寺社仏閣 ご朱印の旅
山口の旅(3) - モリゾーのひとり言
2025/04/24 (Thu) 11:03:47
春はどこへ行こうか迷っていましたが、結局、滋賀県の大津市、長野県諏訪市、松本市と行ってきました。もちろん花見ですが、諏訪には「御頭祭」をメインに一度は見てみたいと
思っていて、私にとっては、中々、内容の濃い旅となり、念願叶ったって感じ。
…ということで、山口の旅、最終日まで紹介~
阿弥陀寺(1) - モリゾーのひとり言
2025/04/24 (Thu) 11:04:58
4日目は防府市内から北東方面の牟礼山にある阿弥陀寺へ行く。駅前から始発の阿弥陀寺行きのバスに乗り、終点に着いたときは朝9:00ごろ。事前に宝物館拝観の予約を入れていて、その時間に合わせ訪れた次第だが、12月中旬というのにモミジが素晴らしい。まだ十分に楽しめる紅葉狩りをしながら、今年は本当に見頃が遅れていることを実感し、期待していなかった分、うれしさ倍増である。
仁王門の仁王像に挨拶し、寺域の雰囲気を味わいながら石段を上がると、宝篋印塔や五輪塔、観音橋付近からの景色、こちらもモミジの彩りに魅せられパチリしまくる。
山門にたどり着くと、右手に当寺の開祖である重源上人がよく腰掛けられたとされる「霊石」、その奥には重源上人が当寺を建立した由縁である阿弥陀如来がお立ちになって霊示を授けた「影向石」があり、きれいに祀られている。
阿弥陀寺は奈良東大寺再建のため、全国を大勧進で行脚した重源上人が周防国務管理在任中に建立したお寺。山地は断崖絶壁の急峻な土地柄であるため、竣工までかなりの苦労を要したという。
境内には本堂を始め、念仏堂、経堂、開山堂などを配され、寺域は広い。本堂から護摩堂、庫裏周辺には池があり、その周りのモミジの木々が色鮮やかに映え、ここでもパチリ。
本尊の阿弥陀如来さまにお参りし、庭の手入れをしているお寺の方にご挨拶し、約束通り宝物館を拝観する。
阿弥陀寺(2) - モリゾーのひとり言
2025/04/24 (Thu) 11:05:51
本堂から「あみだ橋」を渡った先の奥に収蔵庫があり、境内には数匹の猫が放し飼いされていて、案内の方に馴れているので一緒に入ろうとする。猫には我慢してもらい、早速拝観。
案内の方がひとつひとつ説明して下さり、重源上人坐像や金剛力士像などが並ぶ仏像群を正面に、大きな鉄窯風呂や、例祭などで使用した和紙でできた白装束などを安置。その中でも国宝に指定されている「鉄宝塔」は、重源上人によって鋳造されたもので、塔身部正面には水晶の舎利塔が納まっている。鉄サビ具合が往古の歴史を物語っていて、普通は石での作製が多い中、鉄で仕上げられた経緯はやはり、たたら製造が盛んであった当地域の特徴からだろうか、確かに珍しい。仏舎利が本物かどうかは分からないが、宝物を拝観し御朱印も拝受し、お礼を述べ境内を散策。
開山堂から奥は、ハイキングコースへと繋がる谷となっていて、水の勢いがあれば滝がながれるであろう川は、水量がないのでちょろちょろって感じ。そんでも、周りの景色は秋深まる雰囲気が漂い、ちょっと肌寒い。初夏にはあじさい祭りが催されるほどの“アジサイ寺”としても有名なようで、紅葉狩りもできる“モミジ寺”としても有名な当寺にこの時期、訪れたことはラッキーで、誰もいない境内で紅葉狩りを満喫するのでした~
春日神社 - モリゾーのひとり言
2025/04/24 (Thu) 11:06:40
阿弥陀寺から坂道を下り、次は近くの春日神社へ向かう。坂道を下りながら平野を見渡す形で右手に目を向けると、山陽新幹線がトンネルへ吸い込まれる光景を見、ここが山の中を通っていく路線だったのかと、あっという間に消えていく新幹線を見送りながら、“撮鉄”ならば絶好の場所であるだろうと、その風景を楽しむ。
