寺社仏閣 ご朱印の旅
飛騨高山の旅(2) - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 17:58:10
遅れまして…あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
新年早々、またまた飛騨高山へ行きまして…白川郷へ行ってまいりました。
まぁ~雪がすごいことすごいこと…
長野県の松本市に1年ほどいたこともあって、それなりの心構えはできているはずであったが、靴が…破れてしまって、冷たいのなんのって、現地の靴屋で購入し、さすが豪雪地域の靴屋さんは、雪対応の靴が豊富に揃っていて、しかもそこそこ安く、それはそれで助かった次第で。
…ということで、いずれ(いつになることやら…)載っけますが、昨年の飛騨高山のつづきの旅を紹介~
一本杉白山神社 - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 17:59:08
下呂温泉でゆったり旅の疲れを癒し、翌朝、JR下呂駅から9:00発の普通に乗車し、高山駅へ。本日のからくり奉納は11:00と13:00の時間帯なので、13:00を目指し、午前中は寺社めぐりをする。
まずは駅から南東に位置する高山善光寺へ。以前、訪れたことがあるお寺であるが、御朱印をいただくのを忘れていて、今回はどうだろうかと、お願いしてみる。住職さんも快く対応して下さり、本堂内へ上がらせてもらうことに。やはり善光寺といえば、「戒壇巡り」。暗闇の中を進み錠前を触れるイベント?だが、せっかくなので体験することになり、暗闇の中を手探りで進む。蝶番の錠に手で触れれば善光寺如来さまのご加護が得られる“ご利益”を授かり、無事”生還“。久しぶりの”暗闇体験“をし、感謝×2で住職さんにお礼を述べ次へ。
高山善光寺から歩いて5分ほどの所にある一本杉白山神社。書置きの御朱印があるとの情報をもとに訪れる。
当神社は、創建は不詳であるが、大宝年間、役小角が白山の遥拝所としたことが始まり。高山城主金森氏から庇護され、その後は高山藩が廃藩となると、天領陣屋の代官や郡代が庇護し、度々、社殿の修築が行われてきたとのこと。
何と言っても当神社の見どころは「矢立杉」。訪れた当初、拝殿前の杉が「矢立杉」かと思って見ていたのだが、旅後の調べで、社殿の背後にあるのが「矢立杉」だったようで、実際には見ていない。「矢立杉」は、役小角が逆に杉を立てたとも、武運長久を祈って矢を射立てたとも古俗があり、その枝から尖根(とがりね:容易に抜けない矢じりの形状)ひじりが発見されていることからも「矢立」と称されているのだろう。
当神社の隣の敷地には、高山陣屋の米蔵の守り神として祀られた陣屋稲荷神社も鎮座していて、お参り。結局、御朱印は置いてなかったが、木々が生い茂る境内は清々しく、しばらく佇む。
飛騨護国神社 - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 17:59:57
一本杉白山神社から東へ。高山陣屋まで来ると、春の高山祭で屋台を囲む群集・観衆の賑わいが今でも記憶に甦ってくる交差点があり、日枝神社御旅所も懐かしくお参り。さらに宮川に架かる中橋を渡り、高山城跡へと坂道を上がっていく。
辿り着いた飛騨護国神社も10年ぶりの訪れで、何となく境内の広さは憶えていて、「こんなもんだったかな~」とさっそくお参り。
英霊を祀る飛騨護国神社。元々、明治12年に飛騨国の神道普及の拠点として設立された「飛騨国高山中教院」が始まりで、伊勢神宮の御分霊を祀る飛騨大神宮、明治42年に戦没英霊を祀る護国神社が建てられる。江戸時代初期に高山城二の丸にあった英霊神社と、国分寺境内にあった飛騨匠神社も当社に移され、意外?と英霊だけでなく、御利益のある神社として親しまれている。
