、平安時代からここの町の人々を守っていると思うと、御利益がありそうで、しっかりお参り。墓地には池坊(華道ですよ…)歴代の墓碑に、京都相撲最後の横綱○○(名前忘れた…)の墓があり、こちらも手を合わせる。
境内山門近くには「泥足地蔵尊」がある。最澄さん自ら、一彫りするごとに三度祈りながら彫られたという。滋賀県坂本村に祀られていたものを、こちらの寺に移動し、通常は山門外の建屋に安置されているのを、今回は特別にお顔が見えるように公開している。左手に錫杖、右手に宝珠を持ち、片方の足を膝に乗っけている姿はお地蔵さんでは珍しいとのこと。
なぜ「泥足」なのか。昔、農民の作兵衛というものがいて、(一部省略)三日三晩、病で伏せ、田植えができなかったが、体力が回復して見に行くと、青々とした苗が植えられていて、お地蔵さんを見ると、足に泥がついていた…という云われがあるそうな。人々の身近な願い事を身代わりとなって叶えてくれるお地蔵さんに、京都の鈴虫寺を思い出し、「なるほど~」と、ガイドさんいわく、今回、専用の用紙に願い事を書けば、住職さんが祈祷してくれるようで、一応、用紙に書いて投函。手を合わせ、写真を撮っていいということでしっかり撮り、お腹いっぱいで今日はここまで。

仁和寺 金堂・経蔵 - モリゾーのひとり言

2019/02/21 (Thu) 11:36:55

四条大宮駅近くのホテルで一泊し、市バスを乗り継いで仁和寺へ。仁和寺は春の時期の御室桜を始め、3,4回来ている。仁和寺は、光孝天皇の意志を継いで宇多天皇が造営し、年号にちなんで「仁和寺」と名付けられ、明治維新まで約千年に渡り、代々皇室から住職を迎える門跡寺院なので、「御室御所」と呼ばれている。
何回も訪れている仁和寺だが、金堂と経蔵の内部を見たことがなく、「京の冬の旅」を機会に拝観した次第。仁和寺のバス停で降りると、相変わらずの大きな仁王門、横幅の広い砂利参道を歩き、中門を抜ければ左に開花を待つ御室桜、右に重文の五重塔、そして正面に横長の金堂があり、受付で拝観料を支払い、さっそく中へ。
内側に開く蔀戸(しとみど)をくぐり、5間ほどの長い空間に、阿弥陀三尊像が祀られていて厳か。ちょうどボランティアガイドさんの説明が始まるので、椅子に座り、かなりの参拝客で埋まる中、仁和寺の歴史から始まり、金堂の説明へと移る。
現在の金堂は、京都御所にあった紫宸殿(寛永年間築造)を慶長年間のときに移築したもので、昭和8年に国宝に指定され、その当時の寝殿様式を色濃く残しているとのこと。須弥壇に阿弥陀三尊像、その周りに四天王像が祀られていて、元々は光孝天皇の等身大の大きさの阿弥陀如来が安置されていたそうだが、今は霊宝館に展示されているという。阿弥陀さんの背面の壁には「浄土図」が描かれているが、暗くて見えない。その壁の裏側には、五大明王が描かれていて、昨年の暮れに約350年ぶりに公開していたらしい。その五大明王を公開する予定はないというから、また350年?待たないといけないと思うと残念である。
ガイドさんのお話が終わり、参拝後は思い思いに近づけるとこまで行って阿弥陀さんを拝観。黄金に輝く阿弥陀さんに手を合わせ、次は経蔵へ。
金堂の東側に建つ経蔵も外観は立派。お経の保管箱である経蔵は、中国で考案された回転式経蔵で、一回転させれば、経典全巻を読んだのと同じ功徳が得られるというもの。8面にびっしりと768の引き出しがあり、それぞれに漢字一文字がインデックスのように書かれ、1つとして「字」が重なっていないとのこと。江戸時代に天海上人が作られ、「天海版一切経」といい、当時は経蔵を造るのがブームになっていたと。私が知っている経蔵だと、長野県の善光寺の経蔵で回したことがあるが、動かすのになかなかに重かったことを思い出し、こちらの経蔵は、現在は回すことができないらしい。輪蔵の下には、色彩豊かな彫刻があり、お堂の内部の壁には十六羅漢や八大菩薩が描かれている。輪蔵の正面には釈迦如来を始め、仏像オールスターが勢ぞろいしていて、お参り。仁和寺の宝物を拝観できて満足×2。
…さて、来た道を戻り、境内を歩いていると、小学3,4年生ぐらいの子供たちに「すみませ~ん」と呼び止められ、「この中でどれが綺麗ですか?」と4つの写真を見せられる。
「???」と、周りを見渡せば、あちこちで子供らに囲まれてる大人たちがいて、「課外授業かな?」と協力する。4つの写真はどれも仁和寺にちなんだ写真だろう、仏像や建物、風景など、綺麗なものと言われて、大の大人が意外と悩んでしまう。適当に選んで「ありがとうございました~」とお礼を述べられ、歩いているとまた、子供らに囲まれ、今度は「好きなものは?」と。これが合わせて3回ほど尋ねられ、境内を抜けるにも時間がかかってしまう。が、なかなか、こういう経験も楽しく、近くの御室小学校だろう、「世界遺産が身近に感じられて、いいなぁ~」と羨ましく思い、子供らに手を振って別れる。

