寺社仏閣 ご朱印の旅
山口の旅(2)
- モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:14:33
旅先でいただいたパンフレットや冊子の資料はすべて保管しているのだが、神社やお寺の名称が印字されている袋でさえ取ってあるので、段々増えてきて困っている。断捨離ではないが、度々片づけをしていると、捨てられないものばかりで、昔はご当地キットカットの空箱やお土産の包装紙さえも集めていたことがあり、我ながら“やくみつる状態”(いい意味でです…いい意味で…)にはならないように気を付けている。
さて、今回は、2日目の午後からのスタートということで、紹介~
大楽寺
- モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:15:49
防府駅に戻り、午後はレンタサイクルで防府市南側の地域へ。10分ほど自転車を走らせると、山の側面を這うように曲がる道の途中から、山の中腹へと向かう坂道を上がると、大楽寺がある。グーグル地図には境内の墓地に「夏目雅子の墓」の表示があり、「へぇ~」と、後でお参りするとして、まずは境内へ失礼する。
本堂は開いていて、堂内でお参りし、書置きの御朱印もあるので拝受。
大楽寺は永徳元年(1381)に創建された曹洞宗のお寺。境内にある梵鐘は元は、毛利水軍の基地であった三田尻御船倉の時鐘で、船大工小屋の屋上に作られた鐘楼に架けられていたものらしい。また墓地には高杉晋作の死を看取った野村望東尼の墓(大楽寺西隣の桑山公園にある)や、防府天満宮で説明した銅像、楫取夫妻のお墓がある。妻の美和子の本名は杉_文。吉田松陰の妹で、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公にもなった人物。禁門の変で自害した久坂玄瑞の妻でもあったが、明治維新後、楫取素彦との再婚。素彦との前妻であった姉の寿が中風症を患っていたので、妹の文が看病のため楫取家にお手伝いとして出入りし、寿が亡くなると、その2年後に素彦と再婚…と、晩年はここ防府で過ごし、大正10年(1921)、78歳の生涯を閉じる。幕末から大正まで駆け抜けた怒涛の人生は、如何ばかりか…改めて大河ドラマを見返してみたいと同時に、ここは“長州”のお国柄なんだと、旅愁に浸り、いずれ「萩市」などの幕末に関わる歴史に触れる旅になるのだろうと、これからの山口県の旅に期待してしまうのでありました~
夏目雅子さんのお墓
- モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:16:44
書置きの御朱印を拝受し、墓地へ。墓地は北と南に分かれていて、南には楫取素彦氏とその妻、美和子氏、北には夏目雅子さんのお墓がある。
夏目雅子さんのお墓は最初、どこにあるのか分からず、黒い石碑を見つけて、本名が“西山”姓ということを知る。
夏目雅子さんの夫が伊集院静さんで、ここから見える小学校が母校だという。その関係でここ防府の寺に祀られているようで、まずは手を合わせる。
確か、白血病か何かで27歳の若さで亡くなられた衝撃は、子供の頃の私でも大きかったことを憶えている。夏目雅子さんといえば、やはり「西遊記」。三蔵法師役はかなりのインパクトで、今でもその面影が浮かび上がる。
芸能人のことはあまりよく知らないが、ネットで調べたら、夏目雅子さんのお兄さんの妻が田中好子さん(キャンディーズの)で、「へぇ~」と。さらに、夫、伊集院静さんの再婚した人が篠ひろ子さんで「へぇ~×2」と。特に驚く「へぇ~」ではないが、ここ防府に眠っていらっしゃるなんて思いもよらず、何とはなしに、ここからの景色を眺めるのでありました~
老松神社
- モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:17:42
東へ移動。「三田尻」という地名の病院やお茶屋さんがある場所まで来て、老松神社に到着。ちなみに昔は、「三田尻村」と「佐波村」があり、前者は周防国の中心地、国府や国分寺があった場所で、後者はそれより北側の範囲を指す。
明治35年(1902)に2つの村は合併し、「防府町」となり、2つの村の地名の名残が今もあちこちに見られる。
小っちゃな神橋の先の鳥居を潜り、真っすぐの参道を歩くと、右手に土俵だろうか、四角いブルーシートが見え、左手には朱色の5つぐらい並んでいる稲荷社の鳥居、その傍らには、この神社の社名を象徴するような大きな楠木、境内には比較的一本一本の木々が大きい印象で、まずは拝殿でお参り。
由緒書によると、白雉3年(652)に創建され、当初は須佐神社と称していたが、貞観14年(872)に社前の松の老樹が繁茂していたことにちなみ、老松神社と名を改めたよう。御祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)、大国主命、素戔嗚命の3柱。神社東にある三田尻茶屋「英霊荘」に滞在していた公卿たちがたびたび、祈願に訪れていたと伝えられている。この「英霊荘」は当時の藩主、毛利綱広公によって建設され、長州藩の7代目藩主、毛利重就公の法名「英霊」から命名されていて、参勤交代や領内巡視の際の休泊や大事な客を迎える時などに使用した公館。ちなみに、先ほど訪れた大楽寺の境内には、英霊公の分骨廟があり、今ここの住所は「お茶屋町」と呼ばれている。
そんな崇敬ある神社のメインは、大きな楠木。樹齢2千年を超えると伝えられていて、根元の幹周りが大きいこと大きいこと。山口県において、幹回りは2番目に大きいと云われ、大きい木を見ると、毎度の事、触ってみたくなり、「昔、こんなことがあったんだぁ…」と昔話を語り掛けてくるかのような、古木の記憶を探るように「うんうん」と妄想し、会話をする。
そして先ほどの土俵について、ネット情報によると、「三田尻」の「尻」にちなんで、1996年から全国でも珍しい?女性限定の尻相撲大会が行われているそうで、例年100人近い参加者がいるという。「へぇ~」と、その時の光景を想像し、熱気に包まれた会場では男もタジタジとなるに違いないと、祭りの様子が目に浮かぶ。
御朱印は「宮司宅」という案内看板を頼りに尋ね、明日なら対応して下さるということで、お約束をし次へ。
松原厳島神社・小烏神社
- モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:18:32
老松神社でいただける予定の御朱印は、次に向かう松原厳島神社と小烏(こがらす)神社もあり、西に1kmほど離れた所へ移動する。鳥居からの参道を真っすぐ向かうと、境内の奥は小学校になっていて、校庭で遊ぶ子供たちの声が聞こえ、地元では馴染みに神社といった感じで、社地はかなり広い。
松原厳島神社は由緒によると、創建年代は不詳であるが、一説には700年頃とも伝えられている。室町幕府の足利義満将軍が安芸宮島の厳島神社に参拝した後、九州へ向かう途中で、ここ松原に立ち寄ったとされていて、その時のことを記した「鹿苑院西国下向記」には、この地に宮島の厳島神社の神が最初に天下った地として当神社の記述があり、「ほんとかよ~」と、ちょっと義満さんを疑う。…ということは、宮島の厳島神社から分霊され勧請されたということではなく、元々ここに、市杵島姫命がおられたということ?なのか…ネットで調べてもこれ以上は分からないので、とにかく鎮座しているという事実だけを受け入れ、手を合わせる。
小烏神社についてもあまり載っていないので分からないが、御祭神はその名称から八咫烏である。少ない情報からピックアップすると、明治41年(1918)に、それまでは隣の小学校の校庭にあったのを現在の場所に遷座したとあり、慶長3年(1867)には薩長連合が集結して必勝祈願を行って京へと進軍したとある。いわば、この地が鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争へとつながる口火となった神社だと。
「へぇ~」と境内を眺めながら、隣の小学校の校庭の広さを含め、かつては兵隊の隊列を組んだ姿がずらりと並ぶ光景が目に浮かぶようで、そんな重要な場所だったのかと、改めて歴史の一端に触れる。
八咫烏さまにも手を合わせ、次へ。
磯崎神社
- モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:19:26
自転車を南西方向へ走らせる。県道だろうか、交通量の多い大きな道路から南の住宅街へと入ると、さっきまでの喧騒は止み、集落の中を静かに行く。
この地域は、かつては三田尻塩田広がる入江で、向島を経て南は瀬戸内海が目の前である。赤穂に次ぐ塩の生産地だったこの地域は、グーグル地図で見ても四角い土地が広がる形で、東西には塩を運ぶための水路の跡だと分かる線もあり、現在は工場地帯や航空自衛隊の敷地となっている。
そんな海に近い磯崎神社の御祭神は市杵島姫命、いわゆる安芸宮島の厳島神社の分霊を勧請された神社。江戸時代の享保年間、土地の開拓を行うが、堤防がしばしば決壊して中々成就せず、厳島神社を鎮守として祀ったことが始まりのよう。荒神社と改称したこともあったが、結局、磯崎神社となり、地元の崇敬を集め現在に至っている。
水路に掛かる神橋からの鳥居を潜り、真っすぐに延びるコンクリートの参道を歩き、途中、昔のトイレの建屋かと思ってよく見ると、手水舎で、壁に蛇口が取り付けられていて、洗面台のような受け皿まである斬新な?スタイルだが、誰も使っていなさそうな感じ。
拝殿でお参り。境内には地図上では“演舞場”と記された建屋があり、例祭での稽古用なのだろうかと思いながら散策後、社務所へ伺うと、宮司さんか氏子さんがいらっしゃって、御朱印をお願いし、快く対応して下さる。塩田ゆかりの地の雰囲気を味わい、次へ。
伊佐江八幡宮
- モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:20:14
航空自衛隊の敷地東側の道路を北上し、交差点角にある伊佐江八幡宮に到着。小俣八幡宮でここの御朱印を拝受したので、訪れた次第だが、社地は狭く、入口は本殿側面からの道路に面していて、鳥居が民家の目の前にある、飾りだけのような存在?であり、参道がない状態。
一応、鳥居から潜り、拝殿でお参り。
由緒によると、南北朝時代の天授2年(南朝)、永和2年(北朝)(1376)、佐波郡の仁井令八幡宮の神霊を勧請して創建されたとある。当時、伊佐江の人たちは元、仁井令八幡宮の氏子であったが、祭りの日、“山の座”という席で、仁井令方と口論になり、弓と鉾とを持ち帰り、それを御神体として伊佐江の地で奉祀したと。
「口論…」ある意味、盗んだんちゃうか…と、当時の事情は分からないが、仲違いで二分になってしまったと思うと、今も因縁みたいなことがあるのだろうかと思ってしまう。ちなみに、この仁井令八幡宮は今の、桑山八幡宮のことで、当地から東へ800mのところにある。
そんな伊佐江八幡宮は、昭和19年(1944)には飛行場建設に伴い、軍より立ち退きを命じられ、現在地に移転させられたようで、何だか狭い土地に追いやられた感がある。
本殿裏手には大歳神社があるが、石でできた祠がポツンとあり、墓石にも見えるが、こちらにもお参り。県外の私がこの地に訪れることなど、八幡さまも思ってもいないだろうと、応神天皇や大歳神に“ごあいさつ”するのでした~
石鎚神社
- モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:21:09
自転車を東へ。桑山公園の西側を北上すると石鎚神社がある。かなり高い丘の上にあり、電動自転車でなければ、とてものこと上がれないが、そんでも坂道がきつすぎるので、自転車を降りて押して歩く。斜面を登りながら、社殿の見える高台から麓にエレベーターのような施設が繋がっているのが見えるが、使用できるのかも分からないので、諦めて坂道途中の石段に自転車を停めて、石段を上がる。
辿り着いた境内からは絶景とまではいかないが、瀬戸内海が見え達成感~を味わい、さっそくお参り。
石鎚神社は、四国の愛媛県にある石鎚山を御神体とする神社で、西日本を中心に各遥拝所がある内の「防府教会」で、石鎚山は今から約1300年前、役行者によって開山され、修験道の色濃く残る霊山で、戦後「石鎚本教」という宗教法人を創立し、ハワイやブラジルにもあるとのこと。「宗教法人」とか「本教」とか聞くと、何だか怪しい宗教団体か?と思ってしまうが、いろいろ調べて見ると、そんなに偏った信仰でもなく、ただ修験に励むことに特化した?感じだろうか。
境内はスチール製のような鳥居、拝殿・本殿、社務所とあり、至ってシンプル。拝殿内にパンフレットがあるので読んでみると、御祭神は石鎚毘古命(いしづちひこのみこと)。伊邪那岐・伊邪那美の間に生まれた2番目の御子で、家内安全、厄除け、病気平癒などをはじめとした御利益があると。
石鎚山の登山は、鉄の鎖を使って登る急峻な道。まさに修験の道。標高1982mある西日本最高峰の山は、頂上まで3時間は掛かるそうで、相当鍛えておかないと行けない。四国は一度も訪れていないので、いつかは海を渡ってみたいが、老後の楽しみとして夢を見ることとし、社務所へ。
御朱印を拝受し、境内から望む瀬戸内海の果てには四国の島、そして石鎚山があるのだと、その方角に想いを寄せるのでありました~
護国寺(1)
- モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:22:04
石鎚神社から北へ20分ほど自転車を走らせ、今市町北の道路から西へ行くと護国寺がある。当寺には種田山頭火のお墓があり、防府市では名所の1つ。山門前には種田山頭火の石像が出迎えて下さり、特徴的なメガネと編み笠の容姿が印象的。
種田山頭火といえば、「分け入っても分け入っても青い山」の詩が思い浮かぶが、一体どんな人物で、どんな人生を辿ったのかも分からないので、ネットで調べてみることに。
本名は種田正一。山口県佐波郡西佐波令村で、大地主の種田家の長男として生まれ、10歳の頃、母フサが父竹治郎の芸者遊びなどを苦に、自宅の井戸へ投身自殺をし、それ以来、祖母の元で育てられることに。この時の出来事が衝撃的すぎた正一少年は、その後の人生を決定づけられたほどの、寂しさや孤独感といった苦悩を背負うことになる。
そんな正一少年は15歳で俳句に親しむこととなり、19歳の頃、早稲田大学に進学。が、在学中に精神を病んでしまい中退。実家に戻って27歳で結婚も、35歳の時、父親が借金を負って会社(酒造場)は負債、父失踪、友人を頼って逃げるように妻子を連れて熊本へ。
その後、弟が自殺、妻子を残して上京し、東京で働いている時に離婚、育ててくれた祖母が亡くなり、41歳の時、関東大震災を経験、悪友に連行され、巣鴨刑務所に留置され、熊本の元妻の所に逃げ帰り、熊本市内で泥酔して熊本市電を止め、乗客に取り囲まれた所を顔見知りの記者に助けられ、市内にある報恩禅寺の住職、望月義庵に預けられ、得度して「耕畝」と改名して43歳の時、寺を出て西日本を中心に各地を旅し、47歳の時、愛媛県松山市に「一草庵」を結び、57歳でその生涯を閉じた…と、かなり波乱万丈の人生であるが、そんな背景から生まれた詩の作品…改めて見たが、やるせない気持ちや悲哀に満ちた表現を、何気ない「自然」に例えたような感があり、人は誰しも失望する経験があるからこそ、心の隙間にすーっと入ってくるような、そんな印象を覚える。
護国寺(2)
- モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:23:02
境内に失礼すると、立派な本堂を正面に、参道左脇には8体の如来さまや不動明王などが並び、もう一つ、鎌倉時代に刑部中子(なかつこ:次男また長子、末子以外の男子のこと)のために目代である刑部丞(いさかべ)忠康が建立された「卒塔婆」、そして山頭火のお墓があり、しっかりと手を合わせる。
お墓は元々、護国寺の西隣の市営の墓地に引っ越してきたそうで、葬儀は松山市で行われ、息子さんがお骨を防府市に持ってきて葬ったという。その時は何も墓標もないお墓で、一時的にお骨を護国寺で預かった縁で、昭和31年(1953)の17回忌の時に墓標を建立されたとのこと。…と、住職さんがお墓を建てた経緯をインタビューという形で記事にした詳細をネットで見、紹介したが、その後、著名人がお参りに訪れ、次第に山頭火の名が知れ渡ったことは想像の域だが、詳しく知らなかった私にとっては「へぇ~」と、山頭火の苦労した人となりを知り、改めてその作品の表現に、心しみじみとしてしまう。
ちなみに、「山頭火」というペンネームの由来は、その年の干支の組み合わせから採用したとか、母が山で火葬される姿を見てとか諸説あるが、私はちょっとひねくれて、もう一つの説を挙げる。
山頭火は別名「水のみ俳人」と呼ばれるほど“利き水”の名人だったという。超軟水を好んでいたらしく、酒造場を営んでいたこともあって、水にはこだわりがあったのだろう。そんな彼の句碑が残る所には「名水の里」と呼ばれる場所が多く、広島の、とある大学の教授によると、句を残した所とそうでない所があり、ひょっとして気に入った水に出会った時だけ句を残しているのではないか?と研究したそうで。
そこで、山頭火の残した句や日記から、実際に口にしたとされる25ヶ所の水を汲み、㏗や硬度などの成分を調べた結果、いずれもミネラル分の少ない軟水揃いで、山頭火が生まれ育った防府の水に似ているものだったと。
このことをネット情報で知った時、私は「山頭火(さんとうか)」ではなく「さんずひ」と読めるのでは?と。「さんずひ(い)」=「水」で、「火」は「水」と対極にあるもの。つまり、不幸な出来事に抗いたい、幸運に転じたい願いが込められている…と、まぁ~、ちょっと強引で勝手な想像ですが…何にせよ、「山頭火」と付けたネームセンスは只者ではないことは間違いないことで、改めて種田山頭火について学ぶ。
…で、境内で庭いじりをしている住職さんに御朱印があるか聞いてみると、書置きの御詠歌のような御朱印で、数種見せてもらうと、御詠歌ではなく山頭火が詠んだ句で、選ぶのに迷ってしまう。その中で私は、秋の季節に訪れたこともあって「秋風の石拾う」を拝受し、山頭火ゆかりの寺に訪れることができて、お礼申し上げるのでありました~
成海寺
- モリゾーのひとり言
2025/04/01 (Tue) 09:24:03
時刻は16:30頃。夕暮れ時にあともう1か所訪れようと、東にある成海寺へ移動。町中の細い道へ入ると、石塔を挟んで参道、山門があり、脇に自転車を置いて境内へ。
赤い手編みの帽子を被ったお地蔵さまがいっぱい出迎えて下さり、本堂は大きく立派である。本堂前には卒塔婆が1本立ち、あまり手入れされてない木々が生い茂る石庭や、満州ハルピン駅で射殺された伊藤博文の「嘆徳碑」があり、当寺との関係性を示している。
