寺社仏閣 ご朱印の旅
また41、京都の旅 - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:26:13
いろんな問題を抱えながら、大阪万博が始まりましたが、私は5月下旬に行く予定。愛知万博の時は地元ということもあって、通期パスを使い何回も訪れたものだが、この時の万博がきっかけ?で、御朱印めぐりをしだしたのは、やはり、スタンプパスポートが影響している。各パビリオンに設置してあるスタンプを集めていく…これが、私の原点…とまでは言えないが、各国の人たちとの触れ合いの中で、経験した宝物は今でも忘れないでいる。
今回も、スタンプパスポートを購入してしまった(名古屋唯一の公式店、丸善で)が故に、通期パスを買おうか買うまいか…悩みどころだが、今年は万博イヤーということで、楽しみたいと思っている。
さて、今回は2月下旬に行った「京の冬の旅」~
頂法寺六角堂(1) - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:27:20
今年で59回目を迎える「京の冬の旅」企画。毎年、非公開の文化財が特別拝観できる催しを期待し、今回は16ヶ寺開かれる内の3ヶ寺を拝観する。
JR京都駅に13:00頃に到着し、地下鉄烏丸線で、烏丸御池駅で下車、南へ数分歩く。オフィス街の中を東へ折れ、六角通りをしばらく進むと、立派な山門が現れ、多くの参拝客で賑わっている。
頂法寺六角堂は、2、3回は来ている。聖徳太子が創建し、小野妹子が始祖である「池坊」は、代々住職を務めてきた、あの“いけばな”で有名な「池之坊」で、ここが本拠地である。
久しぶりの訪れであるが、何となく境内の雰囲気は憶えていて、本堂でもある六角堂は健在。外陣にある赤い大きな提灯も、私の記憶を呼び覚ましてくれるほどにインパクト大で、そこにぶら下がっている。さっそく拝観受付で手続きを済ませ、本堂内へ。
本堂内陣に安置されているのは、お前立ちの如意輪観音像。その背後の厨子の中に秘仏があるのだが、この特別拝観でも非公開となっている。じゃあ、何が特別拝観なのか…というと、当寺には2体の如意輪観音像があり、1体は弘法大師作と伝わる如意輪観音さま、もう1体は建礼門院が寄進したと伝わる如意輪観音さまで、前者は後ほど訪れる、いけばな資料館に展示されていて、後者はお前立ちの傍らに小さく安置されている。
まずはお前立ちの如意輪観音像にお参り。頬杖を右手でついている優しいお顔立ちで、顔の周辺だけ金箔が残っているのが印象的。そして、傍らにある如意輪観音さまは覗き込む形で見るので、はっきりとは見えない。購入したガイドブックには写真が載っていて、それを見ると、蓮の台座に散りばめられた装飾、船形光背が網目状に細かくなっていて、右ひざを立て、右手で頬杖をついているリラックスした姿。建礼門院の想いが乗った如意輪観音像に手を合わせ、仏像だけでなく、厨子も立派。唐破風の屋根が荘厳さを増し、金箔がより輝いて見える。その厨子の中には秘仏がいて、秘仏から5色の紐が拝所の台の独鈷に繋がり、それに触れ、如意輪観音さまのご加護をいただき、本堂内での拝観を終了。
次はいけばな資料館へ。
頂法寺六角堂(2) - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:28:18
本堂左手からいけばな資料館へ移動。石不動尊や赤い帽子を被ったお地蔵さんにご挨拶し、池…というか、ビルの一角にあるオブジェのような大理石で囲まれた水槽?を眺めては、聖徳太子が身を清めたという池が「これなのか…」と、水浴び?をしている聖徳太子をイメージするが、現代的アートに造られた“池”が想像を超え、「本当なのか?」と疑ってしまう。
そんな妄想を楽しみながら、立派なビルに入りエレベーターで3階へ。
池坊の宝物が展示されている資料館には、花器と呼ばれる生け花に使用される受け皿や花瓶から始まり、立花図屏風、御所や貴族の屋敷で立てたものを描いた「池坊〇好立花図」(〇忘れた…)、前田邸の大砂物の写真パネル、伊達政宗の書状や橋本関雪作の梅の精を描いた「梅月相思図」などなどを拝観。ちなみに、「立花」とは、「仏前供花」を源流とする大自然の姿を器の上に表現する様式で、池坊いけばなには他に「生花(しょうか)」「自由花」の3つのスタイルが確立されている。
