寺社仏閣 ご朱印の旅

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出雲の旅(3) - モリゾーのひとり言

2019/12/08 (Sun) 21:51:29

ようやく出雲の旅も4日目。いよいよ出雲市を中心に、大黒さんとご対面~

出雲大社(1) - モリゾーのひとり言

2019/12/08 (Sun) 21:52:33

4日目はいよいよ出雲大社。早朝出発で、電鉄大社駅に到着したのは7:00頃。やはり参拝される方は少ないが、ちらほらといる。緩やかなメイン通りの坂道を歩き、第2の鳥居付近まで来ると、老舗旅館の「竹野屋旅館」が建っている。ネットで調べるまで知らなかったが、竹内まりあさんの実家で、出雲では有名らしく立派な佇まい。
鳥居をくぐると、菊花展の展示が右手側に披露されていて、石像の因幡の白兎が見守っている。参道を進み、すぐのところに「祓社(はらえのやしろ)」が建ち、ここで身を清める。大社を参拝するにあたり、いろいろと参拝順路を学んでいたので良かった~と効率のよい廻り方で回っていく。次は左手の野見之宿祢が祀られている社の方へ。相撲神事が行われるのだろうか、屋根付き土俵があり、こちらもお参り。
背の高い松の木の参道を気持ちよく歩き、ここでも手水舎で身を清める。手水舎の近くには大国主と因幡の白兎の銅像が象徴的にあり、パチリ。銅の鳥居を抜けると、正面に拝殿、立派な注連縄がぶら下がっていて、その下で手を合わせる。さらに奥へ。本殿に近づける八足門のある方へ行くと、雰囲気が違う拝所があり、再び2礼4拍1礼でお参りをする。

出雲大社(2) - モリゾーのひとり言

2019/12/08 (Sun) 21:53:31

出雲大社は、大国主大神を祀る神社として有名であるが、明治時代初期までは「杵築(きづき)大社」と呼ばれ、いつからか縁結びの神様がいる神社としてその名を有名足らしめてきた。「古事記」に記されている国譲り神話には、大国主大神が高天原の天照大神に国を譲り、その時に造営された壮大な宮殿が出雲大社の始まりと言われているので説明するまでもないが、平安時代の頃には高さ約48mもあったと伝えられ、平安時代の貴族の子弟の教科書「口遊(くちずさみ)」には当時、本殿が日本一の高さを誇っていたことが記されている。雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)という、それぞれ出雲大社、東大寺大仏殿、京都御所の大極殿と、当時の人たちも、建物の高さベスト3を話題にしていたのであろう。
2000年に、本殿の南側で、鎌倉時代初期の造営と推定される三本一組の巨大な柱根が発掘されたことは記憶に新しいが、巨大な神殿があったことを裏付ける発見となり、本当に存在したんだと、当時話題になったことを私も憶えている。
八足門からしばらく本殿側をじっと眺め、大国主大神については、「因幡の白兎」や「素戔嗚命の7代目の孫」、「大黒さん」、「年少時代はイジメ被害者」とか「チャラ男」とか…いろいろな人物像が思い浮かぶが、とにかく“破天荒”というイメージぴったりな神様は、ようやく落ち着ける宮殿を建ててもらい、天照大神もホッとしたことだろうと勝手に思えてしまう。そういえば、縁結びの神様といわれるが、浮気?を散々してきた大国主さまに縁結び?と思うのは私だけだろうかと、ひねくれた考えを捨て、拝殿裏に納経所があるので、出雲国神仏霊場と御朱印をお願いする。
本殿をぐるり右回りに、いろんな摂社が並び、東十六社に釜社、須勢理毘売命(すさりひめのみこと)などの女神様、北東に文庫、北に素戔嗚命を祀る社殿、北西に彰古館、そして西に、本殿に面して小さな社がある。本殿の正面は南向きであるが、ここは本殿内の御神座は西向きになっていて、昔から大国主大神に対して向かい合いに参拝するのが本当?であるとされている。なので、こちらでもお参り。
時刻は8:20ごろ。大社の東側にある国造館は9:00からなので、この時間を利用して「稲佐の浜」へ移動する。