成海寺ははじめ、「なるみ」と読むのかと思ったが「じょうかい」と読む。ネットによると、創建年代や寺歴等は火災により古文書や史料は残されていないので、分かっていない。が、この寺の前にあったのが「宝成庵」で、かの伊藤博文がここで演説を行ったとする話が残されている。
「藤候実録」という伊藤博文から直接聞いた回顧談を明治に出版していて、その中で伊藤は現在の光市で生まれ、萩に引っ越す過程で9歳の時、防府で生活していたことがあるという。伊藤少年は防府天満宮の社坊のひとつ、大専坊で読み書きをし学んでいたそうで、そのおよそ半世紀後に、西日本で遊説のために再び防府に立ち寄っている。この時すでに伊藤は総理大臣を3回経験していた頃で、当時の「防長新聞」には、三田尻停車場(現、防府駅)前の旅館に泊まって、演説会場である宝成庵では地元住民の熱烈な歓迎があったと伝えている。聴衆はおよそ1800人が集まり、維新前後の状況や諸外国の現状などを述べ、その後、防府天満宮などを訪れ、境内の春風楼で催された歓迎会に出席。その時に撮影された写真が今も防府天満宮に伝わるという。
そんな成海寺の前身でもある宝成庵の住職に伊藤は、「滴水成海」(したたる水が海を成す)の書額や袈裟をプレゼント。このことから「成海寺」と寺号を改め、その扁額は今も仏殿に飾られていると。
そしてもう1つ、本堂は伊藤が演説する半年前に竣工されていて、当時、日清日露戦争の間で、山陽道を往来する軍隊の宿舎に使用されていたそうで、それであんなに大きな本堂であったのかと、今にして思えば「なるほど…」と納得。
伊藤氏ゆかりのお寺を訪れ、庫裏で御朱印をお願いすると、快く応じて下さり、書き終えるまで石庭を拝観。石灯籠や石橋が配されている、ちょっとみすぼらしい感じだが、水のない“池”は心字池だろうかと、子供の頃だったら“秘密基地”っぽい、木々生い茂る中を散策というか“探索”し、限を見て御朱印を拝受。お礼申し上げるのでありました~
つづく…
山口の旅(1) - モリゾーのひとり言
2025/03/26 (Wed) 14:06:15
花見と言えば、川沿いかお城か…
桜の名所をいろいろ訪ねてはいるが、今年は何だか乗り気がしない。”お知らせ現象”も私の周りには来てないので、どこかあるだろうかと考えてはいるが…
そうそう一か所、行きそびれている桜が奈良にあったが(仏隆寺の千年桜)、時期的に仕事だし、頭を抱えてしまう今日この頃。
さて、今回の旅は山口県。過去の広島の旅で、すでに錦帯橋を訪れた”ちょい山口”入りだったが、ここからがっつり山口県の旅へと突入~
毛利氏庭園 - モリゾーのひとり言
2025/03/26 (Wed) 14:07:14
JR新山口駅からJR防府駅に移動し、駅近のホテルに荷物を預け、駅構内にある観光協会でレンタサイクルを借りる。事前にネット予約でお願いしてある分、スムーズな受付ができ、さっそく自転車を北東方向へ走らせる。曇り空の中、最初の目的地、毛利氏庭園に到着し駐車場に止めて、歩いて施設の方へ。
12月の中旬ともなると、さすがにモミジはもう終わっていると思いきや、表門まで歩いていく道には見頃と言っていいくらいの色づき具合で、今年は猛暑の影響もあり、遅れているということか。観光客は少なく、ちょっとした当たりクジを引いたような幸運に恵まれ、立派な表門を潜り、庭園までの道すがらもモミジが彩りを見せ、ワクワクしながら券売所で手続き。庭園と毛利氏博物館の共通券もあったが、時間の都合上、庭園だけとし入園。
庭園は瓢箪池を中心に、ぐるりと回る池泉式回遊庭園となっていて、あちこちにモミジが配されていて、他にも桜やメタセコイヤ、低木のサツキやツツジなどの木々、石橋、石灯籠、滝、あずま屋、築山等々あり、かなり広い。ここの敷地自体、全体で2万5千坪もあり、一大勢力を築いた“毛利氏”といっても過言ではないほどにあっぱれである。
毛利氏は鎌倉幕府創設の功労者、大江広元を祖とし、その子の季光が本拠地にあった相模国の「毛利荘」にちなんで、「毛利氏」と名乗って以来、安芸国や長門国へと移り、長州藩主となっていく経緯は、歴史の舞台に出てくるので分かるだろう、その毛利邸建設は旧藩士であった井上馨によって明治25年(1892)に始まり、その後相次いで発生した日清・日露戦争の影響で着工が遅れ、大正時代に入ってから5年後に完成したという。
そんな庭園をゆっくりと、瓢箪池の南側から眺める本館の建造物の佇まいといい、その背後の山々もすべて支配していたのだろうと錯覚すら覚える毛利氏の大大大邸宅&庭園を肌で感じ、紅葉狩りを楽しむのでありました~
佐波神社 - モリゾーのひとり言
2025/03/26 (Wed) 14:08:13
旧山陽道を西へ。自転車を走らせると、あっという間に佐波神社に到着。鳥居から先が石段参道となっていて、境内が丘の上にあると分かり上がる。
境内にたどり着くと、第2の鳥居から本殿までは真っすぐでなく、左斜め前に参道が続き、右手には鐘栄稲荷神社の社殿が建っていて、シンプル。
拝殿でお参り。由緒によると、元は金切神社(金切宮)と呼ばれていて、他に日吉神社、勝間神社、國應八幡宮を合祀し、周防国総社として現在に至っていると。
金切神社は昔は、毛利邸入口付近の高畠という国衙の域内にあって、平安時代中期に現在の地に遷されたとされ、さかのぼること、第14代仲哀天皇と神功皇后の熊襲征伐の際に、当地で先勝祈願のため諸神を祀られ、その後の三韓征伐に際しても神功皇后自ら斎王となって神祗を祀られ御出征し、朝鮮半島の平定を成就。陰陽五行説で三韓が金位の方角に当たるので、それを切り平らげたという意味から金切宮と称するようになったとのこと。
その他日吉神社は毛利邸の北側に鎮座していた近江国の日吉大社から勧請した社、勝間神社は国府の南にあった勝間の浦に鎮座していた市杵島姫命を主神とする社、國應八幡宮は奈良の手向山八幡宮から御分霊を勧請した社…と、合わせて24柱の神様が祀られていて、まさに“総合総社”である。
佐波神社の名称は4社合併された際に、この地方の「佐波郡大字」にちなんで付けられ、日本書記にも“サバ”の標記があることから、古より伝えられているのが分かる。
…ということで、古代の律令国家が発展していく中での、政治経済文化の中心地であった国府の産土神として昔から信仰されてきたんだと…最初は“サバ(魚の)”に関係があるのかと思っていたが、普通に地元の名称だったことに「そりゃそうだ…」と納得。
境内を散策し、「大村能幸顕彰碑」なる石碑を発見。「誰?」と読んでみると、昭和の歌謡界の四天王の一人だそうで、代表曲に「同期の桜」の作者であると。佐波神社の近くに生まれたらしく、「同期の桜」は死ぬまで作者を公表しないでくれという本人の意志があったようで、もうほとんど軍歌としてしか私は知らないが、戦後のGHQから睨まれていたのではないかと想像する。まぁ~、軍の統制により軍歌を作るしかなかった時代を鑑みると、仕方がない心情が垣間見える。時代に逆らえない大村氏の顕彰碑を眺め、しばらく何とはなしに佇む。
あらかじめ宮司さんに電話連絡をさせていただいていたので、社務所兼自宅にお邪魔し、御朱印を拝受。名古屋からの訪れに「え~、そんな遠い所から…」と驚かれ恐縮。お礼を述べ、感謝申し上げるのでありました~
周防国分寺 - モリゾーのひとり言
2025/03/26 (Wed) 14:09:08
佐波神社からさらに西へ移動。入口からして立派な仁王門がで~んと建つ、奥の寺地が広すぎて、さすが国分寺といった感じ。仁王門脇に自転車を停め、導かれるように大きな本堂(金堂)へと歩き、見上げる。二層入母屋造りの仏殿は、往古からあるような“いでたち”で、安永8年(1779)に毛利重就公が建立したもので、約250年は時を経ている代物。防府市では最大ではないかといえるほどの荘厳な建造物で、金堂手前には拝観受付の案内があり、金堂裏手の庫裏へ移動。
庫裏の隣には商売繁盛を御利益とする聖天堂があり、お参り後、庫裏で受付を済ませ、さっそく金堂の中へ。
内陣には余多の仏像がズラリと並び、中央の須弥壇には本尊の薬師如来坐像、脇侍にお決まりの日光月光菩薩立像、四天王像、十二神将と脇を固めている。他に阿弥陀如来や盧舎那仏などを安置。もう“仏像美術館”のように1つ1つ拝観していく。堂内に案内テープが流れるので、それに沿って仏像を見ていき、特に四天王像が私のお気に入り。持国天、増長天、広目天、多聞天と甲冑に身を固め、足元は邪気を踏みつけ、宝剣や槍を持って威嚇の表情をしていて、躍動感があり素晴らしい。
計8体が国の重文になっているので、かなり貴重であり、ここまで保存されてきたことは、実に大内氏や毛利氏の庇護があったことや、信仰心が途絶えなかったこともあったのだろうと納得。
国分寺は聖武天皇による国民の景福を祈願するために国ごとに建立されたお寺であるが、よくぞここまで残ってくれたものだと感心し、最後に一礼し、案内の方にお礼を述べ金堂を出る。
いただいたパンフレットの境内地図には「水鑑の井戸」が気になったのでこちらも散策。「水鑑の井戸」は大宰府に左遷された菅原道真が勝間の浦に着いて、当寺を訪れた際、その姿を水に写し、自画像を書かれたという井戸。自画像は防府八幡宮の御祭幸の時に、本堂内で奉拝することができるそうで、自分を描いた姿はどうであっただろうかと、機会があればいつの日か見てみたい。寺域の壮大さを体感し、周防の国分寺を訪れることができて満足×2。
防府天満宮(1) - モリゾーのひとり言
2025/03/26 (Wed) 14:10:15
周防国分寺から北にある法花寺へ。山門から先の境内が剪定された松の木がいっぱいあり、枯山水庭園には不動明王や観音像が建ち、清潔感ある雰囲気に、毎日清掃しているんだなぁ~と分かる。法花寺は防府88霊場6番札所で、ネットの情報には本尊は地蔵菩薩。天平13年(741)に聖武天皇が発願した3番目に設けた国分尼寺の流れを組む寺院で、2度に渡る廃絶を繰り返してきたそうな。現在の地は国分寺の塔頭、地蔵院の寺地で再興されたお寺であると。そんな法花寺で御朱印を拝受し、境内にある七福神像に別れを告げ西へ。
次は防府天満宮ということで、鳥居前まで来ると、整備された石畳、その周りのお土産屋が数店並ぶ参道通りには、夕方にもかかわらず参拝客がまだまだいる。
防府天満宮は日本で最初に創建された天神さまと謳っている。菅原道真公が大宰府へ西下の途中、時の周防国の国司である土師氏を頼り、本州最後の寄港地となる勝間の浦に着船し、願わくはこの地で“無実の知らせ”を待っていた…と未練を残して九州へ旅立った地であると。
そんな防府で有名な天満宮を訪れるべく、参道からの石段が壁のように上へと続き、石段では何か、赤、白、ピンクの花を並べて“キットカット”とのコラボ装飾の準備をしていて、何を表しているのか分からない飾り付けを見ながら境内へ。ようやくたどり着いた楼門を潜り、社地ではここでもカメラクルーたちが撮影していて、今日は催しでもあるのだろうかと拝殿へと赴きお参り。社務所では色鮮やかなお守りをはじめ、神札などを販売。私は御朱印を拝受し、おみくじには「はにわみくじ」や「鯛みくじ」など、釣りゲーム感覚でおみくじを引くのもあり、まさに“めでたい”嗜好で人だかりができている。
防府八幡宮(2) - モリゾーのひとり言
2025/03/26 (Wed) 14:11:21
境内を散策。東側奥には梅園、針塚、英霊の碑、願い事をすると必ず叶うという霊石「紫雲石」、明治天皇の皇女、貞宮の養育係を務めた楫取素彦・美和子夫妻の銅像、その視線の先には、わずか3歳で亡くなられた貞宮の遥拝所、奥には愛宕社、老松社他と見て回り、本殿裏手には自然石で造られた、地元の人から崇められた灯籠(天神さまの依代=魂が宿ったもの)…と、モミジが色鮮やかに添えていて良い雰囲気。
西側へと移動すると、毛利重就公の像、その先の山側は天神山公園となっていて、こちらも背の高いモミジがあちこちに彩り撮影タイム。
春風楼という場所まで来て少し休憩。防府市内の街並みが望め、中々のビュースポット。春風楼は元々、長州藩10代藩主の毛利斉熈(なりひろ)によって五重塔を建てる予定であったが、藩の財政難により中断。二層の楼閣様式として建てられたそうで、完成当初は祈願者の宿泊場所として利用されたらしく、現在は奉納行事や展望台として市民の憩いの場となっている。
眺望していると、南の海上に雲の隙間から後光のように光が射し、当神社の由緒書にあった、道真公が大宰府で亡くなった時、勝間の浦に神光が現れ、酒垂山(現、天神山)に瑞雲が棚引き、それを国司を始め、里人たちが道真公の御霊魂がこの地に帰ってこられたと悟り、ここ松崎の地に建立した始まりを思い出し、まさに「この光景は…」としばらく拝む。
道真公は確かにこの地にいる…と、その光景を眺めながら、旅愁に耽るのでありました~
小俣八幡宮 - モリゾーのひとり言
2025/03/26 (Wed) 14:12:14
2日目。防府バスターミナルから新山口駅行きのバスに乗って、大道駅入口バス停で下車。北西方向へ15分ほど歩き、小俣八幡宮に到着。
立派な石灯籠を見ながら、まっすぐ続く参道を歩き、境内にたどり着くと、シンプル拝殿本殿が建ちさっそくお参り。
拝所に書置きの御朱印があるので拝受し、境内を散策。山頭火の句碑や「笑」という石碑、「笑い講 発祥の社」の案内看板が建ち、説明看板を読んでみる。
「笑い講」とは、当小俣地区に伝承される奇祭とあり、鎌倉時代の正治元年(1199)に始まるとある。1年の苦労を大声で笑い飛ばし、来年の豊作を願う神事で、笑い講を行ってきた代々の農家から「議員」と呼ばれる14人が紋付袴姿で集まり、宮司が叩く太鼓の音に合わせながら「わっはっは」と3回笑い合う。
最初の笑いは今年の収穫への感謝、2回目は来年の豊作への祈願、最後は今年の苦しみや悲しみを忘れようという意味が込められているとのこと。
現代の世知辛い世の中を笑い飛ばす…なんて、オモロイ神事なんだと、その時の光景が目に浮かび、思わず微笑してしまう。
作り笑顔をするだけでも、癌が消滅するという身体的研究結果もあると聞いたことがあるので、“笑いは世界を救う”じゃないが、ちょっと、レスリングの浜口親子を思い出してしまう。「わ~はっはっはっは」と境内に響き渡るような(実際には私の頭の中だけのことだが…)声が聞こえ、訪れる人が幸せな気分になりますようにと、願うのでありました~
切畑玉祖神社 - モリゾーのひとり言
2025/03/26 (Wed) 14:13:29
小俣八幡宮から北東方向へ30分ほど歩く。集落から田畑広がる広域な土地を眺めながら、山陽自動車道の高架下を潜り、切畑という地域に建つ玉祖神社に到着すると、鳥居近くの宮司宅だろうか、庭のモミジが見頃で、その他の松の木々も立派に植えられている。
鳥居を潜り、境内へ失礼すると、氏子さんが寄贈したと表記されている狛犬が迎えて下さり、拝殿でお参り。
切畑玉祖神社をネットで調べると、その縁起は出てこない。そんでも玉祖神社といえば、防府市内の大崎にある本家の一之宮、玉祖神社があり、市内に4社もあるので、ここから勧請されたであろうことが分かる。御祭神は玉祖命(たまのおやのみこと)。天照大神が天岩戸に隠れる記紀に出てくる、勾玉を造った神様で、玉造部の祖先である。日本書記では「豊玉神」で登場するが同一神とみなされていて、「玉」=「魂」と見立てたことだという話を昔聞いたことがあるが、これも“たまたま”のことなので、本当のところは分からない。
境内を散策。本殿右手側には「放生池」を中心に庭園が広がり、良い雰囲気。ちょっとしたモミジも見頃を迎えていて、ぐるりと歩き、本殿左側へと行くと、氏子さんたちが寄贈した植物が植えられていたり、石を積み重ねただけのいわゆる供養塔だろうか、バランスよく立っていて祀られている。
地元、切妻という集落に祀られている玉祖命に挨拶し…そうそう、事前に訪れる前に御朱印について電話をしたのだが、その時は留守で、結局は賽銭箱近くに置いてあった書置きの御朱印を拝受したのだが、その日の夕方、ホテルに戻ってから宮司さんがわざわざ電話して下さり、感謝×2。今日訪れて御朱印を拝受したことを報告し、恐縮至極、その節はお世話になりました~
岩渕観音寺(1) - モリゾーのひとり言
2025/03/26 (Wed) 14:14:19
大道駅入口バス停に戻り、防府市方面、防府西高バス停で下車し、高校のグランドが見渡せる横道を5分ほど歩いた所の観音寺に向かう。お寺から目の前が広い校庭となっていて、今は授業中なのか、静かな佇まい。シンプルな山門から失礼し、本堂は近代的な建物となっていて、扉が開いているのでさっそく中に入りお参り。
観音寺は周防国33観音霊場の26番札所。縁起によると、天同3年(808)に弘法大師が諸国巡歴の折、当山の岩渕山が霊域であるとして開創したと伝わる。この岩渕山の中腹に観音堂があり、大師開眼による子安観世音菩薩が本尊として祀り、寛永5年(1628)には毛利輝元の姫君、吉川広正公御室が観音堂を重建したほか、灯籠や鐘楼を寄進するほど崇敬したという。
今の本堂がある境内には、聖観音、地蔵菩薩、乳観音、大師像、薬師如来等々が安置されていて、整った雰囲気の中でお参り。庫裏で御朱印を授かり、バスの時間まで1時間以上はあるので、岩渕山を登ってみることに。
岩渕観音寺(2) - モリゾーのひとり言
2025/03/26 (Wed) 14:15:08
始めは整備された階段が続くのだが、徐々にその名の通り、岩の隙間を縫って上がる山道と変わり、ゴツゴツした岩が山肌にむき出しで、確かに霊験あらたかって感じ。
五輪塔のように見える自然岩が背高く鎮座していて、自然にできたものだろうか…と疑うほどに仏像のように見え、思わず手を合わせる。
そこからさらに山道を進み、岩に彫られた石仏、祭壇のように窪んだ空間の中の石仏、点字のように彫られた石仏などなど…それぞれに番号が掲げてあるので、今どこまで来ているのかが分かり、その途中途中では、枝葉の隙間から見える絶景の景色を望め、探検気分?でようやく一周し、元の場所に戻る。
所要時間1時間ほどで巡り、最初は行こうか迷っていたけど、何だかスッキリした気分になって良かったと、これも石仏たちのおかげなのか、下山した際に心の中で感謝を伝えるのでありました~
植松八幡宮 - モリゾーのひとり言
2025/03/26 (Wed) 14:16:01
防府西高バス停から防府駅方面に乗り、コスパ防府前バス停で下車し、次の目的地、周防国一之宮である玉祖神社へ。
…とその前に、事前の調べで玉祖神社では他に、境外社の神社の御朱印が頂けるのを知り、その道の途中にある植松八幡宮をまずは訪れることに。地図上では佐波川の堤防近くにある場所だが、そこは橋へと繋がる新しく整備された道路のせいか、その周辺も綺麗に区画整理された感があって、社域も何となく再構築されたような、人っ子一人いないので殺風景な様相を呈している。
鳥居から先の境内は広く、本殿の他に摂社末社、石庭などがあり、狛犬や石灯籠が並ぶ参道を歩き、拝殿でまずはお参り。
