寺社仏閣 ご朱印の旅

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また2、伊賀の旅(1) - モリゾーのひとり言

2021/07/15 (Thu) 16:29:59

暑いですなぁ~。名古屋の夏は、何でこうジメジメしているのか。昨今の豪雨に猛暑と、異常気象になっている世界で、何となく、身体が順応していかなくなったような、環境のせいか、歳のせいかと…最近では、目覚ましよりも早く、4時ごろに目が覚めてしまう”異常起床“になってきて、おじさん…否…おじいちゃん化してきている。
…で、今回もまた伊賀の旅。もう梅雨明けだというのに、3月下旬の旅の紹介と(すみません…)行ってきましたよ~

常福寺 - モリゾーのひとり言

2021/07/15 (Thu) 16:31:06

近鉄名古屋駅から特急で伊賀神戸駅へ。途中、伊勢中川駅で大阪難波行きの特急に乗り換えるのだが、その鳥羽発特急列車が人身事故の影響で30分遅れ。こればっかりはしょうがないが、今後のスケジュールに響いて行かなければいいがと、ホームのベンチで待機。
…で、無事、伊賀神戸駅に到着し、駅から北西方向に進み、木津川に架かる橋を渡って、メイン道路から外れた小道を歩くと、昭和?を感じさせる田園風景の中に、大きな屋敷かと見間違うかのような佇まいの常福寺が見渡せ、土手?には満開の桜、山門付近には「南無大聖不動明王」と書かれた幟旗が風に靡いて私を誘っている。
常福寺は、伊賀四国霊場、伊賀忍者回廊など、巡礼寺として、秘仏の五大明王を祀る古刹。創建は奈良時代、徳道上人が開基。徳道上人は、あの、奈良の長谷寺を開基した人物で、長谷寺の本尊、十一面観音菩薩造立の余材を用いて仏師に頼み、当寺の本尊五大明王を造り、聖武天皇に上奏して勅願寺として定められた(ネット参照)。この地方を襲った天正伊賀の乱で本尊は免れたものの、堂宇を焼失、その後、徳川時代には藤堂藩の祈願所として守護を受け、(省略)現在に至っている。
境内にたどり着くと、本堂、庫裏、鐘楼などが建ち、敷地の広さ、雰囲気から、かつては興隆していた歴史があったと、なんとはなしに分かり、さっそく本堂でお参り。本堂前には「伊賀の三大広葉杉」と呼ばれる杉の古木が1本、で~んと伸び、「杉」を「ざん」と読むらしく、「こうようざん」として長谷寺から広まったという、ここでも長谷寺との関係性が見える。
境内右手へと移動すると、ここの裏山が四国霊場や西国観音霊場の石仏をお参りする巡礼ができると、森の中へと続く山道が見え、入口近くには大きな「久遠宝塔」に、無縁墓だろうか、斜面に客席のように勢ぞろいしている。その山道の中腹には「福石(御飯石)」という石があるらしく、残念ながら私は行っていないので、その「石」を拝むことはしなかったが、ここは説明だけ。「福石」は、常福寺にまだ仏像がなかったころ、「稽分会」と「稽主薫」という仏師がこの地に来て、一心不乱に余材を用いて五大明王を彫り、その間、村人が朝食のごはんを届けていたが、一切口にせず、その像を完成させるや否や姿を消してしまう。そこで村人が堂の裏手へ行ってみると、村人が運んだごはんが山盛りとなって残され、それが石(福石)となっていたという…「ごはんが石に!?」と、ありそうでないような話だが、「二人の仏師はなぜ食べなかったのか?」と、ひねくれた考えが…いかんいかん…煩悩があると、やはり仏像に魂を込められないのか、二人の仏師もそれだけ祈りを込めて彫っていたのだろうと、「五大明王」に「福石」というおみやげ?付きで当寺に御利益を与え、名を残した功績は大きい。
その五大明王は秘仏となっており、当寺のHPで紹介されているので、そのお姿を見ることができるが、実際、拝観することはできないものだろうかと、庫裏で御朱印を頂いた時に、住職さんが今年の正月に公開されたパンフレットを持ってきて下さり、来年も正月から3日間だけ公開するということを教えて下さり、感謝×2。何とか休みが取れればなぁ~と未来に期待し、次へ。