神楽殿 - モリゾーのひとり言

2019/12/08 (Sun) 21:54:36

「稲佐の浜」へ行く前に神楽殿へ。あの“大注連縄”がある有名な場所は、元々、千家國造家(出雲大社宮司家)の大広間として使用されており、「風調館(ふうちょうかん)」と呼ばれていた。明治に入り、出雲大社教が設立されてからは出雲大社教の神殿としても使用され、現在でも祈祷や結婚式場として執り行われてきている(ネット参照)。ビジュアル的にはこっちが本宮かと思えるような大注連縄に圧倒され、その下に行くと重厚感というか威圧感がハンパない。垂れ下がった切断面が、散髪した頭を刈りあげられたように、綺麗に襟足がそろっていて気持ちいい?(上手く表現できない…)ようなスッキリ感が、ずっと見ていても飽きないほど。お参りを済ませ、風になびく75畳もある、日の丸国旗を見上げ、何もかもスケールの大きい大国主さまならではの出雲大社に一旦別れを告げる。

出雲の阿国の墓 - モリゾーのひとり言

2019/12/08 (Sun) 21:55:33

大社のバスターミナルから西の方角の、稲佐の浜へ行く途中、出雲の阿国の墓がある。歌舞伎の始祖として知られる阿国は、出雲大社の鍛冶職、中村三右衛門の娘で、大社の巫女であったと言われている。大社本殿の修理にお金を集めるため、諸国巡業の旅をし、踊りの才能があった阿国は、京都で「ややこ踊り」を上演して人気を博し、都中に広まるほど。その後、歌舞伎モノの風俗を表現した「歌舞伎踊り」を創始して一世を風靡、晩年には大社に帰り、尼となってこの地で静かな余生を過ごしたとされる(冊子参照)。
そんな阿国ゆかりの寺(安養寺)や連歌庵、出雲阿国終焉地之碑などのスポットが、この周辺にあり、阿国が過ごしたこの地域の風景を歩きながら味わう。歩いて5分ほどで、阿国の墓のとこに到着。階段を上り、小さな墓地が広がる目の前に、石柵で囲った墓があり、お参り。平たい自然石のある墓で、隣には中村家の墓もある。たぶん歌舞伎関係者はここを一度は訪れ、偲んだことだろうと思いながら、しばらくここから見える出雲の町並みを眺めるのでありました~

稲佐の浜 - モリゾーのひとり言

2019/12/08 (Sun) 21:56:34

阿国の墓から稲佐の浜へ。稲佐の浜は神在月に、全国の神様がここから入ってくる最初の“玄関口”とされていて、旧暦の10月10日に、つまり今年は11月6日から13日までの一週間ということで、浜には白装束に身を包んだ大社関係者が神事を行う写真を、ネットで見たことがある。なんせ、神事を見たいがために集まる観光客の数がすごいとかで、なので、私はその週を外して今回の旅に来たわけだが、そもそも、全国の神様が集まる神在月の“イベント”は、観光協会?が仕組んだ“客寄せ企画”ともいわれていて、なるほど~、そういう捉え方もあるかと、ちょっと冷めてしまう。ともあれ、稲佐の浜へ行く前に、上宮という、神様が一旦、浜から上がってお休みなられる社があるので、そこへ立ち寄ると、白いテントを張る、準備に忙しそうな係の方が数人いる。もうこんな時期から準備しているんだなぁ~と写真に収め、いよいよ稲佐の浜へ。
駐車場には朝から車が数台止まっていて、堤防沿いから見える長い砂浜に波が押し寄せ、1つの巨石がシンボルのように立ち、その風景が「確かに神様が来る場所」と、納得してしまうほど素晴らしい景色。砂浜に降りて、改めて巨石に近づいてみると、上の方に鳥居と祠もある。流れ着いた岩なのか、元々この場にあって、浸食されて残った岩なのかわからないが、なぜ、ここにポツンとあるのか?神がかり的な要素は否めない。
広角レンズに変えて写真を撮り、空に雲が流れる、まさにここは“出雲”にいるんだぁ~と認識し、しばらく佇む。夕陽とのコラボが一番きれいに撮れることを想像し、また夕暮れ時に来ることを誓い後にする。