拝殿前には石碑が2つ、細かい文字で彫られていてよく分からない。…ということで、ネットに載っている由緒から調べて見ると、御祭神は八幡宮なので、決まって応神天皇、神功皇后、仲哀天皇の3柱であるが、明治時代に合祀された厳島神社(市杵島姫、田心姫、湍津女姫)と合わせて計6柱から成る。鎌倉時代の寛喜3年(1231)に豊後国の宇佐八幡宮から分霊を勧請したことに始まり、ここより東の植松下河内という所にあったらしい。室町時代の大永元年(1521)には度々、佐波川が決壊してマムシが大量発生?したそうで、村人が困っていたところ、村人の抗木に八幡大神が現れて「我社を岸に移せばマムシの難から逃れられよう」と。そのことを村人が領主の大内義興公に告げ、中河内へ遷宮し、社殿を建立したという伝承がある。
現在の地は平成9年に佐波川の改修工事が行われ、社地からさらに200m西に移動したとのことで、なので、スッキリとした印象だったのだと今にして思えば理解できる。
境内を散策し、石庭がマムシの形のように見えなくはないが、そんなことよりも境内で一番目を引いたのが1本のモミジ。低木のモミジが色鮮やかに真っ赤に、そこだけ目立っていて、「この木何の木、気になる気になる~♪」と思わず口ずさんでしまうほど見入ってしまい、誰もいない境内でそのモミジは「ここにいるよ」とアピールしてるかのように、輝いている。そんな“姿”を御神木ではないが、じっくりと見入り、拝むのでありました~
周防国一之宮玉祖神社 - モリゾーのひとり言
2025/03/26 (Wed) 14:16:58
植松八幡宮から佐波川の橋を渡り、いきなり高速道の高架下の歩行者専用トンネルにぶち当たり、照明もそんなに明るくない冷えたコンクリート製の中を潜り、出てきた先は、田畑のある集落で、違う世界に来たみたい。
遠目に鳥居や社地を見つけ、その方角へと向かうと、一之宮という神社だけあって、見た目は普通の神社っぽいが、何となく風格が違うのが肌で分かる。鳥居からの参道…石碑が建っていて「黒柏発祥之地」とある。
「?」何のことか分からず、そのまま神門を潜り境内に失礼すると、社地は思った以上に広い。社務所側に目を向けると、黒いニワトリが数羽屯していて、「黒柏!?」と一瞬でピンときて「なるほど!」と納得。ニワトリには後で“あいさつ”するとしてまずはお参り。
玉祖神社の創建は不詳。であるが、古い記述には「周防国正税帳」や「今昔物語集」等の史料に挙げられていて、天平10年(738)にはすでに存在していたことが分かっている。御祭神は2座となっていて、玉祖命と、もう1柱は不明である。不明ということなので、いろんな説があり、大鏡命とか高産霊命の孫の大荒木又建荒木命とか、摂社の浜宮御祖神社の御祭神、玉祖命の母神とか、聞いたことない神さまが並ぶが、未だに分かっていない。
…で、玉祖命は天岩戸話の八坂瓊曲玉を造って奉納したという話は、先の切妻玉祖神社で説明したが、呼称の由来通り「たまのおや」である。
玉祖命はここ大崎の地で亡くなり、社殿の北500m離れた「玉岩窟」がその墓所と伝えられ、古来よりその土地で豪族が各自の祖先神に対して祈祷などを行ったとされている。
景行天皇の熊襲討伐の時は、当神社で先勝祈願をし、その時に奉納された宝剣が神宝として伝えられ、神社北側にある「八龍山」には神器を埋めた場所、「宮城の森」には当時の行在所があった場所で、グーグル地図にも載っている。
中世に入ると、東大寺を再建した重源上人が「東大寺は、玉祖大明神の加護によるもの…」と、神社の造り替えをしたとする記録(他にも造替した人がいた)が載っていて、僧坊が建ち並ぶ神仏習合の形があった、かなり規模の大きい神社であったことが分かっている。
さて…境内を散策。ぐるりと本殿を一周し、拝殿と本殿の間に、玉垣で見えにくいが、「礎石」がある。案内には社殿を建てた際に、祭器を埋めた所で、清浄な場所であると。ちょっと「人柱」のイメージをしてしまったが、何となく重要な場所なのだろうかと思い、手を合わせる。
そして、社務所近くに屯する“黒柏”たち。名称のとおり、すべてのニワトリが全身真っ黒で、日本古来のニワトリのよう。トサカと顎だけは赤く、ニワトリの中でもサラブレット?に値する古風な?風貌と風格に「品がある」ようにも見える。じ~っとその姿を見てると、一羽のニワトリが私ににらみを効かし、「むむっ、あれがボスだな…」と、ボスに“あいさつ”。食事の邪魔をしないようにそっと離れ、社務所へ。社務所では書置きの御朱印を拝受し、歴史ある“たまのおや”と“黒柏”に出会い、感謝申し上げるのでありました~
つづく…
名古屋の旅 - モリゾーのひとり言
2025/03/10 (Mon) 16:45:28
今年も花粉症の季節がやってきて、年々ひどくなる。マスクをしていても、細かい粒子が入り込んできて、恥ずかしい話、マスクの下は、鼻水垂れさがり状態でいるときもある。暖かくなるにつれ、桜の季節も近づくというのに、外に出るのが億劫になり…そういえば、今年の花見はどこへいこうか…花見を取るか、鼻水を取るか…
僕の我慢がいつか実を結び~果てない波がちゃんと~止まりますように~♪(ハナミズキ)の歌詞が浮かんでまた妄想が…
…ということで、去年の紅葉旅、名古屋編の紹介~
冨部神社 - モリゾーのひとり言
2025/03/10 (Mon) 16:46:37
ある日の休日。名古屋市営バス・地下鉄1日乗車券“エコきっぷ”を利用し、地下鉄桜本町駅で降り、西へ移動。ここは名古屋市南区。名鉄名古屋線の線路を越えて、まずは桜神明社にお参り。イチョウの木が秋の季節を装う雰囲気に彩られ、鳥居から境内へ失礼すると、木々に囲まれているせいか、昼間でもうす暗い印象。住所・氏名を書く書類を社務所のポストに投函すれば、書置きの御朱印を送って下さるということでお願いする。
こちらの神社は、古墳の上に建てられた神社で“ひめ古墳”とも呼ばれているから?か、御祭神が天照大神。相殿として数柱祀られていて、境内には末社もいくつか配し静か。境内の雰囲気を味わい、さらに西の冨部神社へ向かう。
冨部神社は愛知県津島市にある津島神社から勧請された社。主祭神は素戔嗚命で、相殿は宗像三女神他が祀られている。私は今回で2回目の訪れであるが、もう10年以上前のことで全く忘れている。紅葉の名所とまではいかないが、ネットで境内の写真を見て、この時期…今年は紅葉も遅い季節感なので、どうなのだろう…と長い参道を歩き、境内へ失礼すると、背の高いイチョウの木、モミジも少し赤味を帯びていて、社殿を含め絵になる。
さっそくお参り後、モミジに近づいて見てみると、まだ5分といったところか、そんでも遠目からなら十分楽しめる美しさで、しばらく撮影タイム。
社務所で特別御朱印を拝受し、氏子さん?から隣の呼続公園はそこそこ色づいている情報を教わり、氏子さんにお礼を述べ、行ってみることに。
呼続公園 - モリゾーのひとり言
2025/03/10 (Mon) 16:47:30
境内西側から森の中を下っていくと、グランドや野球場に出てきて、この公園がかなり広い敷地であることが分かり、冨部神社は尾張徳川家から社地を寄進していたことに納得。
周りのモミジの木々も赤く染まり、日光が当たっている木々は綺麗に色づいていて、散歩する人やベンチで本を読んでいる人など、この地域の憩いの場なのだろうと。
しばらく道なりに歩くと、大きな池があり、手入れの行き届いてない噴水が中央に、ススキや雑草が生えたままの状態で、時間ごとに水が吹き上げられるのを見、「まぁ~、こんなもんだろう…」と。その雑草を無視して、池の水面に映るモミジやカエデの赤味が少しは美しさを添え、まだマシな方なのかな…と。池の周りを散策し、名古屋市内もまだ、こういう公園があるんだと、散歩を楽しむのでありました~
慈眼寺 - モリゾーのひとり言
2025/03/10 (Mon) 16:48:16
とある休日。地下鉄平針駅から南東方向へ坂道を上がる。
ここは、名古屋市天白区平針。昔、平針の「針(=窯)」は、焼物を作る集落があった場所という意味で、平らな地形だから「平針」、高い地形だから「高針」という地名であるとうんちくを掲載したような気がしたが、全然、平らどころか急坂が続く道を歩き、たどり着いた駐車場からさらにこんもりとした木々生い茂る境内地があり、規模は少ないがモミジが色鮮やかに見頃を迎えていて、さっそく撮影タイム。
ここ慈眼寺は、遠州の秋葉山に関係している。伝承によれば、遠州秋葉山の三尺坊尊が大同4年(809)、京都御所炎上のときに、鎮火祈願のため京に上り、その帰路、この地に立ち寄り、創建したことが事の起こりだと云う。三尺坊尊といえば、信濃の戸隠で生まれ、4歳ですでに修験者であり、26歳の時に阿闍梨となって蔵王権現の堂、「三尺坊」を務め、いつしか体に羽が生え、迦楼羅に…つまり、天狗に変身したと…トンデモ話が有名であるが、当寺にこの三尺坊尊の像を寄進したのが、かの織田信長。桶狭間の戦いの折、この寺に祈願したことから勝利を得たので、中興として当寺を栄えさせた話もある。
そんな慈眼寺の境内には、燃えるようなモミジの色合いを見、まさに”秋葉“といった感じの雰囲気を味わい、しっかりお参りをし、ここはいつも無人なので次へ。
針名神社 - モリゾーのひとり言
2025/03/10 (Mon) 16:49:19
慈眼寺の参道を南へ行くと、針名神社の境内へとつながっている。参道途中から失礼し、直角に折れ曲がって神門が建っているので、怨霊を鎮めるための“カタチ”なのだろうかと、作家の高田崇史の影響で「そうなのか?」と思ってしまう。
針名神社は今回で2回目の訪れ。何となく境内の社殿の配置は憶えているが、こんなに真新しかっただろうかと…たぶん、修復工事でもしたのだろうと思いながら、さっそく拝殿でお参り。
針名神社の御祭神は尾治針名根連命(おわりはりなねのむらじのみこと)。天照大神の孫である天火明命(あめのほおかりのみこと)の14代後の孫にあたる。ちなみに、天火明命は尾張国一之宮でもある真清田神社(一宮市)の祭神でもある。
元々は現在地より約800m北の天白川左岸の「元郷」という所に祀られていて、慶長年間、徳川家康の命により平針宿が成立したと同時期に遷座されたとある。名古屋市内でも有数の規模を誇る神社で、約1万2千坪もの社地を要している。
そんな境内には、天王社、天満社、稲荷社ほか6柱を祀る神明社とあり、お参りするのも時間が掛かる。境内の傍らにはちょっとした庭があり、季節の草花、この時期にはドウダンツツジが赤く色を添え、苔の緑も美しい。
お参り後の参道を歩くと、木々に囲まれた中に色づいたモミジの赤色が目立ち、12月なのにようやく秋らしい季節到来といった感じで、参道を抜ける。
徳重熊野社 - モリゾーのひとり言
2025/03/10 (Mon) 16:50:14
針名神社鳥居から西へ、平針小学校バス停から地下鉄徳重駅行きの市バスに乗車すると、運転免許更新で有名な、名古屋人なら必ずこちらにお世話になる「平針運転免許試験場」目的の乗客で車内はいっぱい。当然、試験センターバス停でぞろぞろと降車し、やっと席に座れると思ったらすぐに到着してしまったので損した気分。
熊野前バス停で途中下車し、東へ住宅街を歩いていくと、参道途中に着いてしまい、鳥居前まで移動。モミジが燃えるように真っ赤に色づき、撮影タイム。鳥居から先、かなり長い参道が見え、さっそくゆっくりと進んでいく。
モミジがあちこちに生え、見頃を迎える中、段々、石段が増えてきて、かなり丘の上にあることが分かり、そんでもモミジに癒され、疲れることなく拝殿までたどり着く。
到着した境内から振り返り、達成感を味わいながら街並みを見降ろす形で景観を眺め、しばらく小休止。
拝殿はコンクリート製の造りで、昭和45年の集中豪雨により崩壊し、再建されたとのことで、頑丈そうな造りに見える。
拝殿でお参り。石碑に由緒が書かれてあり、蒙古襲来の頃に編纂された古文書「鳴海旧記」に、ここ「神の倉」の地に熊野権現の宮が有り…云々とある。御祭神は伊邪那岐命、伊副利部連命(いふくりべむらじのみこと)。伊副利部連命をネットで検索してみると、愛知県一宮市に「伊副利部神社」という御祭神が「若都保命(わかつほのみこと)」とする掲載があり、この若都保命を祀る神社が岐阜県に美濃二ノ宮「伊富岐神社」と出る。
「イブキ」といえば、「伊吹山」やたたらの「息吹」「火吹」を思い出すが、「伊副利部」はたたら製鉄に関わる部族集団(連:むらじ)の長(おさ)だったのか…と。「いふくりべ」→「いふくべ」→「いふき」→「いぶき」と変化した?と、あくまでも想像だが、鳥居南側にある扇川や石段参道を上がってきた坂道の地形が、たたらに必要な条件に合っているのではないかと…。
…ということで、境内のモミジを愛で、12月の紅葉狩りを楽しむのでありました~
東山荘 - モリゾーのひとり言
2025/03/10 (Mon) 16:51:05
地下鉄瑞穂運動場東駅から市バスに乗り、田辺通二丁目バス停で下車。西の住宅地へ歩いて行くと、明らかに別荘という雰囲気が漂う塀が見えてきて、入口は藁葺屋根の門の、何とも情緒あふれる佇まいで私を迎えてくれる。
ここは、名古屋市瑞穂区。桜で有名な山崎川の東側に位置する「東山荘」。綿布問屋であった伊東信一氏の旧別荘で、伊東家の山荘であることから「東山荘」と名付けられたとされる。伊東氏が遺言で、名古屋市民に開放するようにと告げて、名古屋市に寄贈され、昭和14年に公園として一般公開。戦争で一般公開中止を経て、昭和43年に再開し、建造物が平成25年には国の有形文化財に登録された。現在も一般利用される施設で、屋内の茶室などは有料予約が必要で、外の庭園は無料なので、さっそく“藁葺門”から失礼し、拝観。
ちょっとした広いスペースは前庭として玉砂利が敷かれ、“本庭”へ入るにはさらに塀で仕切られた奥へ向かう。入口付近のモミジがオレンジ色に彩られ、中々良い雰囲気の中、母屋のある敷地へ行くと、木々が生い茂る中の薄暗い空間…細い幅の飛び石の道…季節の草木の中のモミジ…細長い一枚岩の石橋を渡り…2階建ての母屋の建造物…裏へ廻り、一層暗さが増す森の中、母屋に寄り添うモミジ…鳥居はあるが社殿がない社地…と、時間にして15分ほどだが、敷地はそこそこ広いことが感じられ、規模の小さい紅葉狩りをする。
名古屋にこんな場所があったなんて、改めて別荘を訪れたことに満足×2。
揚輝荘南園 - モリゾーのひとり言
2025/03/10 (Mon) 16:52:05
地下鉄覚王山駅から北へ5分ほど。ここは名古屋市千種区。覚王山日泰寺で有名な土地柄で、私にとって毎年、永代供養でお世話になっている日泰寺だが、その東側に紅葉で有名な旧別荘があるとはネットで調べるまで知らず、本日訪れた次第。
その揚輝荘とは、松坂屋の初代社長、伊藤次郎左衛門裕民(すけたみ)が大正から昭和初期にかけて別荘として、丘陵地に建てた施設。広さ約1万坪の敷地に、池泉を巡らす庭園や建物が建つ国際交流等の社交場として、皇族や政治家、実業家など各界の名士らが集う場であったと。
戦時の空襲による被害や風雨の老朽化が進み、平成19年に残された一部を名古屋市に寄附され、その後も市民交流の場として活用されているそうな。
そんな揚輝荘の南園の中の迎賓館として建てられた聴松閣(ちょうしょうかく)の内部は拝観できるので、さっそく入館。虎の石像、ベンガラ色の壁が印象的な建物を見ながら、和洋折衷の様式…大正時代の雰囲気を思わせるようなエントランス…地下1階~2階に展示室がある。
1階は喫茶室、2階は応接室や書斎、地下1階には多目的ホール、各施設に繋がるトンネル入口が見られ、壁面や天井、柱などインドや中国様式の模様が施されていて、途中、館内ツアーのガイドさんに付いている集団に会い、一緒に説明を聞いて周ることに。
聴松閣の南側には南庭が広がり、そちらへ移動。すると、NHKのカメラクルーが撮影をしていて、ちょっと“待ち”が入り、女性アナウンサーのレポートを見守りながら、今日のニュースで放送するのだろうかと見物。撮影が終了すると、庭園へ移動し散策。
自然な築山を活かし枯山水庭園の中に五輪塔、石灯籠など石造物が配置されていて、モミジも彩りを見せている。ただ、周りの高層マンションが時代の流れを映しているようで、まぁ~、名古屋の都心の中では仕方がないのか…と、そんでも庭園を堪能し、次は北園へ移動。
揚輝荘北園 - モリゾーのひとり言
2025/03/10 (Mon) 16:53:08
南園から高層マンションの横の細い道を歩き、北園へ。竹垣が並ぶ中のモミジが映え、入口から失礼すると箱庭ではないが、ステージのように見渡せる庭園が広がり、左手の高台には古めかしい建造物が建っている。
「伴草楼」と呼ばれる建物は、尾張徳川家中からの屋敷だったのを、洋室等を加えて昭和4年に建てられたらしい。モダンな造りは、オシャレな喫茶店でも経営できそうな、横に長い空間で、2階のガラス窓も大正ガラスのような趣のある雰囲気で、全体を見渡す。
庭園は池泉式回遊庭園で、池の周りをぐるりと散策。白雲橋と呼ばれる屋根付きの橋は、渡ることができず、この庭の観賞用としての存在のよう。京都の修学院離宮の「千歳橋」を模したとのことで、天井には龍の絵図が描かれ、趣向が凝らしてある。
モミジとのコラボはまだつづく…
「三賞亭」という茶室があり、石垣を土台に建屋が建っているので、上から庭園を見渡せる造りとなっていて、中には入れないが、隙間から覗き込むと、障子の丸窓や竹の長押、茶室らしい畳敷の部屋が設えてあるのが分かる。説明によると、茶屋町(現、中区丸の内3丁目)の伊藤本宅から移築した建物で、「“煎茶”の茶室」として茶会の時に使用されるとのこと。
モミジの見頃に来れて大変満足だが、今となっては周りを取り囲む高層マンション群が邪魔なのだが、見方を変えれば、この庭園を守っているのかも…と庭園内にあるお稲荷さんにお参りをし、感謝を伝えるのでありました~
写真奥に見えるのは、日泰寺五重塔
徳川園(1) - モリゾーのひとり言
2025/03/10 (Mon) 16:54:01
市バスで徳川園新出来バス停で下車し、西へ。徳川園は、その名の通り、尾張徳川家の邸宅跡地で、私はまだ一度も訪れたことがなく、前から紅葉の時期に見に行かないといけないと思っていた次第で、夜のライトアップも兼ねて15:30頃に到着。
徳川園は元々、尾張藩2代目の光友公の隠居所として、屋敷を構えて移り住んだ邸宅。約13万坪の広大な敷地で、光友公の没後、尾張藩家老職に譲られたが、明治に入り、尾張徳川家の邸宅となり、昭和6年(1931)には19代当主義親公から名古屋市に寄附され、翌年には一般公開されたとのこと。今では、庭園の他に徳川美術館もあり、尾張徳川家の宝物や資料が展示されている施設も増え、この日訪れた受付ではセット券(庭園+美術館)を勧められる。時間的に無理なので、美術館はまた今度の機会にと、庭園だけのチケットをお願いし、入園。
虎の橋と呼ばれる先の散策路からすでに、モミジの色彩が目に飛び込んできて心が躍る。ひょっとして、12月中旬では紅葉の時期は遅いと諦めていたが、今年の見頃は遅れていることを機に、ある意味ラッキーだったかもしれない。
園内は特にエリア分けされてないが、樹木生い茂るエリアと、大きな池の周りを散策できるエリアとあり、まずは池を周遊する。