持仏寺 - モリゾーのひとり言

2021/07/15 (Thu) 16:32:01

常福寺境内から西へ、木々が生い茂る中の道を歩き、北へ進む。道路沿いには田園、ちょっとしたお店と、ここでも昭和を感じさせる風景があり、持仏寺への看板から先、途中から田畑の中を歩いていく。素朴な雰囲気が漂い、木々で囲まれた敷地を見、寺域まで進むと、意外に広い境内にたどり着き、さっそく失礼する。境内には本堂、庫裏、2代目の「青龍の松」や石灯籠、無縁墓、懐かしい二宮金次郎像も立っていて、すっきりとした印象。
持仏寺は室町時代、京都の醍醐寺から来た一人の僧が草庵を結んだことから始まり、その後、快義なる僧が堂宇を広め、立派な寺院にしたと伝わる。寺歴としては、信長が天正伊賀の乱でここを拠点として丸山城構築にあたり、その本陣を構えていたことで、兵火に遭い、烏有に帰して(うゆうにきして:すっかり火事で無くなってしまうこと)しまったが、(かなり省略)昭和45年の本堂新築まで、かなりの紆余曲折の寺運が働いていたことは、想像に難くない。
閉ざされた本堂でお参り後、庫裏へと御朱印をお願いしに行くと、「どうぞ、本堂の方へお上がり下さい」と案内して下さり、もう一度、本尊の阿弥陀如来さまにお参り。これから向かう神戸神社や無量寿福寺方面の道を教えて下さり、少し談笑。境内西にある池は、初夏には蓮の花が咲く「蓮池」で、その時期に訪ねては?と勧めてくださり、お礼を述べ後にする。

神戸神社 - モリゾーのひとり言

2021/07/15 (Thu) 16:32:57

再び田園風景の中を戻り、木津川に架かる橋を渡り、北に延びる小道を歩く。しばらくすると、西向きの鳥居が見えてきて、神戸神社に到着。「元伊勢」として前から訪れたかった神戸神社は、創祀年代は不明であるが、倭姫命が天照大神を奉じて諸国を行幸した折、伊賀の「穴穂宮」へ遷り、4年間奉斎したと、「倭姫命世記」に記されている。その「穴穂宮」の比定地の最有力とされているのが当社で、昔は「穴穂宮」とも「穴太宮」とも、はたまた「穴穂神社」とも呼ばれていて、明治時代に入ってから周辺神社を合祀して、「神戸神社」と改称したとある。
「神戸」と書いて「かんべ」と読み、私も最初は兵庫県の「こうべ」と読んでいて恥ずかしい限りだが、逆にそれを知ってから、なにかしら兵庫県の「神戸」を思い出すたびに必ず、「かんべ」の読みが一瞬、頭をよぎる。そんな「かんべ」地方は、古代から伊勢神宮の「神田」として租庸調を納める神事の民が暮らしていたことから由来していて、かなり農耕民族の暮らしぶりが想像できる。
ネットによると、倭姫命が当地に滞在のころ、木津川は「暗崎川」と呼ばれていて、川で獲れる鮎を天照大神に献上し、それが今でも伊勢神宮に供進されているというから、木津川がきれいな水であるということ、その水でお米ができることを思うと、やはり神聖さに満ちた土地柄であると改めて納得。
さて、境内には伊勢神宮の方角に向拝所、護国社などがあり、拝殿に向かう参道周りには、幹の太い杉の古木が林立し、さっそく拝殿でお参り。当神社は、伊勢神宮と同じように、20年に一度、本殿が建て替えられる「遷宮」があり、平成27年に行ったとされているので、本殿はそんなに古くはない。伊勢神宮の古材を譲り受けて建築されるので、いかに伊勢とのつながりがあるかが垣間見える。
社務所で御朱印をお願いし、ここまで駅から歩いてきたこと、これから猪田神社まで歩いていくことに労って下さり、いろいろと情報を仕入れ、お礼を述べ後にする。