そもそも、朝夕の仏前に花を供えていたことから華道が始まったという、花を生けることで“悟り”を得ることができると、室町時代後期に池坊専応が確立した、ある意味、哲学に昇華した日本文化は今も継承され、発展していることは言うまでもない。
そして、弘法大師作の如意輪観音さまも展示してある。この如意輪観音さまの背中がパカっと開いていて、仏像の中に秘仏が安置されている構造になっていて、「鞘仏」とも呼ばれていて、蓮の台座に右膝を立て右手で頬杖をしているポーズは相変わらずで、じっくりと拝観。頭の上に“天使の輪っか”を乗っけた如意輪観音さまをじ~っと見ていると、昔、歌手の梓みちよが座って唄っていたポーズに似ている…と妄想し、梓みちよ→桂三枝→“いらっしゃ~い”と、如意輪観音さまが歓迎している?ように見えてきて、「こちらこそ、ありがとうございます」と心の中で“ご挨拶”。
当寺の寺宝を拝観し、再び境内へ行くと、六角堂の白鳥が二羽、優雅に毛繕いをしていて、「そうそう、白鳥!」と思い出す。私が訪れた当時はこんなに大きかったかな?と、その白鳥の成長ぶりに親目線でじ~っと見続け、限を付けて寺務所へ。「石不動尊」と「太子守」の御朱印を拝受し、池坊の歴史に触れるのでありました~
平等寺因幡堂(1) - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:29:15
六角堂から南へ、四条まで歩き、繁華街の中心地にある平等寺へ移動。東へ松原通りを進むと、提灯が並ぶ入口が見えてきて、「そうそう、これこれ」と懐かしく思う。
平等寺因幡堂はお薬師さんを本尊とする、動物やガン封じに御利益のあるお寺。その薬師如来立像や2躰の十一面観音他、宝物が拝観できるということで訪れた次第だが、平等寺も過去にそこそこ来ているにもかかわらず、本尊のお姿を見たことがない。
さっそく受付で拝観料を支払い、まずは本堂でお参り。案内の方により収蔵庫に入り、ある程度の参拝客が集まってからガイドさんの説明が始まる。
厨子に収まっている薬師如来立像は、因幡国(鳥取)から飛来してきたと伝わる。天徳3年(959)、貴族であった橘行平が村上天皇の命で赴いた因幡国で病になり、ある夜、夢に現れた僧から「因幡国の賀留津という所に1つの浮き木があるから、この木を供養しなさい」と告げられ、海中よりその木を引き上げると、5尺余りの薬師如来であったと。この薬師如来像を安置するための革堂を建て供養すると、病はすっかり治り、革堂は座光寺として護られ、行平は帰郷の途に着く。京都に戻った行平の夢枕にまたまた僧が現れ、「あなたとは宿縁があるから、重ねて事を示す」と告げ、目を覚ますと屋敷に「因州の僧」と名乗る人が訪ねてきて、門を開けると、そこには薬師如来像が立っていた…(怖…)。その後、屋敷をお堂に改め、「因幡堂」と名付け、都でも評判となり、時の一条天皇も信心され、皇室の勅願所にまでなったとのこと。なお、「平等寺」という名称は、高倉天皇の勅願により命名されたというから、源平争乱の時代、「平等」という名称に願いをこめた天皇の想いが何となく伝わってくる。
ちなみに、この薬師如来さんは「日本三如来」の1つとされていて、あとの2つは善光寺の阿弥陀如来、清凉寺の釈迦如来なんだそう。
そして、薬師如来像を収めている厨子も変わっていて、火災の際にはすぐに運び出せるように、車輪がついていて、運び出す際に、厨子のてっぺんに頭をぶつけてしまうので、衝撃を防ぐため頭巾を頭に被せていると。「へぇ~」と、お薬師様の縁起を知り、「因幡からねぇ…」と、はるばる京都まで来た理由は、ホントのところは何だったのだろうか…と、いろいろ想像してしまう。インパクトありすぎのお薬師様に手を合わせ次へ。
平等寺因幡堂(2) - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:30:10
