寺社仏閣 ご朱印の旅

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ブログが面倒くさいので、掲示板で紹介していま~す。よろしくお願いいたします。
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伊賀の旅(3) - モリゾーのひとり言

2021/06/27 (Sun) 17:44:10

この「御朱印の旅」を、自分自身、過去にどこへ行ったのか遡って読み返してみると、「何てヘタクソなんだ…」と、文章の行間や構成、「てにをは」の助詞や漢字の誤字脱字と、情けなくて恥ずかしい。っていうか、原稿をタイピングする際の押し間違いもあり、自分では意識していないところで間違っていることに気付かされ、校正はしているものの、見逃している。
そこは何とか想像して(勝手ながら…)読んでいただくとして、最近は、漢字やことわざなども度忘れしてしまい、パッと出てこない有り様に「年老いたな…」と、このコロナ禍での社会とリンクして消極的になりそうな…いやいや…全然そんなこと思ってねぇし、「うっせぇうっせぇうっせぇわ!」と跳ね返してやるぅ~って、書いてみたかっただけですが…
この文章を書いてて、オチが見つからないので、最終日の“ひとり言”…どうぞ~

新大仏寺(1) - モリゾーのひとり言

2021/06/27 (Sun) 17:45:16

最終日。今回の旅の計画をネット検索する上で、妙に「新大仏寺」というワードが出て来て、いったいどんなお寺なのか訪れてみたいと、バス路線や本数を調べ、滞在時間がほどよく取れる時間帯が朝一番ということで、出発。汁村行きのバスは、そこそこの乗客を乗せ、山村風景が広がる地帯に進むにつれ、徐々に乗客は減っていき、いつの間にか私一人に。伊賀市街地から東へ、阿波という集落の大山田村という場所には、地図上では近くに大山田温泉があることを知り、伊賀市の範囲が意外と広いことに気づかされる。
成田山前バス停に到着。長閑な川が流れる服部川に架かる橋を渡ると、川沿いにはまだ咲かない桜の木が並び、山を借景とした風景が見渡せ、朝の新鮮な空気と相まって清々しい。そして、導かれるように大きな仁王門、朱色の仁王像が“あうん”とにらみを利かし、新大仏寺の威厳のような風格?をアピールするかのように出迎えてくれる。
新大仏寺は、建長2年(1202)、源頼朝が後鳥羽法皇の勅願として開いたのが始まり。奈良の東大寺を再興した、重源上人が各地に「別所」と呼ばれる出先機関を設け、全国に7ヶ所作った内の「伊賀別所」の1つで、東大寺に敬意を払って寺の名称に「新」の一字を重源上人が付け加えたことからきている(ネット参照)。こちらには「阿波の大仏」として、地元に親しまれている総高4mもの檜造の盧舎那仏が宝物殿に安置されていて、寺務所にて受付を済ませないと中には入れない。その拝観時間が9:00からなので、まだ30分も空きがあり、それまで境内を散策する。
仁王門から左手は駐車場になっていて、そこには斜面に36童子の銅像の中央に立つ白寿慈母観音像や、安全祈願の明王殿が建ち、車祓いの拝所なのだろう、広く設けられている。緩やかな坂を上がり、左手は西国33ヶ所の石仏を巡礼する山道、右手へと伽藍がある境内となっていて、順番に大師堂から手を合わせていく。大師堂の横には松尾芭蕉の「丈六塚」の句碑が建ち、かつてここを訪れ、戦国時代に荒廃してしまった様子を
「丈六に 陽炎(かげろふ)高し 石の上」
という句を残し、この寺を偲んでいたことが分かる。
そのお隣には大仏殿が建ち、中に入れるので引戸を開け中へ。もともとは大仏が安置されていたが、現在はその大仏は宝物殿にあり、今は内陣に祀られている新しい?阿弥陀如来に手を合わせる。十一面観音や地蔵菩薩にも“あいさつ”し、大仏殿の奥には「岩屋不動明王」が祀られているので、靴を脱いで内陣へと失礼し、畳敷きの部屋へ。
美術館のようにガラス張りから望む不動明王は、右手に剣、左手に縄を持ち、小っちゃな二童子を従え、厳めしくこっちを睨んでいる。「石仏としてよく立像を造ったなぁ~」と、そのいで立ちと対峙し、「やっぱしお不動さんには敵わないなぁ~」と、その凛々しいフォルムに手を合わせ、しばらく拝観する。