無量寿福寺 - モリゾーのひとり言

2021/07/15 (Thu) 16:34:01

神戸神社西側の一本道の農道をひたすら北へ歩いていると、晴れ渡る空の下、田園が広がる景色に「神田」という言葉を知ったからか、どことなく違って見える。人の心理は不思議なもので、何も知らなければ、ただの田んぼで、尾ひれがつくと価値?が上がるかのように、人の目や印象を狂わしてしまう?…それが悪いというわけではないが、とかく“特別”というものの見極めに左右されてしまう。普通の田んぼとして見、それがある意味、本当の価値があるものだと理解するのに、まだまだ歳を重ねないといけないなぁ~と、目の前の景色を楽しみながら散策する。
気が付くと、道端にある案内看板には、この道がハイキングコースのような道標になっていて、奈良県桜井市の「山之辺の道」ではないが、どこか古(いにしえ)の雰囲気に似た空気感を味わいつつ矢印通り、無量寿福寺を目指す。
こんもりと丘のような全景が見えてきて、上へと続く石段の所まで来ると、“試練の壁”のように聳え、さっそく登る。途中、立ち止まっては振り返り、広大な田園風景の先、東側には木津川が見え、かつて伊賀の乱で争った武士たちの戦(いくさ)の姿が想像でき、休憩がてら見渡す。
無量寿福寺のある場所は天童山といわれ、天正伊賀の乱では伊賀地侍衆の拠点として、木津川を挟んで織田軍の丸山城と対峙。丸山城を落としたものの、結局のところ伊賀勢は陥落してしまい、当寺も焼失した歴史がある。
この寺の由緒には、孝謙天皇勅願により行基菩薩が開基、その後、(省略)荒廃、復興を繰り返し、京都の東福寺、奈良の西大寺、唐招提寺の僧たちが当寺に逗留するなどの関係性が深かったことなど、学僧が集まる修練の場でもあったらしい。江戸時代には寺子屋としての役割も担っていて、昔から教育機関の“学び舎”として栄えていたことが想像できる。
…で、たどり着いた参道には「伊賀忍者回廊」の幟旗が並び、その先の山門を潜り、境内には新築っぽい本堂、子安太子堂、この山の守り神を祀る社、庫裏とあり、清潔感溢れる寺域となっていて、本堂でお参り。本尊はこの伊賀の争乱で免れた阿弥陀如来さんで、戦乱を潜り抜けてきた阿弥陀如来さんにご挨拶。御朱印をと、庫裏へ伺うと留守のようで、セルフ方式の宝印が本堂前にあるので押印し次へ。

長隆寺 - モリゾーのひとり言

2021/07/15 (Thu) 16:35:13

無量寿福寺から北西方向へ、伊賀四国霊場の蓮勝寺に立ち寄る。集落の中の坂道を上がり、山門代わりの、アーチ状に剪定された「木」が出迎え、境内に失礼すると、横に長い本堂、観音堂?、無縁墓等配置され、シンプルな伽藍の中、お参り。ネットによると、先ほど訪れた常福寺の末寺として平安時代に開創、伊賀の乱で焼失し、江戸時代(元禄)に再興、伊賀四国霊場88ある内の本尊が馬頭観音菩薩であるのはここだけで、厄除け観音として昔から信仰を集めているとのこと。静かな昼下がり、こちらも留守のようなので、セルフ式の宝印が置いてあるので、押印し、次の目的地、長隆寺へ向かう。
再び、遮るものがない広大な田園風景を望み、遠くに見える山の麓に並ぶ民家、それに並行して桜並木が横一列に続き、河川なのか用水路があるのだろうと想像しながら歩く。風が少し強めに吹く中をようやくたどり着いた集落には、予想通り農業用水の川が流れ、川沿いには桜が満開とまではいかないが、見頃を迎えている。
集落の奥へと続く細い路地、そして坂道を上がり、長隆寺にたどり着くと、本堂や収蔵庫、卒業アルバムの集合写真のように並ぶ無縁墓があり、この地方の寺にはよく見かける。
長隆寺は行基菩薩が開創、ここから東にある猪田神社の別当寺で、昔は森寺(守寺)と呼ばれ、16の寺院が存在していたらしいが、やはり伊賀の乱で焼け落ち、その後復興、本堂は明治時代に建立されたものと冊子に書いてある。
当寺には国指定重文の薬師如来坐像、県指定有形文化財の大日如来が坐像安置されていて、前者は定朝様式、後者は胎蔵界の世界を表す本尊として、両者とも平安時代後期、寄木造りの作として案内看板に紹介されている。
訪れた当時、本堂の格子戸は閉まっていて、庫裏にも誰もいない様子なので、お会いすること叶わず、冊子に載っている二仏の写真を見、そのお姿を拝むこととし、本堂前でお参り。こちらも留守のようなので、置かれてあるセルフ式の宝印を御朱印帳に押し、古刹の雰囲気を味わいつつ後にする。