木々が生い茂る中を、春日神社の側面から入る参道から失礼すると、後で知ったことだが、近くにある山口県農業大学から遷宮された牛森社が春日神社の末社として祀られていて、他にも猿田彦社もあり、先にお参り。
森の中を抜け、境内にたどり着くと、社域はそこそこに広く、“春日”という名称から当然の如く、シカの銅像が配され、かつては戦争で銅が拠出された銘文も書かれている。
拝殿でお参り。御祭神は武甕槌命、斎主命(いわいぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)他が祀られ、由緒としては、文治2年(1186)、周防国司として防府に下向した藤原氏がその祖神である奈良春日大社の御分霊を祀ったことが始まりで、先ほどの重源上人が分霊したとの説もある。
境内には「太鼓楼」と呼ばれる、かつては時間を知らせていた建物があるが、見た目は西洋式の”鐘楼“のような建物である。社務所で御朱印を拝受し、帰りは正式参拝で歩く真っすぐの参道から失礼するが、参道には桜の木々が並び、春の時期の咲き誇る桜並木を想像しながら1つの立看板を見る。
「ハート桜?」
咲いた時の枝ぶりが、見る角度によってハートの形に見えることから名付けられたと。その一本の桜の木は30年ほど前に、地元の人たちの寄贈した「陽光桜」という品種で、3月中旬ぐらいに咲き、すぐに散る、期間が短い桜とのこと。今は枝だけの桜だが、満開の時期には“映え”目当てで訪れる人の賑わいが目に浮かぶようで、「へぇ~」と感心し、ハート桜に何とはなしに触れるのでありました~
芳松庵 - モリゾーのひとり言
2025/04/24 (Thu) 11:07:27
農業大学入口バス停から防府駅へ戻り、昨日、お約束をしていた老松神社の御朱印を授かりに、駅前観光協会のレンタサイクルで移動。老松神社の方に感謝申し上げ、そこから再び防府天満宮へ。
初日に訪れた防府天満宮であるが、訪れたかった茶室「芳松庵」が営業時間終了であったため、今日、訪れた次第。
参道から第2鳥居付近にある芳松庵の門の奥からすでに、溢れんばかりのモミジの彩りが目に飛び込んできて、期待大。ちなみに、芳松庵の真向かいは、前に説明した伊藤博文が学んでいた大専坊である。
門から失礼し、和のテイストが散りばめられた飛び石の中の木々や苔、玄関広間の生け花、建屋は何となく新しいが、茶室らしく見合った造りで、さっそく玄関で受付を済ませ室内へ。
1階大広間で抹茶と茶菓子の接待を受け、縁側から望む庭園を眺めては、ゆったりとした時間を楽しむ。庭園は秋の風情を醸し出し、遅れたモミジもまだ健在だが、所々に散った落葉が苔を隠し、それもより美しさを増している。
限をつけ、離れの茶室へ向かう渡り廊下は、池の上に架けられていて、落葉が沈む池に鯉が行き来して泳ぐ姿を上から眺め、これも美しい。茶室からの眺めもまた違った風景が望め、先ほどの大広間上の2階部屋からも同様に良く、小説家なら落ち着いて作品が執筆できるであろう空間となっている。屋内はどこの室内も天井が凝っていて、お客様をお迎えするための工夫が施されていて、おもてなしの精神が表れていてオシャレ。
室内から庭園へ。石畳を歩き、池沿いからの建屋全体を見、モミジも終わりに近い季節となり、冬の雪景色も美しいのであろうと、しばらくこの静寂を味わい、堪能するのでありました~
満願寺 - モリゾーのひとり言
2025/04/24 (Thu) 11:08:19
防府天満宮から一旦、鳥居を抜け、一本西の道を入っていく。“社町”界隈を進むと、防府稲荷神社の赤鳥居がずらりと坂道を、ドミノ倒しの倒れる前のように建てられていて、その右側には防府天満宮への西参道、「春風楼」へと続く道、その左側には満願寺への山門が見え、近くのモミジの木が真っ赤に色づいている。
石段を上がり、山門を潜ると、さらに壁?のような石段が続き、お城のような石垣が二段、周りには墓地となっていて、上がった先の境内には本堂、鐘楼がある。