新大仏寺(2) - モリゾーのひとり言

2021/06/27 (Sun) 17:46:21

時刻は9:00となり、再び寺務所を訪れる。が、誰もいない。まぁ~、長閑な寺の“あるある”なので、しばらくベンチで待っていると、住職さんが現れ、
「今、係の方が開けに行きますので…」と、私ものんびりと
「あ~、はい。お願いしま~す。」と境内へとゆっくり、再び歩いていく。
宝物殿という名称かと思っていたら、「大仏殿」という名称の看板が立っていて、先ほど拝観した本堂の大仏殿は「旧大仏殿」ということか、そんなことは気にせず、さっそく1階から失礼する。
1階には大仏の下にある台座、つまり「石造の基壇」が展示されていて、石の表面にうっすらと獅子が施されているのが分かり、一周ぐるりと、その大きさ、形を見る。
2階へと移動し、大きな盧舎那仏を拝観。記録によると、元は阿弥陀如来立像で、脇侍に観音・勢至菩薩立像もあって、同様の大きさであったという。作者は仏師の快慶。この寺の荒廃時期に阿弥陀三尊像は倒壊してしまい、阿弥陀如来の頭部のみが残され、本尊の修造により、首から下の胴体部分を新しく造り、改めて盧舎那仏として、立像から座像に治しているらしい。そんな説明なしに拝観していたら、まったく違和感なく、座像の盧舎那仏として見てしまっていただろうと、頭の大きさに合った胴体を造った仏師たちの技術にも驚かされる。それだけではない。ネットによると、頭だけが唯一残された箇所かと思いきや、阿弥陀如来の「手」が最近、アメリカハーバード大学内のサックラー美術館に保管されている「手」ではないかという可能性が指摘されている。手首の剥ぎ面や、当時の造像状況から検討した結果、本尊である可能性が高いとのこと。はたまた、国内でも、個人所蔵の菩薩像の右耳が、脇侍像の一部ではないかという新事実も挙がってきていて、失った仏像の一部があちこちで発見されているということに、仏像マニアでなくても興味をそそられる。
それにしても、遠いアメリカに「手」が渡ったとなると、売買されたのか?はたまた盗仏か?と、どうしても一昔前、仏像で騒動になった中国や韓国のことを思い出してしまい、悪い方のイメージが働いてしまう。
しかし、まぁ~、頭部から新しく大仏を造像し、今に至っているのは、この地方の、人々の信仰心があってのことで、「新大仏寺」という名称に相応しい寺を知ることができて、満足×2。盧舎那仏の脇には、重源上人像も安置されていて、あの奈良の大仏を造ったご苦労が顔のシワに表されているような気がして、しっかりと手を合わせるのでありました~

阿多古忍之社 - モリゾーのひとり言

2021/06/27 (Sun) 17:47:19

成田山前バス停から上野市駅行きに乗り、恵美須町バス停で途中下車。南西方向へ、閑静な“城下町”を歩いていくと、愛宕神社に到着。こちらには境内社に、「阿多古忍之社」というのがあり、「伊賀忍者回廊」の1つになっているので、訪れた次第。
東に建つ鳥居から失礼し、正面には舞殿のような幣殿、その奥に朱色の本殿が建ち、境内は駐車場になっているのか、数台の車が止まっている。お参り後、格子塀の隙間の彫刻もさることながら、そこの隙間から覗く、本殿の柱や唐破風屋根下の向拝に施された彫刻、色彩が見事で、獅子、象、龍と、多用に見て取れる。
御祭神は火産霊神。「火伏せの神様」といえば、あの京都の愛宕山を登った記憶が新しいが、「忍者=火」という、何となくイメージだけで結びつくものだと思いつつ、どうやらこの社殿を再興した人物が忍者と関わっている。
それがあの、勝因寺でも登場した小天狗清蔵。天正伊賀の乱で灰塵と化した社殿を勧進により再興、戦乱で荒れ果てた社寺を復興し尽力した清蔵は、大峰山に36回も登ったほどの修験者で、その容貌は天狗に似ていたということは、前に述べたが、本当は外国人ではなかったのか?という話もある。その小天狗が祀られている境内社が愛宕神社の隣にある。
向拝三間の、左から稲荷大明神、中央に阿多古忍之社、右に八幡宮が祀られていて、鳥居横には「忍者神社」の看板が掲げられ、それぞれに手を合わせる。
忍之社にはお参りの仕方がちょっと変わっている。説明には、右手の人差し指、中指の2本で手刀を作り、鞘から刀を抜くようにして胸前で「ひふみよいむなやこと」と1から10までを唱えながら、「×」ばってんを描き、身体の5つの部分に触れ、手刀に息を吹きかけ、鞘に納めて一礼する…その一連の動作をするのに、なんだか勇気がいり、周りに誰もいないのを確かめてからやってみる。
「やっぱし、何か恥ずかしい…」
忍者らしい動作に、ふざけたようなお参りの仕方だが、これが正式なお参りの方法なので従うしかない。まぁ~、小天狗さんも「ようお参りして下さいました」と感謝してくれているにちがいないと、伊賀の地で奔走した小天狗さんにリスペクトしつつ、書置きの御朱印をいただき、次へ。