猪田神社(下郡) - モリゾーのひとり言

2021/07/15 (Thu) 16:36:14

桜並木を愛でながら、カーブを描く道を歩くと、数分で猪田神社に到着。神戸神社で情報を得た、猪田神社は下郡地区と猪田地区の2つあることを知り、2つの神社は地図上では1kmと離れていない距離にあり、まずは下郡の猪田神社を訪ねる。
鳥居が、広島の厳島神社のあの、海に浮かぶ鳥居の形のようになっていて、濃い赤色の色彩を放ち目立っている。境内は鬱蒼と茂る森を背景に、幣殿、本殿が建ち、左の方から本殿へと近くへ見に行けるようで、まずはお参り。
猪田神社の御祭神は「猪田神」、別名、武伊賀津別命(たけいがつわけのみこと)。成務天皇の御代に、伊賀の国造に任じられた伊賀臣の祖神で、その子孫である伊賀臣は、郡司として神社前方に集落を形成、役所を置き、政治経済の中心地として支配。神社の森を「神奈備の杜」として祭祀したのがはじまりとされている。社殿が建てられる際、白鷺が「住吉神」という銘の入った白羽の矢を咥えて、松の木に留まり、それ以来、猪田神と住吉神を合わせて祀るようになったという話もある。その後、織田軍による伊賀攻めで焼失、あの“小天狗”がここでも再建、復興に尽力されていて、“救世主”ぶりを発揮している。
その本殿を見に行こうと、境内を散策。摂社末社、それに「雨石」という表示のお堂が建っていて、格子戸から中を覗いてみるが、暗くてよくわからない。ネットによると、この神社の境内には、2つの「神石」を祀る祠があり、川に浸けると雨が降るという丸い形をした「満珠石」、今度は逆で、長雨の時に浸けると雨が止む三日月形の「千珠石」という霊石がある。そういえば、手水舎の隣に丸い石の「晴石」があったので、あれが「満珠石」かと振り返り、ここにあるのが「千珠石」かと理解。「ほんとかいな~」と、昔の農家の人たちはこれに頼って、干ばつや日照り、洪水や土砂災害などが起きないように神様に祈ってきたのだろうと、苦労が垣間見える。
昼間でも暗い雰囲気の本殿側面にたどり着くと、鮮やかな朱色に極彩色の装飾の柄が、柱や向拝下に施されていて、ここだけ明るい。一間社流造、屋根は檜皮葺で、県の有形文化財に指定されていて、猪田の神様は派手好きなのか?…と、勝手に想像する。
本殿前でもう一度お参り。社務所へと移動し、御朱印を拝受し、もう1つの猪田神社へ。