写真は経蔵

転法輪寺 - モリゾーのひとり言

2019/02/21 (Thu) 11:37:58

仁和寺の東門から抜け、北へと坂道を上がっていくと転法輪寺がある。「京の冬の旅」では初公開となるお寺で、私も初めて。駐車場の先に、白い楼門が見え、近づくと上に、鐘楼が付いていて立派。その竜宮城のような鐘楼門をくぐり、小ぶりだが、枯山水庭園が境内を埋め、清潔感あふれる雰囲気。
庫裏の玄関から失礼し、本堂へと入ると、「おぉ~」と思わず唸る。インパクト大の本尊、阿弥陀如来坐像がで~んと祀られていて、存在感ありすぎ。阿弥陀さまを“ステージ”に、“客席”に座り、ボランティアガイドさんの説明を聞く。
転法輪寺は関通上人の開基で、この方、尾張の出身。13歳で出家し、京都へ来て、東三本木の転輪寺(今の三本木円通寺)に住持し、専修念仏を広めていたが、なかなか布教せず、別の地を求め、北野天満宮の門前に転法輪寺を創建し、本尊の阿弥陀如来を造って勤修された。その阿弥陀如来は、西方に居られるべきとの声のもと、更なる西方である御室へと移転、昭和3年に現在の地において新たに落慶法要をされたとのこと。
この関通さん、もとより、この名前がない。江戸増上寺での留学の帰路のこと、箱根の通行手形による旅人の往来を見て、人間界の苦しみの関所も「南無阿弥陀仏」の手形があれば、必ず抜け出すことができると悟り、「関通」を自身の名としたそうな。「えっ、そんなことで?」と凡人には思えてしまうが、やはり関通さん、関所で悟りを開いてしまうとは、違いの分かる男である。
阿弥陀如来坐像に関していえば、京都では阿弥陀如来像の木造では一番の大きさを誇り、光背は2段に分かれ、上の方には桜町天皇の手鏡が付いているとのこと。両肩から通衣(衣が垂れていること)されているのは珍しく、通常は左肩から衣が垂れていると言う。胎内には桜町天皇直筆の名号(南無阿弥陀仏)や、関通さんの念持仏が納められている。
本尊の右前に一際目立つ大きな木魚。全国で2番目に(1番目は北海道小樽にあるそうな)大きい木魚で、1本の木から作られ、台湾製であること。本堂左手には「大涅槃図」が飾られ、本法寺で見た「佛涅槃図」より4分の1ぐらい小さくした作者不明の、お釈迦さま入滅のお姿が描かれている。
そして、本尊の裏側には厨子内に安置されている裸の阿弥陀如来立像。お姿は童子の形をした像で、下半身は袈裟の生地で作った袴だけを履いている。室町時代以前の作ということで、天智天皇の誕生に纏わる説話が残ることから、安産守護のご利益があるとのこと。
一通り拝観。見上げた阿弥陀如来坐像は、奈良の大仏とまではいかないが、そんでも、どっしりとしたその存在感は、横顔や胴体からも感じ取れ、しばらく見とれるほど。写真は撮っていいということで、この出会いに感謝し、客殿へ移動。関通上人や山下現有大僧正(知恩院第79世にあたる人で、当寺に大正時代、住持し、103歳まで生きられた方)に纏わる像や掛軸の展示を見、100円で甘茶の接待を受ける。茶菓子を食べながら、ガラス越しに望む庭の千両?(に似た赤い実のある)の実が、冬の季節をよりいっそう感じられる風景に落ち着き、ほっこり。書置きの御朱印、さらに、自分で浄土宗の寺紋を押すスタンプ?をいただき、転法輪寺さん、いいお参りでした~