満願寺は周防国観音霊場の第14番札所で、創建は神亀年間(724~729)と伝えられる。もとは安芸国吉田(現、広島県高田郡吉田町)にあった天台宗の阿弥陀院で、毛利元就の時代に、真言宗に改宗し、毛利家の祈願所となり、住職は京都仁和寺の門弟が代々続いているそうで、かなりな古刹であることが分かる。
本堂でお参り後、庫裏で御朱印をお願いし拝受。高台から望む防府市内や境内に広がるお墓をいつも眺めている観音像に“あいさつ”し、今日はちょっと曇り空だが、時々現れる晴れ間から射す後光がやけによく見るなぁ~と、旅愁に浸るのでありました~
江泊神社 - モリゾーのひとり言
2025/04/24 (Thu) 11:09:08
防府駅へ戻り、観光協会に自転車を返却し、徳山行きのバスに乗って牟礼バス停で下車。川沿いを南へ20分ほど歩いた所にある江泊神社へ。至って村社といった雰囲気の地元の神社だが、鳥居下には「禁止」のロープが掲げてあり、境内に入ってはいけないのだろうかと思ったが、車の進入禁止ということだろうと、遠慮なく失礼する。
鳥居が西側にあり、入って左手に拝殿・本殿、その傍らには大きな御神木であろう、クスノキが、よく見ると、根元の幹には注連縄が施されていて、威厳?を保っているように見える。
拝殿でお参り。由緒看板には江戸時代の宝暦6年(1756)に沖ノ原(現在地より北へ20kmほどのところ)に鎮座とある。ここ右田の領主であった毛利内匠氏が開墾の際に、龍神宮を祀ったとのことで、雨乞いの祈祷でもしたのだろうかと妄想が膨らむ。春秋の御祭祀の時にはお米を奉納したらしく、この地域が開作地であることが読み取れる。
御祭神は火産日命(ほむすびのみこと)。奥津彦命、奥津姫命、豊玉彦命(配祀神)。
火産日命は別名「カグツチ」。火の神様であり、奥津彦命、奥津姫命はかまどや台所の神様。いわゆる…炊飯ジャーの神様?やん…と、妄想が過ぎますが、やっぱし五穀豊穣を始め、防災、商売繁盛などの御利益があり、耕作地が盛んだったこの地域の村では、頼りにしていた神様であったと改めて納得。
拝殿でお参り。拝所上を見上げれば、龍の彫刻が青く(色褪せているだけ)印象的な“オブジェ?”と、しばらくにらめっこ。
社務所はなく、宮司宅へ問い合わせしてみると、御朱印はもうやっていないということで、諦めて次へ。
塩釜厳島神社 - モリゾーのひとり言
2025/04/24 (Thu) 11:10:08
防府駅へと戻り、次は昨日、レンタサイクルで行った磯崎神社のさらに西の、中関という場所へ移動する。レンタサイクルで行ける距離ではないので、バスを利用し、中関バス停で下車し、10分ほど南へ歩いて行った所にある塩釜厳島神社を訪ねる。
一之宮玉祖神社でいただいた御朱印の中に、当神社が含まれていたので、これはぜひにと思い、急遽、計画に盛り込んだのだが、帰りのバスの最終時刻までの滞在時間30分ぐらいなので、急ぎめで歩く。
高架下を潜り、集落の中をしばらく進むと、道路に面して鳥居が建ち、山を背景にして社殿が建っている。境内にはモミジの木々もあるが、終盤の“落葉絨毯”になっていて、そんでも十分色を添えていて美しい。
ここ中関は歴史的に見ると、萩藩7代目の毛利重就(しげたか)が塩業を中心に産物や商品を船で運ぶ港の整備を行い、岩国領であった上関、長府藩であった赤間関(下関)との中間地点に、風向きによってどちらでも停泊できるように萩藩の港として、港の発展に力を注ぐ。また、防府地域への旧山陽道や萩往還から離れていて、人や物流の妨げになっていたので、明治20年(1887)には中関港への道路建設が計画され、2年後に完成、インフラ整備が行われている港町である。
そんな港の発展に貢献した毛利重就公の威徳を称える石碑が「記念碑」として建っていて、初めて訪れた人にはわからないだろう、私も知らなかったのだが、何とはなしに見入る。
