寺社仏閣 ご朱印の旅

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ブログが面倒くさいので、掲示板で紹介していま~す。よろしくお願いいたします。
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また2、鳥取の旅(5) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:03:54

「2025年7月…」というキーワードを耳にし、それって何?と調べたら、「!?」。
本当なのだろうか…と、100年周期?でやってくると云われている南海トラフももうじきだと不安を隠せないが、備えあれば何とやらで、一応準備はしている。いろいろとあらゆる方面から調べていたら、天王星がふたご座に重なると、突発的なことが起こる!?なんて情報も出て来て、過去に第二次世界大戦が起こったとかetcあり、とかくオカルト方面に走りがちになってしまうので、ここら辺でこの話はお開きに。
…で、鳥取の旅も最終日。鳥取市内を中心に紹介~

興善寺(1) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:04:54

最終日は鳥取城跡周辺を散策。鳥取県警察本部裏手から東へ行くと興善寺がある。黄檗宗らしい中国様式のような山門から境内へ失礼すると寺域が広く、左手に墓所、正面に本堂、本堂左手から石段を上がった所にも墓所、右手に庫裏と配置され、本堂前の庭で朝の清掃をしている住職さんにご挨拶。
境内を散策してから拝観することを伝え、まずは墓所めぐり。こちらのお寺には剣豪のお墓や、伊賀鍵屋之辻の仇討でお馴染み?の渡辺数馬のお墓もあり、案内看板通り、左手の鐘楼脇から墓所へ移動。
こちらの墓所には臼井本覚のお墓がある。鳥取藩きっての剣豪で、丹石流の使い手と云われる実戦兵法の達人。池田忠雄公がまだ岡山藩主であった頃、臼井十太夫(本覚)と村山越中という藩士がいて、村山は口が悪く、臼井を誹謗中傷することたびたびであった。臼井は取り合わないでいるうち、村山は他の藩士とトラブルを起こし、相手を斬って出奔してしまう。村山は加賀藩の前田利常公に仕えたが、ここでも臼井への誹謗をくりかえし、長続きせず浪人の身となり、次に村山が転がり込んだのが、備中松山藩の池田長幸公のところで、それでも村山は臼井への侮辱を平気で他人にしゃべり、ここに至って臼井は、もう見過ごすことができなくなり、村山が駕籠に乗ってやってくるのを一刀のもとに討ち果たした経緯がある。これに怒ったのは村山の妻。夫の仇を討つことを幕府から命令してほしいと訴えたが、認められず、臼井はお咎めなしとなり、寛永9年(1632)、池田家国替えに伴い鳥取藩士となった…
ということで、一刀のもとに討ち果たした腕前は相当なもので、剣豪に相応しいほどの手練れ。それにしても、一歩間違えれば臼井が罪を背負ってしまう話だが、現代でもマンションの騒音トラブルで人を刺してしまい事件になってしまうケースはニュースとかであり、やはり我慢も限界を超えてしまうと自分が被害者から加害者の立場になってしまうこともあるので、良識ある人間ならわかっていると思うが、そこは気を付けないといけない。
と、話がそれてしまったが、そんな臼井さんの墓前で手を合わせ、次へ。

興善寺(2) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:05:54

次は本堂裏手のお墓へ。こちらには「疋田流眞理開祖」の猪多伊折左(いだいおりのすけ)と、渡辺数馬のお墓がある。猪多伊折左は槍術を大成させた藩士。柳生石舟斎の「柳生新陰流」は有名だが、元は石舟斎の師匠、上泉信綱が興した流派。その信綱の弟子の柳生石舟斎や疋田景兼が新陰流の名を継承し、新陰疋田流は疋田景兼の弟子である猪多が素槍を用いる「新陰疋田流刀槍二術」の極意を相伝。寛永9年(1632)、池田光仲公に従って鳥取藩士となり、400石の知行を得て、薙刀や剣術、十文字槍、鍵槍などの技を指導し、門弟は多数に上るほど全国各地に伝えられたという。ちなみに、鳥取では現在、槍術は絶え、薙刀のみ継承されているそうで、こう見ると、鳥取藩は荒木又右衛門しかり、剣豪ぞろいの藩士がいたことを知り、池田光仲公は武道の精神から、健康な身体を鍛える鍛錬を推奨するマニフェストを掲げた大名であったのかもしれない。
そして渡辺数馬。“伊賀の仇討ち”を検索してもらえれば分かるので説明しないが、こんな所にお墓があるとはつゆ知らず、“槍術の先生”がお隣にいて、心強いだろうにと、お二人の墓前で手を合わせ、歴史に名を残した“大物”?に想いを馳せる。

