寺社仏閣 ご朱印の旅
山口の旅(2) - モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:14:33
旅先でいただいたパンフレットや冊子の資料はすべて保管しているのだが、神社やお寺の名称が印字されている袋でさえ取ってあるので、段々増えてきて困っている。断捨離ではないが、度々片づけをしていると、捨てられないものばかりで、昔はご当地キットカットの空箱やお土産の包装紙さえも集めていたことがあり、我ながら“やくみつる状態”(いい意味でです…いい意味で…)にはならないように気を付けている。
さて、今回は、2日目の午後からのスタートということで、紹介~
大楽寺 - モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:15:49
防府駅に戻り、午後はレンタサイクルで防府市南側の地域へ。10分ほど自転車を走らせると、山の側面を這うように曲がる道の途中から、山の中腹へと向かう坂道を上がると、大楽寺がある。グーグル地図には境内の墓地に「夏目雅子の墓」の表示があり、「へぇ~」と、後でお参りするとして、まずは境内へ失礼する。
本堂は開いていて、堂内でお参りし、書置きの御朱印もあるので拝受。
大楽寺は永徳元年(1381)に創建された曹洞宗のお寺。境内にある梵鐘は元は、毛利水軍の基地であった三田尻御船倉の時鐘で、船大工小屋の屋上に作られた鐘楼に架けられていたものらしい。また墓地には高杉晋作の死を看取った野村望東尼の墓(大楽寺西隣の桑山公園にある)や、防府天満宮で説明した銅像、楫取夫妻のお墓がある。妻の美和子の本名は杉_文。吉田松陰の妹で、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公にもなった人物。禁門の変で自害した久坂玄瑞の妻でもあったが、明治維新後、楫取素彦との再婚。素彦との前妻であった姉の寿が中風症を患っていたので、妹の文が看病のため楫取家にお手伝いとして出入りし、寿が亡くなると、その2年後に素彦と再婚…と、晩年はここ防府で過ごし、大正10年(1921)、78歳の生涯を閉じる。幕末から大正まで駆け抜けた怒涛の人生は、如何ばかりか…改めて大河ドラマを見返してみたいと同時に、ここは“長州”のお国柄なんだと、旅愁に浸り、いずれ「萩市」などの幕末に関わる歴史に触れる旅になるのだろうと、これからの山口県の旅に期待してしまうのでありました~
夏目雅子さんのお墓 - モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:16:44
書置きの御朱印を拝受し、墓地へ。墓地は北と南に分かれていて、南には楫取素彦氏とその妻、美和子氏、北には夏目雅子さんのお墓がある。
夏目雅子さんのお墓は最初、どこにあるのか分からず、黒い石碑を見つけて、本名が“西山”姓ということを知る。
夏目雅子さんの夫が伊集院静さんで、ここから見える小学校が母校だという。その関係でここ防府の寺に祀られているようで、まずは手を合わせる。
確か、白血病か何かで27歳の若さで亡くなられた衝撃は、子供の頃の私でも大きかったことを憶えている。夏目雅子さんといえば、やはり「西遊記」。三蔵法師役はかなりのインパクトで、今でもその面影が浮かび上がる。
芸能人のことはあまりよく知らないが、ネットで調べたら、夏目雅子さんのお兄さんの妻が田中好子さん(キャンディーズの)で、「へぇ~」と。さらに、夫、伊集院静さんの再婚した人が篠ひろ子さんで「へぇ~×2」と。特に驚く「へぇ~」ではないが、ここ防府に眠っていらっしゃるなんて思いもよらず、何とはなしに、ここからの景色を眺めるのでありました~
老松神社 - モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:17:42
東へ移動。「三田尻」という地名の病院やお茶屋さんがある場所まで来て、老松神社に到着。ちなみに昔は、「三田尻村」と「佐波村」があり、前者は周防国の中心地、国府や国分寺があった場所で、後者はそれより北側の範囲を指す。
