寺社仏閣 ご朱印の旅

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ブログが面倒くさいので、掲示板で紹介していま~す。よろしくお願いいたします。
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伊賀の旅(2) - モリゾーのひとり言

2021/06/13 (Sun) 22:18:56

最近、めっきり忙しい毎日を過ごし、このコロナ禍で仕事に就けるということはありがたいことで、休日は丸一日、外にも出掛けず、撮りためたハードディスクのドラマや映画、ゲーム三昧と、まぁ~、それはそれで、私は元々、インドア派なので苦にはならない。今ハマっているのは、昔のPS2が家にそのままあるので、ブックオフとかで仕入れたソフトで遊んでいるが、「ぼくのなつやすみ2」というゲームに奇しくも、たかがゲームなのに泣いてしまい…これも歳のせいなのか、涙腺が緩んできている。このまま“なつやすみ”が続けばなぁ~と、早く定年退職して…という考えはしばらくお預けにして…伊賀の旅、2日目ぇ~

黒瀧神社 - モリゾーのひとり言

2021/06/13 (Sun) 22:20:02

2日目。上野市駅から菅生行きのバスに乗り、沼田東口バス停で下車。北東に延びる道を歩いて10分ほどに黒瀧神社がある。特に何もないが、この地域の神社を地図で調べていると、当神社が目に留まり、ただ何とはなしに訪れてみたいと思った次第。
ひんやりとした朝の気温に、山間の閑静な景色そのままに、鳥居前にたどり着くと、その先の参道石段が山へと吸い込まれるように上へと続き、登る。鬱蒼と茂る木々の中で神聖さを感じつつ、境内へと登りきると、至ってシンプルな拝殿があり、さっそくお参り。
黒瀧神社は、現在の花垣神社(後に訪れる)から勧請され、明治末の合祀令により岡八幡宮(後に訪れる)に合祀されていた時代があったが、終戦直後に還御され、鎮座されたとある(ネット参照)。黒瀧という名称どおり、社殿背後の鬱蒼と茂る苔を生じた宮山というらしいが、その宮山に滝があったとも、滝の龍神が現れたとも伝えられていて、御祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)他である。通称、春日権現。天照大神の岩戸隠れで、岩戸の前で祝詞を唱えた神様で、中臣氏の祖神、つまり中臣鎌足を祖とする藤原氏の氏神でも有名である。「春日」といえば、奈良県の春日大社。この場所から西に線を結べば春日大社につながるだろうか(調べたが、ちょっと違った…)と想像し、もうお隣は月ヶ瀬梅園(過去に訪れました)がある奈良県なので、西の方角に何とはなしに想いを馳せる。社務所は無人だが、運よく書置きの御朱印の紙が置いてあったので拝受し、バス停へと戻る。

勝因寺 - モリゾーのひとり言

2021/06/13 (Sun) 22:20:58

沼田東口バス停から山出バス停で下車。伊賀忍者回廊の1つ、勝因寺へ。緩やかな坂道の先に、まっすぐのびる参道石段を上がり、境内へと失礼すると、近代的なコンクリートでできた建物の本堂に、鐘楼、大師堂、位牌堂(旧観音堂)、庫裏、弘法大師像などの伽藍となっていて、この裏にある大師山へ88ヶ所を巡る霊場登山口もあり、「お寺~」って感じ。
勝因寺は、伝教大師が唐から帰国後に、諸国修行の際にここに立ち寄り、その際に虚空蔵菩薩を彫って祀り、草庵を結んだのが始まり。通称、「山出の虚空蔵さん」と呼ばれていて、本尊は33年に一度の秘仏となっている。2017年に御開帳されたというネット情報に、次は2050年と生きているかどうか…。そんな本尊は厨子に納まり、当然見ることは叶わないが、本堂に上がることはできるので、外陣から手を合わせお参り。厨子の両側には、千手観音、聖観音と、いずれも平安後期の作で、この仏像を見るだけでも価値がある。
境内には他に、小天狗清蔵のお墓もある。「小天狗?」は誰なのか?と思ったが、それは俗称で、容貌が天狗に似ていたことからそう呼ばれたそうで、戦国時代、この山出の地で生まれ、伊賀地方の荒廃した寺社再建に尽力した修験者で、晩年、ここで過ごし、自刻像や梵鐘など制作したとある。境内の鐘楼もその1つ。そんな小天狗さんは忍者だったのかは疑問だが、静かにこの地で余生を送ったのであろうと、千葉真一や藤岡弘、の、あの“武士道精神?”のようなイメージ?をしてしまい、思わず親近感が湧いてしまう。
小天狗さんに別れを告げ、御朱印はセルフ方式なので、庫裏にあるハンコを御朱印帳に押印し、次に向かう花垣神社へ、ここからは歩きが続く行程なので、千葉真一のごとく「コォー」と気合を入れ、後にする。