池泉式回遊庭園をぐるりと歩き、あちこちにモミジの彩る風景を楽しみ、どこから切り取っても絵になる画角を定めては撮影しまくる。若い男女カップルが黒い袴に白い打掛の衣装で専門のカメラマンと一緒に撮影している姿もあって、より華やかな装いを付け足していて、観光客の目を惹いている。
徳川園(2) - モリゾーのひとり言
2025/03/10 (Mon) 16:54:55
一通り池の周りを散策し、次は樹木エリアへ向かう。開放感あふれる中央エリアに対し、こちらには、細い小径の中に木々が生い茂るエリアとなっていて、小川のせせらぎを見降ろしながら築山の方へと行くと、滝の流れる音が聞こえてきて、かなりの水流が激しく岩を叩きつけている。飛び石をつないで滝の近くまで行くことができ、モミジとのコラボをカメラに収め、マイナスイオンも私の中に取り込む。
夢中になっていると、いつの間にか辺りは暗くなり始めていて、ライトが点灯。日照時間の短い、もう冬の時期では16:30頃ですでに暗くなるんだと再認しながら散策し、再び中央エリアへ移動。すっかり夜の帳と化した風景の中に、ライトアップされたモミジが赤く浮かび上がり、水面に映し出される“裏モミジ”も明媚で良い雰囲気。
茶室があるちょっとした高台からは、全体が見渡せ、ベンチで休憩。平日は17:30までの開園なので、15分前まで楽しみ、紅葉狩りを堪能するのでありました~
白美龍神社 - モリゾーのひとり言
2025/03/10 (Mon) 16:55:53
とある平日。地下鉄星が丘駅から地下鉄植田駅行きのバスに乗って、鴻ノ巣バス停で下車し、東へ環状2号線の道路を越えて牧野が池緑地公園へ。ここは名古屋市名東区猪高町大字高針。牧野が池が広がる丘陵地帯で、地元の憩いの場としてゴルフ場などもあり整備されている。
野球場やグランドなどがある脇道を歩き、森の入口に分かりやすく「白美龍神社」の幟が立っていて、さっそく登山開始。
樹木生い茂る木々の中の山道は昼でも薄暗く、砂地がボコボコしているため、雨の日には泥が靴にこびり付くんだろうと想像し、至る所に蛇のウロコのような模様が現れていて、背中を歩いているよう。
しばらく15分ぐらいして、たどり着いた敷地には、幟がいくつも掲げられていて、小さな拝殿前にはいろんな種類の風鈴が吊るされ、この時期を意識してか、クリスマスにちなんだオーナメントが飾られている。
白美龍神社は正式には「羽白美衣龍神社(はくびりゅう)」というらしい。龍とも蛇とも祀っている神社で、拝殿前にはとぐろを巻いた蛇の置物や蛇にちなんだ銘柄のお酒も奉納されている。
江戸時代前期、この辺りは丘陵地帯で水田には通じず、灌漑用のため池を作ることで「牧野池」ができ、田畑を潤すことになった土地柄。そんな牧野が池に戦後の昭和28年(1953)ゴルフコース(愛知カントリー倶楽部)の建設が始まるのだが、たびたび巨大な白蛇が目撃されることになり、それを見た者は高熱に襲われ、倒れたりするほどの現象が起きたという。それなりに対応できる行者を呼んで見てもらったところ、森の主の龍神が怒っているという話になり、龍神を祀る神社を建て奉斎してから鎮まったよう。この白蛇は江戸時代からの目撃情報があり、体長6mもあったというから、この地に居続けていたのだろう。以前に訪れた鳥取砂丘近くの多鯰ヶ池弁天宮も似たようなエピソードだったので、全国にはそのような“ヌシ”がその土地を守っていた伝承がある。
そんな白蛇さんにお参り。お参りしている間、なぜか(偶然なのか)風鈴の音がピタッと鳴り止み(本当です…)静寂に包まれ、白蛇さんが見守っているのだろうか…と、ふと社殿の左側面を見ると、板の隙間から日本ミツバチがせっせと働いていて、なんだか穏やかな心持ちとなり、辺りを散策。丘の上から木々に覆われていてはっきり見えないが、ゴルフコースがあり、モミジも色鮮やかに赤く添えていて、秋色の雰囲気の中、白蛇さんに感謝申し上げるのでありました~
また3、出雲の旅(3) - モリゾーのひとり言
2025/02/22 (Sat) 18:59:15
2月中旬に京都へ行ってきました。節分祭りに行けなかった反動で、どうしても行きた~い衝動が起き、やっぱし、毎年「京の冬の旅」企画が行われている特別拝観には…と、寺社巡りは尽きない。
…ということで、毎度のこと、載っけるのがいつになることやら…とりあえず、浜田市・益田市の旅のシメの紹介~
医光寺(1) - モリゾーのひとり言
2025/02/22 (Sat) 19:00:09
益田東高校のグランドを見ながら参道、鳥居を抜け、さらに東へ歩く。萬福寺同様、雪舟庭園がある医光寺へ向かうと、総門の古めかしい建造物が建ち、かなり年季の入った趣が感じ取れる。
七尾城の大手門だったという総門は、関ケ原の戦いの後に移築され、屋根を龍宮造りに改造したとのこと。七尾城主の益田家が庇護していたお寺であることからか、立派な門を見上げ、さっそく境内へと失礼する。
広い敷地の駐車場、そして中門まで続く参道を経て、鐘楼や刈り込まれた松の木を眺めながら、益田宗兼公のお墓に手を合わせ、庫裏で拝観受付を済ませ、本堂へ。
本尊の薬師如来、脇侍に日光月光菩薩像にお参り。縁起によると、元は崇観寺の後身のお寺で、崇観寺は現在地の西方にあった古刹とか。東福寺派の因師が開山し、益田家の援助を受けて栄え、益田宗兼公が医光寺を現在地に建立して以来、崇観寺が衰退し、合併という形で紆余曲折を経て、今に至っている。
そんな当寺に文明10年(1477)に益田を訪れた雪舟。雪舟庭園は全国に43ヶ所ある内の、その1つがここである。
医光寺(2) - モリゾーのひとり言
2025/02/22 (Sat) 19:01:28
雪舟といえば、岡山県総社市の宝福寺を思い出す。紅葉の名所で有名な宝福寺で、涙のねずみを描いた逸話は、ここでは説明しないが(調べてね…)、幼少の頃より京に上り、相国寺に入り、禅の修行を積み、周文から絵を学んだ…というか、絵の才能は天賦の才があったのだろう。その後、明国に留学して、さらに絵の技術に磨きをかけ、北京では壁画を描いたり、帰国後は大分で画楼に住んで…(省略)と、ここ益田にも絵図を残している。
雪舟は益田で禅に励み、この地で87歳の生涯を終えた人生で、その作品を所蔵している当寺、そしてその庭園をいよいよ拝観。
庭園は背景の裏山を利用し、斜面の築山にはサツキやツツジの低木が、長方形や円形に刈り込まれていて、左手にはまだ赤く染まっていないモミジの木々、右手には、今は枝だけが垂れ下がっている枝垂桜の木が一本、この庭園の象徴のように配されていて、手前には池がある。
いただいた冊子によると、鶴を模った池の中に、亀島を浮かべていて、亀の背中には中心石と三尊石を置き、西側の丘にある須弥山石からは枯滝石組を造ってバランスよく整えていると。石を仏として禅の世界を表しているのだろうか、後はその人が見るそれぞれの心の表れ方で、それぞれの違った見え方があるのだと。客殿にはなぜか、鶴と亀のぬいぐるみが仲良く“鎮座”していて、一緒に禅の世界を楽しむ。
心静かに眺めていても、悟りを開くほどの心根はなく、ただ単純に庭園を観賞するだけで満足な自分に、「これでイイのだ!」と、堪能するのでありました~
戸田柿本神社 - モリゾーのひとり言
2025/02/22 (Sat) 19:02:32
医光寺バス停からJR益田駅に戻り、小須江津線のバスでJR戸田小浜駅方面、植松バス停で下車、南へ20分ほど歩いた戸田柿本神社に向かう。
ここはJR益田駅から西へ11kmほどにある戸田町という地域。あの柿本人麻呂公が生まれたとされる場所で、北には日本海、南には懐かしい田舎を思わせるような田畑で、山の麓の風景が広がる。
しばらく歩くと、二手に分かれる道に差し掛かり、左は人麻呂公遺髪塚、右に戸田柿本神社の看板があり、まずは神社へ。鳥居の先が緩やかな坂道の参道を進み、境内にたどり着くと、左手に柿本人麻呂公が生まれ育った山間の風景が見え、しばらくのんびりと眺める。
戸田柿本神社は宝永7年(1710)に、津和野藩の亀井茲親公が創建。柿本人麻呂公の生誕地と知られる当地は、奈良時代から語り部の綾部家が守り続けていて、今も語り継がれている。当神社には7躰の木像が安置されていて、それぞれ幼い頃の人麻呂像や人麻呂公を育てた養父母の像、人麻呂公に従う4躰の子供の像と、およそ150年前に作られたとされる宝物があり、ネットでその木人像を見ることができる。
そんな柿本人麻呂公の生没については諸説ある。当社伝によれば、「第5代孝昭天皇の後胤(こういん:天皇の血統やその血統をひく人)の柿本氏と戸田柿本神社の社家、綾部氏の娘との間に誕生し、幼少時代、当地で学問や弓、馬に励み、後に都に上って天武・持統・文武天皇に宮廷歌人として仕え、晩年は石見国府の役人となって、鴨島で没し、鴨島に人丸社を創建、戸田に御廟陵が建てられた…となっているが、全国に柿本人麻呂公が亡くなったゆかりの場所があちこちにあり、先に訪れた高津の柿本神社もしかり、私が訪れた京都や奈良、兵庫などの柿本神社も思い出すが、本当のところは分かっていない。とにかく謎の多い人物で、江戸時代の国学者によると、草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)の舎人として仕えたとの推定もされている。まぁ~、通説では、天武朝に役人として仕え、天皇を神格化するための和歌を詠んでいたと考えられていて、「万葉集」における代表的な歌人であるということは間違いないみたい。
謎多き人麻呂公を偲びながら、拝殿でお参り。ここに来れたことだけでも感謝し、次は遺髪塚へ。
人麻呂公遺髪塚 - モリゾーのひとり言
2025/02/22 (Sat) 19:03:25
神社から二手に分かれる道まで戻ってきて、集落の中を歩く。たどり着いた遺髪塚には鳥居も建ち、苔の広がる社地に神秘的な雰囲気が漂う。先ほどの戸田柿本神社の社伝によると、人麻呂公の御廟所が建てられたというその墓所がここで、遺髪を祀っているから「遺髪塚」と呼ばれていて、綾部家が代々守り続けている。
傍らの石碑には由緒が書かれているが、細かすぎて良く見えない。ネットで何が書かれているのか見てみると、江戸時代、享保10年8月25日、地鎮祭の時に、地中より異物が出てきたためそれを開くと、神殿から(戸田柿本神社のことか)物音が鳴り響いたとされ、そこで神殿へ見に行くと、安置されていた御神体の尊像が落下していたことから、この地を人麻呂公の御廟所と定めて石碑を建てたとある。
「尊像が落ちたから御廟所にしようとした!?」
「そもそも、その“玉手箱”を開いたらいけなかったんじゃないの?」と。
と、とにかく、目に見えない力が働いていたことがあったのだろう、人麻呂公が「眠る場所は、ここにして~」とお願いしたのかもしれないが、ゆかりの地である遺髪塚に手を合わせ偲ぶ。
遺髪塚の北側には社務所があり、事前にアポを取っていたので、宮司さんに会うことができ、御朱印を拝受。七尾城跡にある住吉神社の御朱印もいただき、名刺もいただく。名刺には「戸田柿本神社五十代宮司 語家 綾部○○」とあり、50代に渡って語り部を守り続けてきた証明を見、ありがたくその名刺も私の宝物の1つとなるのでありました~
衣毘須神社 - モリゾーのひとり言
2025/02/22 (Sat) 19:04:19
遺髪塚から北へ、集落の中の畦道を歩き、いつの間にかJR戸田小浜駅界隈の海岸通りに。
そこから西へ向かうと、波の音が徐々に聞こえ、砂浜に打ち寄せる波、日本海の海原が見渡せる風景に変わり、気分が良い。
砂浜に降りられる場所まで来ると、もうすでに視界に入っている小島が見え、特別感があるような、自然にできた地形はどこか、神秘的に見えてくるもので、島の入口に鳥居が建っている。
ここは小浜海岸。その先に通じる「宮ヶ島」という岩礁で、その上に建つ衣毘須神社は松江市の美保神社を本官とする、事代主命の分祀をし、建てられた社。事代主命=えびす神は商売繁盛、大漁招福、五穀豊穣などの御利益があり、まさにこの島にぴったりの御祭神。
島に通じる砂浜を歩いていくのだが、満潮時や海が荒れている時は行けない。潮が引いている時でないと渡ることはできず、訪れたこの日、運よく大丈夫で、1、2時間すれば潮が満ちてくるような波の具合だったので、気持ち、急いで島へ。
鳥居から石段を上がると、小さな社殿が建ち、屋根は石州瓦の、潮風に耐えてきた苦労?が垣間見えるような造りで、さっそくお参り。
島から西の三生島、東には猫が背中を舐めているような猫島が見え、自然の浸食で岩礁が生まれた奇跡をこの目に見れたことに感謝し、眺める。
本日はちょっと曇り空であるが、海岸沿いの砂浜を歩き、日常では聞けない波の音を聞きながら、いつまでも飽きない風景に癒されるのでありました~
櫛代賀姫神社 - モリゾーのひとり言
2025/02/22 (Sat) 19:05:12
最終日。JR益田駅からバスで、福王子口バス停で下車し、益田川を越えて東へ。橋を渡っている途中、南の空に雲の隙間から後光のように射す光景を目にし、「導かれているのか?」と太陽神(=天照大神)にひとり言のように問いかける。
カーブの道から森の中へ差し掛かる途中で石段を見つけ、上がる。上がった先が広い駐車場になっていて、益田川を見渡せる丘の上に位置し、益田市街地を何とはなく眺める。
鳥居近くのイチョウの木が黄色く色づく中、境内へ失礼すると、広い敷地に古めかしい拝・本殿が建ち、この地域特有の石州瓦が目立つ拝殿、三間社造りの本殿が立派でそこそこ大きい。
さっそく拝殿でお参り。櫛代賀姫神社の御祭神は名称の通り、櫛代賀姫命(くしろかひめのみこと)と応神天皇。櫛代賀姫命をネットで調べると、櫛色天蘿箇彦命(くしろあめのこけつひこのみこと)とセットで出てくる。浜田市と益田市のちょうど中間地点の「鎌手」という地域にある男島・女島に降臨したとされる伝説があり、「石見鎌手郷土史」によると、雄島(男島)と雌島(女島)において会合されるのが常で、2柱の神がじっと立って互いに相対した時、虹が出現したと。そして、男神がいつもこの地へ会合に通われる時には頬被りをして、ともすれば脱げることがあり、頬被りをしている間は、月の面が被われて暗いが、脱げかけると月光となって明るく輝いたので注意を払っていたとも…という伝承がある。
ちなみに、当神社は益田市矢城町にあり、浜田市久代町には櫛色天蘿箇彦神社があって、二日目に訪れた浜田市下府町にある伊甘神社の御祭神が天足彦口押人命。その子が彦姥津命(ひこおげつのみこと)としていて、櫛色天蘿箇彦命が同じ御祭神ではないか(“おげつ”と“こけつ”に通じると?)という説がある。
…とまぁ~、月の話が出てくると、月神、日神、月読命、天照大神…と想像が膨らむが、この地域に根差した2柱の神が“櫛代族”によって祖神を祀ったことは間違いないようで、月と太陽に由縁があるのだろうかと、当神社の云われを知る。
それから、こちらの神社には特殊な神事があり、①角力神事②針拾い神事③獅子舞神事とある。その中で角力神事は鎌手大浜浦にあった社を当地に遷座する際、鎌手の人たちとの集いが始まり、相撲で勝負することを決め、結局勝負つかず、この故事にちなみ、「引き分け角力」の神事が行われるんだとか。あとの2つも、遷座されたのをきっかけに神事が始まったと云われ、ちょっと…まだ遺恨があるんじゃないの?と思ってしまう。
そんな由緒ある神社境内を散策後、社務所に行き、事前に約束の時間をお願いしていた宮司さんにお会いし、御朱印を拝受。由緒書や史料をいただき、感謝申し上げるのでありました~
延命寺 - モリゾーのひとり言
2025/02/22 (Sat) 19:06:16
JR益田駅に戻り、ホテルのレンタサイクルで元町にある延命寺へ。元町は駅から南にある地区で、小路を走り、ちょっとした上りの坂道を上がった境内に到着。こちらも事前に訪れることを約束していて、まずは庫裏へ赴き、住職さんにご挨拶。本堂へ上がらせてもらい、本尊の地蔵菩薩にお参り。
延命寺は南側にある赤城山の麓にあり、元々は、八束郡本庄村より移転再建したお寺。弘法大師の信仰によって幾人の上人の難病を回避した経緯から、山を切り開いて堂宇を建立し、衆生済度(しゅじょうさいど:迷っている衆生を救い出して悟りの境地へ導くこと)の道場としたとされる。なので、「延命」という名称になったのだろうと勝手に思いながら、御朱印をお願いし、しばらく住職さんと談笑。
名古屋からの訪れに労って下さり恐縮。寺社めぐりを通じての仏とのつながり、若い人のお寺離れ、直接対面せずSNSの文字だけで会話する懸念…などなど、いろいろと世の中の問題点や改善を話し、密度の濃い内容で1時間も滞在してしまう。
本日はこれで名古屋に帰る予定であったが、七尾城跡にある住吉神社に行こうか迷っていると、自転車であれば15分くらいでたどり着ける情報を教えてもらい、感謝×2で、境内から立ち去る際も見送って下さり、住職さんのお心使いに、その節はありがとうございました~
住吉神社 - モリゾーのひとり言
2025/02/22 (Sat) 19:07:11
戸田柿本神社の宮司さんから御朱印を拝受したことから、七尾城跡中腹にある住吉神社に向け出発。道程は単純で、大通りを東へ、途中から北東方向に延びる真っすぐの道を進むだけ。延命寺の住職さんの言う通り、30分以内で到着したが、鳥居からの石段が壁のように立ち塞がる。本殿まで行かなくても、石段途中にある、登らなくてもいい拝殿があり、ここでお参りでもいいが、せっかくここまで来たのだからと、時間を気にしながら上がる。
自転車を漕いでからの石段を上がる動作はかなり足に効いて、呼吸も荒れる。そういう時は冷静に無理せずゆっくりと息を整え、一段一段上がる術は、“筋肉を使わない登り方”を自分なりに過去の石段上りや登山で学んだ経験が活きていて実践。
ようやくたどり着いた赤い随神門、境内にある拝殿・本殿の敷地には、もう終わりを迎えるイチョウの木々が出迎え、達成感~
益田市街地が望めるご褒美をしばらく楽しみ、拝殿でお参り。
住吉神社は元々、藤原国兼公が初めて石見の国司として赴任した際、大時化の渡海で身の危険を感じた彼は、海神の住吉神に安全を祈り、無事到着したことを含め、上府の地(上府はこの旅で訪れた浜田市の上府八幡宮と同じ地域)に社を建てたのが始まり。その後、第4代兼高公が浜田の姓を名乗り、七尾城を築城。と同時に住吉社を城山の中腹に遷座し奉斎。永正10年(1513)に第17代宗兼公の時、神功皇后を加えた4柱(他、表筒男命(うわつつのおおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと))を祀り(省略)、現在に至っている。
…ということで、ここからさらに七尾城跡への山道が続いており、本日は帰らないといけないので、またの機会にするとして、最後に旅の無事、安全祈願ができ、住吉神に感謝申し上げるのでありました~
また3、出雲の旅(2) - モリゾーのひとり言
2025/02/11 (Tue) 20:28:18
