寺社仏閣 ご朱印の旅

103794
ブログが面倒くさいので、掲示板で紹介していま~す。よろしくお願いいたします。
(広告、宣伝などの書き込みはご遠慮願います。)

また21、滋賀の旅 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:50:10

5月下旬に大阪万博に行ってきました。予想はしていたものの、かなりのすごい人人人に圧倒されないように気合を入れ、まずは人気のアメリカ館を目指す。早朝、東ゲートに7:30に到着したのだが、もうすでに100人以上は並んでいて、9:08にゲートを通過したにもかかわらず、アメリカ館はすでに行列…「こんだけ朝早く来たのに…」
この日は諦めて、お隣のフランス館へ入りましたが…。2日目。リベンジということで、今度は朝6:30に来ると、私の前に50人ほど並んでいて、結局、一番にアメリカ館に入れましたが、“並ばない万博”のテーマはどこへ行ってしまったのか…
…てなことで、体験してしまえば楽しいもので、通期パスも購入してしまい、今年は大阪通いが続くこと間違いなしで、御朱印の旅はお預けかも。
…で、4月上旬に訪れた滋賀県の大津市の旅を紹介~

膳所城跡 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:51:28

名古屋から大垣、米原、石山と、JR東海道線を乗り継いで、京阪電車に乗り換えて、膳所駅に到着したのはお昼過ぎ。駅から東へ下る道の途中には、膳所神社があり、かつて御朱印を頂いたこともあり、懐かしい。鳥居前の桜が見頃を迎えていて、広い境内を進みお参り。
立ち寄った後、再び東へと下ると、交差点の先、信号待ちをしている間に遠くに見える城跡門が威風堂々と構えていて、その奥の桜が鮮やかに城跡を染めている。
ここは大津市の東に位置する琵琶湖に突き出た土地に、かつて徳川家康の命で藤堂高虎が築いた膳所城があった場所。「琵琶湖の浮城」と呼ばれた水城で、東海道の抑えとして江戸幕府が諸大名に号令し築かせた第一号である。それも明治に入れば、廃城として扱われ、その後は城跡公園として今に至っているが、桜の名所であることをつゆ知らず、今回、訪れた次第。
城門から失礼し、すでに人の賑わいに、春の陽気が漂う空間が広がり、桜も見頃。写生している人もいれば、お弁当を広げている人、犬の散歩、カメラを構える人等々、そんな中で、ゆっくりと私は散策し、湖の畔は整備された湖岸となっていて、風が心地イイ。
なんせ、ここの良い所は、ブルーシートを敷いてどんちゃん騒ぎをしている輩はおらず、花見を純粋に楽しむ人々で、やはり、花見はこうでなくっちゃいけない。
今年初めての花見を滋賀県で迎えるとは…十分に楽しむのでありました~

和田神社 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:52:52

膳所神社まで戻り、北へまっすぐ歩く。高校の校舎がある脇道を進み、膳所の町並みを拝見しながら和田神社に到着。
かつて、膳所城を中心に栄えた城下町は、本多氏6万石の支配からなる古い町家が並び、大津へと繋がる東海道の旧道は旅人が通り、賑わいを見せていたことから比べると、今は静かな佇まい。
鳥居からの境内は、西を背に本殿が建っていて、屋根が手裏剣のような形をした、現代的な収蔵庫、大きなイチョウの木が印象的な御神木?があり、さっそく拝殿でお参り。
和田神社は白鳳4年(675)に創祀されたと伝えられ、持統天皇の御代、朱鳥元年(686)頃には元天皇社、あるいは八大龍王社と呼ばれ、承和2年(835)には正霊天王社とも称されたという。明治に入り、この地が和田浜や和田岬と呼ばれていたことから和田神社と改称され、御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)、つまり海津見(わだつみ)神で、境内には稲荷社や天満宮、山神社も祀られている。
中でも、大イチョウの木の言い伝えがあり、天下分け目の関ヶ原の戦いの頃、敗戦となった石田三成が伊吹山中で捕縛され京都に護送中、小休止した際に繋がれていたのが、このイチョウの木であったとのこと。イチョウは大津市の天然記念物として指定され、今では樹齢約600年というから、室町時代ぐらいに植えられたのだろう、かつては湖上を行く船の目印にもなっていたというから、江戸時代ぐらいにはかなり成長していたことが想像できる。
そんな大イチョウは、今は枯れ枝となっていて、これから夏にかけて葉が芽吹くのだろう、神社を守るかのようにシンボリックに佇み、何とはなしに見上げる。
社務所で御朱印を授かり、次に向かう石坐神社の行き方を教えてもらい、お礼を述べ後にする。