北島国造館 - モリゾーのひとり言

2019/12/08 (Sun) 21:57:42

再び15分ほどかけて大社に戻り、北島国造館へ行く。北島国造館は最初、どういうところなのか分からなかったが、「出雲教」という宗教法人で、出雲大社の崇敬講として設立された教会であったらしい。出雲教は、天穂日命の子孫、出雲国造北島家に伝わる祭祀に従い、大神の御神徳を世に広めることを目的とした神道教団。こちらも御朱印がいただけるといいうことで訪れ、石垣塀の通りを歩き、大門から失礼する。
右手には大きな結婚式場だろうか、会館があり、左手に本殿があり、さっそくお参り。芝生広場のような敷地の奥には、心字池があり、「亀の尾の滝」と呼ばれる小さな滝が勢いよく流れている。天満宮、天神社でお参り後、社務所で御朱印をお願いする。
この時期は神在月バージョンの御朱印も授与できるそうで、そちらもお願いし、お礼を述べ、西側の重文の四脚門から後にする。

写真は「亀の尾の滝」

日御崎神社 - モリゾーのひとり言

2019/12/08 (Sun) 21:58:48

出雲大社の境内へ再び入ると、もうすでに参拝客の数が多く、ツアーで見えている団体が列を成している。バスの時間までまだ余裕があるので、史料館に入り勉強。年代表や本殿の模型、神剣や勾玉などの宝物、茅葺屋根の造りなどなどの展示を見、見識を深める。
時間はあっという間に過ぎ、大社バスセンターへと急ぎ、日御崎灯台行き?(だったか忘れた…)のバスに乗車。バスは稲佐の浜から半島沿いをくねくねとカーブの多い道を走り、海が見えてはトンネルに入り、見えるたびに磯で釣りをしている人の姿があって、小さな漁港のような三角州の地形も見える。
日御崎神社バス停に到着すると、お土産・海産物店にイカやタコが天日干ししてある光景を見、思わずパチリ。鳥居をくぐり、境内へ入ると、朱色に染まった社が映え美しい。
日御崎神社は大きく分けて「日沈宮」と、「神の宮」の社殿があり、それぞれ前者を天照大神、後者に素戔嗚尊を祀っている。日沈宮(下の宮)は清江の浜という経島(ふしま)に御鎮座されていたが、村上天皇の時代、勅命によって現在の地に遷座された。経島には素戔嗚尊の御子神の天葦根命(あめのふきねのみこと)が浜に出たとき、天下の人民を恵むなら「吾をここに鎮めよ」と、天照大神の神託があり、島上に祀ったという。また、「日の出るところ、伊勢国五十鈴川上に伊勢大神宮を祀って、日の本の昼を守り、出雲国日御崎清江の浜に日沈宮を祀って、日の本の夜を護れ」と、御霊顕を仰がれたことから、古来より霊域として崇敬されてきている(冊子参照)。
一方、神の宮は、現在地の背後にある「隠ヶ丘」という所に鎮座していたが、安寧天皇の勅命により御遷座。隠ヶ丘は、素戔嗚尊が柏の葉を取って、投げた場所に「吾が神魂の止まる所に住まん」と仰せられた占いによって決まった。それを御子神の天葦根命が素戔嗚尊の神魂の鎮まる所として祀ったと伝えられている(冊子参照)。
そんな由緒ある社殿、まずは日沈宮でお参り。近くの社務所には御朱印をいただく参拝客で列を成し、私は出雲国神仏霊場と御朱印をお願いする。
そして、神の宮(上の宮)の社殿へ、長い石段を上がりお参り。高台から望む朱色の日沈宮の社殿と、背景には海岸が広がり風光明媚。夕陽の時間帯になれば、さらに違った景色が拝めるだろうと想像し、境内を散策。山側ではトンビが相変わらず「ピーヒョロロロロ~」と鳴いて、自然豊かな土地柄に心癒される。

日御崎灯台 - モリゾーのひとり言

2019/12/08 (Sun) 21:59:50

日御崎神社から北へ。海を望む道を数分歩き、日御崎灯台へ行く。遊歩道からウミネコの繁殖地でもある経島が見え、遠くからでも小さな社が建っているのが見える。御旅所を過ぎ、日御崎灯台に着くと、太陽に照らされた灯台が白く眩しく“直立不動”で建っている。近くから見上げると、その迫力がすごく、海の守り神のような存在でそこにある。囲いで仕切られた入口には海上保安庁と表示してあり、公の管轄であることを知り、敷地内に入る。
日御崎灯台は、明治36年に完成し、120年近く経った今も現役で使用されている。石造では高さ日本一、光は40km先まで達するほど、地上約44mあり、内部は二重構造になっていて、内側にレンガ積みで施されている。塔内の入口から階段を登って頂上まで行けるが、バスの時間も兼ね、諦めて近くの小さな史料館に立ち寄る。全国の灯台の紹介やボタンを押すとテープやビデオが流れる説明音声、映像を見、「へぇ~」と見学。
灯台前の岩礁へは降りて行けるので、少し散策。潮風に乗り、心地いい自然風が吹き、秋晴れもあってか清々しい気分。いつまでも海を眺めていても飽きない風景に、別れを告げバス停へ。