それぞれの神社にお参り後、社務所へ行くと、電子マネーで決済されるシステムもあり、「時代は変わったなぁ~」と思いながら、私はいつも持ち歩いている“現金”で御朱印を拝受する。穏やかな天候に恵まれ、英霊たちに感謝申し上げるのでありました~
宗猷寺(1) - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 18:00:55
護国神社鳥居から東の小路には、高山城跡の堀が見られ、風情が良い。そんな町並みの界隈をさらに東へ、坂道を上がると、門前通りのような道路に出て来て、目的の宗猷寺に到着。
当寺は高山城主、金森可重の菩提寺として、その嗣子の金森重頼と弟の金森重勝によって開基されたお寺。創建時は「新安国寺」と称していたが、重頼、重勝の法名にちなんで「宗猷寺」と改め、ほぼ高山市においては唯一といっていいい臨済宗の寺院だそうな。江戸時代後期には、山岡鉄舟の父である小野高福が飛騨郡代として高山陣屋に赴任していて、鉄舟は当寺で禅を学んだと伝えられ、境内には父母のお墓もある。
山岡鉄舟といえば、江戸無血開城の立役者として有名であるが、剣客であったことも有名である。幼少の頃から武芸を重んじる家であったため、新陰流や北辰一刀流の剣術、樫原流槍術などを学び、一刀正博無刀流の流派を自ら開くほど、それは激しい稽古を自ら望んで修行をしたそうで、「鬼鉄」とあだ名がつくほどであった。ちなみに、鉄舟は生涯一人も殺めていない剣客で、暇があれば座禅を組んで、書道の道にも励み、「剣・禅・書」の三道を極め、悟りを開いたと。
鉄舟は座禅をしながら亡くなり享年52歳。胃がんだったという。
そんな幼少期を過ごした鉄舟ゆかりの寺へ失礼すると、まず見上げた鐘楼の大きいこと…青年期は身長180cm以上で大柄な性格であったので、鉄舟の面影が何となく重なり、思わず立ち止まる。
境内は庫裏、本堂、観音堂と、北へと広がる敷地でそれぞれにお参り。西側に目を向ければ、高山市内が広がる町並みを背景に、鉄舟の父母の墓石が並んで建っている。
宗猷寺(2) - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 18:01:49
山岡鉄舟について、いろいろ調べているうち、鉄舟が弟子にも見せたことがない愛読書があるとのこと。「猫の妙術」という悟りを開くきっかけ?となったかはわからないが、教訓本で、内容は、家に出るネズミを捕らえるため、いろんな猫に依頼。が、どの猫も敵わず、最後に“名人”ならぬ“名猫”ともいえる古猫が造作もなく捕らえる話。
その夜、猫たちが集い、その古猫に教えを乞う。若い黒猫は所作を鍛錬したことを、少し年上の虎猫は気を修行したことを、さらに年上の灰猫は心を練ったことを語り、古猫はそれぞれの「慮」を指摘し、「実」を説いていく。
「心の中に我があるから敵がある。我がなければ敵はない」
「心にこだわりある場合は形にあらわれ、形がある場合は敵あり我ありで相対して争うことになる」
「心に何のこだわりもないようでなければ、変事に対応することはない」
…と、心の在り方を説いていく…だから、鉄舟は難しい交渉をまとめることができ、江戸無血開城の会議へと繋がっていったのかと。
「猫の妙術」は徳川吉宗時代に下総関宿藩に仕えた伕斎樗山(丹羽忠明)によって「田舎荘子」の一話に書かれた談義本。孔子や易経などの中国思想を取り入れた傾向があるとのことで、私は何となく「般若心経」の「色即是空、空即是色」を思い浮かべたが、何にせよ、剣術指南書として「敵とは何ぞや?」と、心の真理を説いているものと見て取る。
鉄舟がこの地で禅を学んでいたことを考えると、何とはなしに、私も目の前に広がる高山市街地を望み―庫裏で御朱印をお願いしている間―ちょっとだけ瞑想に浸る…そんな気分になるのでした~