観音堂へ移動。こちらには2躰の十一面観音菩薩坐像を安置。室町期と江戸期の十一面観音さまは、洛陽33観音霊場の本尊で、普段は厨子に納められ見ることはできないが、今回は間近で見ることができる。他にも役行者像や如意輪観音など、清凉寺の釈迦如来像に模した如来像もあるのだが、どこかの美術館に移動していて、ここには今はないとのこと。
十一面観音さまのお姿を見、どこか中性的なお顔立ちの、左手に持つ花瓶?の手先が“キツネ”のようになっていて、「飛びます飛びます」と、坂上二郎を思い出し、先ほどのお薬師さまが鳥取から京都へ移動する姿が…妄想が止まらない。
観音堂でお参り後、境内裏手にある伝承館へ。その途中、閻魔さまや毘沙門天などの石像に“あいさつ”し、「こんなのあったけ?」と、私の記憶にはないが、これも何かのご縁とお参り。
伝承館ではお薬師さまの「縁越絵巻」をはじめ、今にして思えば、何が展示されていたか忘れてしまって…が、唯一覚えているのは“人毛真言”と“琴”である。いずれも、高倉天皇に寵愛された小督局に纏わる品で、“人毛真言”は正式には「毛髪織込み光明真言」という。
そうです…その名の通り、髪の毛で織り込んである真言がずらりと書き並べられている(怖…)。
小督局は藤原成範の娘で、時の帝、高倉天皇に寵愛され、琴が上手く、京都一の美貌といわれるほどの美人さん。が、高倉天皇には中宮(后)、平清盛の娘、徳子がいて、小督局のことを知った清盛は小督局に圧力をかける。
自分の身が危ういことを知った小督局は、密かに宮中を去り、嵯峨野に隠れてしまい、高倉天皇はその安否を心配され、源仲国に捜すように命じた…その様子が「平家物語」に描かれていて、嵐山の渡月橋には「琴橋跡」の碑もある。
そんなこんなで二人は逢瀬を重ね、中宮徳子よりも先に子供を産んでしまったことから、またもや清盛から怒りを買い、小督局は出家させられ、引き裂かれてしまう。しかも、高倉天皇が21歳の若さでこの世を去ると、東山の清閑寺に葬られ、小督局も近くに住んで、菩提を弔ったと伝わり、小督局のお墓は高倉天皇陵に寄り添うように建てられているというから、相愛の念が叶ったということか。
ちなみに、小督局の娘、範子は建礼門院徳子の養女となり、賀茂斎院の斎王に、最後は土御門天皇の准母となる。
…ということで、“真言”といっても何が書いてあるのか素人にはよく分からないが、高倉天皇への真実の愛を唱えた“真言”なのであろうかと、“人毛真言”と黒く変色した琴も拝観し、小督局の人生に触れるのでありました~
清水寺随求堂 - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:31:10
2日目。地下鉄九条駅近くのホテルで一泊し、市バス207系統で、清水道バス停で下車。朝8:30からすでに東山界隈は活気がある。人気の観光スポット、清水寺への道のりは、緩やかな坂道を上がるのだが、もうすでに外国人観光客の姿が目立ち、通りのお店も早いもので開店している所もある。
清水寺は桜・モミジの季節と、それぞれの夜間拝観で、あの清水の舞台とのコラボ写真を撮影し、何回も訪れているが、とにかく人が多いので、しばらく避けてきたのだが、「京の冬の旅」で、清水寺随求堂が公開されるとあって、朝9:00に到着するように早めに出てきた次第。
相変わらずの仁王門の石段を上がり、三重塔近くの随求堂にはすでに4、5人の先客が並んでいて、案内スタッフの数も多い。
随求堂は享保20年(1735)に建立。本尊の大随求菩薩坐像が特別開帳された2018年に一度公開されているが、それでも約22年ぶりというから、相当レア度高めな仏様である。衆生のあらゆる願いに随い、叶えてくれる功徳があるということで、1つだけ願いを聞き入れてくれるそう。
そんなありがたい仏様を、さっそく内陣へと上がらせていただき、拝観。