愛染院 - モリゾーのひとり言

2021/06/27 (Sun) 17:48:22

愛宕神社から北の方角に、芭蕉ゆかりの「蓑虫庵」があるが、紅葉の時期が美しいという情報をもとに、今回はパスし、北東方向に向け歩いていく。伊賀鉄道の線路を東へ越え、伊賀四国霊場79番札所の、牡丹の花で有名な「安楽寺」に途中立ち寄り、セルフ御朱印を拝受し、再び歩き出す。
伊賀市の中心地から少し北東に外れた愛染院にたどり着くと、懐かしい感じ。というのも、上野天神宮同様、まだ御朱印を集めていない頃に訪れていて、こちらには「故郷塚」といわれる松尾芭蕉の遺髪が埋められている「塚」があり、松尾家の菩提寺で、御朱印を拝受しに訪れた次第。
松尾芭蕉は、大阪市南御堂花屋で亡くなり、遺骸は遺言により滋賀県大津市膳所の義仲寺(過去に訪れてる)に葬られ、訃報を受けて、伊賀の門徒たちが遺髪を奉じて持ち帰り、碑を建て、その遺風を今に伝えている。毎年、亡くなられた10月12日には墓前法要が行われているそうで、俳人などの参列風景が目に浮かぶ。
山門を潜り、まずは本堂でお参り。御朱印はお隣の庫裏だろうか、ケースに書置きの紙があるので拝受し、本堂の左手にある「故郷塚」へ移動。「柴門」と呼ばれるところから柱に設置されている投入箱に拝観料200円を入れ、引戸を開け中へ失礼すると、庭の手入れをしている人に出会い御挨拶。偶然出会ったこの方は、お寺の檀家さんだろうか?ボランティアガイドさんだろうか?未だに分からないが、敷地内の説明をして下さる。石畳を歩き、それぞれに配置された、静岡や金沢、京都などの俳人の句碑、「故郷塚」の由来、五輪塔など、「へぇ~」と感心し、教養を学ぶ。もうじき終わりそうな梅の花を眺めながら、「こんな時、俳人、松尾芭蕉なら簡単に俳句を創れるであろうなぁ~」と、パチリとカメラに収める。
「故郷塚」と対面するように、向かいには茶室があり、「ちょっとだけどうぞ」と、中を覗かせてくれることに。「祇竹庵」と呼ばれる茶室は、昭和初期に再建され、身分の分け隔てなく平等に、腰をかがめて潜る「躙り口」を始め、四畳半の茶室と二畳の仏間となっていて、芭蕉の木像もある。茶室の脇にはちょっとした石庭に松が植樹されていて、「ここから故郷塚を撮ったら絵になりますよ」と教えてくれ、ここでもパチリ。いろいろと敷地内を案内して下さり、丁重にお礼を述べ、芭蕉の人となりを学んだ1日となりました~

春日神社 - モリゾーのひとり言

2021/06/27 (Sun) 17:49:16

愛染院から歩いて伊賀バスターミナルへ。次の目的地、春日神社までのバスが来るまで、大きな多目的商業施設のビル内で休憩。ビルには観光協会を始め、コンビニやお食事できるお店もあり、伊賀牛ステーキの看板メニューを見ては、「いつか…」と、バス乗車時間を理由に立ち去る。
新堂駅行きのバスに乗り、敢国神社を通り過ぎ、さらに北東方向へバスは進み、川東バス停で下車。東へ歩いていくと橋があり、その先に鳥居が建っていて、「あそこだな!」と参道をさらに進む。
春日神社は「伊賀忍者回廊」の1つ。ネットによると、この地域は「壬生野地区」という、平安時代後期には春日社(奈良の)の荘園があった場所で、春日神社の拝殿は室町時代に造立、各武力を持った領主たちから精神的な心の支えとして、昔から崇敬されてきた神社とのこと。そんな中、戦国時代に入り、織田信長の伊賀攻め、天正伊賀の乱で宝物などが一部焼失。奈良春日大社の若林御厨(みくりや:神社や神棚に備える供物を調達する場所)であった関係から、織田軍の家臣、滝川一益に春日大社の社人や、興福寺の僧侶たちが訴えて、焼失を免れたと伝えられている。焼失を免れた拝殿の建物もその1つで、文化財としては、「雨乞願解(あまごいがんほどき)大絵巻」というのが、この神社では有名らしい。読んで字のごとく、干ばつで被害を受けないよう奉納したもので、13点もあり、農家の豊作祈願が垣間見える。
もう1つ、こちらの神社では「相撲神事」があり、相撲といっても、赤ん坊を号泣させる“大会”なる「幼児相撲」が行われている。ある意味、抱っこした大人が強引に泣かせているだけだろうが、ほっこりした神事もあるようだ。
鳥居から先、広い駐車場兼広い境内を見渡し、春日寺というお堂も建っていることから神仏習合の名残か、こちらでお参りし、社殿の方へ…と思ったら、グレーの工事用カバーに覆われた拝殿が見え、修復工事中のよう。戦国時代に兵火を逃れた拝殿が今も残っている遺構を見ること叶わず、こればっかりは仕方がない。仮設の拝所があるので、そこからお参りし、社務所へと移動。2頭の鹿が戯れる銅像?に見守られながら、御朱印を拝受し、お礼を述べ、次へ。