石坐神社 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:53:54

和田神社から北西方向へ歩いていくと、途中、ちょっとした公園に咲く桜を愛でる地元の人たちがいて、私もカメラに収める。その公園から西へ向かうと石坐神社があり、初め、「石坐」を「いしざ?」「いしくら?」と、読み方が分からなかったが、「いわい」と読むことを知ったのは和田神社さんのおかげで、こちらの神社も八大龍王神が祀られている。
八大龍王神は主に淡海、つまり琵琶湖のことだが、琵琶湖に坐します神様で、琵琶湖周辺には「淡海龍王神」を祀る神社が多々ある。当社もその1つで、昔は八大龍王宮とも、粟津八宮とも称され、また、さらに遡ること、天智天皇が湖中より、龍の飛来を見、膳所の御霊殿山の磐座に小祠を建て、石坐大神を祀ったこと、これら2つが創始の事の起こりで、正霊天王宮(東殿)と八大龍王宮(西殿)の両殿が朱鳥元年(686)に創建されたという。
境内は広く、境内社がいろいろ祀られていて、まずは拝殿でお参り。ぐるりと本殿を一周すると、特に七福神を祀る社が点在していて、大国主や事代主、毘沙門天、寿老人など祀られていて、七福神すべてお参りできるようになっている。
桃の花が咲く中で、御霊殿山への遥拝所が南東の方角に祀られていて、こちらもお参り。モミジの艶やかな新緑、桜も添え、社務所で御朱印を拝受し、お礼申し上げるのでありました~

琵琶湖疎水 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:55:00

京阪三井寺駅まで歩き、電車で北上。三井寺駅で降りる乗客は、私を含め、ほとんどが花見目的である。三井寺に向かう道中には、琵琶湖疎水があり、春の季節は桜の名所となっている。
琵琶湖疎水は、いわゆる、京都への“水ライフライン”で、TVの“ケンミンショー”でも京都が潤っているのは滋賀のおかげ!?というジョークで、京都VS滋賀のバトルが取り上げられていたが、そんな疎水運河を造ったのは明治時代。皇室が東京へ遷都して以来、京都の人口や産業は衰退を辿る道に陥り、当時の第3代京都府知事が、京都と大津を結ぶ運河を造ろうと計画を立てたのが始まり。まぁ~、そのトンネルを掘削する工事は、難攻を極めたことは想像の域だが、しかしまぁ~、繋がった時には、計り知れないほどの驚嘆であったことだろう、その努力はスゴイ!と言わざるを得ない。
今では桜を囲む素晴らしい景観が見て取れ、河には小舟が2艘浮かび、桜景色に添えている。橋の上では大勢の観光客は順番にスマホで撮影していて、入れ違いに、そこは暗黙のルールで、協力的に“景観”を分け合っている。
桜を愛で、そのまま疎水沿いの坂道を上がり、三井寺観音堂へ移動。

