寺社仏閣 ご朱印の旅

80831
ブログが面倒くさいので、掲示板で紹介していま~す。よろしくお願いいたします。
(広告、宣伝などの書き込みはご遠慮願います。)

出雲の旅(1) - モリゾーのひとり言

2019/11/14 (Thu) 14:39:53

大分、御無沙汰してしまいました御朱印の旅。私事ではありますが、何かと親族の方で不幸がありまして…半年ほどお休みをしていた訳でして…それで四十九日も過ぎたことから再開。
てなわけで、今年は有休を消化しないといけないという会社のお達しにより、5日間ほど遠出をしてきました~。それが島根県。出雲には必ず行ってみたいという願いを叶えるべく、1年ぐらい前から計画を練っていたのでありんす。
というわけで、初めての島根に10月下旬、行ってきましたよ~

山王日吉神社 - モリゾーのひとり言

2019/11/14 (Thu) 14:40:55

JR出雲市駅へ行くには岡山を経由し、特急やくもで半日かけて移動。15:00ごろに到着すると、4泊もお世話になるホテルにまずは荷物を預け、駅東側にあるレンタサイクルのとこへ。18:00までが返却時間のタイムリミットなので、それを頭に入れ、まず山王日吉神社を目指す。
駅から東へ数分、ちょっとした小高い丘が見え、「あそこか~」と分かるくらい神社の雰囲気を醸し出している。鳥居からまっすぐのびる石段を見上げ一礼。手水舎で身を清めていると、境内に神猿の石像が見え、滋賀県の山王総本宮の日吉大社を思い出し、やはりここはその分社なのか~と石段を上る。途中、龍蛇信仰の藁縄があり、龍の形に施されていてちょっと不気味。社殿にたどり着くと、出雲らしい注連縄が飾られていて、その中でお参り。出雲大社は2礼4拍1礼という作法を知っているが、島根県の神社は4拍打つのだろうか?と疑問のまま、とりあえず2拍打つ。
ネットのHPによると山王日吉神社は、中世の頃、現在地より北東に光雲山仏性寺という天台宗と真言宗とを兼ねた大寺院があり、それにより山王権現がこの地に勧請されたと伝えられている。祭神はもちろん、大己貴神(おおなむちのかみ)と大山咋神(おおやまくいのかみ)。
社務所があるが無人、HPに御朱印を授かりたい人は事前連絡をして下さいとあり、まぁ~、5日間出雲に滞在するので、後日連絡をしてみようと、今日は日吉神社境内を後にし、万九千社を目指す。

万九千社 - モリゾーのひとり言

2019/11/14 (Thu) 14:42:00

大通りを北へ、出雲商工会議所前の交差点を東へずっと行って、一畑電車が下を走る高架橋を越え、さらに斐伊川を渡す神立橋を走り、併川という交差点を北へ。看板矢印を見つけ、そちらへ自転車を進めると、こぢんまりとした境内が見えてくる。
万九千社は「まくせのやしろ」と呼び、古代、この周辺は神戸郷と伝えられる。旧暦の10月に出雲では全国の神様が集まるという、いわゆる神在月のことは有名な話だが、ここの神社に最後に滞在されて御旅立ちになるという云われがある。祭神は櫛御気奴命(くしみけぬのみこと)、いわゆる熊野大社の主祭神のことで、神戸郷の「神戸」とは、熊野大神と杵築大神の御神領のことをいう。水路と陸路の交通における要衝として、この地は重要な祭場でもあるらしく、旅行安全や宿泊、人生の岐路などのご利益もあり、地元民に崇敬されている(冊子参照)。
鳥居をくぐると、正面に立虫神社、その隣に東向きに万九千社の社殿が建ち、両方お参り。立虫神社は、現在地より南西方向に斐伊川の中島に鎮座していて、江戸時代の大洪水により移転せざるをえなくなったとあり、主祭神は木材、建築等を司る五十猛命(いそたけるのみこと)以下、3柱が祀られている。
境内を散策。北西方向には出雲社の摂社が建ち、ここから神様たちをお迎えするのだろうかと想像しながら、ぐるり散策し、訪ねた時の、子供たちが遊んでいた喧騒はどこへやら、家に“お旅立ち”になったのか、静かになり、一気に旅愁を味わう。社務所へ御朱印をお願いしに行くと、相変わらず、お参りもせずに御朱印目当ての若い女性2人が社務所へ急ぎ、いただいてそのまま帰るという…「おいおい」とつっこみたくなる行動に、横目で見つつ、御朱印を授けてもらい、お礼を述べ後にする。

