寺社仏閣 ご朱印の旅

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ブログが面倒くさいので、掲示板で紹介していま~す。よろしくお願いいたします。
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また6、長野の旅(2) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:36:01

大阪万博も残り1カ月を切り、あっという間の会期。私の中では、未だ見れていないパビリオンが2つほどあり、人気の「住友館」と「大阪ヘルスケア」のパビリオン、しかも予約必須なので、10月に行く予定だが、果たして入れるだろうか…
そこそこの体験をして、満足の万博だが、ちょっと不満も残る(ウェブ上でのシステムや運営側の対応)万博で、振り回された感も否めない。まぁ~、万博とは別で大阪を訪れた機会に、あちこちの神社も訪れていたので、お礼参りではないが、久しぶりの大阪も堪能でき、またこれからの秋の紅葉シーズン、どこへ行こうかと迷う今日この頃。
…ということで、もう秋なのに、春の長野の旅を引き続き紹介~

安養寺 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:37:38

3日目は松本市内を散策。松本市は第2の故郷みたいな街。というのも、若い頃、1年ほど住み暮らした街で、それなりに土地勘があるが、当時は寺社をめぐることなど興味もなかった年頃だったので、改めて今、訪れた次第。
駅前の様子は大分変わってしまったが、放射状に延びる道路はそのまま変わらず、懐かしさを憶える。駅前のホテルで一泊し、早朝、松本電鉄に乗って三溝駅へ移動。三溝駅に到着し、時刻は朝7:10。無人の駅から北西方向に目を向けると、しだれ桜がすごいことに。
すでに駐車場には数台の車が止まっていて、アマカメが撮影に来ているのだろう、さっそく向かう。境内全体を覆うほどの桜が、しかもどの桜も大木なので、ボリュームが桁違い。
「松本市 桜」で検索し、当寺を知った次第だが、ネットの写真を見るよりも実際に見るとは違うとはまさにこのことで、こんなにすごいとは驚。
山門から失礼し、境内を散策。樹齢500年ぐらいの大木が2本あるという情報だが、どれも大きいので分からない。とにかく、どれだけのしだれ桜なんだ!というぐらいに、高い位置から枝が垂れ下がっていて圧巻。道なりに進むと、本堂が現れ、堂内に入りお参り。
安養寺は昔、梓寺と呼ばれ、安曇の大野川地区に真言の精舎として存在していたらしい。それがいつしか親鸞上人が信濃国の巡行の際に、この寺に泊まり、弟子の西念坊道裕に伝え、教化し、松本盆地における有名な浄土真宗の道場として広がりを見せたそうな。それ以降、宝暦3年(755)に現在地に移転し、現在に至るとなっていて、本堂は昭和の火災により再建されたものであるとのこと。
そして、境内にあるしだれ桜は樹齢からして室町時代から植えられたので、それ以降、ず~っと桜の名所として有名だったのかもしれない。
駐車場側に廻ると、池なのか大きな水たまりがあり、その水面に映えるしだれ桜、遠くの南アルプスの山並の背景としだれ桜、ちょっとしたスイセンの花としだれ桜…と、見頃のこの時期に訪れて良かった~と、限をつけ次へ。

岩崎神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:49:06

松本電鉄、三溝駅から新村駅へ移動。大学生が途中下車していくワンマン電車は、都会の朝のラッシュ時とはいえない、長閑な雰囲気のまま、駅から北へ20分ほど歩いていく。
今日は風が強く、建物のない田畑が広がる中を歩くので、風がもろに行き手を阻み、かなり肌寒い。そんな中で東に目を向ければ、グランドでサッカーの練習をしている高校生?が元気に動き回っていて、それを見て、こちらも気合が入り、ようやく岩崎神社に到着。
ネットによると、岩崎神社は仁寿3年(853)に諏訪大社の御祭神を勧請したと伝えられ、伝説によると、梓川村岩国の火打岩明神の鎮座する岩頭が、岩崎明神が鎮座する岩頭と地底で1つになり、本殿下には「岩の崎」があるとのこと。それが社名の由来となっているそうで、「川狩り神事」と呼ばれる川魚を採って神に捧げる例祭があるらしい。
地図を見ると、確かに北側の梓川を挟んで西に2kmほど離れた所に岩岡神社があり、火打岩が鎮座してある。明治期の川の氾濫や洪水によって土砂が流れ出し、いまでは土に埋まった状態だが、かつては、10数mの高さの火打岩がむき出しになっていたので、相当背の高い大岩であったことが想像できる。
川狩り神事は、御祭神の建御名方神に捧げる神事で、諏訪の御頭祭と同じように神輿渡御を行い、川魚を供えるといった感じだろうか、こちらも想像がつく。
そんな建御名方神を祀る岩崎神社鳥居から桜を愛でながら失礼し、境内はそこそこに広い。西を背に建つ拝殿でお参りし、拝所にはいろんな種類の書置きの御朱印があり、月替わりや版画など、最近は芸術作品として捉える見方もあり、神社経営も大変だぁ~とつくづく思ってしまう。社務所は閉まっているので、書置きの御朱印を拝受し、ぐるりと社殿を一周し、そういえば、4本の御柱がないことに気づき、“本家”にしかないのだろうか?と、境内の雰囲気を味わいつつ建御名方神に問いかけるのでありました~