毎年2月には京都の節分を見に行く!と決めてはいたが、今年は仕事の都合上、行けなくなってしまい残念~。京都では4月からだったか、ホテルの宿泊税アップがニュースになっていたが、検索していると、どこも料金が高い…。まぁ~、こんだけ人が集まるとなると、地元の方の負担が増えてしまうし、致し方ないとも思うし、前々から言っているが、あの“世界遺産”っていうのが気に食わない。いかんいかん、話が逸れてしまうので…
浜田市・益田市の旅のつづき~
三隅神社 - モリゾーのひとり言
2025/02/11 (Tue) 20:29:08
3日目の朝は、浜田市の三隅町にある三隅神社を訪ねる。昨日訪れた水雲嶋八幡宮でのバス路線と同じ、JR浜田駅から途中の三隅神社前バス停で下車する。東へ5分ほど歩くと、広大な駐車場、鳥居から延びる参道には石灯籠が整然と奥へと並び、南側に目を向ければ、背景の丘や山が聳え清々しい。駐車場横の丘にはツツジが数多く植えられていて、春は“ツツジ祭り”が催されるほどの有名な名所であることはネット情報で知っていたので、「なるほど~」と、確かにこの規模のツツジならば、一面華やかに咲き誇る光景が想像でき、今はただの緑葉だが、参拝客で賑わう姿が目に浮かぶ。
玉砂利の参道を踏みしめながら境内へ。神門付近にはちょっとした小川があり、その周りには色づいたモミジが鮮やかに彩り、しばらくパチリを繰り返し、拝殿でお参り。
三隅神社の創建は昭和12年(1937)とまだ歴史が浅い?が、この神社に祀られている御祭神が、南北朝時代に生きた三隅兼連(かねつら)という人物。明治以降、彼の後醍醐天皇への忠臣としての功績を称え、当時の三隅町長である寺戸光次氏によって、地元の寄進やボランティアの努力があっての東奔西走してからの、創建というから、地元にとっては願ったり叶ったりの喜びだったにちがいない。
御祭神である三隅兼連氏は、三隅荘の地頭で、高城山に主城を構えた第4代三隅城の城主。元々、三隅氏は益田氏の分家で、益田兼高の次男、兼信が三隅城に入り、「三隅」と名乗ったのが始まり。南北朝の戦いで南朝側の後醍醐天皇についた経緯は、時の執権、北条高時の暴政の噂を山伏の会話から聞いたことだが、兼連の妹を後醍醐天皇に嫁がせたとかいう話…そんな美談?のような物語を創作した信憑性のない話なので分からないが…とにかく、南朝側に就いて、洛中桂川で戦死したと、地元の英雄として祀られた三隅兼連は、ツツジやモミジとともに、この地域のたたらを見守ってきたのだろうと、境内にある寺戸町長の銅像に“あいさつ”し、社務所(宮司宅?)に移動。御朱印を拝受し、次は龍雲寺へ向かう。
龍雲寺(1) - モリゾーのひとり言
2025/02/11 (Tue) 20:29:57
龍雲寺へは山道を40分ほど歩かなければならない。山道といっても舗装されたアスファルト道路だが、最近のクマ出没のニュースから警戒心強めで進む。木々を囲む林道から、時には麓の景色が木の隙間から見え、徐々に上がっているのが分かり、車が3、4台私を追い越していく。ようやく平坦な道になって寺域へと入ってきたのが分かると、モミジが所々で色づいていて、大きなお地蔵さんが出迎えて下さり“ごあいさつ”。
今年の紅葉は全国的に遅いと予報していたが、山では例年どおり(この地方では11月中旬)だと思い、この時期に訪れて正解。境内のあちこちに彩るモミジを眺めては、まずは参道周りの庭園を楽しむ。
本堂の敷地へと続く真っすぐの参道は、丘を上るように緩やかな坂となっていて、その両サイド、右手には池、左手には東屋の展望台や十一面観音像、平和の鐘などが配され、イイ具合にモミジが配されている。パチリしながら回廊門から失礼し、本堂内へ。
龍雲寺(2) - モリゾーのひとり言
2025/02/11 (Tue) 20:34:22
本堂内、本尊の釈迦如来にお参り後、書置きの御朱印を拝受し、天井を見上げる。京都の有名どころで拝観できる、いわゆる「八方睨みの龍」が描かれていて、江戸幕府絵師の木挽町、狩野派7代目の、狩野法眼惟信という方が作者らしい。今年は辰年(去年の話なので…)ということもあって、今年もあと1ヶ月ちょっとあるけど、感謝と労い?を伝え、じっくりと眺める。
「龍」といえば火災から身を守ってくれるご利益があるのだが、当寺には厳島神社との縁起があるようで…
ある夜、正受和尚(当寺十世)が眠っていると、夢枕に市杵嶋姫命が現れ、「安芸の宮島が火事です」と言って消える。和尚は禅堂の修行僧たちを叩き起こし、参道入口にある「雲包石」という巨岩に手桶で水を掛けさせ、修行僧たちは「?」驚きながらも一心不乱に水を掛け続けると、しばらくして和尚が「火事は収まったから、近々厳島から便りが来るだろう」と行ってその日は引き揚げることに。
翌日、厳島神社の使者が参上し、「おかげで神社の火災が鎮まりました」とお礼の品に、蓮糸の御袈裟と大額を献上され、この時献上された御袈裟は今でも宝物として保管されているという。
夢枕に神様が現れる伝承はよくある話だが、遠隔操作で火災を消した!?正受和尚の神通力というのか、修行による法力というのか、市杵嶋姫命は知っていて、お願いしたのだろうかと、当寺の名称となった縁起がありオモロイ。
龍雲寺(3) - モリゾーのひとり言
2025/02/11 (Tue) 20:35:22
天井絵を見終え、山門から西へ「平和の鐘」や「十一面観音像」などの周りにはモミジが見頃を迎えていて、散策していると参拝客から声を掛けられる。
「先ほど、車から歩いている姿を見て…すごいなぁ~と感心していたんですよ~」と。
「いえいえ、歩くのが好きなだけですから…」と会釈し、その方の手には手軽なノートとペンを持っていて、俳句か短歌か吟行をしていたのだろうと、良い題材が見つかったかのように「どうも…」と別れ、他にも私に声を掛けてきて、「どちらから?」とか「そんな遠いところから!」とか、どうやら俳句仲間なのだろう、労って下さる。恐縮しながらも、少し談笑し、紅葉狩りを楽しみ、しばらく境内の雰囲気を味わうのでした~
高津柿本神社 - モリゾーのひとり言
2025/02/11 (Tue) 20:36:21
JR浜田駅へと戻り、お世話になったホテルに荷物を預けていたので取りに行き、宿泊地を変えるため、再びJR浜田駅からJR益田駅へ移動。当然、三保三隅駅―益田駅間は不通のため、シャトルバスの運行だが、JR益田駅に到着したのは15:30頃。
駅近くに予約を入れているホテルにチェックイン前の荷物を預け、次に向かう高津柿本神社に電話してみる。
「自転車で行くんですけど…何時まで受付してますか?」
「16:00までですけど、自転車なら十分間に合う距離ですよ」と。
連絡を取り付け、ホテル1階に置いてあるホテルのレンタサイクルを借り、急いで西へ走らせる。
高津川に架かる鉄橋を渡っていると、西側に見える木々や社殿が見え、かなり規模の大きい神社だと分かり、駐車場に自転車を停め、鳥居から先の石段参道を見上げる。自転車をこいできたばかりなので、ちょっと足にくるかもと、鳥居付近の小さな池で泳ぐ錦鯉を眺めながら、小休止。長い石段参道を上がると楼門が建っていて、内側に由緒書の案内があるが、とりあえず本殿のある中腹へと急ぎ、ようやく到着。
心静かに整え、切妻が三重になっている立派な拝殿でお参り。拝殿の向かいには、益田市内を横切る高津川周辺の景色が見渡せ、近くの立札には人磨の歌が書いてあり、「石見のや 高角山の木の際より 我が振る袖を 妹見つらむか」と、石見の国に妻を残して上京してきた時に詠んだ歌が「見つらむか(見えるだろうか)」に集約されているようで、その情景を浮かべ、しばらく佇む。
…ということで、社名の通り、ここは柿本人麻呂公を祀った神社。元々、高津川河口付近にあった鴨島で、逝去されたことを嘆いた聖武天皇が勅命により、鴨島に人丸社を創建したのが始まりで、地震のために陥没した鴨島から(省略)現在地より北の松崎の地に社殿が再建され、その後、慶長13年(1608)に石見銀山奉行の大久保長安によって造営、寛文11年(1671)には津和野藩主の亀井茲政(これまさ)によって宝殿、拝殿、楼門が修理され、現在地の高津城跡に移転された歴史がある。
そんな柿本神社の総本社でもある境内には、人麿公の銅像が威風堂々と“鎮座”していて、右手に筆、左手に瓦を持っていて「歌聖」と呼ばれるだけあって、宮廷歌人らしい?いで立ちである。
神社の雰囲気を味わいながら、社務所で先ほど電話した者であることを伝え、「若いからさすが、来るのが早いですね」と言われ、「こう見えて50代なんですけど…」と思いながら、ちょっと嬉しく御朱印を拝受。人麿公ゆかりの神社を訪ねることができて、感謝×2。
枕崎神社 - モリゾーのひとり言
2025/02/11 (Tue) 20:37:08
4日目。本日は午前中、益田市内東側地区の七尾城跡付近の寺社巡り、午後は西地区の戸田小浜へ行く。
駅前からバスに乗って、裁判所前バス停で下車し、南へ。支流の川沿いを歩き、こんもりとした丘の上に社殿が建つ枕崎神社へ。鳥居から石段を上がると、当神社ではなく、お稲荷さんを祀る社で、どうやら裏から失礼してしまい、いきなり拝殿前に出てきて、さっそくお参り。
拝所には由緒書と書置きの御朱印が置いてあり、拝受。由緒書によると、御祭神は宇迦魂命、大国主命、猿田彦命の3柱とあり、古伝には聖武天皇の御代、背後の稲積山に3柱を奉斎したことが始まりで、平安時代には稲虫の大量発生に多大な被害を受け、一心なる祈願により御神徳が利き、生活の困窮を免れたことがあるとか。鎌倉時代になると、七尾城主となった益田兼高公が稲積の山頂を削って社地を広げ、南北朝時代の争乱に、石見の国司、日野邦光が山に砦を築いたため、山頂の神社を現在地に移して枕崎神社と改称した…という歴史があるらしい。
規模としてはとても小さな神社だが、その昔、この地域の五穀豊穣には欠かせない社として崇められていたことを知り、3柱に“ごあいさつ”する。町が動き出す朝の雰囲気の中、感謝を述べ次へ。
妙義寺 - モリゾーのひとり言
2025/02/11 (Tue) 20:38:06
枕崎神社から東へ。益田高校を過ぎ、お隣の妙義寺へ移動。園児たちの声が聞こえる山門付近にはマイクロバスが停まっていて、当寺が幼稚園?を経営しているのだろう、こういうパターンはたまに見かけるお寺の営業形態で、さっそく山門を潜ると、境内では何やら人が集まっていて、催しでもあるのだろうかと気にしながら、まずは本堂内でお参り。
妙義寺は文永年間(1264~75)に臨済宗の妙義庵として創建され、応永元年(1394)に七尾城主の13代目益田秀兼(兼家)公が370余石を寄進して曹洞宗に改め、菩提寺としたとある。
幕末では、第二次長州征伐の石州口の戦いで、長州軍はこの寺を本陣とし、野戦病院を設けるなど歴史の舞台となった場所。幕府と長州の対立は、兵力では圧倒的に幕府軍が有利の状況にもかかわらず、薩長同盟を締結した薩摩藩から西洋式の軍備を取り入れた長州軍が健闘し、最終的には大坂城へ出陣中の14代徳川家茂が亡くなり、これを機に、幕府軍は休戦、講和が結ばれ、事実上、幕府の大敗という結果とともに幕府軍は求心力の低下で、国内の諸勢力が倒幕へ一気に傾き始める流れとなったのは、教科書でも知るとこだろう。
思い返せば、浜田市の浜田城資料館を訪れた時に知った、浜田城跡は、幕府側のついた浜田藩だったが、松山藩が逃げてしまい、そのまま長州軍が浜田城を制圧したことだった話を思い浮かべ、倒幕のきっかけになった場所に来ているんだと改めて頷く。
そんな歴史があったお寺、本尊の十一面観音さまにお参り後、外で賑わっている人の輪の中へ行き、住職さんに御朱印をお願いする。
待っている間、その様子を伺っていると、園児たちが加わり、餅つき大会が始まるようで、私は御朱印をいただきその場から立ち去る時だったが、「餅つきか~」と、久しぶりに杵で餅をつく光景を見、「子供の頃やったなぁ~」と思い返すのでありました~
妙法寺 - モリゾーのひとり言
2025/02/11 (Tue) 20:39:18
益田高校から北へ、数分で妙法寺に到着。山門からすでに立派な鐘楼が目立ち、境内に失礼すると、本堂は開放されていて、朝の清掃を終えたばかりなのだろうか、板間には雑巾で床を拭いた跡が残っていて湿っている。
さっそく本堂内へ入りお参り。
妙法寺はこちらも、妙法庵という小さな庵が元で、開山は教蔵院日泉上人。こちらの本堂を建立したのは藤井甚右衛門宗久という、第20代益田元祥公の武将だった人物。
藤井宗久は朝鮮出征(征韓の役)に出陣し、総大将の加藤清正公の風貌に憧れ、清正公の武士道精神に傾倒し、清正公が法華経を信仰していた影響で自らも日蓮宗に帰依するほど「清正さま~」と、宝塚ファンのごとく?の熱狂ぶりだったらしい。
本堂建立にあたっては、七尾城主であった益田元祥公に寺地の寄進を懇願するほどで、約1400坪を賜り、本堂完成とともに寺号を妙法寺としたと伝わる。
本堂内には、清正公の像が祀られていて、今では勝負事や学業、商売の御利益として広く信仰されている。ちなみに、現在の本堂は2度の火災後の、明治に建てられたお堂だが、医光寺(後に訪れる)の解体された材料で建てられているとのこと。
宗久さんはかなり、清正公を崇敬するほどの日蓮宗にのめり込んでいたのかと…思うと、今でいう“推し”ということか…昔も今も変わらないなぁ~と、当寺に纏わる人物を知る。
住職さんにお会いし、御主題をお願いし拝受。名古屋からの訪れに「それはそれは」と労って下さり、感謝×2。次に向かう萬福寺の道順を教えてもらい、お礼を述べ後にする。
萬福寺(1) - モリゾーのひとり言
2025/02/11 (Tue) 20:40:20
妙法寺から北へ進み、益田川に架かる大橋を渡って、川沿いを東へ。一本のイチョウの木が黄色く色づく風情を眺めながら、小規模な敷地に建つ天満宮にお参りし、隣にある萬福寺山門を潜ると、広い境内に、奈良の元興寺ではないが、そのお寺を思わせるような、横に長い本堂がお目見え。
七尾城11代目城主の益田兼見公により建立された本堂の傍らには、雪舟の銅像が立ち、こちらのお寺には雪舟が作庭したという「雪舟庭園」がある。
…とその前に、当寺の縁起について。元々は、益田川河口付近に平安時代、安福寺として建立されていたそうで、万寿3年(1026)、大津波のために流失し、元応元年(1319)に春海上人が当寺に入寺されたのを機に、天台宗から時宗の道場になったとされる。
応安7年(1355)に現在の地に益田兼見公が移築して、萬福寺と改称し、益田家の菩提寺と定められ、15代城主の益田兼尭(かねたか)公の時、自ら雪舟を招いて石庭を造らせた…とのこと。ちなみに、当寺と医光寺の場所は、第二次長州征伐の時の、幕府軍の陣営で、総門は焼失したが、幸いにも本堂や庫裏はそのまま現存された建物なので(昭和9年に解体修理してる)、歴史的価値がある。
さっそく庫裏で拝観受付と、御朱印帳を預け、まずは本堂へ。きらびやかな欄間に囲まれた内陣には本尊の阿弥陀如来が祀られていて、お参り。柱には弾痕と見られる跡があり、石州の戦いで残った爪痕が見て取れ、何とはなしに触れる。
寺宝には国の重文である「二河白道図」を展示。阿弥陀如来と釈迦如来が向かい合って、現世の釈迦が往生者を送り出し、浄土の阿弥陀如来がこれを迎える構図になっていて、時宗の一遍上人の念佛思想を表している。他にも「熊野権現神勅〇の図」(〇は忘れた…)は、一遍上人が熊野参詣で熊野権現から何かを授かる絵図で、狩野○○(忘れた…)が描いたとされるものを見、京都で時宗巡りをしていたので、すんなり頭に入ってきて、益田市で一遍上人に会えるとは、これも何かの「縁」ということだろうか、じっくりと観賞。
仏像群は腕のない観世音菩薩や多聞天、持国天、阿弥陀如来坐像など、襖絵では水墨画の「山水図」を見、当寺の寺宝を拝観。
…で、いよいよ雪舟庭園へ。
萬福寺(2) - モリゾーのひとり言
2025/02/11 (Tue) 20:41:42
本堂裏手に広がる雪舟庭園。説明によると、須弥山世界(仏教の宇宙観)を表した石庭とのこと。中央にある須弥山石から右側は築山になっていて、滝を模した枯滝を配し、左側は平垣、その石が配されている前面には石で囲まれた心字池があり、バラバラのような石の配置でありながら、無駄のない整った据え方のようで、「これが匠ということか…」と納得。
しばらく石庭の落ち着いた雰囲気を味わい、客間からも座って眺める。
雪舟は日本水墨画の“画聖”とも云われ、この世に国宝指定されている絵図を残している。ウィーンの世界平和評議会で「世界十大文化人」として唯一、日本人として選ばれたとも。水墨画以外にも当寺のような石庭が、福岡や山口にもあり、悟りの境地を表現した、いわゆる“庭園曼荼羅”のイメージだろうか、そのような“作品”を他にもお目にかかりたい。
時間を忘れるほどに静かな空間で佇み、限のいいところで立ち上がり、受付で御朱印を拝受。
次へ。
染羽天石勝神社 - モリゾーのひとり言
2025/02/11 (Tue) 20:43:25
萬福寺から北へ。イチョウやカエデの木が色づく境内の西側から入ってしまったので、歩いた先の正面に見える建物が拝殿かと思いきや、北側に立派な本殿が建っていて、どうやら参集所?神楽殿?を拝殿と間違えていて、改めて拝殿でお参り。
ここは染羽天石勝神社。御祭神は天石勝命(あめのいわかつのみこと)と社名のとおり、この地方を開拓した春日族の始祖らしい。昔は、社殿のようなものはなく、自然崇拝という形で“岩”を崇めていたようで、社殿が建てられたのは平安時代になってから。と同時に、神仏習合思想の波が全国的に広がると、当社も別当寺として勝達寺という寺が社殿西側の高台に建てられ、相殿神として熊野十二柱も祀られたと。江戸時代には4代将軍徳川家綱公の時、幕府の御朱印地として社領60石が寄進され、将軍の代替わり毎に発行されたというから、かなり厚い庇護があったことが分かる。
明治時代にはあの、神仏分離令による勝達寺の廃寺は免れず、この時の御本尊、不動明王座像は鎌倉の極楽寺に、今も安置されているそうで、意外と?歴史ある神社なんだと再認識。
境内を散策。本殿裏手には、一枚岩の断崖が聳える“岩”に注連縄が飾られ、その本殿は三間社流造で屋根は檜皮葺、彫刻や彩色を施した蟇股など桃山建築の特色が見られる。
東側には鬱蒼と茂る木々の中にちょっとした池があり、どこか神域的な雰囲気。こういう所に立ち寄ると人は思考停止になる…のを振り切って社務所へ。
社務所は開放的な状態で無人のよう。書置きの御朱印があるので拝受し、天石勝命に感謝し後にする。
つづく…
また3、出雲の旅(1) - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 19:55:31
今回は島根県の西側に位置する浜田市・益田市を訪ねました。西出雲といえば、「石見神楽」。一度は生で見てみたいが、なんせ休日でしか上演してないので仕方がない。地方公演で、名古屋でやってくれないかなぁ~なんて期待しているのだが…
とにもかくにも、11月上旬に行った4泊5日の旅~
浜田護国神社 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 19:56:37