比那神社 - モリゾーのひとり言

2019/11/14 (Thu) 14:43:00

自転車返却の18:00まではまだ、1時間はある。日吉神社のHPに、比那神社の御朱印も授けますよと、その場所の地図も表示してあったので、行ってみることに。出雲商工会議所前交差点まで戻って来て、さらにそこから西へ市役所前の交差点を北へ、途中、右手の小路へと入っていく。予想はしていたが、町の中にある小さな社は“当たり”で、石碑を見つけ細い参道を失礼する。社殿の隣には参集所のような建物があり、中から会合をしている集団の声が聞こえ、そんな中でお参り。
比那神社の祭神は比那鳥命。HPによると、天照大神の御子の天之穂日命を父神として天孫降臨に先立ち、この出雲国に降りて大国主命に対し、国土奉献の使者の任務を平和裡に遂行された軍使の神で、後にここの比那の地に宮を造り鎮座したと。この町の地名が姫原町といい、「出雲国風土記」に「比奈社」と記されていて、比奈原村が姫原に訛ったことによるとされている。
この地域は、かつて源頼朝の八幡信仰によって周辺の住民がすべて八幡宮の氏子となったため、比奈社の祭祀が断絶、江戸時代以前は、藪の中に石を祀ってあっただけの忘れられた状態に。そんなどん底?から、江戸初期に祠が造営され、現在に至っている。
ふと気づいた境内の狛犬のような獅子のような対の石像が「ようこそ」と、しっぽを立てて迎えてくれた姿に「こちらも良いお参りでした」と唱え、別れを告げる。

龍源寺間歩 - モリゾーのひとり言

2019/11/14 (Thu) 14:44:03

2日目は石見銀山へ。JR出雲市駅からJR大田市駅へ移動。駅に到着し、バスを待っていると、さすが世界遺産、観光ガイドの方が地図を配り、そこは慣れた言動で案内して下さる。地図には町並み地区の代官所ゾーンと武家町並ゾーン、銀山地区の銀山ゾーンに分かれていて、かなり広範囲。移動手段は徒歩でもいいが、レンタサイクルがあり、しかも銀山ゾーンへは緩やかな上りの坂道が続くので、電動自転車がおすすめと言う。
観光客が7、8人はいるバスに乗り、町の中から段々と山の集落へと移り変わる車窓を眺めては、大森バス停というところで下車。バス停の待機場所のちょっとした広場の隣には稲田があり、数羽のカモが元気に羽をバタつかせている。確か…ニュースか何かで、稲につく害虫をカモが食べてくれるという農法があることを見たことがあり、「あ~それか~」と、愛らしいカモたちの写真を撮り、知ってか知らずか「ガァガァ」と挨拶、別れを告げる。
バス停近くの「弥七」というレンタサイクルで、電動自転車を借り、係の方に乗り方の手ほどきを受け、いざ目指すは「龍源寺間歩」という銀山地区へ。どこか懐かしい小学校やお寺を眺めながら、やはり電動自転車を借りて良かった~と、スイスイと楽々上がっていく。
石見銀山には大小合わせて600ヶ所を越える「間歩(まぶ)」があり、「間歩」とは、銀鉱石を採掘するための坑道のことをいう。なので、坂道を上がっていく途中の岩には、穴が開いた隙間がいくつも見られ、その代表的な大坑道が、見学できる「龍源寺間歩」である。江戸時代前期から昭和18年まで稼働していたとのことで、当時は役人詰所や鉱石置場があり、坑道内は常に監視された中で作業をされていたと…。
駐輪場に止め、管理棟で料金を支払い、ぽっかりと開いた岩の口から、いかにも入口らしい入口から入っていく。腰を落とさないと進めないところもあり、坑道内はひんやり水滴が落ちる。各々のライトが照らす先には、手彫りで彫った跡が奥へと続いていて、作業員が彫り進めていった苦労が表れているかのようにノミで彫った岩肌がごつごつしている。
旧坑道を進み、直角に折れ曲がる形で新坑道の上り坂がまっすぐのび、ここから“地上への脱出”であるかのようなトンネルが続く。休憩するための、折り畳み椅子が途中途中で設置してあり、上に行くにつれ、石見銀山の絵巻が展示、坑道内への空気の送り方や、彫った鉱石を外へ運ぶための仕方など分かりやすく説明してある。
新坑道を登り切り、出口に出て開放感~となり、当時の人も暗闇の中での閉塞感から地上に出た時の解放された気持ちをしていただろうと想像する。17世紀初め頃には、世界で産出した銀の三分の一を日本が占めていたと言われているほど、その質も高かったというから、ここ石見から世界への交易が重要な役割を果たしていたことを改めて認識。実際に間歩を見て、歴史の重みを実感しました~