からくり奉納 - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 18:02:42
桜山八幡宮で行われるからくり奉納は13:00から。1時間前くらいには現場にいた方がいいと思い、高山市街地を眺めながら“寺町通り”を歩く。外国人観光客が物珍しそうに寺の雰囲気を覗きこむ姿を見かけては、やはり高山市も観光地としての地位が上がった?のかと先を急ぐ。
江名子川沿いの下町情緒溢れる通りにも、高山祭の提灯が各玄関先に飾られていて、祭りの雰囲気を味わいながら、昨日訪れた相応院、その先の桜山八幡宮へと向かう。
境内は、からくり奉納が行われる屋台が1台、準備されていて、昨日のからくり会館前ではなく、社務所側の方に移動していて、そこそこの参拝客もいる。12:10頃から屋台の目の前に陣取り、私と同じように考える人はいて、徐々に人だかりができ、気が付いて振り返ると、あっという間に観衆の集合体ができていて、いよいよって感じ。
屋台上部を見上げると、本日の主役である布袋人形がすでにいらっしゃって、愛らしい笑顔を振りまき、からくり師による“演舞”を待っている状態。そして13:00。軽快な音楽とともに始まる。
高山祭のからくりは「能」の外題などを題材にした高度なもので、その内部構造は複雑。操作は糸で操るのだが、長年に渡る修練と経験と勘が必要で、早い人は小学生から練習を積んでいくほどと聞いている。その道の40、50年のベテランが操り手をまとめ、その方たちは数人しかおらず、組内の伝統的な継承をしている。
この布袋台は36条もの糸を8人で操るとのことで、男女2人の唐子人形が順番に5本のブランコを回転しながら飛びつたい、“布袋和尚”の肩と手に乗って喜遊し、“布袋和尚”
の左手の軍配の中から「和光周塵」と書かれた幟が出て来てフィニッシュを迎える。
唐子人形がブランコを飛び移ったり、布袋の肩に乗ったりした時は割れんばかりの拍手が沸き起こり、観衆は一つとなる。何とも”布袋和尚“の笑顔に皆、幸せな気分になったに違いない…私も含め、久しぶりに良い奉納演舞を見たものだと余韻に浸り、伝統的なからくり奉納を見ることができて満足×2。
山桜神社 - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 18:03:38
からくり奉納が終わると、街中を巡行する儀式へと移り、袴姿の祭り関係者たちが町を練り歩く。多くの観光客がその巡行にスマホを構え、写真を撮っている姿に、より“祭り感”を肌で感じ、限のいい所で群集から外れる。
宮川に架かる橋を渡り、商店街に入ると、町に馴染んだ神社へ向かう。石畳の狭い参道を歩くと、一瞬、京都の新京極界隈を想起させる佇まいで、提灯や馬が描かれた奉納絵馬が飾られ「あの馬か…」としばらく見つめる。
ここ山桜神社はその名称のとおり“山桜”が御祭神。“山桜”とは、江戸時代初期に実在していた「馬」のことで、高山城主の金山頼直公の愛馬のことである。
明暦の大火で高山藩の江戸屋敷が火に包まれたのを、“山桜”は百閒掘を飛び越えて頼直公を救ったという。その時、頼直公をはじめ、家臣3人を乗せて走ったと云い伝えられていて、晩年は中向町(現高山市東町)に厩舎をあてがわれ、“山桜”が死亡すると、その厩舎跡に社殿が建てられ、崇められたとされる。
今では家内安全、商売繁盛、火の用心の御利益があり、境内には当時、火消しの「馬頭組」が建設した火の見櫓もあり、火防の御神徳があるのが分かる。
そんな活躍した「馬」にお参り。拝殿というよりかは、どこかの集会所のような畳敷が広がる殿内で、神社の方が2人内職している中を訪ね、御朱印をお願いする。
書いてもらっている間、絵馬を観賞しながら、ひょっとして、“山桜”の名称は“桜山”からきているのだろうか…と想像しながら、神様となった“山桜”に別れを告げるのでありました~