沙田神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:50:16

新村駅まで戻り、次は大庭駅へ移動。駅から南へ20分ほど歩いた所にある沙田神社に到着。事前に神社関係者の方と連絡を取り、10:00に待ち合わせをしていたのだが、予定より1時間も早く到着してしまい、とりあえず境内に失礼し、拝殿でお参り。
境内はかなり広い敷地を有していて、正式参拝をするための参道は東側にあり、私が潜った鳥居は西側から入ったことになるので、改めて東鳥居からの“入社”をする。
参道はかなり立派な石灯籠や木々が並び、さすが信濃国三ノ宮の位だけはあると、歩を進める度に清々しい。朱色の屋根付き鳥居を潜り、正面には舞殿、拝殿、本殿と並び、4角には御柱が建っていて、御祭神が建御名方神だということが分かる。
沙田(いさごた)神社はネットによると、古くは筑摩郡鷺沢嶽(現・松本市波田鷺沢)に鎮座していて、大化5年(649)、信濃国司が勅命を奉じ、初めて勧請されたとのこと。その後、坂上田村麻呂が有明山の妖賊討伐に当たっての本社の神力が効したとして、国司と共に社殿を造営したと伝わる。その鷺沢の旧跡地には奥社が建っていて、“三ノ宮”→“産ノ宮”ということで、安産の御利益があるそうな。また、現・当社の地は、梓川の水を引き入れた古代条理的遺構の上にあって、土器や石器が見つかっているというから、昔からここで生活の営みがあったことが窺える。
そんな神位の高い当社を散策。拝殿の唐破風屋根の下には、桧と鷹?トンビ?の鳥の彫刻が施されていて、しばらく見入り、本殿左手から宝剣を模った石造、本殿裏手には「物臭太郎の碑」がある。物臭太郎の碑には説明看板があり、「御伽草子」の話で出てくる物臭太郎ゆかりの地がこの周辺(「あたらしの郷」というらしい)であるとのこと。
地図を見ると、ここから西へ約3kmの所、松本大学の南側に位置している。物臭太郎の物語は簡単にいえば、毎日ゴロゴロ過ごすような太郎が京に出て、勤勉に励み、いつしか嫁を娶り、立身出世したという、怠け者でも真面目に働きさえすれば成功するよ…という教訓を推している。
「へぇ~」と、松本にそんな場所があったとは、この神社を訪れるまで知らなかった…と知識を得る。
そして、本殿右手には昔あったとされる「御手洗の池」、境内社、招魂碑など、境内にはあちこちに大木といえる木々が生えていて、敷地の隣には幼稚園?もあり、園児の元気な声が聞こえていて、そんな中で時間を潰していると、社務所に人が入っていく姿を見かけたので、訪問。
氏子さんにご挨拶し、早く訪れてしまった事情を説明し、御朱印を拝受。お話をしていると、どうも、先ほど訪れた岩崎神社が当社を兼務しているそうで、「え~」と驚き、「そうなんですか…」と。最近は兼務している神社が多く、7、8社と抱えている宮司さんは、正月の神事は掛け持ちで移動し、大変な思いをしているドキュメンタリーを見たことがあるが、そんだけ神社も後継者不足や経営難で衰えていく世の中なのだろうと。
当地の祭りや諏訪に纏わる情報をいろいろと教えていただき、感謝×2で、この場を借りてその節はありがとうございました~