ガイドブックの説明によると、江戸中期に造られた高さ約1.1mの、身体は金泥、衣は金箔で施され、頭にはきらびやかな宝冠、8本の腕には剣や朔杖などの法具を持ち、手には羂索(けんじゃく)ではなく“蛇”をつかんでいる。円形光背には「大随求陀羅尼」の梵字が描かれ、台座は獅子連座と呼ばれる、獅子が台座の下で伏せている彫刻が見られ、見事な細工が施されていると。台座付近をよく見ると、薔薇なのか牡丹なのか、植物も描かれていて、かなり手の込んだ作品であることが分かり、お参り。
安らかなお顔立ちをじ~っと見入り、人々の願いを受け入れて下さる菩薩さまは「エライなぁ~」と、そのお姿を見れただけでも感謝し、一礼する。
内陣には「大随求陀羅尼」の銅板も飾られ、それを元に版画印刷された、大体45cm四方の紙も販売されていて、物珍しく見るだけにする。
もう1つ、堂下の暗闇をめぐる“胎内めぐり”がある。菩薩さまの真下(地下)に梵字で書かれた石があり、それに触れれば心願成就するという。いわば、長野善光寺の“あれ”と同じである。手すり兼数珠を頼りに、暗闇の中を進み、梵字の石のあるところは、有難く照明が灯っていて、触り、とにかく人が多いので、流れ作業のように移動。イベントを楽しむだけに集中しすぎて、気づいたら願い事はせずに終了~。
まぁ~何にせよ、菩薩さまにお会いできたことだけでも良しとし、ここに訪れることができて、感謝申し上げるのでありました~
清水寺経堂 - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:32:03
清水寺はこの日、経堂で「大涅槃図」を無料で公開していて、堂内へ失礼する。参拝客のほとんどが清水の舞台への拝観だが、経堂にはほとんどいない。
「大涅槃図」は3月15日、釈迦入滅の日(旧暦2月15)に公開される寺院が多い中、清水寺では2月に公開している。
昨年だったか、東福寺、泉涌寺、真如堂等の「大涅槃図」めぐりをしたものだが、あんな?バカでかい…いや失礼…大きすぎる「大涅槃図」よりは清水寺のは普通の?サイズである。
…と、その前に、まずは釈迦三尊像にお参り。宝冠釈迦如来の脇侍には、象に乗った普賢菩薩と、獅子に乗った文殊菩薩が安置され、天井を見上げれば、岡本信基作の「龍」が描かれている。この「龍」が夜になると、音羽の滝の水を飲むために経堂から抜け出すという云われがあり、清水寺の七不思議とされている。
そんな龍が頭上から釈迦三尊像を見守っている経堂は、平安時代、一切経を所蔵し、全国から学僧が集まる講堂として栄えたと伝えられている。室町時代の「清水寺参詣曼荼羅」には経堂が描かれていないので、応仁の乱によって焼失し、曼荼羅が描かれるまでの間は、建立されなかったことが予想されていて、現在の建物は、寛永10年(1633)に再建されたもので、平成12年(2000)には解体修理されたという歴史がある。
「大涅槃図」は、山田雪渓が描いた作で、東福寺や真如堂などに比べれば「大」とはいえないが、動物たちや弟子たちの嘆き、悲しむ姿や木に引っかかっている薬壺など、釈迦がお眠りになっている姿は変わっていない。「大涅槃図」を見、今年もお釈迦さまの姿に出会えるとは、もう一度手を合わせるのでありました~
八坂庚申堂 - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:33:12
清水寺から産寧坂、二年坂を下り、法観寺の五重塔が見えるとこまで来ると、そういえばこの辺に八坂庚申堂があったことを思い出す。以前訪れた時には、御朱印はなかったのだが、最近のネット検索で御朱印が授かれる情報を知り、立ち寄ってみることに。
グーグル地図を頼りに、清水寺への参拝客の人ごみを避けながら八坂庚申堂に到着。ここがいつも繁盛している理由は、カラフルな「くくり猿」の、インスタ映えする影響なのだろう、私も最初はその“節”だったのだが、ちゃんとした由縁のあるお寺であることは、「庚申」という言葉を知ってからである。「庚申」とは、干支の庚(かのえ)、申(さる)の日を意味し、この日、人間の体の中にいる三戸の虫が寝ている間に、体から抜け出して、天帝にその悪行を告げ口に行く。天帝は寿命を司る神なので、悪いことをした人に罰として寿命を縮める力が。ところが、三戸の虫は人間が寝ている間にしか体から抜け出ることができないため、抜け出せないように庚申の日は徹夜をし、告げ口を防ぐ…これを「庚申待ち」といい、平安時代の初期は、青面金剛を本尊として拝み、これは青面金剛が三戸の虫を喰う力があると信じられていたから、この日に睡眠を捧げて、一晩中一心に願い続ければ願いが叶うとされている風習があると。