三井寺観音堂 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:56:07

三井寺は久しぶりの訪れ。紅葉の時期に訪れたことがあるが、とにかく境内が広いという印象が強い。境内は自分の感覚では、南エリアと北エリアに分かれていて、まずは観音堂がある南エリアから。
拝観受付を済ませ、入口すぐの水観寺でお参り。本堂は開け放たれた状態で、本尊の薬師如来立像や脇侍の日光月光菩薩、十二神将などをじっくりと拝観し、新たに御朱印が追加されている弁財天、大黒天、毘沙門天を授与所で拝受し、観音堂に向かう長い石段を上がっていく。
上りながら振り返ると、徐々に琵琶湖と大津市内の風景が見えてきて、桜も見頃を迎えた中で、コラボ写真を撮る。観音堂が建つ敷地に到着すると、参拝客がそこそこいて、映えスポットである“能舞台床”には行列ができている。磨き上げられた床に、桜が反射して映る風景が人気で、よるにはライトアップされ、HPにも載っているが、京都岩倉実相院の“床モミジ”を真似ているのか…と、ちょっと思ってしまう。
観音堂内に失礼し、お参り。お線香の煙や匂いが立ち込める…久しぶりのお寺~と言った感じの光景に、少し懐かしさを感じ、人それぞれにお参りをする姿、お守りを買う人等々、この空間がお正月のようでイイ。
観音堂は延久4年(1072)に、後三条天皇の病気平癒を祈願して創建され、本尊の如意輪観音座像は33年ごとに開帳される秘仏。なので、見ることはたぶん、叶わないが、写真パネルがあり、中々の威厳を保っているそのお姿をみては、もう一度手を合わせる。
お参り後、展望台へと上がり、観音堂のある境内、琵琶湖などを見降ろせる風景が広がり、しばらく明媚な景色を楽しむのでありました~

微妙寺 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:57:23

観音堂から北へ、案内看板通り、坂道を下り、ポツンと1つの立派なお堂が建っていて、堂前には手水鉢に綺麗な花を浮かべ、“映え”を求め、人だかりができている。
ここは、三井寺の別所として存在する微妙寺。別所とは、平安期以降、広く衆生を救済するために本境内の周辺に設けられた別院のことで、他に、先ほど訪れた水観寺や近松寺、尾蔵寺、常在寺があり、総称して「三井寺五別所」と言われている。
微妙寺は慶祚阿遮梨によって、正暦5年(994)に開基されたと伝わり、元々は長等公園の南の山上にあったが、昭和54年(1979)に現在地に移築され、今に至っている。
本尊は十一面観音像であるが、堂内に失礼し、目の前に立つと、何とも可愛らしいというか、仏像というよりかは“人形”である。いや…人形ではない…何とも説明が難しいのだが、アニメでいう等身大の姿からデフォルメして小さくなったキャラクターのような…
そんでも、そのお姿は異彩を放ち、人々を救って下さる菩薩さまであると、その存在感自体が紛れもなく、どこか違う。
そんな十一面観音さまに手を合わせ、授与所で御朱印を拝受。以前、こちらで祀られていた“尊星王”は金堂へ移動されたということで、お礼を述べ、三井寺金堂へ。

三井寺金堂 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 16:58:56

金堂へ向かう道幅の広い参道を歩くと、脇に咲く桜が見頃を迎えていて、すばらしい。多くの参拝客が桜並木に立ち止まり、写真を撮ったり愛でたりして楽しんでいる。
正面に見えてきた金堂は、立派な佇まいを醸し、現在の金堂は秀吉の正室、北政所によって再建されたもので、“三井寺ここにあり”と言わんばかりに、その威容さが伝わってくる。
三井寺の正式名称は「長等山園城寺(おんじょうじ)」。1200年以上の歴史の中で、源平争乱や南北朝、戦国時代と、焼き討ちに遭う…まさに災難続きのお寺というイメージが強い。幾多の苦難を乗り越えてきたことから、「不死鳥の寺」とも呼ばれていて、天台宗として中興した知証大師への信仰心に支えられた人々によって、維持されてきた歴史ある寺である。
金堂内に失礼すると、階段には季節の花が色鮮やかに添えられていて、目の保養になり、本尊の弥勒菩薩にお参り。
内部は外陣、中陣、内陣と分かれていて、内陣の両側に脇陣を設け、内陣以外の床は板敷とするのに対し、内陣は土間のままで、この形式は、天台宗の本堂に見られ、比叡山延暦寺の根本中堂と同じだと、延暦寺に訪れた時の、“不滅の法灯”を見たことを思い出す。
格子で仕切られた内陣を、隙間から覗き込み、仏像群のお姿を拝むが、中は暗くよく見えない。そんでも、手を合わせ、ご加護をいただき、納経所で御朱印を拝受。微妙寺から移動した尊星王も御朱印として拝受し、いつのまにか、御朱印の種類が増えている三井寺を訪れ、満足×2。