興善寺(3) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:07:09

剣豪好きなので話がずれてしまったが、“お墓参り”を済ませ、いよいよ拝観。庫裏から書院へと移動し、興善寺庭園を眺める。
…と、その前に、興善寺の縁起について。黄檗宗である興善寺は池田家の菩提寺であり、伊達家の「大年寺」、毛利家の「東光寺」と並び、黄檗三叢林の筆頭として「聖賢林」と呼ばれていたそうな。天正年間、池田輝政公が岐阜城主の時代、長男、之助の追善のため、御局の広徳院が「龍峰山広徳寺」を建立し、妙心寺の宿老、湖叔宗を住持に迎え開山したことに始まる。その後、輝政公が三河城主となり、広徳寺もお引越し、その際に「広徳山龍峰山」と改め(なぜひっくり返したのか…)、姫路、岡山に転じ、池田光仲公時代に妙心寺派から黄檗宗へと改宗。光仲公の逝去に伴い、寺号を「龍峰山興善寺」と改称…と、いろいろと端折ったが、第4世の和尚が摂津富田の普門寺にいた隠元さん(黄檗宗開祖)を訪ねたのがきっかけで宗派を変えたらしい。
そもそも、この現在地は、池田光政公が国清寺という寺を建立した跡地で、庭園はそのままに、興善寺に引き継いでいて、建物も変わらず使用された造り。なので、作庭の時期は光政公が鳥取在藩の時にはもうあったと推定できる。
そんな庭を眺め、池泉式庭園を堪能。背後の久松山の山裾に、築山を盛り上げ、サツキやツツジだろうかの低木が植えられ、枯滝の石組を鶴石組みとし、池の出島を亀石として配置。池には睡蓮の葉っぱが浮かび、奥の木々にモミジがあるが、見頃ではないのが残念。あと一週間後に来れば満足な風景が見られただろうにと、こればっかりは仕方がない。
庭園を静かに観賞した後、まだ本堂でお参りをしてなかったので、合掌。黄檗宗っぽい雰囲気を味わいつつ、京都宇治の黄檗寺を思い出しながら次へ。

栗渓神社 - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:08:17

興善寺から東へ、住宅街の中の坂道小路を上がっていく。たどり着いた駐車場は、山を削ったような敷地になっていて、見上げれば崖上の社務所付近のモミジが見頃を迎えていて、陽光が当たっている所は紅葉が進んでいる。これまでの鳥取市内の訪れる場所、紅葉には恵まれず、“消化不良”のまま最終日はやっと愛でることができて、陽気に鳥居を潜り石段を上がる。
石段参道を上りきると、ムクノキの巨木に挨拶し、左手に境内は広がり、幣殿、拝殿、本殿などの建物が古めかしく建っている。
栗渓神社は社伝によると、因幡国内に疫病が流行した際に、播磨国の広峯神社の牛頭天王の御分霊を勧請したことに始まり、江戸時代までは牛頭天王社と呼ばれていて、明治に入り、栗渓神社と改称される。牛頭天王はいわゆる、素戔嗚尊。京都の八坂神社も同じ祭神で、京都に疫病が蔓延したのを鎮めるために広峯神社から牛頭天王を分社し奉祀したのが、今の八坂神社なので、牛頭天王の本家が広峯神社ということになる。
疫病退散に御利益がある牛頭天王。なぜ、「牛」なのか?
ちょっとネットで調べてみたら、天然痘に限っていえば、牛痘にかかった人(牛飼い)は天然痘にかからないということに気付いた医者がいて、それがイギリスのジェンナーという人物。天然痘ワクチンを開発し、近代免疫学の父と呼ばれた人で、1800年頃にそれに気付いたのだが、そんな医学の進歩もない遥か以前から日本では、知ってか知らずか、牛頭天王に縋りついていた?(頼っていた?)奇蹟って、「すごい!」と、この関連性の偶然はなんなのだろうと…
で、境内には、遠吠えをするかのように顎を上に向けている狛犬に挨拶し、拝殿でお参り。本殿側へとぐるりと回り、杉やヒノキの巨木が林立し、裏手には稲荷神社の摂社も祀られていてここもお参り。木々に囲まれた境内の雰囲気を味わい、社務所で御朱印を拝受。
帰りの石段参道を覆うモミジの木々が赤く染まっているのを見ながら、ゆっくりと後にするのでした~