…ということで、山門の屋根にいる“見ざる言わざる聞かざる”の猿たちに挨拶し、境内へ。あいかわらずのくくり猿がいくえにもカラフルにぶら下がっているお堂をカメラに収めては本堂に向かう。本堂ではTVクルーが撮影していて、何かあるのだろうかと、お参りを躊躇していると、僧侶が私に話しかけてきて、「今日は本堂内に上がれますのでどうぞ…」と促され、靴を脱いで中へ。「今日は…」ということは、普段は入れないということか、内陣の方まで案内して下さり、青面金剛像の前まで上がらせてもらうことに。
「いいんですか!?」と問いかけると、「今日は庚申の日なので…」と言い、「えっ…そうなの?」と納得。偶然訪れたこの日が、今年最初の庚申の日だったようで、ありがたくお参り。
わずか20cm程度のお前立が安置されていて、その背後には厨子があるので、青面金剛像は秘仏ということか…
青面金剛は、末法に乱れた世の衆生を救おうと、お釈迦様と阿弥陀如来様と薬師如来様が相談され、青面金剛となって現れた仏様。元は「夜叉」で、お釈迦様に出会ったことで仏教に帰依するようになり、善神となったと云われ、仏教を信じる人を全力で守るとのこと。飛鳥時代には秦河勝が秦氏の守り本尊として招来したとも。
脇侍には四天夜叉の他、不動明王、弁財天などが祀られていて、じっくりと拝観。
僧侶さんから「こんにゃく炊き」の接待をされ、本堂横の待合所へ。“お気持ち”を支払い、北の方角に向いて食す…今日は何だか、ここへ導かれたような気がして、これも何か“ご縁”ということか、御朱印も拝受し、お礼申し上げるのでありました~
高台寺 - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:34:11
八坂庚申堂から高台寺へ移動。高台寺でも「涅槃図」を公開しているということで拝観。久しぶりの高台寺は、紅葉狩りで夜間拝観に来たことが記憶にあり、もう2、3回は訪れている。豊臣秀吉の菩提を弔うために正室の北政所ねねさんが祈願し、家康がこの土地を整備して創建されたお寺。
さっそく拝観手続きをし、書院へ。いきなりの「涅槃図」の拝観となり、案内の方と談笑。話題はやはり、3月15日に催される「大涅槃図」公開の東福寺や真如堂などの話に。大きさは比べ物にならないが、釈迦入滅をきっかけに、慈しむ心を学ぶ機会であると「涅槃図」を見、手を合わせる。「涅槃図」の隣の部屋には、宝冠釈迦如来坐像が安置されていて、お参り。方丈の縁側から広がる枯山水庭園「波心の庭」を眺めては、一旦、方丈から退出し、小堀遠州作の庭園を見ながら開山堂へ。
開山堂には当寺を開山した三江紹益禅師の坐像、北政所の兄である木下家定の木像、当寺造営普請に尽力した堀直政像が安置されている。外陣の欄間には、朱雀なのか鳳凰なのかの絵が描かれていて、向かって右手側の「鳥」が、特に羽の部分が浮き上がっているように見えてすばらしい。
開山堂から霊屋(秀吉夫妻の坐像を安置)でお参り後、丘を上がるように散策路を歩けば、茶室「傘亭・時雨亭」があり、質素な佇まい。そして、緩やかな坂道を下り、竹林ゾーンへ。以前に訪れた時の夜間拝観ではライトアップされた竹の、直線的な陰影が芸術性を増し、素晴らしい光景を体感したが、昼間でもうす暗い竹林は、外国人観光客の映えスポットとなっていて、カメラに収めている姿を見、拝観終了~。
久しぶりの高台寺を訪れ、「涅槃図」にもお会いし、京都らしい風情を楽しむのでありました~
建仁寺西来院(1) - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:35:14