花垣神社 - モリゾーのひとり言

2021/06/13 (Sun) 22:21:58

勝因寺から花垣神社へ。バスの路線はあるが、昼までないので歩くことに。見積もって40分ほどの予定を、グーグルナビでは割り出し、山林の中の細い一本道を抜け、開けた交差点に出てきて、再び細い田舎道をひたすら西へ向かう。そんな田舎道は、交通量の少ない道かと思いきや、土地の開拓でもしているのだろうか、トラックが頻繁に行き来し、砂煙と排ガスがすごい。マスクをしていて良かったと、我慢して前に進みしばらくすると、“公害臭”は脱したのか、田園風景のある集落にたどり着き、ある程度距離を稼ぎ、一安心。
整備された広い道路の交差点まで来ると、南へ、遠目からでも分かる花垣神社の赤い鳥居が見え、予定時間どおり到着。
花垣神社の由緒には、八重桜が関係している。昔は「花が谷」と呼ばれたこの村に一株の名樹があって、この八重桜を一条天皇に献上し、宮門内に植樹したそうな。天皇は深く称賛し、神社の八重桜周囲に垣を造り、満開の7日間、守衛をつけるほど、この八重桜によほど思い入れがあったのだろう、「花垣の庄」という地名を賜って、当村の産土神として奉還したと。
その御祭神は、経津主神(ふつぬしのかみ)武甕槌神(たけみかづちのかみ)天児屋根命、姫大神。上記の2柱は、東方征圧に尽力した武神であり、もう1柱は黒瀧神社で説明した春日大明神。なぜ武神が祀られているのかよくわからないが、奈良の春日大社から勧請し、明治中期までは春日神社、昭和5年まで三郷神社、それ以降は花垣神社と改称されて、今に至っている。
鳥居を潜り、芭蕉句碑、鹿の模様が入った灯籠を見ながら、参道を歩くと、横に長い割拝殿、そこを進んで拝殿へと敷地内に入ると、隣には不動明王を本尊とする池邊寺の本堂が建ち、神仏習合の名残か、今も形を留めている。
拝殿でお参り。現在の社殿は上野城代家老の藤堂采女により再建され、格子の隙間からしか見えないが、本殿は朱色の鮮やかな彩色が施されていて、かなりおしゃれに仕上がっている。
本殿より奥は森となっていて、当神社の御神木が祀られていて、敷地内へは入ってはいけないような雰囲気を醸し出しているので、行くのは止める。
一通り境内を散策し、御朱印は書置きのが、拝殿にケース入りで置かれているので、拝受し、池邊寺の本堂でもお参り。左手の方に小さな小窓があり、そこにセルフで押印するハンコがあるので、こちらも拝受。
鳥居に戻り、「八重桜公園→」という看板があるので行ってみることに。あらゆる品種の桜が植樹されていて、桜の時期にはもうちょいだが、つぼみが膨らんでいるところを見ると、今年は早咲き予報ということか、咲いた時の桜を想像し、あの「花垣の八重桜」の方へ行くと、そこだけ特別に囲いがしてあり、か細く植樹されているが、それはそれで仕方がない。なぜなら、台風によって折損してしまったようで、接ぎ木による増植を行ったとのことで、4代目の「花垣の八重桜」として生まれたので、大木になるにはそこそこの年月が必要になる。これから地域を挙げて見守り続け、受け継がれていくことを望み、そのときにはもう一度訪れたいと、八重桜としばらく対話するのでした~