都美恵神社 - モリゾーのひとり言

2021/06/27 (Sun) 17:50:18

川東バス停から伊賀バスセンター行きに乗り、佐那具バス停で途中下車。交差点を北へ、柘植川に架かる橋を渡り、JR佐那具駅へ。JR関西本線は、1時間に1本と、1本逃すと時間の無駄になってしまうので急ぐ。なんとか間に合い、ワンマン電車に揺られること、2駅先のJR柘植駅で下車。ここは伊賀市でいう、東側の端っこにあたり、お隣は三重県亀山市、北には滋賀県甲賀市と、山に囲まれた丘陵が広がる土地柄のイメージがある。駅前の何もない広場から西へ、緩やかな坂道を下り、15分ほどで都美恵神社に到着。
メインの鳥居は南側に建っていて、境内東側から来てしまったので、そこから失礼し、しばらく佇み、神社の雰囲気を味わう。
「都美恵」を最初は何と読むのか…「とみえ」「つみえ」と、女性の名前みたいな名称だが、「つみえ」と読むらしい。ちなみに、ネットの情報だと、この「つみえ」が転じて「柘植」になったという説もあるらしいが。
昔、この地域は倭姫命が2年間滞在した「敢都美恵宮(あえとみえのみや)」という「元伊勢」の1つとされていて、「敢都美恵宮」は前日訪れた、敢国神社もその候補地とする説がある。
都美恵神社は、元々は、2、3世紀以前、霊山中腹の穴師谷に祀られていた「穴石大明神」から「穴石神社」「穴師社」「石山明神」とも呼ばれ、明治時代に一村一社の合祀となり、大正時代に社号の「敢」を取り、「都美恵神社」に改称したとある。「伊勢風土記逸文」には要略すると、出雲民族がこの地方に移住し、城を造り、そこへ阿倍志彦の神が攻めてきたが、勝てないので帰った…云々が記されていて、ここでいう「阿倍志彦神」は、敢国神社の元祭神である敢国津神のことなので、「敢」の一文字を消して「都美恵神社」としたのは、昔の争いからの恨み?因縁?が今も連綿と続き、「敢国神社」と「都美恵神社」の間で仲違いしているのだろうか?と、勝手に妄想してしまう。
さて、そんな境内には、拝殿に向かってまっすぐのびる石段、その周りを強固?な石垣で配されている高い位置に社殿があり、全景を眺めてはさっそく、拝殿に向かう。
御祭神は栲幡木々比売命を主祭神に、布都御魂命、布津主命他33柱が合祀されていて、主祭神はあまり聞いたことがない神様だが、調べると、記紀神話では、天照大神が忌服屋(いみはたや:神聖な織物小屋のこと)で神御衣を織らせている、機織りをする巫女で、織物業の女神様。なので、「都美恵」という社号の響きや、ここを訪れた時の、どこか女性らしい空気感を覚えたのは、「そのせいか!」と、改めて思い出す。
社務所で御朱印をと伺うと、机に書置きの“御朱印コーナー”があり、そこには1枚も置いていないので、声を掛け、新しい書置きの御朱印を拝受。「伊賀忍者回廊」企画のまだ行っていない巡礼地はまだまだあり、今回はここまでとし、次の旅に期待するのでした~

Re: 伊賀の旅(3) - 仙人

2022/08/05 (Fri) 10:21:03

初めて投稿させていただきます。
各仏閣に詳しい説明が添えられ、興味深く読ませていただきました。

新大仏寺
私もこのお寺には2度ほどお参りをさせて頂きました。
本堂の外に立つ岩屋不動尊は圧巻でした。

Re: 伊賀の旅(3) - モリゾー

2022/08/09 (Tue) 09:02:49

仙人さま、返信ありがとうございます。

「新大仏寺」という名称を聞いて、最初は、「新加勢大周か!」と、冗談でツッコミを入れてみたく、どんなお寺なのだろうか?と、興味を持ったのがきっかけでした(それだけではないですけど…笑)。
後々、調べていくうちに、ちゃんとした歴史あるお寺であることを知り、あの、インパクトある岩屋不動尊や盧舎那仏を拝観したことを今でも覚えています。

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