高台寺から東山安井の交差点に出てきて、西に下る。「京の冬の旅」企画に参加している建仁寺の塔頭寺院、西来院へ移動。建仁寺の中でも、一回も訪れたことがない西来院。初公開となる今回は、龍の天井画がメインと、ガイドブックにも載っていて、果たしてどんな寺院なのか期待が膨らむ。
建仁寺北側の北門から入ってすぐの参道坂道を上がり、山門まで来ると、京都らしい小庭に迎えられ、さっそく受付で手続きをする。書置きの御朱印が数種あり、受付の人に聞いてみると、これから拝観で見る屏風を描いた人がデザインしたもので、かなり数がある。私は本尊などのシンプル御朱印を3種拝受し、そのまま室内へ。
その屏風絵は全面金箔を背景に、唐獅子の絵が描かれていて、作者は陳漫(チェン・マン)氏。「どこかで見たような…」と、ネットで調べてみると、建仁寺霊源院でも過去に展示していて、「なるほど…」と納得。メインの天井画「白龍図」も手掛けているとのことで、それは後にして、まずは中庭や枯山水庭園を眺める。
南側の枯山水庭園は、中国の世界遺産「山我眉山」から運び込まれた巨石を揃えたもので、中央の長細く苔が生えている低い築山の周りを、白砂の波が8文字のように描かれていて、“雲”を表しているのだろうか、その背景には岩やモミジ、草木などが生えていて、2023年に作庭したというから、まだ新しい。
中庭は、正方形の空間に竹が数本、白砂から突き立ち、石甕や鉄甕を配し、中には胡蝶蘭かシクラメンかの花びらを沈めていて、作庭は梁雅臣氏と書いてある。建屋の中央に庭に光が射し込む…京都らしい佇まいを見、次の間へ。
建仁寺西来院(2) - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:36:05
横に長い広間には、本尊の地蔵菩薩、建仁寺を創建した中国の禅僧、蘭渓道隆の像があり、説明案内がある。蘭渓道隆像の中に、本人の木像の肖像彫刻の頭部が納められていると。一瞬、写真で見ると、“デスマスク!?”と思ったが違うようで、鎌倉の建長寺に安置されている同像の顔、特にくちびるが同一大であることが分かり、何のために納められていたのか…仏師の置き土産…と、最近の調査で発見されたとのことなので、面白い。
そして、天井画の「白龍図」が13m×6mの大きさで描かれている。計算したら約43畳分ということなので、かなりの大作である。陳漫氏は中国北京出身。地元の美術学校を卒業してから世界で活躍するアートディレクターの肩書を持っているらしい。
西来院は写真撮影が大丈夫なので、参拝客は寝転んで天井画をカメラに収めたりして、リラックスムード。しかし、天井ばかり見ていると、首が…ってなことになるので、限をつけて方丈へ移動。方丈にはいろんな芸術作品が展示されていて観賞。「涅槃図」「双龍図」他現代アート的な作品を見、「なるほど~」と、自分自身よくわかっていないが、わかっていないことも芸術と捉え、少しインテリジェンスな自分に酔う(なんてね…)のでありました~
にしんそば - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:36:58
昼飯タイムなので、建仁寺北門からすぐのそば屋さんへ入店。店先の看板に、レモンそばに興味を惹かれたのだが、メニューを見ると、にしんそばもあり、今日は寒いので、“レモン”じゃないな…と、にしんそばを注文。
祇園近くで食べたにしんそばと同様に、にしんの身が柔らかく、にしんの上に星形の大根が乗っていてオシャレ。感想は「旨い」のは当然で、あっという間におツユまで飲み干し、“レモン”はまた次の機会にということで、ごちそうさま~
北白川天神宮 - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:37:56
東山安居バス停から北へ、市バスを乗り継いで銀閣寺道バス停へ。以前訪れた銀閣寺近くの八神社さんと連絡が取れ、約束の時間に待ち合わせ。時間前に境内で参拝し、社務所で御朱印を拝受。アメちゃんも頂き、感謝を伝え、前の旅もこの後、北白川天神宮に寄ったのだが、宮司さんとは会えず、前々から出会えない噂もあり、御朱印はいただけなかったのだが、試しに連絡してみると、大丈夫とのことで、「うそ…」と何だかキツネにつままれたよう。