明治35年(1902)に2つの村は合併し、「防府町」となり、2つの村の地名の名残が今もあちこちに見られる。
小っちゃな神橋の先の鳥居を潜り、真っすぐの参道を歩くと、右手に土俵だろうか、四角いブルーシートが見え、左手には朱色の5つぐらい並んでいる稲荷社の鳥居、その傍らには、この神社の社名を象徴するような大きな楠木、境内には比較的一本一本の木々が大きい印象で、まずは拝殿でお参り。
由緒書によると、白雉3年(652)に創建され、当初は須佐神社と称していたが、貞観14年(872)に社前の松の老樹が繁茂していたことにちなみ、老松神社と名を改めたよう。御祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)、大国主命、素戔嗚命の3柱。神社東にある三田尻茶屋「英霊荘」に滞在していた公卿たちがたびたび、祈願に訪れていたと伝えられている。この「英霊荘」は当時の藩主、毛利綱広公によって建設され、長州藩の7代目藩主、毛利重就公の法名「英霊」から命名されていて、参勤交代や領内巡視の際の休泊や大事な客を迎える時などに使用した公館。ちなみに、先ほど訪れた大楽寺の境内には、英霊公の分骨廟があり、今ここの住所は「お茶屋町」と呼ばれている。
そんな崇敬ある神社のメインは、大きな楠木。樹齢2千年を超えると伝えられていて、根元の幹周りが大きいこと大きいこと。山口県において、幹回りは2番目に大きいと云われ、大きい木を見ると、毎度の事、触ってみたくなり、「昔、こんなことがあったんだぁ…」と昔話を語り掛けてくるかのような、古木の記憶を探るように「うんうん」と妄想し、会話をする。
そして先ほどの土俵について、ネット情報によると、「三田尻」の「尻」にちなんで、1996年から全国でも珍しい?女性限定の尻相撲大会が行われているそうで、例年100人近い参加者がいるという。「へぇ~」と、その時の光景を想像し、熱気に包まれた会場では男もタジタジとなるに違いないと、祭りの様子が目に浮かぶ。
御朱印は「宮司宅」という案内看板を頼りに尋ね、明日なら対応して下さるということで、お約束をし次へ。
松原厳島神社・小烏神社 - モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:18:32
老松神社でいただける予定の御朱印は、次に向かう松原厳島神社と小烏(こがらす)神社もあり、西に1kmほど離れた所へ移動する。鳥居からの参道を真っすぐ向かうと、境内の奥は小学校になっていて、校庭で遊ぶ子供たちの声が聞こえ、地元では馴染みに神社といった感じで、社地はかなり広い。
松原厳島神社は由緒によると、創建年代は不詳であるが、一説には700年頃とも伝えられている。室町幕府の足利義満将軍が安芸宮島の厳島神社に参拝した後、九州へ向かう途中で、ここ松原に立ち寄ったとされていて、その時のことを記した「鹿苑院西国下向記」には、この地に宮島の厳島神社の神が最初に天下った地として当神社の記述があり、「ほんとかよ~」と、ちょっと義満さんを疑う。…ということは、宮島の厳島神社から分霊され勧請されたということではなく、元々ここに、市杵島姫命がおられたということ?なのか…ネットで調べてもこれ以上は分からないので、とにかく鎮座しているという事実だけを受け入れ、手を合わせる。
小烏神社についてもあまり載っていないので分からないが、御祭神はその名称から八咫烏である。少ない情報からピックアップすると、明治41年(1918)に、それまでは隣の小学校の校庭にあったのを現在の場所に遷座したとあり、慶長3年(1867)には薩長連合が集結して必勝祈願を行って京へと進軍したとある。いわば、この地が鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へとつながる口火となった神社だと。
「へぇ~」と境内を眺めながら、隣の小学校の校庭の広さを含め、かつては兵隊の隊列を組んだ姿がずらりと並ぶ光景が目に浮かぶようで、そんな重要な場所だったのかと、改めて歴史の一端に触れる。
八咫烏さまにも手を合わせ、次へ。
磯崎神社 - モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:19:26