猪田神社(猪田) - モリゾーのひとり言

2021/07/15 (Thu) 16:37:17

農道を北西方向へ、神奈備山というか、もう見た目古墳ではないかと思わせる、こんもりとした森を左手に見渡しながら、一直線の参道に並ぶ灯籠が見え、そちらへ移動。下郡地区の猪田神社の派手な?鳥居ではなく、質素な雰囲気の鳥居から境内へと失礼すると、奥に一段高い敷地に、東を背に横向きに建つ社殿があり、こちらもそこそこの大きさの規模がある。
さっそく拝殿でお参り。脇から奥の本殿を見に行くと、全体的に朱色の色彩がそれなりに映え、極彩色の柄、檜皮葺の屋根を特徴に、下郡の神社とそれほど造りは変わってないが、国指定重文となっているので、どことなく古さは感じる。
拝殿の反対側には、ロープで仕切られた磐座があり、古くはここで神事なのか儀式が行われていたであろう、平ぺったい巨岩が鎮座していて、カメラに収め境内を散策。
さて、こちらの猪田神社は、当初は「猪田村の宮」と言われていたそうで、中世以降から住吉神社とも言われている。明治に入り、この地域の村を合併して猪田村となり、村内にある各社を合祀して、猪田神社に改称された。主祭神は武伊賀津別命と下郡の神社と同じで、本殿の背後に御陵としての円墳があり、眠っていらっしゃる。古墳は古くから西向きに開口していて、史跡指定に伴い、閉鎖されたとある。その頂上付近で発見された「四角形石灯籠」が境内の一角に建っていて、説明看板には、昭和53年に発見、前面に「伊賀津彦大明神神御廟前」、背面に「天文三年(1546)云々~施主、橘安重 敬白」と刻まれていて、埋没によってその形を留めることができた云々が書かれている。
御朱印はというと、社務所はあるが、無人のようなので諦め、社務所の反対側の小道奥には、小さな鳥居が建っていて、気になるので移動。こちらには「天眞名井(あまのまない)」という神泉があるらしく、冊子には、倭姫命が穴穂宮に滞在された時に、彫られた井戸とのこと。伊勢神宮外宮の忍穂井(おしほい)と通じていて、「伊賀忍穂井」ともいわれている。
…で、なぜか鳥居前で躊躇し、鬱蒼と茂る森の中を少しだけ歩くと、
「あれっ…」
この先は禁足地なのか?行ってはいけないような…はっきり言って霊感なんて全くない私が、無意識に足が止まる。理由はない。「ただ何となく嫌かな…」と思い、結局、無理強いは良くないと踵を返し戻ることに。まぁ、時間がないということもあって、そそくさと退散し、2つの猪田神社を訪れ、どちらも神奈備山を背に祀られている武伊賀津別命にお会いし、伊賀の地の、悠久なる土地柄に触れることができて感謝×2。

依那古木津川堤 - モリゾーのひとり言

2021/07/15 (Thu) 16:38:27

依那古駅へと東へ歩を進め、木津川沿いの堤防までやってくると、桜の並木がきれいである。満開を迎えた桜の下では宴会が…な~んて、盛り上がっている人たちを探すが、さすがにこのコロナ禍では自粛生活で人っ子一人いない。喜んでいるのは、毎年ビニールシートを敷かれている、その下の雑草や草花が青々と、生き生きと生えるように、久しぶりに静かに桜を愛でることだけだろうかと、橋の上から堤防沿いを覗きこんではカメラに収め、少し小休止。

大超寺 - モリゾーのひとり言

2021/07/15 (Thu) 16:39:31

依那古駅から伊賀鉄道を北へ、広小路駅で降りると、前回の旅と同様、寺町通りを南下、大超寺へと赴く。この後に訪れる心念寺の御朱印が、こちらでいただけるということで、訪れた次第だが、山門を潜ると、どこか殺風景な雰囲気が。本堂の建物がない更地になっていて、庫裏と北側にある観音堂、その奥にある墓地の配置となっている。更地には「本堂再建予定地」となっているので、いずれ建立されるのであろう、庫裏の玄関には「仮本堂は庫裏内の2階」とあるので、後で訪ねるとして、まずは観音堂でお参り。山門右手には、藤堂玄蕃家のお墓もあるので、そちらにも手を合わせる。
当寺には、ネットで調べるまで分からなかったのだが、あの「大津事件」の犯人が眠っているらしい。津田三蔵という滋賀県警察部巡査で、来日していたロシア帝国のニコライ皇太子をサーベルで負傷させたという事件。歴史の教科書で頭の隅っこに記憶していた程度なので、この機会にいろいろと勉強してみると、事件後、明治天皇が自ら療養中のニコライ皇太子を見舞ったことや、小国であった日本が大国ロシアの皇太子を傷つけたとして、学校が謹慎の意を表して休校になったり、山形県最上郡金山村では「津田」姓および「三蔵」の命名を禁じる条例を決議するなど、かなり国中で「恐露病」の様相を呈したとある。
本人の供述によると、以前からロシアの北方諸島などの強硬な姿勢を、快く思ってなかったという理由だが、裁判の判決は無期懲役となり、結局、収監中の2か月後に死亡、ロシアとの関係は日本の迅速な処置や謝罪に、ロシア側が寛容な態度を示してきたことで、一時は政府も肝を冷やしたことであろう。事件の詳細はめんどくさいのでこれ以上書かないが、当時の、明治の日本における三権分立や司法の在り方などの問題が議論されていく歩みも、あるネットでは紹介されているので、一通り学ぶ。
ただ1つ分からないのは、なぜ、ここに葬られているのかということ。檀家だったのだろうか、それなりに当寺と関係性があるのだろう、そこはツッコまずに次へ。
…で、仮本堂でお参りしようと庫裏へピンポーンすると、快く応じて下さり、御朱印帳を預け2階へ移動。内陣には本尊の阿弥陀如来が安置されていて、さっそくお参り。
当寺は、叔父の藤堂玄蕃公の菩提を弔うために開創されたお寺で、元々は伊予の国、今治にあった大善寺というお寺。住職の暁譽上人が隠居するにあたり、後の住職の光誉上人に譲渡し、大善寺の隣に超誓寺を建て、明治時代、この両寺を合併し、「大超寺」と改称された。当寺は、藤堂高虎公の各地への移封によって、一緒に“お引越し”してきた、前に紹介した上行寺や松本院と同じ。寺町のほとんどの寺が高虎公に付いてきているのだろう、どんだけ人望のあるお方かが、あの伊賀上野城の石垣のごとく、ブレない不動の持ち主の性格だったのかと垣間見る。
心念寺の御朱印も拝受し、お礼を述べ、その心念寺へ移動。