兎川霊瑞寺 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:51:19

松本駅に戻り、駅近くのマクドで昼食後、駅前バス停から里山辺方面のバスに乗って20分ほど、里山辺出張所前バス停で下車し、すぐの兎川寺へ。この地域は、松本駅から東に4kmほど離れた里山辺という場所。駐車場付近の桜が見頃を迎える中、さっそく境内に失礼すると、境内にあるしだれ桜はもう枝だけになっていて、早咲きであることを知り、ちょっと残念。まずは松本城主であった石川数正夫妻のお墓があるので手を合わせる。
家康の家臣であった数正は、秀吉に寝返るという裏切りが今までの定説のようだが、どうやら家康が差し向けたスパイであるとする説もあるようで、NHK大河ドラマ「どうする家康」では“良い人”で描かれていた。そんな数正は、冷静で頭脳明晰の持ち主であった?というから、戦国の世を渡り歩くことができたのだろう。
本堂でお参り。堂内に入ることは叶わず、何にしても本尊は秘仏、千手千眼観世音菩薩なので、お目に掛けることはできない。ちなみに、お前立に千手観音、脇侍に毘沙門天と不動明王が安置され、パンフレットでそのお姿を見る。内陣にも「天女の欄間」が描かれているらしく、荘厳な雰囲気を醸し出しているのを想像する。
当寺の縁起を見ると、聖徳太子によって創建されたと伝わり、中世において、天台宗、真言宗を合わせた24坊なる大伽藍であったとのこと。鎌倉時代末期になると、北条氏の反逆に対し、全国の天台僧徒が比叡山に集まり、当寺の天台僧徒もこれに従い、この出来事により、一人も帰ることなく、天台12坊は廃墟と化し、以来、真言宗のみで法灯を守ることになったという。
さらに、戦国時代に入ると、武田信玄が小笠原長時公の居城、林城(南東へ2kmほどの所)を攻め、小笠原氏の祈願所となっていた当寺が暴徒によって仏像などの寺宝が持ち去られるひどい憂き目に遭うなど、荒廃、復興の繰り返しをしてきたと。そんな試練を乗り越え、檀信徒の篤い信仰心によって、保ち続けてきたといっても過言ではないほどの、努力があって、今に至っているのだろうと見る。
そんな歴史ある当寺の御朱印を拝受し、次へ。

伊和神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:52:34

兎川寺から惣社という交差点まで、西へ向かって歩く。交差点近くにある伊和神社に到着すると、鳥居前には、御神木ともいえる大きな枯損された株が2つ、柵に囲われて“鎮座”していて、存在感がある。
境内に失礼すると、ケヤキの木が大小さまざまに生えており、それを眺めながらまずは拝殿でお参り。
伊和神社の創建は明らかではないが、元禄や享保の文書には、「惣社宮六社大明神」と記述があり、安永2年(1772)に本殿が再建され、その時に「伊和大明神」になったとされる。この地域は古くから「惣社(そうざ)」と云われ、いわゆる「総社」、平安時代に国司の巡礼を省くために国府の近くに1ヶ所にまとめた「総社」である。信濃国では奈良時代まで国府は上田市にあり(国分寺は有名)、平安時代になると、松本平に移り、国の中心がここ、惣社であったとされている。
「惣社」から「伊和」に改称された理由は、いろいろ説があるようだが、最初、「伊和」=「岩」「違和感の違和」を連想したが、案内看板には、国府には他に国の印と正倉の鍵を祀る印鑰社(いんやくしゃ)があり、いつしか「印」を「伊」、「鑰」が「輪」に書き間違えられて、後に伊和神社になったとされている。
拝殿の左手には蚕影神社が祀られていて、養蚕が盛んな頃に繭の増産を祈り、地元の農家が建てたと案内看板があり、この地域は“蚕産業”の地産であったことが窺える。そんな昔の暮らしぶりを想像しながら境内を散策し、拝所には御朱印について、宮司さんの電話番号が書いてあるので連絡してみると、自宅は○○市で、住所と言えば書置きの御朱印を送って下さるとのこと。松本市内の筑摩神社(かつてお祈りした神社)も兼務しているということで、当社とお願いし(無事に届きました。ありがとうございます。)、かつては信濃国の中心地であった惣社を訪れ、悠久の地に想いを馳せるのでありました~