ヒラマサ海鮮丼 - モリゾーのひとり言

2019/12/08 (Sun) 22:01:15

バス停へ行く途中、みやげもの屋の食事のできる店が並ぶ通りを歩いていると、「お客さん!食べていかない!」と呼び子?をするおじさんが。海の幸が盛った海鮮丼セットの写真を持ち誘っている。
「ここの海で獲れる高級魚ヒラマサは、今ここでしか食べれないよ~」と。
時刻は11:45ぐらい。バスの時間は12:06発なので、大丈夫だろうか…
「バスの時間が…間に合いますか?」と聞くと、開口一番
「すぐできます!どうぞどうぞ!」と店内へ。
まんまとその海鮮丼の写真に惹かれ、席に着いたものの、大丈夫だろうかと思ったが、すぐにヒラマサ海鮮丼セットが出てきて、さっそくいただきます。
イクラ、甘エビ、ホタテ、そしてヒラマサの刺身がご飯に乗り、甘ダレ醤油をかけてほおばる。もううまいわけがない、新鮮な海の幸を無言でかっこみ、何の魚なのか分からない内臓が入ったお吸い物をすすり、あっという間にごちそうさま~。
バスの時間10分前までで食べ終え、余裕を持って勘定。間に合ったことも良かったが、おじさんが誘ってくれなかったら、食べることもなく、地元の食を味わうこともなかったと思うと感謝×2。
「ごちそうさま~、美味しかったです」とお礼を述べ、意気揚々と後にする。

宇美神社 - モリゾーのひとり言

2019/12/08 (Sun) 22:02:25

日御崎灯台バス停から電鉄大社駅へ。一畑電車、川跡駅で乗り換え、雲州平田駅へ移動。駅から北へ10分ほどにある宇美神社へ向かう。地図上でたまたま見つけた神社なので、どんなところなのか、予備知識なく訪れ、鳥居前に来た時には、小ぢんまりとした境内という印象。
由緒書を読んでみると、出雲国風土記に「宇美社」と記され、鎮座地は今の場所より北に位置する愛宕山麓の西側にあったそうな。当時は原住民の長廻一族がいて、「廻田の神社」として崇敬し、鎌倉時代に入ると、近江国醒ヶ井の住人、左衛門尉長政が出雲大社参拝の途次に、同地開拓のために一族で移住することに。その後、来住の杉原一族と協力して、紀伊熊野三山より御分霊を勧請したとある。
…とまぁ~、熊野大権現を中心に、天満宮や伊勢など(省略)、後は合祀が続き、現在に至っている。この神社の有名どころは、7月に行われる平田天満宮祭り。平田天満宮は出雲三大神の一つで、平田地方に悪疫が流行し、これを退散させるため、天神の神幸(おたび神事)が行われ、病気が収まったことから始まったらしい。その神事の40年後に、寺町に住んでいた表具師の桔梗屋十兵衛が茶臼を米俵にし、茶器一式で大黒天像を作り、天満宮神幸式に奉納したことから「平田一式飾」として現在も毎年、使われているようだ。そういえば、雲州平田駅の構内に、人形のようなものが飾られていたことを思い出し、「あれか~」と改めて、帰りにじっくり見てみようと思い返す。
境内正面に拝殿、本殿とあり、お参り。いくつもある末社を見て回り散策。お隣の宮司さん宅にピンポーンして、御朱印をお願いし、お礼を述べ後にする。