妙心寺東林院(1) - モリゾーのひとり言

2019/02/21 (Thu) 11:39:03

仁和寺前のバス停へ行こうと思ったら、ちょうどバスが発車してしまったところで、「しまった!」と思ったが、「まぁいいか!」と、妙心寺まで歩いて行ける距離なので歩く。妙心寺の塔頭寺院でも「京の冬の旅」の企画に参加している寺は3つ。これらはすべて過去に訪れているので、今回は行かないが、昼メシ時、妙心寺東林院という塔頭寺院では、「小豆粥で初春を祝う会」(1/15~1/31まで)なる精進料理がいただける催しがあり、ネット情報で訪ねた次第。参加費3800円と私にとっては大奮発だが、ここはお正月気分やお布施という意味も込め、自分にご褒美。
妙心寺北門から広い敷地に入り、石畳を歩いて行く。東林院は地図上では東側に位置していて、かつて「京の冬の旅」で訪れた塔頭寺院の山門を見ては、それぞれの寺宝を思い出し、今年も公開している寺院では、人が吸い込まれるように入っていく。
東林院の山門をくぐり境内に入ると、整った苔庭に松が植えられていて、いい雰囲気。実は前から行きたいと思っていた東林院は、沙羅双樹が有名なお寺で、6月には「沙羅双樹を愛でる会」の催しがある。NHKやEテレでは精進料理や宿坊でよく紹介されていて、そういうお寺なんだ~ということは知っていた。
東林院は細川氏綱が父、高国公の菩提を弔うために建立した三友院に始まり、山名豊国が東林院と寺号を改めて妙心寺に移し、開基としたお寺。沙羅双樹の庭園をはじめ、「千両の庭」、槙の木の枝に黒松が自生した「飛龍の宿木」があり、京都ならではの趣を味わうことができる。
玄関の下駄箱には靴が数十人分並び、「おっ!結構来てるんだぁ~」と、閉じられた障子を開ける。中にはいきなり受付の方が座ってらっしゃって、料金を支払い御朱印もお願いする。方丈兼本堂の、広い座敷で「ここでお待ちください」と案内され、しばらくすると、給仕の方が四角い重箱の1つの箱と、お茶を持ってきて、「精進料理の用意ができるまで召し上がって下さい」と和菓子でもてなしてくれる。箱には「松の雪」と呼ばれる小倉あん、小豆きんとん製の和菓子、乾燥昆布、干し柿、豆、くわい、千菓子、みかんとバリエーション豊富。お茶と思っていた湯飲みには、白湯に梅干しが入った梅湯で、ただのお湯だが、ほんのり梅の香が味わえる。小さな冊子には「祝い菓子」と書いてあり、それぞれの菓子に、豆ならマメであることとか、みかんなら(橙)代々続き栄えるとかの意味を持たせている。
「食後のデザート」と言うが、メイン料理を食べる前に和菓子を食べる…精進料理って、こういうおもてなしの仕方?なのだろうかと思い、一息ついたところを見計らうように給仕の方が見えて「どうぞ」と、書院の方へ案内して下さる。庭が見渡せる廊下を歩き、客殿の一室に失礼すると、先客がいて、御婦人方が食している。案内された座布団の、時代劇で見る、殿様が食事をするシーンのお膳が置いてあり、「おお~っ!」と声には出さずとも感動しながら座る。