石橋を渡り拝殿でお参り。
塩釜厳島神社は、明和3年(1766)、中関本町に厳島神社が創建され、昭和40年(1965)に塩釜神社に合祀され、現在の社名となっている。この塩釜神社は明和4年(1767)、塩田築立の鎮守として奥州の塩釜神社を中関の猿伯に勧請していて、明治26年(1893)に現在地に遷宮…とある。昔は塩田事業だが、今は港の安全、航海安全を“鎮守社”として崇められてきたのだろう、地元になくてはならない神社となっている。
波止場の方向には第一の鳥居があり、停泊している漁船やヨットを見、夕暮れ時の港…バスの時間もあるので、そんなに長居はできないが、しばし、港の風景に癒されるのでありました~
宇佐八幡宮 - モリゾーのひとり言
2025/04/24 (Thu) 11:11:11
最終日。防府駅バスターミナルから堀行きのバスに乗って20分ほど、鈴屋バス停で下車し、すぐ近くの鳥居から望む長い石段を見上げては「…」となる。
時刻は朝8:00。朝靄が発生していたのだろうか、参道は湿気を帯びた空気感となっていて、何となく神々しい雰囲気が漂う中、ゆっくりと上がって行くと、シャクナゲの木々がやけに多く、参道周りはうっそうと茂っている。
途中、維新志士の供養塔?や「赤さま」という石の祠があり、説明看板を一通り読む。「赤さま」は赤ちゃんの身体・健康の神様として、この地方では古くから厚い信仰を集めていて、初宮まいりには、十二重ねのお団子をお供えする「赤さま参り」があり、その団子は決して焼いて食べたりしてはいけないという風習があるとのこと。食べたらどうなるんだろう…と鬼と化した「赤さま」が襲ってくるのだろうか…と、妄想が膨らむ。
石段参道を上がり、ようやくたどり着いた境内には、拝殿の茅葺屋根が歴史を感じさせる趣きが漂い、さっそくお参り。
宇佐八幡宮の創建は寛平3年(891)、当地の住人、佐々木徳寿丸が大分の宇佐神宮に参拝したのをきっかけに、矢筈岳中腹の伊勢山に勧請したのが始まりとされる。その後、天文2年(1533)に八幡宮の神霊が鈴宝山の大岩の上に現れ、そこで久満佐渡左衛門慰重友という人が社殿を建立し、移築したと。拝殿は平成15年(2003)に大祭事業として建築当時の茅葺屋根を再現したとあるので、まだ新しかったことを知り、先ほど説明した神霊が降り立った“大岩”が拝殿左手に鎮座されているので見に行く。
“大岩”は「飛座船石」というらしく、確かに船の形をした長い石で、苔が生えている分、神々しさを感じる。重友さんが見た?という神霊とは、果たしてどんな姿だったのだろう…と、ドリフのコントで「あんたは神さまかい?」「いんや、私は神さまじゃよ」という会話を思い出し、静寂の中で一人ほくそ笑んでしまう。
社務所はまだ開いていないので、9:00からの開所まで境内を散策。朝陽が徐々に広がる光景を眺め、ここからの景色もすばらしく、色を添えるモミジは落葉となっているが、たぶん、シャクナゲで有名なのだろう、5月あたりに咲くシャクナゲを想像しては楽しむ。
9:00となっても宮司さんが現れる様子がないので、電話をし、無事、御朱印を拝受。お礼を述べ次へ。
天徳寺(1) - モリゾーのひとり言
2025/04/24 (Thu) 11:12:04
鈴屋バス停からJR防府駅行きのバスに乗り、途中、塚原バス停で下車。西へ歩くこと15分ほど、学校の脇に参道があり、真っすぐ進むと、遠目に切り立った岩山がお寺を背景に聳えている。参道を歩いていると、登山服に身を包んだ人たちがいて、あの山を登る登山口があるのだろうと思いながら、山門まで来ると、もう終盤のイチョウの木が出迎え、もう枯れ枝となっている姿は、冬の到来を感じさせるほどに寂しい印象。