吉川経家銅像 - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:09:16

鳥取県庁の裏通りを歩き、北西方向へ。すでに鳥取城跡の石垣が見える堀の外に来ると、吉川経家公の銅像がある。甲冑に身を包んだ険しい表情からは、この世の世知辛い世の中を憂いているのか、はたまた鳥取市全体を慈愛の心で見守っているのか…と、そんな、どちらともいえない表情で、で~んと前を向いている。
鳥取城で自分を犠牲にして、籠城していた人たちを助け、後に語り継がれる英雄となった吉川経家公。現在は、鳥取の人たちにとって誇り高き英雄となったであろうと、秋空に映える背景の銅像を見上げ手を合わせる。
こうして現地に訪れることで、その実感が湧き、その土地の風土に触れることができて、やはり旅はいいもんだなぁ~と旅愁に浸るのでありました~

仁風閣 - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:10:09

吉川経家公の銅像から鳥取城跡南側に位置する大手門へ。堀に架かる橋を渡ると、修復工事中の足場が組んであり、看板には、どこかに連絡すれば大手門(中御門)内部を見学できるようになっていて、ヘルメットが数個、棚に置かれている。時間の都合上、私はスルーし、西側から城内へ移動。
久松公園が広がる北側には、明治時代に建てられた「仁風閣」が威風堂々と、広い敷地にポツンとあり、前面の芝生と玉砂利で設えた、どこか殺風景な庭が、それでいて明治時代のノスタルジックな景観となっていて、雰囲気を醸し出している。
仁風閣は明治40年(1907)5月に建てられ、鳥取池田家の14代当主、池田仲博侯爵が宮内省匠頭であった片山東熊(とうくま)工学博士に、別邸として設計を依頼し、後輩にあたる鳥取市出身の橋本平蔵工学士が監督したとされる。片山氏は赤坂離宮をはじめ、京都国立博物館など明治の洋風建築を設計し、当時の宮廷建築の第一人者と云われた人物。そんな彼が建てた白亜の木造2階建ての造りは、フランス風ルネサンス様式を基調とした佇まいで、城内にありながら見事にマッチ?して、和洋折衷の趣が見て取れる。
内部を見学することもできるが、こちらも時間の都合上パスし、鳥取城内へと歩く。

鳥取城跡(1) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:11:18

西坂下御門を潜り、城壁を見ながら道なりに石段を上がると、二の丸跡に到着。二の丸の手前には「右膳ノ丸跡」という場所があり、江戸時代には城代の屋敷が建てられていて、昭和の戦後には進駐軍の宿舎が設置されていたこともあるらしい。
二の丸の立派な石垣近くには、小さなお墓があり、「澤市場屋」という、鳥取城が築城される以前からこの地に住んでいた町人がいたそうで、初めは天暦2年(1185)頃にこの地にやって来た平家一門の武士、小澤小左衛門という人が久松山の山裾にあった「澤市場村」に住み着いたのをきっかけに、代々、この地に根差してきたと。城主でもないご先祖さまのお墓が城内に残され、お参りすることを許されたということは、それなりに特別な町人だったということなのだろうか。
そして二の丸には、江戸時代初期に鳥取藩主が住んでいたとされる「二の丸御殿」があったとされ、今は石垣が眺められる広場となっていて、一角には石切り場跡の案内看板が立ち、ここで石が採れたり、石垣を積み上げるための石をカットしていた人夫を想像する。
鳥取城跡には櫓や天守などの建物がないが、ない分、ここに御殿などがあったと想像しがいがあり、城内を散策することで歴史の一部に触れたような、そんな見聞を感じながら三の丸へ移動。