お約束の時間前に境内にたどり着き、相変わらずの広い境内を散策しお参り。社務所で宮司さんとお会いし、御朱印をお願いする。
待っている間、何気なしに鳥居に掲げられている扁額を見て、「天神宮」の「天」の字が違う。写真の通り「い」の作りが入っていて、宮司さんにそのことを聞いてみると、
「寛文13年(1673)に後陽成天皇を父に持つ照高院道晃法親王が鳥居を建てた」ということで、「昔は、あ~いう書き方もあったのではないかなぁ~」と、本当のところは分かっていないようで、何か意味があるのだろうか…
最初に建てる柱を「いの一番」ともいうが、御祭神の少彦名命は医療や医薬に御利益があるから「医=い」にしたのか…「い」ではなく「平」と考えたら、平和な世の中を望む願いが込められているのか…「夭」という字を間違えないためにしたのか…(これはない)と、妄想がとまらん。
この謎は、私の一生のどこかできっと、シナプスがつながることを願いつつ、宮司さんにお礼を述べるのでありました~
地蔵院(椿寺) - モリゾーのひとり言
2025/05/22 (Thu) 09:39:02
銀閣寺道バス停に戻り、205系統で西へ。北野白梅町バス停まで移動し、南へ下り一条通り(だったかな…)を東へと入ると、椿で有名な地蔵院がある。3月中旬から4月上旬ぐらいに、境内の椿が散るのだが、普通の椿は花ごとポトンと落ちるのに対し、当寺の椿は花びら一枚一枚落ちる珍しい椿。それを過去に見たことがあったが、今回、当寺の寺宝が拝観できるということで、2回目の訪れとなる。
山門を潜り、拝観受付で支払い、境内に失礼すると、本堂の前の「散椿」が立派に植えられていて、2月上旬ではまだ花どころかつぼみさえない状態。花が咲くのもまだまだ先と行った感じで、本堂に上がらせてもらう。
本堂内では学生ボランティアによる説明が行われていて、しばらく聞き耳を立て、初々しいというか、たどたどしいというか、ほぼ暗記したことを話している程度で、私を含め参拝客は温かく見守って拝聴している。
内陣に安置されている本尊、五劫思惟阿弥陀如来坐像は、アフロヘア―の阿弥陀さま。奈良県の五劫院や京都の金戒光明寺などで拝観したことがあるが、こちらの阿弥陀さまは顔の表情が少し微笑んでいるように見える。如来になる前の修行中の阿弥陀さまは、まだ“煩悩”があるのだろうかと、その微笑んでいる“思惟”に面白いことを想像しているに違いない。
そして、珍しい特徴は顔がふっくらとしていて、あのアフロヘア―(螺髪という)が肩にかかり、背中まであるというから、相当考え込んでいるということか…しばらく、じ~っと見ていると、ライオネル・リッチーか!(古い…)はたまた、若い頃のコロッケか!と、ツッコミを入れてみたくなるほど、あの“微笑”は、私の妄想を引き出す力があると、“微笑返し”で手を合わせる。
地蔵院は神亀3年(726)、聖武天皇の勅願により行基菩薩が摂津国、昆陽池の畔に創建したと伝わる古刹。その後、京都の地に移されるが、(省略)焼失を経て、室町幕府将軍の足利義満によって地蔵菩薩を安置。秀吉の時代では、秀吉の区画整理によって現在の地に移ったとされる。
境内にある「散椿」は、北野天満宮で行われた「北野大茶会」が縁で、秀吉から寄贈された椿。一本の木に色とりどりの花が咲くことから「五色八重散椿」ともいう。
そんな「椿寺」とも呼ばれている寺宝は、“アフロの阿弥陀さま”の他に、本堂横の観音堂に安置されている十一面観音も、慈覚大師円仁による一木造りの作で、両脇には雨宝童子(左)と春日龍神(右)が祀られていて拝観。
外に出て、地蔵堂にもお参り。田畑の水を独り占めしようとした農民の一人が、鍬で頬に傷をつけた老翁、すなわち地蔵菩薩であったことを知ってから、心を改めたとする話が残る地蔵菩薩立像…実際に、頬に傷があったらしいが、修復工事でその傷はきれいにされたんだとか。
そして境内には、赤穂浪士を影で支えた大坂商人の天野屋利兵衛のお墓もあり、お参り。数々の寺宝を拝観し、当寺の歴史を知ることができて満足×2。庫裏で御朱印数種を拝受し、京都の旅はここまで~
写真は地蔵堂