天徳寺はネットの情報だと、開基した人が常延庵主という源家の一族なる人物と、源頼朝の2人が存在している。どっちが開基?というのは分からないが、常延庵主は本人の木造像が現存し、頼朝は位牌とイチョウの木の近くの五輪塔(頼朝塚)があり、この2人のどっちということでもなく伝えている。
当寺は武家の祈願所として栄え、寛永2年(1625)、毛利元倶公がここ右田に移り、右田毛利氏が清和源氏の流れを汲むことから、菩提寺と定め、父元政の法名である「天徳性真大居士」にちなみ、寺号を天徳寺と改める。バス停からここまで歩いてくる途中に、右田毛利氏の墓所があり、立ち寄りはしなかったが、毛利家の檀信徒がこの周辺にいるのだろうことは何となく気づいていて、当寺とのつながりがある事を知る。
境内には十六羅漢の石仏が並び、観音菩薩さまの銅像も安置され、そこそこ広い寺域。本堂が開いているので中へと失礼し、お参り。庫裏で御朱印を授かり、境内から背後の岩山を見上げる。
天徳寺(2) - モリゾーのひとり言
2025/04/24 (Thu) 11:13:00
庫裏でいただいたパンフレットには、あの岩山は「石船山(せきせんざん)」というらしい。この地域は「右田」といい、縄文・弥生時代から人が住み着いていたという。鎌倉時代には国衙の役人だった多々良盛房の弟、盛長が右田を領地として、右田摂津守を名乗り、大内氏の根拠地として支配。その後、毛利氏との戦いを経て、大内氏は滅び、右田毛利氏の領地となる。そんな中で、右田ヶ岳の南麓にある石船山の中腹には観音堂があり、石船山の巨大な自然石には33躰の観音さまが祀られている。つまり、摩崖仏が33躰、登山道の至る所にあり、自然と観音巡礼ができるようになっていて、昔から信仰されてきているよう。
各地にある33観音霊場。なぜ「33」なのか…ということも説明されている。
33観音は「法華経」に説かれている「観音の三十三身」に由来するもので、観音さまが人々を救うために相手に応じて「化身」「声聞身」「梵王身」など33の姿に変身することをいう。…というても、法華経の中には33種の観音の名前が登場するわけでなく、あくまでも一般的に紹介されたのは、天明3年(1781)、土佐の画工、紀秀信によって編集された「仏像図彙」という書物が初めてで、80種類あまりの経典をもとに描かれているそうな。
周防では室町時代に、大内弘世(24代)が西国霊場を真似て、観音信仰を招き祀ったのが始まりとしたらしく、結局なぜ「33」という数字なのかはあいまいである。
とにもかくにも、パンフレットには摩崖仏の写真が紹介されていて、どれも大岩に描かれているもので、「なるほど…登山というかハイキング気分で行ける観音めぐりなのかも…」と、今日はもう、帰らないといけないので登山は無理。一度は登ってみたく、また機会があればと、屹立した岩肌を眺めながら、まだ見ぬ観音さまに感謝の意を伝えるのでありました~
劔神社 - モリゾーのひとり言
2025/04/24 (Thu) 11:13:54
天徳寺から西へ。山陽新幹線の高架下を歩き、15分ほどで用水路に架かる橋を渡り、劔神社の境内の東側から入ってしまったので、立派な社殿の側面を見ながらの正式参拝ではないが、ルート上、仕方がないと割り切り失礼する。
境内は広く、西側は木々が生い茂る森となっていて、それに合わせ、石庭があるのだが、何だかそのままの状態で、丸みを帯びた石橋が空しく見える。
劔神社は最初、名前に魅かれて訪れた次第だが、その由緒を見ると、仲哀天皇の熊襲征伐の折、当地に立ち寄り、八握剣を御神体として祀ったのが事の起こり。とはいえ、創建時代は不詳だが、天皇が立ち寄る前から神社の存在はあったということになる。
御祭神は素戔嗚命、武甕槌尊、日本武尊と、まさに武神せいぞろいの神様が祀られている。室町時代には大内氏から崇敬され、社領も広がり、また、豊臣秀吉が九州下向の際には、祈願して帰りには、唐太鼓を奉納したと伝わる。