心念寺 - モリゾーのひとり言

2021/07/15 (Thu) 16:40:31

寺町通りから西へ移動。以前、訪れた松本院の近くに心念寺はあるので、地図がなくても場所は分かる。こちらのお寺は無人だが、老木の桜木がある情報を仕入れ、この時期に訪れた次第。通りからすでに塀を乗り越えて、しだれ桜が満開を迎え、今年はまだ3月だというのに、早咲きであることは、これも温暖化の現象なのだろうかと、そんな考えはすぐに忘れ、写真撮影に夢中になる。
心念寺は、先ほどの大超寺での暁譽上人の弟子、珍譽上人が開基したと伝わる。本堂には本尊の阿弥陀如来が安置されているそうだが、戸が閉まっているので、会うことは叶わず、本堂前でお参り。境内には隅っこに六地蔵が並び、仲良く満開の桜を愛でていて、私も一緒に花見見物。しだれ桜は樹齢、約300年と言われていて、かつて松尾芭蕉の門弟であった心念寺の住職、杉野配力さんの名前にちなんで、「配力(はいりき)桜」と命名されているらしい。まさにこの時期、人々に和みや幸せを配る、その名に相応しいしだれ桜に、芸能カメラマン?のように、パシャパシャと撮りまくるのでした~

伊賀ステーキ - モリゾーのひとり言

2021/07/15 (Thu) 16:41:55

前回の伊賀の旅では、夕食はホテルでスーパーの弁当…と済ませていたが、今回はどこか外で…と、そもそも伊賀といえば、何が有名なのか、ネット検索。
「伊賀牛…有名なすき焼き専門店もあるが、やっぱし高いだろうなぁ~」と思いつつ、
そこそこリーズナブルな所はないものかと、駅前ビル内のステーキ店を思い出し、さっそく入店。私が一番客で、まだ誰も来店されておらず、店内は広く、ステージさながらに大きな鉄板が備え付けられたカウンター席、あとは仕切られたテーブル席と、ステーキ店らしく照明は少し落とした雰囲気で、その空間にちょっと敷居が高かったか?とビビる。
メニューを見ると、ステーキをはじめ、ハンバーグ、ユッケ他コース料理と豊富。その中からサイコロステーキのシンプルコースをお願いし、店員さんが焼き加減を聞いてくる。
その時「レア」という言葉しか頭に浮かばず、ステーキ用語?で「中間」って何という言葉か出てこず、「あ~、中くらいって何ていうんでしたっけ?」
「ミディアムです…」
「あ~それそれ!それでお願いします」と、こっぱずかしい。
…で、運ばれてきたサイコロステーキは、鉄板皿の上でジュージュー音を立て、もうたまらん。岩塩など3種類のタレ?に浸けて食べ、あっという間に胃袋へ消え、食後はぶどうアイスをいただき、さっぱり。久しぶりの外食、そしてブランドの伊賀牛を堪能し、満足×2。
少し気がかりなのは、それまでお客さんは誰も来店されず、コロナ禍での外食控えなのか、ここにも影響が出ている。会計での店員さんの、丁寧な感謝の挨拶に、お店に貢献できただろうかと、こちらも「ごちそうさまでした~」と感謝の意を伝えるのでした~

つづく…

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