三井寺鐘楼 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:00:16

金堂の周りには「あかいの井戸」や「弁慶の引きずり鐘」などの伝説的スポットもあり、ここでは割愛。鐘楼も御朱印がいただけるという情報により、立ち寄ってみると、鐘楼の横に、案内するお堂なんてあったっけ?と、以前来た時は、鐘楼しかなかったような気がしたが…。
鐘は、「三井の晩鐘」と云われ、「弁慶の引きずり鐘」の後継として、豊臣家による当寺復興事業として鋳造されたもので、鐘の上部には108の“乳”といわれる突起物があり、江戸時代に流行する“108の煩悩”にちなみ、“108乳を持つ鐘”の、最古の作例となっている。
そんな鐘を1突きすると御朱印を授かる仕組みになっていて、鐘楼の柵を開け、鐘を突く…
「ごぉぉぉぉーん」
鐘の下でその響きを体感し、穢れが払われていく…
久しぶりの鐘突きに、心に沁みるというか残響がここまでスゴイとは…感動で、鐘突きもイイものだな…と、一瞬、「安珍伝・清姫伝説」を思い出し、鐘が落ちてきて閉じ込められたらどうしよう…と、妄想してはお堂へと戻り、御朱印を拝受。
寺に響く鐘の音は私だけでなく、人々の心を洗う…そんなご利益もあるのだろうかと、余韻に浸るのでありました~

三井寺釈迦堂 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:01:25

時刻は15:30。最後は釈迦堂へと足を運ぶ。石段を下り、仁王門の脇に建つ釈迦堂も異彩を放っている。
御朱印の最終時刻が迫っていたので、なるべく急いで堂内に上がり、お参り。
釈迦堂は室町時代に建立されたと伝わり、「園城寺境内古地図」には、食堂(じきどう)が描かれており、この堂も移築されたものとされる。
本尊は清凉寺式の釈迦如来像。衣のシワの線がストレートに足の裾まで延びているのが特徴で、この類の仏像を見ると、毎回、ジュディ・オングの「魅せられて」の衣装を想像してしまう。「ジュディ・オング=釈迦如来」なのかと…
そんな妄想を浮かべては、じっくりと拝観し、納経所で御朱印を拝受。この頃にはもうすでに、堂内の板戸を閉める作業に入っており、遅い時間になってしまったが、何とか拝受し、お寺の方にも感謝×2。
仁王門を潜り、三井寺を後にするのでした~