旧大社駅 - モリゾーのひとり言

2019/12/08 (Sun) 22:03:39

雲州平田駅構内にある「平田一式飾」を見、電鉄出雲市駅へ戻る。3日前に訪れた日吉神社を再び訪れるために、約束の14:30ごろを目安に歩く。…というのも、前日に日吉神社のHPで、御朱印について問い合わせしたところ、今日、宮司さんの都合がいいということで、了解を得てお伺いした次第。
駐車場のところに…と連絡をいただいていたが、どこが駐車場かわからず、ウロウロしていると、神社の方が出て来て下さって、ご自宅へ案内して下さる。無事、御朱印をいただき、お礼を述べ、再び出雲市駅へ。
イオンモール経由の大社行きのバスに乗り、旧大社駅バス停で下車。もう今は使われていない出雲大社の南、今の一畑電車電鉄大社駅よりさらに南に位置している旧大社駅へ。
旧大社駅は、平成2年まで使用されていたJR線の駅。駅舎は明治45年、国鉄大社駅の開通により開業、出雲大社の門前町の表玄関として、多くの人の足として利用されてきた。その“風貌”は、純日本風の木造平屋建てで、亀の動きを模した瓦や、高い天井に大正風の灯籠型の和風シャンデリアなど、デザインが素晴らしい建築物。テレ東系「美の巨人たち」だったか、何かのテレビで見、訪れたわけだが、駅舎を見て、一目でこれは遺産と
して残すべき価値あるものと、素人ながらに理解できる。
さっそく中に入ると、「うわ~」と、昔の駅の構内のことはわからないが、“懐かしい”という言葉が似あうほど、大正時代のモダンな雰囲気に見とれる。壁には当時のまんまの時刻表や大社付近で営業している老舗の旅館の紹介など、中央には切符売り場などを担う旧出札室、駅長室、どれも素晴らしい。まだ蒸気機関車が走っていた頃の白黒写真などの展示があり、当時の情景が分かる。パンフレットを読むと、明治45年で出雲大社の参拝客が前年の6月の約1万5千人に対し、約5万人に増大、大正に入り、大社駅京都駅間直通列車の運行、昭和に入り、大阪駅(福知山線経由)間の急行列車の運行、第2次世界大戦により急行が廃止となり、戦後再び、急行「いずも号」が運転されると、約15万人を記録。昭和31年には東京駅にまで延長され、昭和40年には昭和天皇皇后が乗る特別列車の行幸があり、翌年、なんと、熱田神宮から直通の「大社号」が誕生と、「へぇ~」と知らないことばかり。
その後、国鉄の経営不振と相まって、廃止路線が増え、平成2年3月31日をもって、惜しまれつつ(だったかどうかかはわからないが…)幕を閉じた、とある。平成と聞くと、つい最近のことと思ってしまうのは、自分が歳をとったせいかもしれないが、それにしても、昭和40年代というと高度経済成長期。各自が車を持つ時代になったのもあり、乗用車や観光バスで訪れるといった、鉄道泣かせの利用客減少→赤字となるのは必須で、廃線になったのは致し方ないのかと歴史の流れを感じる。
そんな旧大社駅、駅舎からホームへ行けるので、外に出てみると、北の方角に出雲大社の第一鳥居が見え、レールもそのままに残されている。向かいのホームにはD51?の機関車が止まっていて、近づいて中の運転席に入ると、いろんなメーターの機械、石炭を入れる釜?(何ていう名称かわからない…)がそのままあり、実際に見たのは初めて。かつてはここから出雲大社へと参拝する利用客がいて、賑わいを見せていたんだろうなぁ~と、当時の面影を想像し、ノスタルジーに浸るのでありました~

稲佐の浜(夕方) - モリゾーのひとり言

2019/12/08 (Sun) 22:04:47

旧大社駅バス停から終点の大社バス停へ。夕景の稲佐の浜を写真に収めようと、再びR431号線を歩く。日没は17:15頃なので、30分前ぐらいに到着。考えることは皆同じで、夕陽を見たいがために集まった人たちで結構いる。肝心の天気はというと、曇が多く、「これは無理かも」と思いながら、ここにいる人たちは、何とか夕陽が出てくれないかと祈るように見守っている。橙の光が雲の隙間からたまに顔を覗かせるが、すぐに消え、時間はあっという間に日没。三脚を立てて待っていた方も、諦めきれない様子で写真を撮っていて、私もなぜだか、奇跡が起こってくれないかと佇んでしまう。紫色っぽい空に変わる風景を眺め、「まぁ~運が悪かった」と諦め、次の機会に期待し、今日はホテルへ戻る。


つづく…

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