島根県浜田市へ行くルートは、新幹線でJR広島駅、そこから高速バスを利用してJR浜田駅へと、かなり時間を要する。JR浜田駅に到着したのが15:00ごろ。2日間お世話になる駅近のホテルに荷物を預け、市内循環のバスに乗り、城山公園前バス停で下車、まずは浜田城跡内にある護国神社を訪ねる。
浜田城資料館駐車場から城跡の入口があり、山の中を上がっていく。案内板を頼りに、整備された散策路を歩き、いつの間にか護国神社の拝殿横に出てきて、さっそくお参り。
両側に建つ翼殿に囲まれている拝所でお参りすると、何かに守られているような、戦没者2万3千柱も祀られているというから、かなりのプレッシャー?を受け入れ、英霊たちに感謝を伝える。
境内には「平和記念傷病の碑」や「母の像」「木口小平之像」「ノモンハン事件慰霊碑」があり、「木口小平之像」はラッパを口にして構えている立派なお姿。木口小平氏は岡山県出身で、歩兵第21連隊に所属。出征の地がここ浜田であったことから、昭和36年の当地に石像が再建され、日清戦争時、ラッパ手としての腕前はもとより、戦禍で倒れてもなお、ラッパを口から離さなかったという逸話が残されている。戦時下において軍は、英雄を前面に押し立て、国民を抑揚に導く常套手段を考えたことは想像に難くないが、何にせよ、戦地で勇敢に戦った事実と、戦争がいかに愚かなことであるということをこの像が象徴している。
木口小平氏は今日も静かに、平和を訴えているようで、しばらく感慨深く見上げる。
社務所で御朱印を拝受し、浜田城の本丸跡へと移動。
浜田城跡 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 19:57:35
護国神社の本殿脇から浜田城跡の本丸へと続く山道を歩く。明治時代に長州藩から浜田県が設置された時に、県庁の門として建てられた「浜田県庁の門」がで~んと建ち、ここを入口として二の丸跡へと続き、枡形虎口や周りの石垣が「お城~」という痕跡を見、本丸跡地に到着。
浜田城は標高67mの丘陵上に築かれた平山城。初代浜田藩主の古田重治が居城として元和6年(1622)から築城に着手し、3年後に城下が整ったと云われている。古田重治は三重県の松坂藩から浜田の地に転封し、5万4千石の浜田藩が成立したが、2代重恒に跡継ぎができず改易。代わって松平守家が入り、広島県の福山藩とともに中国地方の抑えとして城下町の整備や新田開発などを行っていく。その後は、本多家、松平家と藩主が代わり、長州藩の支配地になるまで、各家合わせて18代続いている。
産業面では石州半紙、たたら産業、植林など発展。浜田城北側に位置する外ヶ浦では、北前船の寄港地として物流の流れも発展した歴史がある。
本丸跡地には何もない空間が広がっているが、ここから眺める景色がすばらしく、北側には松原湾、外ヶ浦の中島、西側には浜田川、浜田市街地が望め、浜田市の歴史を俯瞰で覗き見るようにしばらく佇む。
本丸跡地には二重櫓の天守や長屋が建っていたというから、この場で建造物のイメージをし、藩主たちはここからずっと民を見守っていたということか…と、カラスが私の余韻を打ち消すかのように邪魔するので、限を付け下山する。
浜田城資料館 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 19:58:34
元来た道を戻り、駐車場にたどり着くと、隣の浜田城資料館が気になったので、入館してみることに。無料で館内に入れる施設で、まずは当館の建物の説明から始まる。この建物自体が「御便殿」と呼ばれ、かつて、東宮殿下(後の大正天皇)が山陰を行啓された際に宿泊施設として建築されたものらしい。「へぇ~」と、どうりでベンガラ色の屋根をした古い構造の建物だなぁ~と思っていたのもそのはずで、どこか品があるというか、それが第一印象である。
展示内容は東宮殿下が山陰行啓した足跡や御便殿内のレイアウト図、明治期に撮影された写真など、かつて庭園があった場所からの出土品など貴重な資料がある。
東宮殿下宿泊後は、松平家の別荘として、昭和9年(1934)頃には公会堂、行啓記念館として活用され、昭和23年(1948)に個人の所有物となり、(省略)平成18年に浜田市に寄贈され現在に至っている。
そして、浜田城跡、北前船などの展示、浜田市の文化として「長浜人形」が雛飾りのように展示され、勉強になる。館内を順番に見て回ると、玉座の部屋には、違い棚や床の間、欄間には鳳凰の透かし彫りなど、さすが天皇をお迎えするだけの造りになっていることを知り、浜田市の歴史をある程度学び、退館して遠目から改めて見る「御便殿」は、すっかり夕暮れ時の様相を呈し、窓に明かりが灯っている風景は、東宮殿下が泊まっていた面影を想像し、歴史に想いを馳せるのでありました~
写真は長浜人形
伊甘神社 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 19:59:37
2日目。JR浜田駅からJR下府駅へ移動し、駅から北側にある伊甘神社へ。鳥居前の参道脇に末社が2社祀られていて、奥に見えるイチョウの木がまだ黄色く色づいてはいないが、その背丈の大きいこと…この神社を守っているのが分かる。
境内へと失礼し、拝殿でお参り。拝所上の龍の彫刻が素晴らしく、金網が貼ってあるということは盗難防止策ということだろうか、ひょっとしたら落下防止かもしれないが、金網越しでちょっと見難い。そんでも龍の目がひん剝くほどの表情は吸い込まれるようで、しばらく縛られたように見入ってしまう。
境内を散策。浜田市の天然記念物に指定されている大きなムクノキの根元には穴がぽっかりと空いていて、とても穴の中に入る勇気はないな…と触れるだけにして「御所の池」へ。
伊甘神社の社地はかつて、石見国府があったとされる場所で、古くは「国府庭園の池」であったと伝えられている。どんな日照りの年でも水が枯れたことがないと、ここら辺一帯が下府砂丘下の清水が豊富にこんこんと湧き出る水筋に当たるという。なので、国府がここに置かれた理由の1つとも云われている。
神社の由緒によると、創建年代は不詳。御祭神は古代に石見地方を開拓した小野族の遠祖、天足彦國押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)で、第5代孝昭天皇の第1皇子とされる。系譜を見ると、弟の日本足彦國押人命が、父帝が崩御された翌年に、第6代孝安天皇として即位しているので、弟に皇位を譲ったのか、はたまた、権力闘争に負けたのか…な~んて想像してしまう。まぁ~、この時代の天皇は100歳を超える“とんでも長寿”で、実在していたかもわからないので、絵空事である。
そんな国府の地にあった伊甘神社の御朱印は、ここから東にある「上府」という集落の上府八幡宮で拝受できるという情報なので、そちらを目指す。
上府八幡宮 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 20:00:37
伊甘神社から30分ほど歩き、山林を抜け、開けてきた土地を眺めながら上府の集落に到着。八幡宮の鳥居が遠くからでも分かる大きさで建っていて、奥の木々は森のように生い茂り、まるで神様が降臨したかのように、参道を挟んでぱぁ~と分かれている。
鳥居を潜り、石段を上がると、広い境内地に拝殿、本殿、参集所のような神楽殿と配置されていて、さっそくお参り。
上府八幡宮は伊甘神社と同じ、古代において石見国の中心地であり、中世を経て、中心地としての役割を徐々に終え、江戸時代に入ると、古田重治(初代浜田城主)が元和5年(1619)に転封され、ここの集落も山村として発展していく…と、ネットの情報でもあまり詳しいことが載っていないので分からないが、境内の神楽殿では定期的に「石見神楽」の奉納舞が行われているそうで、浜田市やその周辺は、この「石見神楽」が文化的遺産で、一度は必ず見てみたいと思っている演舞。ニュースとかで八岐大蛇がくねくねと踊る?姿や素戔嗚の濃い顔、イカツイ顔の表情のお面(だったかな?)を見たことがあるが、どうしても休日にしか公演してないので、いつかは見てみたい。
と、そんな想像を浮かべては、神楽殿の正面入り口上にも龍の彫刻が飾り付けられていて、伊甘神社の“龍”と同じ作者だろうかと見入る。境内の雰囲気を味わい、宮司宅を訪ね、御朱印を拝受。なぜか、伊甘神社の御朱印はあって、上府八幡宮の御朱印はないという…まぁ~いただけるだけでもありがたいので、お礼を述べ後にする。
多陀寺(1) - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 20:01:28
上府八幡宮からJR山陰線の線路を越え、下府川に架かる橋を渡り西へ。「湯屋谷」と呼ばれる集落から山道へと上がり、途中、少し高い崖の上には「府中岩屋地蔵」があり、手を合わせて“ご挨拶”。石仏からさらに坂道を上がると、ようやく多陀寺への石段まで来て、一息して再び長い石段を上がる。
広い駐車場に出て来て、右手側に仁王門がで~んと建っていて、「やった~」と達成感に酔いしれ、ここでも休憩(あわてないあわてない…)。
仁王門はその名の通り、阿吽の像が左右格子の中に鎮座していて、“あいさつ”し、門を潜ると、傍らに木で作られたカバの形をした腰掛け椅子があり、説明看板を読んでみる。関西弁風に、自分のこと(カバ自身)を紹介していて、「ぼくは長生きで生命力が強く、慈愛深く子育てをすることから延命長寿、開運招福、安産・子育て安泰の御利益があるんや~」と。カバってそんな御利益があったなんて知らず、思わず腰掛けて境内を見渡す。座れば何となく運もつくってことか…と、説明の最後に「カバのチャーリーより」と締めていて、チャーリーの背中をさすり「オモロイ…」と別れを告げる。
多陀寺(2) - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 20:02:25
境内は広く、本堂を始め、左手には水子・子安地蔵、石段を上がった所に四国霊場のお砂踏み、大師堂、稲荷堂、本堂右手奥に権現堂他が配され、まずは本堂でお参り。
本尊は十一面観音菩薩であるが、秘仏なので見れない。年に一度の初午祭りにて厨子が開かれるそうで、今年の3月19日に御開帳されるとのこと。
多陀寺の縁起によると、開山は流世上人で、この方、弘法大師と相弟子で、共に遣唐使船で唐に渡り、密法の直伝を受け、空海より2年早く日本に帰朝したらしい。
帰朝した流世上人は、この地に唐から持ち帰った観音さまを安置し、真言密教の道場とし、信仰する人が徐々に増えていった…ということで、「流世上人って、空海よりも早く真言密教を広めた人なの?」とちょっと半信半疑。でも、当寺の霊験あらたかな雰囲気は間違いないと、素人が感じるほどなので、「そうなのかなぁ~」と。
また、こちらには権現堂があるが、この近くに大きな桧の木があり、大同3年(808)に、海上より漁師がこの大木のこずえに金色に輝く光を見つけ、流世上人はその大樹の下に仏壇を供え、灯明を捧げて祈祷すると、3羽のカラスが降り立ち、3束の白幣が降り下ったと。流世上人は権現の使いだと悟り、勧請を祈ったところ、翌日、「我は地蔵菩薩なり。権現と一緒に来たが、権現がこの山に留まると言うので、自らはこれより熊野山へ赴く。権現と我とは同仏なり」と応えて東の空へ飛び去って行った…という伝承がある。
ここでいう権現とは熊野権現のことだろうが、熊野権現が“分身の術”を使って、一人は地蔵菩薩と銘打って熊野へ行かせ、熊野権現はこの地に残って修験道の教えをしたのだろうか…と妄想が膨らむ。
その桧の木は権現堂の前にあり、ここにカラスが留まっていたのか…「いる!」と気づいた瞬間、逃げてしまったが、まぁ~偶然ではあるが、何か使いに来ていたのだろうかと妄想が止まらず、権現堂でもお参り。
…と、権現堂を先に説明してしまったが、境内散策は大師堂、稲荷堂、裏山へと行き、頂上には木々の隙間から景勝地である「畳ヶ浦」の国府海岸が遠くに見え、今日は波が荒れている日本海…白波が砂浜に打ち寄せ、風も強い…それがまたかえって美しい風景だと見惚れ、権現堂へと戻ってくるコースになっていて、境内の雰囲気を堪能。
散策後、納経所で中国33観音霊場の御朱印を拝受し、これで島根県を制し次へ。
写真は権現堂と桧
出雲大社石見分祠 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 20:03:16
下府駅前バス停でバスを待っていると、突然の雨に屋根付きのバス待合所だったので、雨宿り。多陀寺での畳ヶ浦の時化を見て、やはり雨模様は避けられないと予想していた感で、バスが到着すると同時に雨も上がり、晴れ間も見え、折り畳み傘を差さずに済む。「熊野権現のいたずらか?」と、車窓からの眺めを楽しみながらJR浜田駅に戻って来て、市内循環のバスに乗り換え、田町バス停で下車。
降りてすぐの出雲大社石見分祠を訪ねる。
白い鳥居が眩しい奥の境内は、ビルの合間に建つ本殿が見え、あの“しめ縄”がシンボリックに拝所上に飾られている。今日は七五三詣での親子連れがそこそこいて、本殿内は賑わっている様子。そんな中でお参り。
出雲大社石見分祠はその名称のとおり、出雲大社から分祠された大国主命を祀る神社。島根や鳥取の旅では各地域の分祠をお参りしたことを思い出し、特に隠岐島の西郷分祠は夕暮れ時で印象深かったと。
…で、ここ石見の出雲大社の縁起は、情報が少ないのだが、全国の神々が集う神在祭の龍蛇神様を奉斎していて、正月には大変な賑わいになるというから、浜田市での初詣では有名なのだろう。大正11年(1922)には浜田招魂社として浜田第21連隊より、戦没の英霊を奉斎したとあり、護国神社の役割もしていたことが分かる。飾られた“しめ縄”の立派さにしばし眺め、社務所で御朱印を拝受。窓口の貼紙に他宗教との裁判沙汰が載っていたが、そこはツッコまず、お礼を述べ、後にする。
水雲嶋八幡宮 - モリゾーのひとり言
2025/01/26 (Sun) 20:04:13
JR浜田駅へと戻り、次は益田市にある水雲嶋八幡宮を目指す。…とその前に、当社にお伺いすることを事前に電話で確認すると、JR山陰線が7月頃の大雨で、駅途中から不通になっている情報を知り、「え~」と驚く(知らなかった…)。
交通手段はJRではなく、石見交通の浜田―益田路線のバスもあるので、バスで行くことを告げ、時間までJR浜田駅の改札で情報収集。確かに、JR三保三隅駅からJR益田駅間が不通になっていて、この間はシャトルバスで代行運転してる模様。シャトルバスの時刻表をゲットし、コンビニおにぎりで昼飯を済ませ、バス乗車。
バスは日本海の海岸線を走っていたかと思えば、山の中を走っていたりと、「これが旅の醍醐味…」と車窓からの景色を楽しみ、およそ60分で東津田バス停に到着し、西へ5分ほど歩くと水雲嶋八幡宮が見えてくる。
水雲嶋八幡宮はその名称の由来の通り、「水雲(もずく)」が関係していて、その昔、この辺り一帯は入江の島があって、よく“もずく”が採れたことからきている。
…と、ネットで調べても、縁起の情報がないのでよく分からないが、御祭神は八幡宮なので、応神天皇、神功皇后と他に宗像三女神である。
白い玉砂利の参道から失礼し、境内は小ぢんまりとした広さに、松江や米子のような本殿の佇まいで、“海町神社”といった様相を呈している。石段を上がった拝殿でお参り後、境内を散策。
祓い串が地面に突き立ち、その周りを白い石で囲む…まるで魔法陣か何かの模様のように神聖な場所が存在していて、何を祈祷する場所だろう…きっと、もずくへの畏敬の念と奉斎するための場所なのだろうと勝手に妄想し、他にも稲荷社、恵比須社、厳島社などの末社が数柱祀られていて、こちらもお参り。
お隣の宮司さん宅にお邪魔し、御朱印を拝受。いろいろと情報を教えていただき感謝×2で、本日はここまで~
つづく…
飛騨高山の旅(2) - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 17:58:10
遅れまして…あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
新年早々、またまた飛騨高山へ行きまして…白川郷へ行ってまいりました。
まぁ~雪がすごいことすごいこと…
長野県の松本市に1年ほどいたこともあって、それなりの心構えはできているはずであったが、靴が…破れてしまって、冷たいのなんのって、現地の靴屋で購入し、さすが豪雪地域の靴屋さんは、雪対応の靴が豊富に揃っていて、しかもそこそこ安く、それはそれで助かった次第で。
…ということで、いずれ(いつになることやら…)載っけますが、昨年の飛騨高山のつづきの旅を紹介~
一本杉白山神社 - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 17:59:08
下呂温泉でゆったり旅の疲れを癒し、翌朝、JR下呂駅から9:00発の普通に乗車し、高山駅へ。本日のからくり奉納は11:00と13:00の時間帯なので、13:00を目指し、午前中は寺社めぐりをする。
まずは駅から南東に位置する高山善光寺へ。以前、訪れたことがあるお寺であるが、御朱印をいただくのを忘れていて、今回はどうだろうかと、お願いしてみる。住職さんも快く対応して下さり、本堂内へ上がらせてもらうことに。やはり善光寺といえば、「戒壇巡り」。暗闇の中を進み錠前を触れるイベント?だが、せっかくなので体験することになり、暗闇の中を手探りで進む。蝶番の錠に手で触れれば善光寺如来さまのご加護が得られる“ご利益”を授かり、無事”生還“。久しぶりの”暗闇体験“をし、感謝×2で住職さんにお礼を述べ次へ。
高山善光寺から歩いて5分ほどの所にある一本杉白山神社。書置きの御朱印があるとの情報をもとに訪れる。
当神社は、創建は不詳であるが、大宝年間、役小角が白山の遥拝所としたことが始まり。高山城主金森氏から庇護され、その後は高山藩が廃藩となると、天領陣屋の代官や郡代が庇護し、度々、社殿の修築が行われてきたとのこと。
何と言っても当神社の見どころは「矢立杉」。訪れた当初、拝殿前の杉が「矢立杉」かと思って見ていたのだが、旅後の調べで、社殿の背後にあるのが「矢立杉」だったようで、実際には見ていない。「矢立杉」は、役小角が逆に杉を立てたとも、武運長久を祈って矢を射立てたとも古俗があり、その枝から尖根(とがりね:容易に抜けない矢じりの形状)ひじりが発見されていることからも「矢立」と称されているのだろう。
当神社の隣の敷地には、高山陣屋の米蔵の守り神として祀られた陣屋稲荷神社も鎮座していて、お参り。結局、御朱印は置いてなかったが、木々が生い茂る境内は清々しく、しばらく佇む。
飛騨護国神社 - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 17:59:57
一本杉白山神社から東へ。高山陣屋まで来ると、春の高山祭で屋台を囲む群集・観衆の賑わいが今でも記憶に甦ってくる交差点があり、日枝神社御旅所も懐かしくお参り。さらに宮川に架かる中橋を渡り、高山城跡へと坂道を上がっていく。