岡八幡宮 - モリゾーのひとり言

2021/06/13 (Sun) 22:22:55

花垣神社から岡八幡宮へと歩く。グーグルナビが示したとおりの道を進むと、田畑が広がる土地を眺めながら、いつの間にか、工業地帯、土地開発による盛土をこれでもかというぐらいに高く造成させている、何を造っているんだか分からない工場?を横目に、当然、そんな作業をしているので、トラックが頻繁に走り、砂煙の洗礼をまた浴びる。
しばらくして名阪国道のジャンクションのようなところを北へ。一般道には「月ヶ瀬梅園まで〇○km」という標識があり、奈良県と隣接している地域に来たのだということを知り、ようやく神社の全景が見えるとこまで来て、約40分かかる。道路沿いには広い駐車場や弁天池、鳥居など、1つの森のような木々に覆われているのが見え、さっそく移動。鳥居を潜り、参道石段を上がっていく。
岡八幡宮は源頼朝の勅命で、鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の末社を全国に配置する計画の、第一号としてこの地に建てられた神社。一番最初に建てる国はどこにしようか、神意を伺ったところ「伊賀国に建てよ」との宣があったそうで、鶴ケ岡八幡宮の略称から「岡八幡宮」と社名を決めたと。が、頼朝が亡くなった後は、その計画も中止になったので、結局のところ、最初で最後の本社ということになってしまったという(冊子参照)。
そんな頼朝ゆかりの神社の境内には、拝殿本殿と建ち、右手にはちょこんと神馬が顔を覗かせている。よく見ると模造であるが、槍の名手であった高田又兵衛の弟子が関係している。
境内で高田又兵衛が槍術を教えていた近隣の若者たちの中に、後に亀山城主となるこの地方出身の中川甚兵衛なる人物がいて、槍術を学んだおかげで出世できたことをお礼代わりに、甚兵衛が奉納したものが神馬であると。
ちなみに…、高田又兵衛といえば、宮本武蔵との試合が浮かぶ。この頃の武蔵はまだ一刀で、お互いに竹製の十文字槍、木刀で立ち合っている。又兵衛と武蔵は明石藩時代からの知り合いで、武蔵は又兵衛よりも6歳年上、この頃は30歳を超え、それ以降は他流との手合わせを控えていた。そんな中での試合は、共に互角に立ち会ったということで、認め合う仲になり、生涯の友になったという。
高田又兵衛は伊賀国白樫の武士、高田吉春の長男として生まれ、幼いころから武芸に優れ、12歳で奈良の興福寺にある「槍の宝蔵院」と謳われた「宝蔵院流槍術」の中村尚政の門弟となって、尚政の推挙で「宝蔵院流槍術」の開祖、宝蔵院胤栄から直々に十文字槍術の指導を受けた…と、剣豪伝説の話は、まだまだ湧き水のごとく止まらなくなってしまうので、ここまでとし、ちょっと話がズレてしまったが、この地で又兵衛に出会えるとは…、また宮本武蔵の小説を読みたくなってしまう。
…で、拝殿でお参り。拝殿では神主さんが祈祷真っ最中で、邪魔しないように静かに手を合わせ、石段を降り、途中、横に逸れる道があるので行ってみると、イチイガシの大木や、「決心の滝」と呼ばれる、禊をする場所なのだろう、今は水が流れていない場所、さらに奥へ進むと、「山の神」が祀られている「尺殿明神」、いわゆる大山祗神で、縁結びの神として、その雰囲気は神聖さが漂う御利益がありそうな拝所となっている。その後、弁財天、駐車場にある扇塚、スダジイ?という品種の大木と散策。社務所で御朱印をお願いし、次へ。

平井神社 - モリゾーのひとり言

2021/06/13 (Sun) 22:23:57

国道白樫バス停まで歩き、上野市駅へ移動。伊賀国一宮の敢国神社へ行くバスの時間まで、余裕があるので、上野城北西に位置する平井神社へ。グーグルナビは伊賀上野城を東側からぐるりと回り込むルートが一番早いと割り出し、その通りに歩く。北にのびるメイン道路から西へ、住宅街が建ち並ぶ民家の中の細い道を、のらりくらりと、ナビがなければ迷いそうな道程で進むと、鳥居が見え到着。石畳が奥へと続き、石段を上がった境内、意外と広い敷地に幣殿本殿、右手には参集所のような建物に人の姿が数人見え、何か会合しているのだろうか、気づけば、園児の声が聞こえる。そんな中での拝殿でのお参り。
ネットによると、平井神社は別名、飛来天神。菅原道真公ゆかりの梅が大宰府から飛来したという縁起があり、江戸時代には俳諧連歌の座を中心として栄えたらしく、さすが芭蕉の生まれ故郷、伊賀国だけのことはある。ネットの情報では、安政の大地震による地盤沈下、その翌年の7月と9月に、北西部にある長田川と柘植・服部川が合流する河川の氾濫、大洪水と、度重なる災害が発生し、高台に遷す計画事業で、現在の地に移ったと、石段の中腹にその内容の石碑が設置されてあると書いてあり、訪れた当時、確かに石碑があったことは憶えているが、何が書いてあるのか分からず素通りしてしまったことが悔やまれる。かつては多くの住民に犠牲が出、多大なる被害に遭ったことだろう、その石碑は慰霊碑としても担っていて、弔われているに違いないと、今にして思う。
さて、幣殿にはお守りや書置きの御朱印があり、それを授かろうと…思ったら、背後から声を掛けてくる禰宜さん?がいて、「御朱印帳お持ちなら、書きましょうか?」と。
「あ、はい、お願いします。」と社務所へ一緒に行き、少し談笑。
今日は、花垣神社から岡八幡宮、そしてここまで歩いて来たことを話すと、「へぇ~、それはそれは…」と労って下さり、どうやら、その地域について詳しい様子。トラックがひっきりなしに走っていたのは、廃棄物処理場の建設が進んでいるようで、「だからあんなにでっかい盛土を造成していたんだ」と納得し、伊賀の土地も土地開発が広がっていることを知り、余った土地があれば、業者の目が、タカが獲物を狙うかのようにその土地を貪り食う…それは、社会の発展には必要だが、また1つ“ふるさと”が失われる…そんな憂き目を勝手に感じ、少し同情してしまい、少し悲しい気分になる。
御朱印を授かり、いろいろとお話を伺い、感謝×2。お礼を述べ後にする。