妙心寺東林院(2) - モリゾーのひとり言

2019/02/21 (Thu) 11:40:53

給仕の方がメインの小豆粥を持ってきて、一皿一皿、料理の説明をして下さる。今となってははっきりしたことを忘れたので、この場で説明できないが、分かっているのは、酢味噌わさび風味のおひたし、黒豆に塩昆布など。精進料理なんて、そんなに食べたことがないので、どれも未知なる料理ばかり。食べる前に、この寺のしきたりなのだろうか、「さば器」と呼ばれる木片でできた塵取りのような形に、ごはん粒を7、8粒、箸で乗っけるのだそうだ。これは、禅寺では食事の前に般若心経と食事五観文などを読み、自分の受けた食の中から少量の「さば(生飯、施食)」を分かち、庭の木々などに備えて、小鳥や小動物に施すという「さばの儀式」があるそうな。「さば器」には食事された方の“さば”が並び、私もそれに倣い、少量のごはん粒を乗っけて、ようやくいただきます。「孤独のグルメ」のゴローさんのように心の中で解説。
まずは小豆粥から。紫色に染まった粥には餅も入っていて、ぜんざいとはほど遠いが、小豆の風味が鼻に抜け、なかなか乙な味。小鉢にはふろふき大根に油揚げなど、それぞれに味があって、それぞれに邪魔をしない。その中で1つだけ異彩を放つ蛇腹昆布は、人間のあばら骨のような形で揚げてあり、お菓子のようである。
すべて胃に納まってしまえば満足感も上がり、意外とお腹いっぱい。お茶をすすり、幸福感に浸る。気づけば、周りの御婦人方がいなくなり、その次席に、再び訪れるであろうお客さんの配膳が整い、お寺なのに?商売繁盛である。精進料理と侮るなかれ、なかなかに満腹感を得られるおもてなしに、こういう昼食もありかなっと席を立つ。
廊下を歩き、「飛龍の宿木」を見、祝い菓子を食べた座敷まで戻ってくると、これから食事に入られるお客さんが私と同じように“おもてなし”をされていて、かなり人気である。外の庭を見ると、さば器が置いてあり、小鳥でも来るだろうかと写真に収め、受付で御朱印帳をいただき、お礼を述べ外へ。来た時に気づかなかった、沙羅双樹の形をした瓦が庭に置いてあり、案内板には同じものが玄関の屋根に備え付けてあると…振り返って見上げると、寒空の下、沙羅双樹が“咲いていて”、この寺ではさぞかし、沙羅双樹が鬼瓦の役目を果たしているのだろうかと、しばらく眺めるのでありました~