写真は釈迦堂すぐ近くの仁王門

立木観音 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:02:35

翌朝、JR石山駅に降り立ち、バスターミナルから大石中学校行きのバスに乗車し、立木観音前バス停で下車。以前、ここから南にある佐久奈度神社を訪れた時、このバス路線の車窓から気になっていたお寺。あれから10年以上経っているが、未だに忘れもせず、いつかは…と、憶えていて、今回、訪れた次第。
バス停から屹立した山が聳える麓には、荷物を運ぶためのケーブルのレールが備えていて、かなり頂上まで距離があることを認識しつつ、上へと続く石段を見上げては、朝一発目からハードな?登り運動を開始。
参道石段は、歩きやすいように整備されていて、観音霊場のように石仏が脇に祀られていて、休憩がてらお参りをして、また登る…考えられた道程となっている。
とにかく、木々が生い茂る森の中を上がるので、周りの景色は拝めず、ひたすらこの状態が続く。途中、日頃から鍛えているであろう地元のスポーツマンとすれ違い、挨拶をし、軽快に駆け下っていく姿を見ると、うらやましい(これが若さというやつか…)と思いつつ登る。
ようやくたどり着いた境内。本堂ならびに回廊、庫裏等々、きちんと整った雰囲気の中、お参り。
「奥之院」への案内看板もあるので、そこから再び5分ほど石段を上がり、ここでもお参り。
ようやく、ホッとできるような眺めが見渡せるかと思いきや、今日は曇り空なので、全体的に陸地も白く見え、本来なら瀬田川や南に広がる海原も見えるはずなのだが…とりあえず休憩。
立木観音は弘法大師が42歳の厄年の時、瀬田川の急流で渡れずにいた折、白い牡鹿が現れ、大師を乗せて川を飛び越え、山に光を放つ霊木の前まで導き、それが観音さまの導きだと悟った大師は、立木のまま霊木に観音菩薩を彫り、弘仁6年(815)に堂宇を建立したという縁起がある。
牡鹿はいったい何者なのだろうか…この手の話は、老翁が現れたとか、光を放つとか、良くある話だが、この鹿は春日大社の使いの者なのか?とか、そもそもシカに乗れるのか?とか立木のまま彫ったということは、地面と繋がっているのか?とか…妄想がとまらん。
まぁ~何にせよ、こんな屹立した山にお堂を作ろうとする“弘法大師あるある”の不変に触れ、納経所で御朱印を拝受。
本堂の垂れ幕には本多家の家紋が描かれていて、かつて庇護していたであろう想像はつき、再び800段ぐらいある石段を下る。

写真は奥之院

石山寺 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:04:09

立木観音前バス停から石山駅行きに乗り、石山寺山門前バス停で下車。こちらも三井寺同様に、10年ぶりぐらいの訪れ。昨年のNHKの大河ドラマでは“紫式部フィーバー”で、石山寺ではゆかりの寺ということもあって、盛り上がったことだろう。
駐車場、そして東大門から横に続く塀の垣根から見頃の桜が顔を出し、境内に花を添えていて、さっそく門から先、石畳が続く参道を歩く。
参道にはほとんど、モミジの木々が植えられているので、今は青モミジになりかけの葉であるが、真っ赤に彩られたモミジの時に訪れた、当時のことを憶えていて、それぞれの塔頭寺院の山門から覗いては、モミジを愛でた記憶がよみがえる。
志納所に到着し、拝観料を支払い、しばらく歩いた右手側の石段を上がり、メインの境内へ。敷地には観音堂、蓮如堂、毘沙門堂、御影堂が建ち、それぞれにお参りして、正面の「硅灰石(けいかいせき)」を望む。
硅灰石は、石灰岩に花崗岩が接触した際に生じる熱作用によって変成した岩で、「石山寺」の寺名の由来となっていて、奥に見える多宝塔がより、景観を良くしてくれている印象。イメージとして「滝」が流れていればなお、風情を感じられるのになぁ~と、カメラに収め、左手の石段を上がる。
本堂への石段途中からは、斜面に建てられているのが分かる、いくつもの柱で支えられた、清水寺方式?が見て取れ、本堂脇に到着すると、いきなりの紫式部人形がお出迎え。「源氏物語」の着想をここで得たという云い伝えを表し、紫式部の奥には1人の侍女?付き人?が従えている。
堂内に入り、まずはお参り。外陣、内陣で隔てられた堂内では、内陣に安置されている本尊の如意輪観音半跏像にお参りできるのだが、その拝観券は支払ってないので、外陣からの“格子覗き”をし、肝心な本尊は秘仏なので、立っている観音さまはお前立である。33年に一度の開扉なので、拝めるかどうか…お前立の背後にある厨子に納められているのだろう…その厨子も立派で、「宮殿」という名称らしく、その名に相応しい造りとなっている。
ちなみに、このお前立の観音さまは、かつては、あの淀殿が寄進されたお前立で、現在は別のものだそうで、まぁ~何せよ、ここに訪れたことだけでも感謝を伝える。
本堂でのお参り後、多宝塔から月見亭へと移動し、桜が見頃を迎えていて、月見亭では「石山寺縁起絵巻」にも、湖面に映る月を眺める紫式部が描かれているが、ここからの風景を眺めたのだろうと、しばらく、瀬田川や大津市の景観を俯瞰する。
境内を散策し、豊浄殿では「石山寺と紫式部展」が催されているが、ここも支払ってないのでパスし、桜を愛でるだけにして、久しぶりの石山寺…境内の雰囲気を堪能するのでした~