佐毘売山神社と清水谷製錬所跡地 - モリゾーのひとり言

2019/11/14 (Thu) 14:45:07

自転車置き場までの遊歩道を歩いていると、鳥居が建ち、苔むした石段が上へと続く佐毘売山神社がある。佐毘売山神社は、鉱山の守り神として金山彦命が祭神。地元では親しみを込めて「山神(さんじん)さん」と呼んでいて、歴史的には銀山を支配した戦国大名により保護されてきている。「さひめ」の語源は女神を祀る「姫山神社」からきてる説に、金山彦命が金属精錬の神であることから、「金属=鉄=錆=さひ」ではないか?という説がある。
この石見を守る神社に挨拶しようと石段を上がるが、社殿が工事用の足場で覆われ、修復工事中。そんな中でお参りし、再び自転車置場まで戻り、清水谷製錬所跡地へ移動。
急な坂を上がると、朝陽に照らされた製錬所跡地が姿を現し、歴史を物語るかのように長い年月を経た草木で緑に覆われている。説明看板には、幕府が崩壊し、明治時代になると、石見銀山では一部の間歩を利用した地元の人たちによる小規模な採鉱がかろうじて続いていて、本格的な銀生産の再開は、萩出身の藤田伝三郎という者が起業した、大阪の藤田組が採掘権を持つことに。20万円の巨費(もちろん当時の額としては)を投じて近代的な銀の製錬所を建設し、操業。が、鉱石の品質が予想より悪く、設備の製錬能力も十分でなかったことから不採算となり、開始からわずか1年半で操業停止と悲しい結果に。とまぁ~、当時の面影を残す製錬所跡が横一列に、しっかりとした石垣が組まれた中に棚田のような段々が折り重なる近代遺産は迫力がある。ちなみに、大坂の藤田組は現、DOWAホールディングスとして今も製錬事業を展開している。