岡宮神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:53:25

惣社バス停から桜橋バス停で乗り換え、横田信大線の路線で横田バス停へ移動。いらっしゃるかどうか連絡してみると、神社に到着したらもう一度、電話して下さいとのことなので、バス停から西へ女鳥羽川に架かる橋を渡り、住宅街を歩く。
ここは「北深志」という地域。松本城から北東に位置する城下町で、“北東”という方角といえば「鬼門守護」の役割を担う神社やお寺があるのは当然で、その1つが岡宮神社。御祭神は建御名方神で、江戸時代から歴代城主の崇敬篤く、祭礼や改築などの寄進が多数あったとのこと。
そんな松本城守護の神社の鳥居前に到着し、宮司さんに再び電話連絡。社務所へ案内下さり、御朱印を書いて下さる間、境内を散策。まずは拝殿へと広い境内の参道をまっすぐ歩き、神門?からさらに先の敷地へと入り、拝殿でお参り。
玉垣の中は、左右に熊野神社と正八幡宮を配祀し、景観が整っている。境内にはケヤキの木があちこちに生えていて、いくつも瘤の付いた木々が“バンザイ”しているような枝ぶりで、みんなで悪霊を入ってこないように守っているかのように見える。ちゃっとグロテスク?に見える木々とは逆に、狛犬が何ともお茶目な風体で、かわいらしい。境内社もいろいろ、事代主社、愛染殿、稲荷、龍神、御嶽などなど祀られていて、社地はかなり広く清々しい。
社務所で御朱印を拝受し、宮司さんと少し談笑。松本城が桜の見頃だという情報を得、時間があったら行ってみますと、お礼を述べ、感謝申し上げるのでありました~

大安楽寺(1) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:54:16

岡宮神社から南へ。神社に向かう時からすでに、南に見えていた建物が気になっていたが、自然とその建物に誘われるように到着した大安楽寺というお寺。参道脇にはお墓が並び、正面に仁王門、その奥の境内には本堂の屋根の上に、五重塔の上層部が一段乗っかってる感じで目立っている。仁王門を潜ると、右手には永代供養の五輪塔が地蔵菩薩と聖観音?の石像を従え建っていて、左手には弘法大師の石像がお出迎え。
本堂の唐破風屋根の下の柱などには龍などの彫刻が施され、その芸術作品にしばらく見入る。
岡宮神社同様、松本城の鬼門方角にあたることから、除守護の霊刹として建てられたお寺であるが、当寺の歴史を見ると、元々は一条修理太夫という方が延長2年(914)に安楽寺として建立したのが始まりらしい。永正元年(1504)に松本城築城に際し、七堂伽藍を再建し、元和元年(1617)に現在の地に移され、敵の侵攻に備え、“寺城”としての堅固な造りになり、歴代城主の祈願所として、城下と共に栄えてきたと。
明治に入り、廃仏毀釈を受け、本尊以下の仏像は宝栄寺(岡宮神社西)に難を逃れたものの、全伽藍を焼失、観音堂建立をきっかけに再建復興を遂げ、天正11年(1583)に大安楽寺と改称し、多くの信者に支えられて今日に至るとある。

大安楽寺(2) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:55:17

納経所でピンポンすると、住職さんが見え、本堂内に案内して下さり堂内へ移動。平成21年(2009)に新築された本堂なので、古めかしい内装ではなく、それなりに整った感じの中、再度本尊の大日如来さまにお参り。住職さんが当寺の歴史を話して下さり、堂内に安置されている仏像群も説明。当寺には秘仏の十一面千手観音像があり、住職でさえ扉を開いたことがないのを、昭和24年(1949)に仁王門移築に伴い御開帳されたらしく、それ以来、60年ほど本堂新築落慶法要に合わせ再び御開帳されたと。
まぁ~、しばらくはお目にかかることはないだろうと思いながら、愛染明王や不動明王、平成4年(1992)にネパールから迎えた五如来など、個性ある仏像を拝観。
そして、本堂内左手の床には、大きすぎる草鞋が敷いてあり、「ギネス更新中」とある。住職さん曰く、原形の藁から綱へと束ね、草鞋へと編み込んでいったと。最初の行程から、つまりゼロから始めたというのがすごく、参拝に来られた方には“大草鞋”に乗ってもらいたいという住職さんの願いもあるようだ。昔、信者さんが、仁王さまが裸足で立っているのを見て、かわいそうだと草鞋を編んで奉納したのが由来であるそうで、この大草鞋に乗ることで、1年間、健康・無病息災、厄除けの御利益があると語り伝えられ、多くの方に乗ってもらうよう年々、大きくしていったそうな。これ以上大きくすると、本堂に置けなくなるので、「ここまでかな…」と住職さんは語っていたが、それにしても、“大草鞋”を履けるのは、“でいたらぼっち”ぐらいしか履けないだろうと想像しつつ、御利益と御朱印を授かり、感謝申し上げるのでありました~