敢国神社 - モリゾーのひとり言

2021/06/13 (Sun) 22:24:51

上野市駅に戻り、新堂駅南口行きのバスに乗り、敢国神社前バス停へ。伊賀国の一宮ということもあって、大そう参拝客が多いのだろうと思っていたが、人っ子ひとりいない。コロナの影響からか、お参りも控えているのだと、そこは割り切って、誰もいない参道を東へ歩く。たどり着いた鳥居の、朱色?が鮮やかに、一之宮ゆえの堂々たる“いでたち”に、しばらく眺める。一礼し、境内に入ると、左手に社務所、正面に石段が上へと続き、拝殿の建物が見え、石段下近くには御神水の井戸、南宮山から遷ったとされる「桃太郎岩」があり、安産の御利益があるよう。
長い石段を上がり、拝殿でさっそくお参り。
冊子によると、敢国神社は、元は、南宮山(神社の東寄りに聳える山)の頂上に祀られていて、その後、麓に降ろされ、“御神体山”を仰ぎ奉るかのように、大岩祭祀跡という遺跡から祭器や土器などが出土しているほど、古墳時代からその存在が示されている。江戸時代には、伊賀上野城の鬼門鎮護として神領が寄進され、伊賀服部氏とも関係している。
伊賀服部氏は応神天皇の時代、百済王の孫の「秦酒君」という人が大陸から衣服を作る機織職人を連れて渡来。その酒君の末裔が服部一族と考えられていて、伊賀服部氏には源氏服部氏、平氏服部氏、敢国服部氏の三流があって、そのうちの敢国服部氏が神事を務めてきたとある。
彼らは諏訪源氏の流れで、11月には「黒党祭」と呼ばれる、一族だけ参加の、黒装束に身を包み、血盟の杯を行う祭祀があるらしく、その衣装は見たことないが、もう、「忍者ぁ~」の格好というイメージしか浮かばない。
御祭神は大彦命、少彦名命、金山比咩命の3柱。大彦命は孝元天皇の第一皇子で、崇神天皇の時代に、北陸平定に貢献した四道将軍の一人。大彦命は別名、長髄彦命。と言えば、初めて大和王朝の実質的指導者で、物部氏との宗教戦争に敗走、「記紀」では神武天皇の東征神話で賊軍として記され、大和の豪族、饒速日によって殺された…と、長髄彦命は今までの旅の投稿であちこちで紹介してきたので省略。
…てなわけで、伊賀国を形作ったともいう大彦命をこの地域の人々は仰ぎ奉り、改めて一之宮としての由縁がここにある。
社務所で御朱印を拝受、帰りは旧参道と呼ばれる、鬱蒼と茂る木々の中を歩き、長髄彦さんに別れを告げる。