辿り着いた飛騨護国神社も10年ぶりの訪れで、何となく境内の広さは憶えていて、「こんなもんだったかな~」とさっそくお参り。
英霊を祀る飛騨護国神社。元々、明治12年に飛騨国の神道普及の拠点として設立された「飛騨国高山中教院」が始まりで、伊勢神宮の御分霊を祀る飛騨大神宮、明治42年に戦没英霊を祀る護国神社が建てられる。江戸時代初期に高山城二の丸にあった英霊神社と、国分寺境内にあった飛騨匠神社も当社に移され、意外?と英霊だけでなく、御利益のある神社として親しまれている。
それぞれの神社にお参り後、社務所へ行くと、電子マネーで決済されるシステムもあり、「時代は変わったなぁ~」と思いながら、私はいつも持ち歩いている“現金”で御朱印を拝受する。穏やかな天候に恵まれ、英霊たちに感謝申し上げるのでありました~
宗猷寺(1) - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 18:00:55
護国神社鳥居から東の小路には、高山城跡の堀が見られ、風情が良い。そんな町並みの界隈をさらに東へ、坂道を上がると、門前通りのような道路に出て来て、目的の宗猷寺に到着。
当寺は高山城主、金森可重の菩提寺として、その嗣子の金森重頼と弟の金森重勝によって開基されたお寺。創建時は「新安国寺」と称していたが、重頼、重勝の法名にちなんで「宗猷寺」と改め、ほぼ高山市においては唯一といっていいい臨済宗の寺院だそうな。江戸時代後期には、山岡鉄舟の父である小野高福が飛騨郡代として高山陣屋に赴任していて、鉄舟は当寺で禅を学んだと伝えられ、境内には父母のお墓もある。
山岡鉄舟といえば、江戸無血開城の立役者として有名であるが、剣客であったことも有名である。幼少の頃から武芸を重んじる家であったため、新陰流や北辰一刀流の剣術、樫原流槍術などを学び、一刀正博無刀流の流派を自ら開くほど、それは激しい稽古を自ら望んで修行をしたそうで、「鬼鉄」とあだ名がつくほどであった。ちなみに、鉄舟は生涯一人も殺めていない剣客で、暇があれば座禅を組んで、書道の道にも励み、「剣・禅・書」の三道を極め、悟りを開いたと。
鉄舟は座禅をしながら亡くなり享年52歳。胃がんだったという。
そんな幼少期を過ごした鉄舟ゆかりの寺へ失礼すると、まず見上げた鐘楼の大きいこと…青年期は身長180cm以上で大柄な性格であったので、鉄舟の面影が何となく重なり、思わず立ち止まる。
境内は庫裏、本堂、観音堂と、北へと広がる敷地でそれぞれにお参り。西側に目を向ければ、高山市内が広がる町並みを背景に、鉄舟の父母の墓石が並んで建っている。
宗猷寺(2) - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 18:01:49
山岡鉄舟について、いろいろ調べているうち、鉄舟が弟子にも見せたことがない愛読書があるとのこと。「猫の妙術」という悟りを開くきっかけ?となったかはわからないが、教訓本で、内容は、家に出るネズミを捕らえるため、いろんな猫に依頼。が、どの猫も敵わず、最後に“名人”ならぬ“名猫”ともいえる古猫が造作もなく捕らえる話。
その夜、猫たちが集い、その古猫に教えを乞う。若い黒猫は所作を鍛錬したことを、少し年上の虎猫は気を修行したことを、さらに年上の灰猫は心を練ったことを語り、古猫はそれぞれの「慮」を指摘し、「実」を説いていく。
「心の中に我があるから敵がある。我がなければ敵はない」
「心にこだわりある場合は形にあらわれ、形がある場合は敵あり我ありで相対して争うことになる」
「心に何のこだわりもないようでなければ、変事に対応することはない」
…と、心の在り方を説いていく…だから、鉄舟は難しい交渉をまとめることができ、江戸無血開城の会議へと繋がっていったのかと。
「猫の妙術」は徳川吉宗時代に下総関宿藩に仕えた伕斎樗山(丹羽忠明)によって「田舎荘子」の一話に書かれた談義本。孔子や易経などの中国思想を取り入れた傾向があるとのことで、私は何となく「般若心経」の「色即是空、空即是色」を思い浮かべたが、何にせよ、剣術指南書として「敵とは何ぞや?」と、心の真理を説いているものと見て取る。
鉄舟がこの地で禅を学んでいたことを考えると、何とはなしに、私も目の前に広がる高山市街地を望み―庫裏で御朱印をお願いしている間―ちょっとだけ瞑想に浸る…そんな気分になるのでした~
からくり奉納 - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 18:02:42
桜山八幡宮で行われるからくり奉納は13:00から。1時間前くらいには現場にいた方がいいと思い、高山市街地を眺めながら“寺町通り”を歩く。外国人観光客が物珍しそうに寺の雰囲気を覗きこむ姿を見かけては、やはり高山市も観光地としての地位が上がった?のかと先を急ぐ。
江名子川沿いの下町情緒溢れる通りにも、高山祭の提灯が各玄関先に飾られていて、祭りの雰囲気を味わいながら、昨日訪れた相応院、その先の桜山八幡宮へと向かう。
境内は、からくり奉納が行われる屋台が1台、準備されていて、昨日のからくり会館前ではなく、社務所側の方に移動していて、そこそこの参拝客もいる。12:10頃から屋台の目の前に陣取り、私と同じように考える人はいて、徐々に人だかりができ、気が付いて振り返ると、あっという間に観衆の集合体ができていて、いよいよって感じ。
屋台上部を見上げると、本日の主役である布袋人形がすでにいらっしゃって、愛らしい笑顔を振りまき、からくり師による“演舞”を待っている状態。そして13:00。軽快な音楽とともに始まる。
高山祭のからくりは「能」の外題などを題材にした高度なもので、その内部構造は複雑。操作は糸で操るのだが、長年に渡る修練と経験と勘が必要で、早い人は小学生から練習を積んでいくほどと聞いている。その道の40、50年のベテランが操り手をまとめ、その方たちは数人しかおらず、組内の伝統的な継承をしている。
この布袋台は36条もの糸を8人で操るとのことで、男女2人の唐子人形が順番に5本のブランコを回転しながら飛びつたい、“布袋和尚”の肩と手に乗って喜遊し、“布袋和尚”
の左手の軍配の中から「和光周塵」と書かれた幟が出て来てフィニッシュを迎える。
唐子人形がブランコを飛び移ったり、布袋の肩に乗ったりした時は割れんばかりの拍手が沸き起こり、観衆は一つとなる。何とも”布袋和尚“の笑顔に皆、幸せな気分になったに違いない…私も含め、久しぶりに良い奉納演舞を見たものだと余韻に浸り、伝統的なからくり奉納を見ることができて満足×2。
山桜神社 - モリゾーのひとり言
2025/01/15 (Wed) 18:03:38
からくり奉納が終わると、街中を巡行する儀式へと移り、袴姿の祭り関係者たちが町を練り歩く。多くの観光客がその巡行にスマホを構え、写真を撮っている姿に、より“祭り感”を肌で感じ、限のいい所で群集から外れる。
宮川に架かる橋を渡り、商店街に入ると、町に馴染んだ神社へ向かう。石畳の狭い参道を歩くと、一瞬、京都の新京極界隈を想起させる佇まいで、提灯や馬が描かれた奉納絵馬が飾られ「あの馬か…」としばらく見つめる。
ここ山桜神社はその名称のとおり“山桜”が御祭神。“山桜”とは、江戸時代初期に実在していた「馬」のことで、高山城主の金山頼直公の愛馬のことである。
明暦の大火で高山藩の江戸屋敷が火に包まれたのを、“山桜”は百閒掘を飛び越えて頼直公を救ったという。その時、頼直公をはじめ、家臣3人を乗せて走ったと云い伝えられていて、晩年は中向町(現高山市東町)に厩舎をあてがわれ、“山桜”が死亡すると、その厩舎跡に社殿が建てられ、崇められたとされる。
今では家内安全、商売繁盛、火の用心の御利益があり、境内には当時、火消しの「馬頭組」が建設した火の見櫓もあり、火防の御神徳があるのが分かる。
そんな活躍した「馬」にお参り。拝殿というよりかは、どこかの集会所のような畳敷が広がる殿内で、神社の方が2人内職している中を訪ね、御朱印をお願いする。
書いてもらっている間、絵馬を観賞しながら、ひょっとして、“山桜”の名称は“桜山”からきているのだろうか…と想像しながら、神様となった“山桜”に別れを告げるのでありました~
飛騨高山の旅 - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:25:25
今年の紅葉は遅れた分、長く楽しむことができて、秋には岐阜県の高山祭、島根県浜田市益田市、名古屋市内紅葉の名所、山口県防府市と行ってきました。名古屋市内の旅は載っけようか迷っていますが、まだ何にも文章もまとまっていないので、遅れること間違いなくあしからず。
…で、今年もあっという間の1年。いよいよ来年は、世の中が変化していくような流れなのか…どうなのか…
神経痛(帯状疱疹後の)に悩まされながら、皆無事で乗り切れることを祈りつつ、毎度、つたない文章を読んで下さり、ありがとうございました~
また、来年もよろしくお願いいたします~
飛騨国分寺 - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:26:31
今回は秋の高山祭りをメインに、久しぶりの特急ワイドビューひだに乗ってJR高山駅で降りる。時刻は13:00ごろ。桜山八幡宮で行われる「からくり奉納」に時間までまだ余裕があると思い、その途中にある飛騨国分寺を訪ねる。
駅から北東方向へ商店街を歩き、「そうそう、これこれ…」と飛騨の町並みの空気を思い出しては、もうすでに大きなイチョウの木が目印となっている飛騨国分寺に到着。この日も、多くの参拝客で賑わっていて、特に外国人率が高く、三重塔の前で記念撮影をしているグループがいて、散策しているのが見える。
飛騨国分寺は今から約1250年前、聖武天皇の勅願によって建立、開基は行基菩薩による鎮護国家の祈願所として、本尊は薬師如来坐像の他、阿弥陀如来や聖観音、円空さんが造った弁財天を安置し、平家の守り刀であった小島丸太刀も寺宝として納められている。
そんな“重文”がそろう飛騨国分寺。境内の中央には大きなイチョウの木が生え、その根元の幹はかなりの太さで、年輪を重ねているのが見て取れ、御神木扱いで囲いがしてある。
このイチョウの木には“いわくつき”のエピソードが残されている。昔、七重大塔が建立された時、大工の棟梁が誤って柱を短く切ってしまい困っていた所、娘の八重菊の考えから、桝組で補い、塔は無事に完成した。が、棟梁の名声が高まるにつれ秘密を守るために、八重菊を殺し、境内に埋めて、塚の傍らに一本のイチョウの木を植えたという…(「殺しちゃうの…」)
この話…どこかで聞いたような…京都の千本釈迦堂(大報恩寺)のおかめさんと似たような話だが…
それにしても、口封じで娘を殺して埋めたというショッキングな話は、それこそ、このイチョウの木には八重菊さんの怨念が宿っている…ひょっとして、この木の高さって…七重大塔と同じぐらいの高さでは…と想像してしまい、ここへ訪れるたび、何ともその伝承に驚嘆してしまう。イチョウの木は火に燃えにくいという性質があることから、ある意味、お寺を守っているのだが、それ以上に八重菊が守っているのだろうと思わざるをえないエピソードがこの寺にはある。
本堂でお参り。本堂内拝観もできるのだが、からくり奉納の時間を考えて納経所で御朱印を拝受。私の前の方が外国の方で、今や御朱印は、世界的に広がりを見せているのか…と感心するのでした~
桜山八幡宮大鳥居 - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:27:33
飛騨国分寺から北東方向へ街中を歩き、市の中心を流れる宮川まで来ると、川の沿道には屋台のテントがずらりと並んでいて、人の賑わいがすごい。いつの間にか、弥生橋から北へ望む場所からは道路が車両通行止めとなっていて、秋の高山祭の雰囲気が一気に匂ってくる。
宮前橋へたどり着くと、桜山八幡宮の大鳥居がで~んと建ち、参道正面には屋台(山車)が曳き揃えられていて、すごい人。「あの人ごみの中を行くのか…」と覚悟を決め、いざ出陣~
屋台曳き揃え(1) - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:31:15
参道をゆっくりと歩き、それぞれの「屋台」を撮影。装飾はもちろん、飛騨の匠の技が生きる彫刻、華やかで鮮やかな色彩を帯びる赤い垂れ幕、屋台に乗る飾り人形等々すばらしい。
「高山祭」は、春の「山王祭」、秋の「八幡祭」を総称して言われるのだが、私は秋の「高山祭」は初めてで、春の「高山祭」は2回訪れている。秋の「高山祭」を経験して、どこか空気感というか季節感も相まって、しっとりとした“香り”が漂うようなそんな印象を受ける。法被を着た祭り関係者の表情や、江戸時代の参勤交代時での袴姿の人たちも“絵”になり、子供たちの姿も見、町あげての、祭りを盛り上げてるのが分かる。
…と、撮影に夢中になりすぎているとアナウンスが流れ、「からくり奉納」の事を放送しているのだが、はっきり聞こえない。とりあえず、桜山八幡宮の境内へと急ぐ。
桜山八幡宮 - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:33:46
屋台会館前の施設まで来ると、境内への進入を警察が封鎖している。
「あれっ…」
どうやら人数制限がかかり、これ以上、境内へは入れないことになってしまったよう。「からくり奉納」を見る場所は行けないようだが、拝殿へのお参りはできるようで、左側の裏参道からの案内により移動。稲荷、照崎、菅原などの摂社末社が並ぶ境内をそれぞれお参りし、本殿にも手を合わせる。
桜山八幡宮は仁徳天皇の御代、天皇に背いた凶賊、両面宿儺(すくな)の征討のため、勅命を受けた難波根子武振熊命(なにわのねこたけふるくまのみこと)が官軍を率いて飛騨に入り、応神天皇の御霊を奉祀し、この桜山の神域で先勝祈願を行ったことが始まり。
その応神天皇=八幡さまの御分霊を奉還し、雅楽の調べと共に「御神幸」の行列、御旅所に“立ち寄った”(休憩、宿泊)後、氏子区域を巡幸して八幡宮へ帰る…これが一連の例大祭であるが、起源がいつかということは分からないらしい。分かっていることは、領国大名であった金森氏が天正15年(1586)に飛騨に入国して、元禄5年(1692)に転封するまでの間であったことは間違いないみたい。そんな祭りを継承されていくうちに、屋台にからくり人形が取り入れられるようになり、江戸時代にはほとんどの屋台でからくりが演じられていたそうな。そんで時代と共に、今では春の「山王祭」の3台を含め、4台となってしまったという。
なので、八幡祭りで奉納されるからくり屋台は1台のみ。「布袋台」と呼ばれる名称のごとく、布袋さんの人形が前面を飾り、何と言っても、男女の2人の唐子人形の空中ブランコの“曲芸“が見どころ。
…ということで、そのからくり奉納が催される屋台がある場所が神門から見下ろす形で見え、人がいっぱい。門口から覗き込むと、警察の方が阻止すべく「ダメですよ」と威嚇してくる。そこまで躍起になることでもないのに…と思いながら社務所で御朱印を拝受。
ちょうど祭り関係者の方とお話ができ、明日の細かい日程を教えてもらい、今日はからくり奉納が見られず残念だが、祭りの雰囲気を味わうだけにして楽しむ。
相応院 - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:34:54
からくり奉納が終わり、境内から人が散り散りになると、屋台会館から出された“布袋台”が見え、すかさず目の前に行き撮影。布袋人形は仕事を終えたにもかかわらず、笑顔を振りまき聴衆の撮影に応じている。明日は必ず観賞することを約束し、桜山八幡宮から南へ行った所にある相応院へ。
こちらも祭りの余韻冷めやらぬ参拝客がそこそこいて、境内の広さはそんなに広くない中、「重軽石」や水子観音の像などあり、まずは本堂でお参り。
本堂の建物の両脇には円空作とわかる仏様が安置されていて、稲荷尊天、薬師如来の2体がで~んと背高く見上げる。
相応院は明治以前は、桜山八幡宮の別当寺で「長久寺」と称していて、明治に神仏分離令によって、当時の住職兼神官であった桜山和尚が代官所(高山陣屋)へ願い状を出して、必死で守ったらしい。その甲斐あって、高山城主の金森家の菩提寺であった高野山の「相応院」の寺号と、この時、金森長近公から寄進された阿弥陀三尊の像や涅槃図などを譲り受け復興され、現在に至っているという。
また、高山陣屋からの鬼門に当たるということで、本尊を不動明王とし、鬼門除けの祈願所としての役割もあって、厄除けや火伏の不動などの信仰がある。
本堂の左手には納経所があり、円空さんが飛騨に来られた際に彫られた“円空仏”も何体かショーケースに飾られ、御朱印を直書きしていただいている間、じっくりと観賞。ここでも外国の方が御朱印帳を用意していて、御朱印は今や世界に浸透している?ようだ。
屋台曳き揃え(2) - モリゾーのひとり言
2024/12/24 (Tue) 20:37:54
八幡宮参道界隈を再び散策。このまま「宵祭」へとずっといたかったのだが、本日宿泊する場所が下呂市。電車で1時間は掛かり、ホテルのチェックイン時間が遅れてしまうので、提灯に明かりが灯る光景は、目にすることができない。ちなみに、高山市内のホテルは1カ月前からの予約でも空きがなく、もっと早くすればよかった~と後悔。まぁ~、下呂温泉の湯に浸かって疲れを癒せるだけでも良しとし、時刻は16:00ごろ、次第に屋台に提灯を付ける飾りつけが職人の手によって準備され、その取り付ける作業を見るだけでも、私を含め観衆は物珍しそうに見入る。
宵祭では天候によるが、屋台が夜の町並みを巡行し、昼間とは違った魅力を見せ、先頭では獅子舞が披露されるという。「あ~、見たかったなぁ~」と嘆きつつ、祭りの雰囲気をそのままに、時間となり、今日はここまで。
つづく…
また20、滋賀の旅 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:17:59
7月以来久しぶりの投稿ですが、この間、8月に帯状疱疹を患い、かなり痛い思いを経験したことから10月までどこにも行かず、治療に専念。いや~、夜も眠れないほどの火傷のような症状が右わき腹から背中にかけて出て、ほんとに辛かった~
今も帯状疱疹後神経痛に悩まされ(まだ体に跡が残っている…)、ようやく日常生活が戻ってきた感じだが、ほんと、50代以上の方はワクチンを打ったほうがいいです。
…ということで、これからはより健康に留意しないといけない歳になったということを自覚しつつ…今回は、先の5月に行った滋賀の続きの旅を紹介~
鏡神社 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:19:36
JR東海道線を乗り継ぎ、JR野洲駅に到着。駅南口から出るバス、美松台行きに乗り、道の駅「竜王鐘の里」バス停で下車し、まずは道の駅で近江牛でも食事しようと思っていたら、定休日!