そんな神社でお参りし、事前に電話連絡で宮司宅に伺うことをお約束し、再び元来た道を戻り、住宅街へ。御朱印は書置きの2種を拝受し、後で気づいたのだが、「林崎大明神」と書いてあり、「林崎…どこかで聞いたような…」と、ネットで調べてみると、
「林崎勘助!?」「そうだ…居合の達人だ…」と思い出し、深夜に放送しているアニメの「るろうに剣心」が頭をよぎる。
林崎勘助重信は、出羽国楯山林崎(現、山形県村山市)で生まれ、父が闇討ちされた仇を取るため、武芸師範の東根刑部太夫に武術を学び精進する。そして19歳にして本懐を遂げ、その後、諸国を修行する傍ら、弟子を育て…と、ウィキペディアは書いてあるが、いろいろ調べていくうちに、どうやらもう一人の「林崎」がいる説とか、生まれは相模とか、なんか分からなくなってくる。
とにかく…居合(抜刀術)の祖であることは間違いなく?名の知れた剣客で、林崎は日夜、抜刀を錬磨しているところ、大明神が示現し、秘術を授けられて…その大明神が誰なのかも分からないが、伝説が伝説を生む人物となっていて、今では「林崎大明神」と崇められている。ちなみに、小説「神剣」という本もあるとのことで、読んでみたく、山口県で“武神”に出会えるとは、再び境内に戻り、トンネルへと駆け抜ける山陽新幹線の車両を眺めては、居合のスピードを想像するのでありました~
国津姫神社 - モリゾーのひとり言
2025/04/24 (Thu) 11:14:55
劔神社の境内から、正式参拝なら通る参道を、帰りは歩き、意外と長い参道から振り返っては右田ヶ岳の岩山を望み、山陽新幹線が高架を通る車両を見ては後にし、交通量の多い萩循環道に出てきて、右田バス停からJR防府駅に戻る。
そして再び、徳山行きのバスに乗り、富海バス停で下車。JRの電車でも行けるのだが、乗車する時間帯がなく、バスで移動したのだが、この後はもう、名古屋に帰る予定なので、あまり滞在できなく、時間との勝負になる。
富海バス停とはいえ、JRの駅から離れていて、グーグル地図を頼りに細い道を歩いていく。港町らしい集落の中を早足で歩き、広い参道にたどり着くと、東を背に鳥居、拝・本殿の建物が一直線に参道を通して見える。第二の鳥居近くには江川という小川に掛かる石橋(欄干橋)が風情を醸し出し、鳥居を潜った先の境内は、綱が張ってある結界門?の先の拝殿が竜宮城のように立派で、拝所上の唐破風には「龍」の彫刻が飾られている。
拝所でお参り。
防府市街から東へ約8km離れた富海ノ浦が広がる港町。富海は「とのみ」と読み、昔は「ほうふの海」とも呼ばれいたそうな。冬は暖かく、夏は涼しい気候なので、ミカンなどの果実栽培に適し、港や旧山陽道に近いことから、江戸時代から交通の要衝として栄え、最近は藍染めを物産として盛り上がっているらしい。1970年代のアイドル歌手、南沙織の「17歳」という曲の歌詞、「誰もいない海♪二人の愛を確かめたくて~♪」は、ここ富海が舞台と伝わり、昔に比べ、自慢の砂浜は防波堤などが整備され、小さくなってしまったが、その海水浴場も存在していて、天璋院篤姫や伊藤博文、井上馨らも立ち寄った歴史的立場からも名残が残る名所である。
そんな富海にある国津姫神社。御祭神はあの3女神、田心姫命、溝津姫命、市杵嶋姫命で、元々は船岡山に岡の宮として祀ったことが始まりのよう。かつては富海村と呼ばれた村の産土神として篤く崇敬され、航海安全、交通安全、五穀豊穣の守護神としても、この地域の繁栄を担っている。
境内には神仏習合時代の神禅寺跡や、珍しく月読宮も祀られていて、お参り。富海の神様に“ごあいさつ”し、宮司宅に伺う。
ピンポンを押しても反応がないので、留守ということか…後日、御朱印を送って下さることをお願いし(無事、届きました)、防府の旅もここまで。
今回もいろいろめぐり、情報を下さった方々、この場を借りて、いろいろとありがとうございました~