波多岐神社 - モリゾーのひとり言

2021/06/13 (Sun) 22:25:47

バス路線沿いを北へ。ここからは伊賀国三ノ宮、二ノ宮と、歩いて移動する。高速道の高架下を潜り、敢国神社の記念石碑を分岐に、北西方向へと歩を進める。広大な田畑が広がる遠くの景色の先には、大和街道があり、ひっきりなしに車の往来が見え、その街道沿いに建つコンビニや自動車販売店など、至って世の中の摂理が当てはまるように、街道筋は栄えている。街道を横切り、再び田畑が広がる場所へ、柘植川の堤防沿いを歩き、行き着いた柘植川に架かる橋、これまた、軽自動車1台分の幅ぐらいの橋を渡り、川と平行のJR関西線沿いの道を西へ行くと、田畑の中に一際大きな鳥居が目立っていて、40分ほどでようやくといったところ。
参道から先、石段が上へと続き、比較的広い境内にたどり着き、相撲神事でもあるのだろうか、廃れた土俵?が拝殿前にあり、地元に崇敬されてる神社だと雰囲気で分かる公園のような敷地にしばらく佇む。
波多岐神社は、伊賀国三ノ宮。「はたき」というと、あの掃除の「ハタキ」を思い出すが、ネットで調べてみると、「波多岐」の名称は、境内にある樫の木が林立し、その木が屈曲せず、真っすぐに伸びて、それを「旗木」として朝廷に献上したことから来ているらしい。由緒には、創建年代は不明であるが、10世紀以前から旧郷社としてあったものと記されていて、御祭神は大鷦鴇尊(おおささき)、つまり仁徳天皇が祀られている。なぜ仁徳天皇なのかも不明で、情報が何も出てこないので分からないが、昔から伊賀国三ノ宮として呼ばれていたことは間違いないみたい。
拝殿でお参り。本殿裏手には森のように木々がすっくと生えていたところを見ると、“はたきの由縁”となった樫の木だろうか、境内を見守るかのように、鳥のさえずりも聞こえ、あの大坂堺市の仁徳天皇陵の、こんもりとした形の森に思考が飛び、仁徳さんは伊賀の地に来たことがあるのだろうか?と、閑静な神域を見渡す。
御朱印は、賽銭箱の近くに書置きのがあり、それを拝受し、一礼して次へ。

小宮神社 - モリゾーのひとり言

2021/06/13 (Sun) 22:26:44

柘植川沿いの道を西へ。JR関西線の踏切を渡り、南へ。柘植川に架かる橋には「歩行者優先」という看板が掲げられていて、車が対面交通できない幅の橋では、集団下校の小学生たちが渡ってきて、その後ろから車が数台、列を成して徐行してくる。人や車がすべて渡り切るまで、橋のたもとで待ち、様子をうかがいながら橋を渡ると、向かいから車がやって来て、「歩行者優先じゃないの?」と思いながら、ちょうど歩行者が待機できる空間が橋の途中に設けられていて、そこで車をやり過ごし、足早に渡る。予算がないのか、こんな不便な橋ばかりで、もっと立派な…と、東側の遠くに目を向けると、橋げたの一部が欠損している橋が見え、「それで、この橋を利用せざるを得ないのか…」と、納得と同時に、地方にはこんな変わった橋があるんだぁ~と、伊賀の国に来ているんだという実感を覚える。
田畑が広がる景色、建物など遮るものがない中の農道をひたすら歩き、大和街道に出てきて、「印代」という交差点からさらに南へ真っすぐ進むと、ちょっとした森が見えてきて、「伊賀国二ノ宮はあそこだな…」と見当がつく。たどり着いた小宮神社の鳥居が道路に面し、さっそく潜り、木々生い茂る中の参道へ失礼する。
小宮神社は冊子によると、服部氏の祖、呉服比賣命(くれはのひめのみこと)を主祭神とし、建御名方命、大山祗命と、古来より服部一族がこの地に住み着き、奉斎したのが始まり。「こみや」とも「おみや」とも読み、「おみ」は「紡績、麻績」の意との説があり、先ほどの敢国神社で触れた、4世紀ごろに百済から大和朝廷の時代に渡来した「秦酒君」が機織や養蚕の技術を伝え、これを監督するという服部一族のルーツが絡んでいる。
呉服比賣命…「比賣(ひめ)」ということは、秦酒君は女性であるのだろうかと思いつつ、建御名方命が祀られているということは、諏訪系の神社であることも分かり、諏訪源氏という流れも敢国神社で説明した通りのことなので、納得。
社殿は簡素な造りで、その中でお参り。右に蛭子社、左に狭伯神社と祀られていて、横から本殿の“姿”を覗くと、古い本殿なのだろうか、風雨に晒さないように囲われた壁面が見え、身を削ぎ落したようなシンプルな造りで忍者らしいフォルム。細かい所を見ることはできないが、たぶん派手な彫刻や装飾など無い、さすが忍者一族の流れを受け継いだ…こぢんまりした社殿に、どうしても勝手に、「忍び」に結びつけてみたくなる。
境内南東には「皇大神宮遥拝所」の石碑が建ち、ここからでも伊勢神宮にお参りできるように、伊賀の神社ではよく見かけ、常に天照大神への崇拝の念が垣間見える。
社務所は無人で、御朱印は宝印のみ。セルフで御朱印帳に押印し、今日はここまで。暮れゆく忍者の里で、約3万歩越えを記録し、我ながらよく歩いたと宿へと“ドロン”するのでした~

つづく…

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