写真は清水谷製錬所跡地

勝源寺 - モリゾーのひとり言

2019/11/14 (Thu) 14:46:12

もっとゆっくりレンタサイクルで町並みを散策したいが、11:00に待ち合わせの約束を入れている。この旅の計画を練る上で、ネット検索をしていたが、普段は休日のみの拝観、平日は事前予約で拝観をしないといけないという勝源寺さんを見つけ、これはぜひにと、前日、JR出雲市駅に着いた時に電話連絡し、約束を取り付けた次第。自転車を返却し、武家・町家ゾーン、代官ゾーンを、時間を気にしながら歩いて行く。
代官所地役人の総括役である組頭まで昇進した武士の河島家の住居に始まり、金森家、宗岡家、阿部家の住居、岩の上に建つ観世音寺のお堂、石見での最大の商家・熊谷家住宅等々の町並みを写真に収め、勝源寺へと足を運ぶ。
今は石見銀山資料館になっている大森代官所跡の横の坂道を上がり、一際、石段の上で目立つ四脚山門が私を出迎えてくれるように、で~んと建ち、境内へと失礼する。四脚山門には阿吽の獣や、毎晩、水を飲みに出かけるので、目に竹釘を打たれたといわれる「水飲み龍」の立派な彫刻が施されていて、版画家の棟方志功が絶賛したというから相当なモノ。案内看板には数々の奉行や代官がこの寺に眠っている墓所があると説明書きされていて、この町の崇敬が厚かったことをうかがい知り、本堂へまずはお参り。庫裏の方へ行ってみると、もう準備されているのかと思いきや、引戸は閉まったままで、「あれっ」と「まだなのかなぁ~」と5分前の時計を確認する。11:00になり、静寂だけが包む境内で「おかしいな?」と、連絡先に電話してみると
「あ~、今から15分ぐらいで行きますんで~」とのんびりした雰囲気。
ひょっとして、電話しなかったら来ないつもりだったのか?と、いろいろ想いを巡らせるも、まぁ~拝観できるということなので、ここはそのまま待機。
そんなこんなで軽自動車がやって来て、住職さんに挨拶をし、庫裏の中へ。勝源寺の寺宝が並ぶ展示室を見ては、住職さんが説明して下さる。代官所役人、阿部半蔵が描いた「家康並びに十六将図」や、三つ葉葵紋入りの茶碗に始まり、隠れキリシタン地蔵の石像が数体などを見学。
勝源寺は浄土宗で、二代目奉行の竹村丹後守が大檀那となって、白誉上人によって開かれたお寺。この竹村さん、昔、家康の命を救ったことで取り立てられ、亡くなるまで22年間、石見銀山の奉行を務めたとのこと。なので、天領である石見銀山は、幕府とのつながりを示す重要な拠点としていて、歴史的価値がある場所だと住職さんは言う。外国のメディアやNHKのBSプレミアの番組にも、この寺のことが放映されているそうで、「なるほど~」と勉強になる。
宝物を見、本堂へと案内されると、正面に阿弥陀如来立像に脇侍が安置されていて、手を合わせる。本堂の阿弥陀さまに、自然と私も笑顔になる“微笑み返し”の表情の顔を拝見し、背後の船形光背も素晴らしく、いつまでも見ていても飽きないほど見入る。住職さんといろいろなお話をさせていただき、気づいたら1時間も居座ってしまい、見切りをつけ拝観終了~。御朱印もお願いし、良い時間を過ごすことができ、感謝×2。

羅漢寺 - モリゾーのひとり言

2019/11/14 (Thu) 14:47:18

勝源寺さんの拝観後、石見銀山資料館、その隣の、社殿の天井に龍の絵が描かれている城土神社で参拝。そして再び来た道を戻り、「弥七」のレンタサイクルのところまで来て、さらに奥へ行くと羅漢寺がある。
銀山で働き、亡くなった人や祖先の霊を供養するための501体の羅漢像が安置されているお寺で、羅漢像は25年間もかけ、大森代官所の役人、代官、八代将軍徳川吉宗の次男、田安中納言宗武の援助で、田安家奥御殿の女中など、多くの人々の寄進によって完成したと。それに併せて、五百羅漢を守護するために建立され、本尊の阿弥陀如来を始め、不動明王、愛染明王などが安置されている(冊子参照)。
受付で拝観料を支払い、御朱印もお願いしようと、御朱印帳を見開いて渡すと、
「あれっ、勝源寺さんに行ってきたんですか?」と。
「はい、事前予約で拝観してきました」と言うと、
「ほ~ぅ、それは珍しい」と、
どうやら、ここ羅漢寺で、勝源寺の御朱印を扱っているそうで、今は勝源寺さんも休日拝観でも閉めていることがあるらしい。
さて、係の方によると、私がたまたま訪れた時期に秘仏御開帳が催されていて、拝観ができるとのこと。さっそく本堂に上がり、本尊の阿弥陀如来さんにお参り。その隣には秘仏、降三世明王と、大元師明王が安置されている。前者は過去・現在・未来の三世の悪因を断除されるという明王と、後者は国家平安と衆生擁護を司る明王で、どちらも体のポーズがユーモラスな表現をしている。ちょっと笑ってしまいそうなポーズに見入り、こちらもお参り。
本堂から道を挟んだ石窟側には、五百羅漢の石像があり、銀山川の支流に架かる反り橋を渡り中へ。愛らしい石像が並び、常にテープで説明がされていてわかりやすい。
五百羅漢といえば、近親者に似た顔が必ず1人はいるという云われから、つい探してみたくなるが、なかなかに見つからないのがオチで、ただただ、これらの石像に心の中で挨拶をし、限のいいところで別れを告げる。
石窟の端には、田安中納言宗武の大宝筺印塔の供養塔が建ち、この石見銀山を見守っている“姿”が拝める。石見銀山の歴史的景観に触れ、自然に囲まれたこの町を訪れることができ、満足するのでありました~