自転車を南西方向へ走らせる。県道だろうか、交通量の多い大きな道路から南の住宅街へと入ると、さっきまでの喧騒は止み、集落の中を静かに行く。
この地域は、かつては三田尻塩田広がる入江で、向島を経て南は瀬戸内海が目の前である。赤穂に次ぐ塩の生産地だったこの地域は、グーグル地図で見ても四角い土地が広がる形で、東西には塩を運ぶための水路の跡だと分かる線もあり、現在は工場地帯や航空自衛隊の敷地となっている。
そんな海に近い磯崎神社の御祭神は市杵島姫命、いわゆる安芸宮島の厳島神社の分霊を勧請された神社。江戸時代の享保年間、土地の開拓を行うが、堤防がしばしば決壊して中々成就せず、厳島神社を鎮守として祀ったことが始まりのよう。荒神社と改称したこともあったが、結局、磯崎神社となり、地元の崇敬を集め現在に至っている。
水路に掛かる神橋からの鳥居を潜り、真っすぐに延びるコンクリートの参道を歩き、途中、昔のトイレの建屋かと思ってよく見ると、手水舎で、壁に蛇口が取り付けられていて、洗面台のような受け皿まである斬新な?スタイルだが、誰も使っていなさそうな感じ。
拝殿でお参り。境内には地図上では“演舞場”と記された建屋があり、例祭での稽古用なのだろうかと思いながら散策後、社務所へ伺うと、宮司さんか氏子さんがいらっしゃって、御朱印をお願いし、快く対応して下さる。塩田ゆかりの地の雰囲気を味わい、次へ。
伊佐江八幡宮 - モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:20:14
航空自衛隊の敷地東側の道路を北上し、交差点角にある伊佐江八幡宮に到着。小俣八幡宮でここの御朱印を拝受したので、訪れた次第だが、社地は狭く、入口は本殿側面からの道路に面していて、鳥居が民家の目の前にある、飾りだけのような存在?であり、参道がない状態。
一応、鳥居から潜り、拝殿でお参り。
由緒によると、南北朝時代の天授2年(南朝)、永和2年(北朝)(1376)、佐波郡の仁井令八幡宮の神霊を勧請して創建されたとある。当時、伊佐江の人たちは元、仁井令八幡宮の氏子であったが、祭りの日、“山の座”という席で、仁井令方と口論になり、弓と鉾とを持ち帰り、それを御神体として伊佐江の地で奉祀したと。
「口論…」ある意味、盗んだんちゃうか…と、当時の事情は分からないが、仲違いで二分になってしまったと思うと、今も因縁みたいなことがあるのだろうかと思ってしまう。ちなみに、この仁井令八幡宮は今の、桑山八幡宮のことで、当地から東へ800mのところにある。
そんな伊佐江八幡宮は、昭和19年(1944)には飛行場建設に伴い、軍より立ち退きを命じられ、現在地に移転させられたようで、何だか狭い土地に追いやられた感がある。
本殿裏手には大歳神社があるが、石でできた祠がポツンとあり、墓石にも見えるが、こちらにもお参り。県外の私がこの地に訪れることなど、八幡さまも思ってもいないだろうと、応神天皇や大歳神に“ごあいさつ”するのでした~
石鎚神社 - モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:21:09
自転車を東へ。桑山公園の西側を北上すると石鎚神社がある。かなり高い丘の上にあり、電動自転車でなければ、とてものこと上がれないが、そんでも坂道がきつすぎるので、自転車を降りて押して歩く。斜面を登りながら、社殿の見える高台から麓にエレベーターのような施設が繋がっているのが見えるが、使用できるのかも分からないので、諦めて坂道途中の石段に自転車を停めて、石段を上がる。
辿り着いた境内からは絶景とまではいかないが、瀬戸内海が見え達成感~を味わい、さっそくお参り。
石鎚神社は、四国の愛媛県にある石鎚山を御神体とする神社で、西日本を中心に各遥拝所がある内の「防府教会」で、石鎚山は今から約1300年前、役行者によって開山され、修験道の色濃く残る霊山で、戦後「石鎚本教」という宗教法人を創立し、ハワイやブラジルにもあるとのこと。「宗教法人」とか「本教」とか聞くと、何だか怪しい宗教団体か?と思ってしまうが、いろいろ調べて見ると、そんなに偏った信仰でもなく、ただ修験に励むことに特化した?感じだろうか。