深志神社 - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:57:10

横田バス停から市民芸術館前バス停へ移動。あがたの森通りから1本南へ入ると、車の喧騒がなくなり、神社の雰囲気漂う社殿が見えてくる。北参道から入り、拝殿の横にたどり着いたので、正面の西参道からの正式なお参りの仕方ではないが、さっそくお参り。
神楽殿や拝殿が建つ社域は懐かしく、深志神社は2回目の訪れ。松本市では筑摩神社、四柱神社と並び?有名な社である。松本城から見て南東の位置にある当社は、昔、松本城が深志城だった頃の、まだ築城されてもいない以前は、社殿が南面に向いていたらしい。信濃国守護の小笠原真宗公が暦応2年(1339)に諏訪大社より御分霊を受けて、御祭神を建御名方神として創建され、この地の宮村大明神として称えたと。そして、応永9年(1402)に小笠原長基公が京都の北野天満宮より勧請し(省略)、宮村宮と天満宮、両社を重修して、松本南城下町一円の総氏神として祀られ、今日に至っている。
そんな崇敬を集めている当社の境内を散策し、前回訪れた時にお参りをしていなかった南参道付近にある楠公神社や金山神社、愛染神社など多くの摂社を参拝。ちょっとした神苑付近には金色に輝く菅原道真公像が安置され、神社を見守っている。菅公が初めて詩を詠んだ場面を表していて、平成28年(2016)に建立とあるので、まだ新しくピカピカ。ここはパワースポット的な場所なのだろうか、若い娘が写真に収めている。
社務所へ行き、今回は、境内社の富士浅間神社の御朱印を拝受。富士浅間神社は西鳥居付近に鎮座していて、元は、先ほど訪れた里山辺林山の麓にあったらしく、それを天文年間(1532~55)に現在の地に遷宮したと伝わる。この松本の地でも富士山信仰が受け継がれていると思うと、山に囲まれた松本でもやはり、富士山にはあこがれ?の山であるのだろうか…雪が残るあの美しい稜線を思い描くのでありました~

松本城(1) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 10:57:58

深志神社西鳥居から天神通りを抜け、本町通りに出てきつつ、松本市博物館バス停から松本市役所バス停へ移動。時間が余ったので、松本城東堀からぐるりと一周する感じで花見を楽しむ。
松本城はそこそこ来ているが、一番の思い出は、城内で各ブースで競い合う“蕎麦フェスタ”の催しに参加し、食したこと。あれは肌寒い季節の頃で、鼻水を垂らしながら冷たい蕎麦をすすった記憶がよみがえる。
そんな思い出の松本城はどこから切り取っても絵になる天守が圧倒的に美しい。もはや仏像のよう?に見え、それは御神像ならぬ“御神城”と云うに相応しい?出立ち。観光客は思い思いに写真を撮り、特に外国人観光客の率が多い中、水面に映える天守は今日も堂々と、輝いている。

松本城(2) - モリゾーのひとり言

2025/09/28 (Sun) 11:13:11

簡単にいえば、松本城は永正元年(1504)に築かれた深志城が元で、天正10年(1582)に小笠原直慶が改名。深志城を拠点としていた武田氏の32年間の統治から織田信長が武田氏を滅ぼすと、木曽氏、小笠原氏と城主が変わり、家康配下から秀吉配下に移った石川数正が入封し、城郭の整備や城下町の拡充に着手。その後の城主遍歴は省略するが、現存する天守は戦下の空襲や火災を免れ、国宝に指定されるほどの、今では美しい景観が特徴的なお城である。
そんな松本城をぐるりとめぐり、お堀周りに咲く桜が美しく、小鳥がさえずる。明治時代には消滅の危機があって、市民の力で救われたということからも、地元の支えなくして松本城は存在しえなかったかもしれないと思うと、感謝×2と、しばらく桜とお城のコラボを愛でるのでありました~

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