物部神社 - モリゾーのひとり言

2019/11/14 (Thu) 14:48:23

大森バス停から大田市駅へ戻り、30分ほど駅で待機。次の目的地は物部神社で、石見国一宮と称する神社を訪れるためバスを待つ。石見交通の三瓶線のバスに乗り、物部神社前バス停で下車すると、目の前がもう、大きな鳥居が建ち、かなり大きい神社であることがわかる。
拝殿に向かって参道を歩いていると、鶴の模造が2羽、狛犬のように出迎え、手水舎で清めようと思ったが、水を抜いて掃除をしているので、仕方なくそのまま拝殿でお参り。
物部神社の祭神は、宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)。物部氏の祖神として知られ、父神は饒速日命(にぎはやひのみこと)。天磐舟に乗って大和国の斑鳩に天下り、御炊屋姫命(みかしやひめのみこと)と結ばれ、御祭神を生み、その後、国土開拓に力を注いだ神さま。
本殿右手には摂社が建ち、そのうちの1つ、「一瓶社」には伝説が残っている。御祭神がこの地方を平定された時、3つの瓶を3ヶ所に据え、1番目は物部神社の「一瓶社」に、2番目は三瓶山(当社から南東に位置する山)の西の麓にある浮布池の邇幣(にべ)姫神社に、3番目は三瓶山の麓の三瓶大明神に祀られ、この地を安住の地とされたそうな。
三瓶山(さんべやま)は、この3つの瓶の山から名付けられたとされ、古名は佐比売山(さひめやま)といい、「出雲国風土記」にはこの古名が記されている。この瓶つながりで、室町時代の頃の古備前の大甕が現存しており、代々、この大甕を使って神食撰用の御神酒を造り、忌籠りの禊の神事が12月に行われるという。
そんな一瓶社にもお参りし、拝殿の左手にも摂社が並んでいるので行ってみる。「勝石」という謎の大きな石は説明看板によると、御祭神が腰かけられた運気の籠った「勝石」で、触れるとご利益があると。そしてさらに稲荷社から山の奥へと続く山道があり、バスの時間に余裕があるので登ってみる。5分もかからず頂上にたどり着くと、結界に囲まれた中央に石塔が建ち、御神墓が静かに眠っている。手を合わせ、ここから三瓶山、もしくは国家の安寧を見守っているんだなぁ~と想いを馳せ、後にする。
社務所で御朱印をお願いし、境内を散策していると、御神馬の銅像が目に付き、説明看板を見ると、名馬「バーソロン号」と書かれている。バーソロン号は日本の種牡馬として、有名どころでは3冠のシンボリルドルフ号がおり、繁栄の基礎を気づいたとされている。競馬にはあまり詳しくないが、こんなところに神馬として祀られているなんて、やはり、血筋はすごいなぁ~と立派な銅像を眺める。
バスの時間までまだまだ時間があり、境内のベンチに座り、暇を持て余し、神聖な空気を味わう当神社でしばし過ごすのでありました~


つづく…

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
文字色
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.