境内はスチール製のような鳥居、拝殿・本殿、社務所とあり、至ってシンプル。拝殿内にパンフレットがあるので読んでみると、御祭神は石鎚毘古命(いしづちひこのみこと)。伊邪那岐・伊邪那美の間に生まれた2番目の御子で、家内安全、厄除け、病気平癒などをはじめとした御利益があると。
石鎚山の登山は、鉄の鎖を使って登る急峻な道。まさに修験の道。標高1982mある西日本最高峰の山は、頂上まで3時間は掛かるそうで、相当鍛えておかないと行けない。四国は一度も訪れていないので、いつかは海を渡ってみたいが、老後の楽しみとして夢を見ることとし、社務所へ。
御朱印を拝受し、境内から望む瀬戸内海の果てには四国の島、そして石鎚山があるのだと、その方角に想いを寄せるのでありました~
護国寺(1) - モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:22:04
石鎚神社から北へ20分ほど自転車を走らせ、今市町北の道路から西へ行くと護国寺がある。当寺には種田山頭火のお墓があり、防府市では名所の1つ。山門前には種田山頭火の石像が出迎えて下さり、特徴的なメガネと編み笠の容姿が印象的。
種田山頭火といえば、「分け入っても分け入っても青い山」の詩が思い浮かぶが、一体どんな人物で、どんな人生を辿ったのかも分からないので、ネットで調べてみることに。
本名は種田正一。山口県佐波郡西佐波令村で、大地主の種田家の長男として生まれ、10歳の頃、母フサが父竹治郎の芸者遊びなどを苦に、自宅の井戸へ投身自殺をし、それ以来、祖母の元で育てられることに。この時の出来事が衝撃的すぎた正一少年は、その後の人生を決定づけられたほどの、寂しさや孤独感といった苦悩を背負うことになる。
そんな正一少年は15歳で俳句に親しむこととなり、19歳の頃、早稲田大学に進学。が、在学中に精神を病んでしまい中退。実家に戻って27歳で結婚も、35歳の時、父親が借金を負って会社(酒造場)は負債、父失踪、友人を頼って逃げるように妻子を連れて熊本へ。
その後、弟が自殺、妻子を残して上京し、東京で働いている時に離婚、育ててくれた祖母が亡くなり、41歳の時、関東大震災を経験、悪友に連行され、巣鴨刑務所に留置され、熊本の元妻の所に逃げ帰り、熊本市内で泥酔して熊本市電を止め、乗客に取り囲まれた所を顔見知りの記者に助けられ、市内にある報恩禅寺の住職、望月義庵に預けられ、得度して「耕畝」と改名して43歳の時、寺を出て西日本を中心に各地を旅し、47歳の時、愛媛県松山市に「一草庵」を結び、57歳でその生涯を閉じた…と、かなり波乱万丈の人生であるが、そんな背景から生まれた詩の作品…改めて見たが、やるせない気持ちや悲哀に満ちた表現を、何気ない「自然」に例えたような感があり、人は誰しも失望する経験があるからこそ、心の隙間にすーっと入ってくるような、そんな印象を覚える。
護国寺(2) - モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:23:02
境内に失礼すると、立派な本堂を正面に、参道左脇には8体の如来さまや不動明王などが並び、もう一つ、鎌倉時代に刑部中子(なかつこ:次男また長子、末子以外の男子のこと)のために目代である刑部丞(いさかべ)忠康が建立された「卒塔婆」、そして山頭火のお墓があり、しっかりと手を合わせる。
お墓は元々、護国寺の西隣の市営の墓地に引っ越してきたそうで、葬儀は松山市で行われ、息子さんがお骨を防府市に持ってきて葬ったという。その時は何も墓標もないお墓で、一時的にお骨を護国寺で預かった縁で、昭和31年(1953)の17回忌の時に墓標を建立されたとのこと。…と、住職さんがお墓を建てた経緯をインタビューという形で記事にした詳細をネットで見、紹介したが、その後、著名人がお参りに訪れ、次第に山頭火の名が知れ渡ったことは想像の域だが、詳しく知らなかった私にとっては「へぇ~」と、山頭火の苦労した人となりを知り、改めてその作品の表現に、心しみじみとしてしまう。
ちなみに、「山頭火」というペンネームの由来は、その年の干支の組み合わせから採用したとか、母が山で火葬される姿を見てとか諸説あるが、私はちょっとひねくれて、もう一つの説を挙げる。