写真は月見亭付近からの瀬田川

平野神社 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:05:31

石山駅に戻り、京阪電車で石場駅へ移動。駅から南へ5分ほどにある平野神社に到着すると、町の中の地元の神社~という雰囲気の中、境内には車が数台駐車されていて、月極駐車場として利用しているのだろうかと、その境内兼駐車場に舞殿が配され、さらにその敷地から一段高い石段上に本殿やお稲荷さんの境内社が祀られているのが見える。
桜も数本植えられていて、満開の季節で華やぐ境内の中、拝殿でお参り。
平野神社は由緒によると、平野大明神(仁徳天皇)と精大明神(猿田彦)の御祭神が祀られていて、天智天皇が近江大神宮に遷都された際に、都の守護神として668年(和暦ではまだ元号が定められていない)に鎮座されたと伝えられている。精大明神は元々、現在の本宮2丁目に祀られていた頃、応仁の乱で社殿等を焼失し、天正元年(1573)に平野大明神を祀る現在地に遷座され、今に至っている。
この精大明神が蹴鞠の神様として有名のようで、例年8月の申の日、申の刻に「蹴鞠祭り」が催されていて、滋賀県ではここ、平野神社が唯一とされている。“けまり”といえば、奈良県の談山神社や京都の白峰神社を思い出すが、その蹴鞠をしている姿は一度も見たことがないので、いつかはどこかで見てみたいと思っている。
境内には至る所に、蹴鞠のモチーフが散りばめられていて、提灯や床板、垂れ幕などに見ることができ、幕末から「蹴鞠之神社」と呼ばれるほどだったらしいので、滋賀県では有名だったにちがいない。リフティングはあまり得意ではないが、平安絵巻を彷彿とさせるような“妙技”が境内のステージで披露される祭りをイメージし、社務所へ。
事前に連絡をさせていただいていたので、スムーズに御朱印を拝受し、大津市の桜の旅はここまで。

目田川桜並木 - モリゾーのひとり言

2025/06/23 (Mon) 17:06:41

JR東海道線を北へ、守山駅へ移動。前から気になっていた守山市内の桜並木を見に行く。駅の観光協会でレンタサイクルを借り、走ること15分ほどで目田川に到着。
目田川はかつて、宿場町として栄えた中山道、守山宿の重要な水路として、歴史と文化に深く関わっている。今でははホタルの鑑賞スポットとして、昔ながらの風情が残る名所として知られている。
そんな目田川の堤防沿いを歩き、満開に咲いた桜を愛でる。そこそこの人の姿もあり、犬の散歩や子供の遊ぶ姿を見、地元の馴染みの桜の名所といった感じを受ける。
それぞれに楽しみ、今日は曇り空であったけど、今日の旅の最後は桜並木で締め、春を満喫するのでありました~

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
文字色
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.