鳥取城跡(2) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:12:17

二の丸から本丸跡へ行くと、登山道入口に鳥居が建つ中坂稲荷神社があり、「殿さまとキツネ」と題して案内看板がある。日本の城には「ヌシ」と呼ばれる妖怪や神様がいて、鳥取城にも「ヌシ」がいるらしい。それがキツネで、殿さまの用事を果たすために江戸へ使いに行ったとか、殿さまの可愛がっていた鳥を部下が食べて?しまって、代わって部下を処罰したとかの伝説が残されていて、久松山の中腹にはそのキツネの稲荷神社が祀られ、今も城跡を見守っているらしい。そんな“キツネ”に手を合わせ、石段を上がり風呂御門跡へ。
長く伸びた石垣はまるで、戦艦かとイメージしてしまうほどのスケールの大きい跡地で、“甲板”から“船首”へと行って、映画「タイタニック」の、あのシーンのように腕を広げる…ということはしないが、鳥取市内を一望でき、さらに三の丸(天球丸)跡へ移動。
城主となった池田長吉公の姉、天球丸がここに居を構えたという曲輪で、江戸時代には実質的に本丸跡にある頂上、山上の丸でなくここで藩政が行われていた場所。庭園跡には巨大な松が2本、会話するかのように生えていて、ここからも鳥取城下の街並みが見渡せる。
幕末期には武術の稽古場「御蔵」が建てられていたこともあったようで、鳥取市内には剣豪のお墓が多いことから、その所以が垣間見える。
久松山頂上の本丸跡への登山は準備もしてないし、時間の都合でパスし、三の丸跡から表御門跡、そして巻石垣跡へ。

鳥取城跡(3) - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:13:27

鳥取城跡といえばこれ、「巻石垣」。他の城では見られない唯一の“球体石垣”。石垣の補強のために江戸時代後期に築かれたそうで、目の前に見えている巻石垣は復元したもの。
天球丸の石垣が文化4年(1803)に崩れそうになったのを、川の護岸や港の突堤を修理する方法が採られ、亀の甲羅状に石を積み上げたもので、これが芸術性を帯びた形となっている。
「ごはん大盛!」と注文して食堂のおばちゃんが丁寧に盛り付けてくれる…そんなイメージを浮かべ、巻石垣を眺めるのでありました~

旧宝隆院庭園 - モリゾーのひとり言

2024/02/25 (Sun) 20:14:28

三の丸跡から下って、鳥取西高校の脇を通り、今は大手門の修復工事関係者の車両が止まっている駐車場から、旧宝隆院庭園へ入る。
といっても、仁風閣裏手の敷地が旧宝隆院庭園なのだが、鳥取城跡の山下の丸跡を一周した形でこの場にいる。
で、その名の通り「宝隆院」は11代藩主池田慶栄公の未亡人の宝隆院のことで、12代藩主池田慶徳公が扇御殿の跡地に造った池泉式回遊庭園。
鶴を模った池には亀島を浮かべ、久松山を背景に渓流の石組、滝口、松や椿を配し、この時期は何といってもモミジが見頃を迎えていて美しい。
庭園に一角には「宝麻庵」の茶室があり、先ほど鳥取城跡には建造物がないと紹介したが、後で調べたら、現存する唯一の遺構としてこの「宝麻庵」があり、東に目を向ければその茶室、西には仁風閣と、東洋西洋の建造物が眺められ、それぞれにマッチしている。
これが和洋折衷ってことか…と、ゆっくりと散策し、最後に赤く染まったモミジを拝むことができ、旅の締めくくりにはもってこいの庭園でした~

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