山頭火は別名「水のみ俳人」と呼ばれるほど“利き水”の名人だったという。超軟水を好んでいたらしく、酒造場を営んでいたこともあって、水にはこだわりがあったのだろう。そんな彼の句碑が残る所には「名水の里」と呼ばれる場所が多く、広島の、とある大学の教授によると、句を残した所とそうでない所があり、ひょっとして気に入った水に出会った時だけ句を残しているのではないか?と研究したそうで。
そこで、山頭火の残した句や日記から、実際に口にしたとされる25ヶ所の水を汲み、㏗や硬度などの成分を調べた結果、いずれもミネラル分の少ない軟水揃いで、山頭火が生まれ育った防府の水に似ているものだったと。
このことをネット情報で知った時、私は「山頭火(さんとうか)」ではなく「さんずひ」と読めるのでは?と。「さんずひ(い)」=「水」で、「火」は「水」と対極にあるもの。つまり、不幸な出来事に抗いたい、幸運に転じたい願いが込められている…と、まぁ~、ちょっと強引で勝手な想像ですが…何にせよ、「山頭火」と付けたネームセンスは只者ではないことは間違いないことで、改めて種田山頭火について学ぶ。
…で、境内で庭いじりをしている住職さんに御朱印があるか聞いてみると、書置きの御詠歌のような御朱印で、数種見せてもらうと、御詠歌ではなく山頭火が詠んだ句で、選ぶのに迷ってしまう。その中で私は、秋の季節に訪れたこともあって「秋風の石拾う」を拝受し、山頭火ゆかりの寺に訪れることができて、お礼申し上げるのでありました~
成海寺 - モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:24:03
時刻は16:30頃。夕暮れ時にあともう1か所訪れようと、東にある成海寺へ移動。町中の細い道へ入ると、石塔を挟んで参道、山門があり、脇に自転車を置いて境内へ。
赤い手編みの帽子を被ったお地蔵さまがいっぱい出迎えて下さり、本堂は大きく立派である。本堂前には卒塔婆が1本立ち、あまり手入れされてない木々が生い茂る石庭や、満州ハルピン駅で射殺された伊藤博文の「嘆徳碑」があり、当寺との関係性を示している。
成海寺ははじめ、「なるみ」と読むのかと思ったが「じょうかい」と読む。ネットによると、創建年代や寺歴等は火災により古文書や史料は残されていないので、分かっていない。が、この寺の前にあったのが「宝成庵」で、かの伊藤博文がここで演説を行ったとする話が残されている。
「藤候実録」という伊藤博文から直接聞いた回顧談を明治に出版していて、その中で伊藤は現在の光市で生まれ、萩に引っ越す過程で9歳の時、防府で生活していたことがあるという。伊藤少年は防府天満宮の社坊のひとつ、大専坊で読み書きをし学んでいたそうで、そのおよそ半世紀後に、西日本で遊説のために再び防府に立ち寄っている。この時すでに伊藤は総理大臣を3回経験していた頃で、当時の「防長新聞」には、三田尻停車場(現、防府駅)前の旅館に泊まって、演説会場である宝成庵では地元住民の熱烈な歓迎があったと伝えている。聴衆はおよそ1800人が集まり、維新前後の状況や諸外国の現状などを述べ、その後、防府天満宮などを訪れ、境内の春風楼で催された歓迎会に出席。その時に撮影された写真が今も防府天満宮に伝わるという。
そんな成海寺の前身でもある宝成庵の住職に伊藤は、「滴水成海」(したたる水が海を成す)の書額や袈裟をプレゼント。このことから「成海寺」と寺号を改め、その扁額は今も仏殿に飾られていると。
そしてもう1つ、本堂は伊藤が演説する半年前に竣工されていて、当時、日清日露戦争の間で、山陽道を往来する軍隊の宿舎に使用されていたそうで、それであんなに大きな本堂であったのかと、今にして思えば「なるほど…」と納得。
伊藤氏ゆかりのお寺を訪れ、庫裏で御朱印をお願いすると、快く応じて下さり、書き終えるまで石庭を拝観。石灯籠や石橋が配されている、ちょっとみすぼらしい感じだが、水のない“池”は心字池だろうかと、子供の頃だったら“秘密基地”っぽい、木々生い茂る中を散策というか“探索”し、限を見て御朱印を拝受。お礼申し上げるのでありました~
つづく…