蛸薬師 - モリゾーのひとり言

2019/02/21 (Thu) 11:42:07

妙心寺北門前バス停から一本で河原町三条へ行ける10系統のバスに乗り、しばらく居眠り。河原町三条バス停で降り、新京極通りの商店街を南へ下ると誓願寺がある。こちらを訪れたのは、新西国霊場の1つなので、御朱印をいただきに立ち寄る。誓願寺は2回ほど訪れており、石段を上がれば大きな本堂に、入口からすでに大きな阿弥陀如来坐像が出迎えて下さり、懐かしくお参り。さらに新京極通りをさらに南へ下ると、商店街の中に溶け込むお寺がある。永福寺という通称「蛸薬師」。
永福寺は平安後期、室町の富者で、出家した林秀というものが、比叡山の本尊、薬師如来の夢告により与えられた、最澄が刻んだ石仏の薬師如来を祀るため、二条室町にお堂を造ったのが始まり。「蛸薬師」とは、鎌倉時代、永福寺にいた善光という僧が、病気の母親に好物のタコが食べたいと懇願され、思い悩んだ末に僧の戒めに背いてタコを買うため経箱を抱えて買いに出たところ、これを見ていた人に咎められるという出来事が。そんな善光が日頃から信仰する薬師如来に祈念し箱を開けたところ、タコは八本の足を変化させて法華経八軸の経巻に変わっていて、さらに経巻から霊光が放たれ、その光を浴びた母親の病がたちどころに回復したという由来。以来、病気平癒として京の町の人々から「蛸薬師」と呼ばれるようになったとさ。…ということで、タコじゃなくイカだったら「烏賊薬師か!」っと、ツッコミたくなるが…、
…で、ネットの情報では他にも、2つ御朱印が増えたと知り、訪れた次第で、まずはお薬師さんにお参り。境内?というには狭すぎる、本堂内のような敷地に、お地蔵さんやお不動さんが所狭しと安置されていて、ふと、奥に抜けそうな細い石畳を見つけ進むと、「おっ!」と京都らしく広い空間に出る。妙心寺という本堂があり、堂内に阿弥陀如来像が祀られていてこちらもお参り。妙心寺といっても、先ほど訪れた妙心寺ではなく、説明看板によると、元々永福寺の南隣には圓福寺というお寺があったが、幕末の大火で焼失し、明治維新に京都府の区画整理により寺域の大部分が没収されたため、愛知県の岡崎にあった妙心寺と寺号を交換したと。その後、妙心寺は永福寺の境内に仮本堂を建てて妙心寺の本尊を安置し、法性山無量寿院妙心寺となったとある。ちなみに、圓福寺の方も浄土宗深草派本山として、現在も愛知県岡崎市で現存しているらしい。
周りを見渡せば、大黒天を始め、七福神や豊川稲荷、福地稲荷、秋葉権現などが祀られていて、こちらも所狭しとお堂があり、全部ではないが手を合わせる。しばらく佇み、先ほどの本堂に戻ると、ガラス張りで仕切られた受付のような御朱印所があり、僧侶さんがいらっしゃるので、御朱印をお願いする。ガラスには御朱印の種類が貼り出されていて、全部で8つ。「ネット情報よりもめっちゃあるやん…」と独り言ち、悩んだが、お正月バージョンを含め全部お願いし、しばらく待つ。棚には京都の薬師霊場の御朱印帳があり、巡礼したい気持ちを抑え、ペラペラとパンフレットを見て、巡礼した気分に浸る。全部書いて下さることに申し訳ないことしたかな?と思いながら、丁寧にお礼を述べ後にする。

八大神社 - モリゾーのひとり言

2019/02/21 (Thu) 11:43:11

時刻は16:00ごろ。これで今回は終了~と思っていたが、ふと、本法寺での宮本武蔵のことが頭をかすめ、「行ってみるか!」と武蔵ゆかりの八大神社を目指す。河原町三条バス停から5系統で一乗寺下り松町バス停で下車。もう何回も来ているので、地図を見なくてもスイスイと坂道を上がり、詩仙堂の山門横を通り過ぎ、「八大神社」という看板が目に付く鳥居のところまで来る。ここで呼吸を整えるために立ち止まり、しばらく何とはなしに佇む。ここから先、さらに坂道を上がれば狸谷不動院があり、そこに武蔵が修行した滝があることを思い出しては鳥居を潜る。
八大神社を一番最初に訪れたときは、参道坂道に、宮本武蔵を演じた俳優さんが写真パネルとなって飾られていたが、今はそのパネルもなくなり、薄暗い木々で覆われた中を歩く。
八大神社の創建は鎌倉時代。八大天王が勧請された京都洛北一乗寺地区の産土神が元で、祭神は素戔嗚命、稲田姫命、八王子命。宮本武蔵が境内地である「一乗寺下り松」において吉岡一門と決闘し、決闘の前に奉拝した神社として知られている。境内はあいかわらずの雰囲気で、石段を上がった本殿でお参り。一乗寺下り松の古木に、宮本武蔵像を見、「我れ神仏を尊んで、神仏を恃まず」のフレーズが自然と浮かび、私にとってのお参りをするときのベースがここにある。
社務所で二刀流の武蔵が描かれた御朱印帳を購入し、見開きで剣鉾が描かれた御朱印をいただき、今日はここまで。かなりの出費も痛かったが、充実した京都の旅…また次も京都、3月(予定)の旅を楽しみに帰郷~

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
文字色
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.