「嘘…」と、他のお客さんも私と同様に立ち尽くし、何とはなしに閉じられた自動ドアを見つめる。
「道の駅って、定休日あるのかよ~」と、お昼を諦め、「観光観光…」と切り替え、道の駅から国道8号線を北へ繋がる歩道橋を渡り、鏡神社へ移動。
ここは蒲生郡竜王町。琵琶湖の東南部に位置する平野に、東は雪野山、西に鏡山という2つの山に囲まれ、それぞれの山に龍神が祀られていたことから「竜王町」という名称が当てられたとされる土地柄。その鏡山の北裾に鎮座する社、鏡神社は御祭神が天日穂尊(あめのひぼこのみこと)で、新羅国王子とされている。社伝によると、新羅国から来朝した天日槍尊が神宝の日鏡を「鏡山」に納めたとされ、創建は不明であるが、これを機に祀られたのであろう。天日槍尊は医師や陶物師、鋳物師、弓削師などの技術集団を従えて、近江国からその後、若狭国、但馬国へと住処を西へと定めたという。鏡神社の周りには須恵器や銅鐸などが発見されるほど「古窯跡群」が多数あり、ここで生活の場を営んでいたことが分かる。ちなみに、兵庫県豊岡市の出石神社には「禁足地」があり、天日穂命の墓所と言い伝えられ、一木一草も取ってはならず、踏み入れば祟りがあると云われている。
…と、御祭神についてはこれぐらいにして、当地には源義経ゆかりの地がある。「また18、滋賀の旅」で祇王寺を訪れた時のガイドさんに教えてもらった「烏帽子掛けの松」や「元服の池」があり、義経はこの“鏡の里”で宿泊されている。この「烏帽子掛けの松」が鳥居前にあり、古木となった木は裁断された状態で、屋根付きで鎮座されている。説明看板を見ると、そのまま烏帽子を松に掛け、鏡神社に奉納し、源九郎義経と名乗り上げ…と書いてあり、明治6年の台風で折損したため、幹の部分を残して保存したよう。まるで“お地蔵さん”のように佇み、松の木を仰ぎ見ては手を合わせ、鳥居先の木々生い茂る中の参道を上がり境内へ向かう。
視界が開けた境内には拝殿、本殿、祓い神の石碑、八幡宮などの摂社を祀り、お参り。ここで義経がお参りしたであろう伝承を肌で味わい、ここで平家打倒の誓いをしたのだろうかと、義経の足跡をたどることができて満足×2。
写真は烏帽子掛けの松
義経元服の池 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:20:42
鏡神社から西へ。交通量の多い国道8号線を歩くと「義経元服の池」がある。あると言ってもただの小さな“池”なのだが、そもそも義経が元服した地がどこなのかはわかっていない。資料の「平治物語」ではここで身を清め元服したとか、「義経記」では尾張の熱田神宮で元服式をしたとか、他にも説はいろいろあるようで、とにかく、有名人の名を借りて町おこしをしたい市町村はどこにでもあるので、そこら辺はあいまいに受け入れている。
…で、大きな看板が表示してある一角に、新緑のモミジが色鮮やかに芽生えていて、美しい。石碑の下には小さな池があり、中を覗くと、オタマジャクシが跳ね、義経は季節の風物を感じながらこの池に映る自分の姿を覗き込んだのであろうかと想いを重ねる。
吉川英治作の「新・平家物語」の中で、「英雄は称えられるが、悲劇を司る」というほど、義経は兄に裏切られ、日本武尊も父に裏切られ、織田信長は家臣に、西郷隆盛は政府に…といった、時代は違ってもその悲劇の運命をたどる英雄は人々に魅了されるべくしてなり、伝説として語り継がれるのだろうと。
義経はここから平泉へと旅立ち、目の前の国道8号線の行き交うダンプや大型トラックが、何か見えない平家の亡霊のように見え、後ずさりするのでした~
平家終焉の地 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:21:44
義経元服の池から反対車線の歩道に移り、旧中山道を歩く。今は普通の民家、土木会社がある道路だが、昔の人はここを往来していたと思うと、私も昔の人の気分になって妄想を重ねる。
20分ほど歩くと、幟旗を目印に林の中へと小道が続き、石碑や立て看板、お墓を祀る空間にたどり着く。
説明看板には冒頭「平家が滅亡したのは壇ノ浦ではなく、ここ野洲である」とある。壇ノ浦の戦いで敗れ、捕らえられた平家最後の総大将、平宗盛、清宗親子らは源義経に連れられ鎌倉を目指す。源頼朝に面会した後、京都に護送中、ここ篠原の地で義経は首を持ち帰るため父子を斬り、胴体はせめてもの情けから父子1つの穴に埋め、葬られたとされる。その際、近くの池で首を洗ったことから「首洗いの池」といわれ、父子の念が通じたのか、この池ではカエルが鳴かないということで「蛙鳴かずの池」とも呼ばれている…と、この空間はかなり悲壮に満ちた平家終焉の地で、「宗盛胴塚」にさっそく手を合わせる。
木々が生い茂る中、風が心地よく流れ、切なさや果敢なさのような、ちょっとホッとしたような感情も相まって、その場の空気を味わう。傍らには、現在は事業開発の影響でその池はなく、地元の自治会が保存しようと復元に取り組むを看板に書いてあるが、石を囲っただけの小さな“空池”があるだけで、かろうじてその往時を偲んでいる。まさに“兵が夢のあと”のように、“源平総決算の地”にしばらく佇み、歴史の一端に触れるのでありました~
稲荷神社 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:22:38
道の駅竜王の里バス停へ戻り、野洲駅行き野洲中学校前バス停へ移動。バス停からすぐの稲荷神社を訪ねる。JR野洲駅から南東に位置する街中の神社であるが、御朱印が頂けるという情報だけで立ち寄った次第。社域はかなり広く、大木の御神木もあちこちに配され、玉垣のないオープンな感じの印象。
さっそく、手水鉢で身を清めようとしたが、ビー玉?が敷き詰められているので、手を洗うのは諦め、新築されたような真新しい拝殿から本殿へと回りお参り。愛宕神社の境内社にもお参りし、本殿には囲いの中に3社祀られていて、左側に古宮神社、右側に若宮社と建ち、由緒には壬申の乱で野洲の川原で戦死した人々の供養を祈願するために、石城村主宿祢が福林寺を建立し、その守護神として伏見稲荷大社から勧請されたとある。
壬申の乱は天智天皇の後継を巡って、弟の大海人皇子と天皇の息子の大友皇子による内乱。近江宮に遷った天智天皇は、皇太子の大友皇子に皇位を譲る約束までしていて、大海人皇子も了承していたが、天智天皇が崩御されると一転、弟は反乱を起こし、結局、大友皇子は自決、大海人皇子は天武天皇となって、飛鳥浄御原宮を居として再び飛鳥の地に都を遷す…と簡単に言えばだが、奈良、三重、岐阜、滋賀と広範囲に渡って戦乱が繰り広げられたことからすると、かなりの犠牲者が出たことであろう、権力争いに巻き込まれるのはいつも一般市民であり、残酷である。
そんな戦没者を慰霊するための神社とはつゆ知らず、境内を散策後、社務所へ伺うと人がいない。一応電話で聞いてみると、本日は宮司さんもお忙しそうで、御朱印はまた改めてということで、今日はここまで~
下新川神社 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:23:55
JR守山市駅近くのホテルに宿泊し、翌朝、バスターミナルから小浜行きのバスに乗り、下新川神社バス停へ。バスを降りて鳥居向かいの公園には、地元の方が植えたであろう花壇が「2024」のロゴを飾り、毎年作っているのだろうか出迎えて下さり、心が和む。
鳥居を潜り、長い参道には狛犬や御神燈があり、黒猫が石柱からひょっこりと顔を覗かせる中を進み、途中、左に折れ曲がる形の参道…「こ、これは御霊なのか…」と思いながら境内へと失礼する。
境内には愛宕神社、鹿島神社、白山神社とあり、拝殿から本殿へと行き、本殿前には「神使おしどり」の石碑の上に夫婦の“おしどり”が鎮座していて、仲良く同じ方向を向いている。この“おしどり”は、東国へ平定せんと琵琶湖の湖西より丸太の筏(いかだ)に乗って渡られた御祭神、豊城入彦命を湖上で案内先導したのがこの“おしどり”で、そのために祀られているらしい。
豊城入彦命(とよしろいりひこのみこと)は崇神天皇の第一皇子。第一皇子であるにもかかわらず、天皇の座を活目尊(いくめのみこと:後の垂仁天皇)に譲り、東国の統治者として平定行動を開始。東国平定は自らの進言だったのか、命令だったのかはわからないが、先ほどの直角に折れ曲がる参道を思い出しては、“恨み”があったのだろうかと沈思黙考する。
こちらの神社では「すし切り神事」が有名で、豊城入彦命が西近江の海賊を征伐し、当地に立ち寄った際、村人が琵琶湖で捕れたフナを塩漬けにして焼いた料理を献上し、その労を労ったことから「すし切り神事」が始まったとされる。古式にのっとり、袴姿で長い包丁を両手に持ち、パフォーマンス?する写真をネットで見たが、魚をさばく神事は何かニュースで見たような…いつかはその神事を生で見たいと、再び訪れることを願う。
本殿でお参り後、書置きの御朱印があるので拝受し、境内を散策。庭園とはいえないが、弁財天を祀っているかのような池があり、池の中央には菖蒲だろうか、可憐に花を咲かせていて涼しげ。光を遮る木々の中、しばらく佇み、癒しを楽しむのでありました~
兵主大社 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:24:50
下新川神社からお隣の野洲市へと、野洲川の橋を渡り、市境越え。滋賀県は本当に広大な田畑を所有している土地柄だと、ビル群の建物がない平野を歩き、1時間ほどで兵主大社に到着。参道の途中から入ってしまい、南側には朱色の立派な楼門、北側には拝殿本殿の境内が広がり、どの建物も茅葺きの屋根であり、一層古社であることを窺い知る。
拝殿でお参り。本殿は玉垣に囲まれ、左側の塀には「庭園拝観」の看板が。どうやら本殿の北側にかけて「平安の庭」という庭園が広がり、塀の隙間からちょっと覗くと、池に苔の生えた築山、低木や季節の木々植えられていて、石橋や飛び石も配され、回遊式庭園といったところか、拝観したい方は社務所までとある。次のバスの時間までには間に合わないので、今回は諦め、失礼ながら隙間からパチリと写真を撮り、境内を散策。
お参りする前から気になっていた狛犬。包帯をぐるぐる巻きにされた痛々しい様子を見せる狛犬だが、どうも包帯ではないらしい。「祈祷布」と呼ばれる代物で、手や足腰に病気持ちである人が狛犬にその部分に巻き付けると、病が治るという民間信仰で、御利益を得るための“方”らしい。狛犬が人の痛みを背負っているということか…やっぱし、その姿は痛々しく見える。
さて、当神社の由緒としては、景行天皇の御代、大和国の穴師に祀られていた社
(現、穴師坐兵主神社)が近江国に遷座し、欽明天皇の御代に、現在の地に社殿が造営されたのが始まりで、御祭神は八千矛神(やちほこのかみ)。元来、中国の八神信仰に由来する兵主(八千矛神)の神を渡来人が奉斎し、但馬国を中心に全国各地にお祀りした由来で、中世には源頼朝や足利尊氏によって造営されるほど、武士の崇敬を集め、「兵主(ひょうず)」という名称のとおり、勝負運や武運に御利益がある。
そんな“もののふ”というイメージにぴったりな“大社”という社格の高い境内の雰囲気を味わい、社務所で御朱印を拝受。この神社の社宝である刀の御朱印もいただき、帰りは参道から楼門へ。
1550年(天文19)に建立された朱色?の楼門。左右に翼廊のついた四脚門で、よく見ると翼廊の軒下には神様の名称のついた額が掲げられていて、たぶん、それぞれに神様が祀られているのだろう、入口楼門から“結界”としての役割を果たしている。楼門から境外に出て離れて見ると、改めてその美しいフォルムに、室町建築の時代背景が見えるようで、しばらくずっと眺めるのでありました~
高宮神社 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:25:50
兵主大社から東側にある五条自治会館前バス停からコミュニティバスを使ってJR野洲駅へ。次は彦根市へと向かい、JR南彦根駅で降りた東口からは直結してイオンがあるので、昼食タイム。久しぶりのマクドで英気を養い、南東方向へ歩いて20分ほどで高宮神社に到着。
この高宮の地域は中山道の宿駅「高宮宿」があった場所。江戸時代には戸数830戸余り人口約3500人余りと、かなり規模の大きい宿場であったという。高宮村を中心に周りの村は「麻」の産地ということから、その加工品の「高宮縞」「高宮上布」などの反物(織物)が有名で、街道沿いにたくさんの反物を販売していた風景が想像できる。
歴史的に見ると、「近江国風土記」には高宮郷との記述があり、また「正倉院文書」には郡内の里の紹介に、「太加美夜」とあり、昔から村落を形成し存在していたことが分かる。
そんな歴史ある高宮に鎮座する高宮神社。こちらも参道途中から失礼してしまい、東側に随神門、西を背に拝本殿が建っている。
高宮神社は今回で2回目。何となく境内の雰囲気は憶えていて、南側にある大屋根の休憩所、その向かいには木々生い茂る禁足地のような森が広がり、地元の憩いの場所のような印象が強い。この日は誰もいない境内だが、年末年始の参拝客で賑わうであろう想像が浮かぶほどの広さの中でお参り。
当神社の由緒によると、創立年代は不詳であるが、神社に関する古文書など歴史的資料が明治の大洪水で流され、残っていないという。古くは日吉大社領に起因する神社で、鎌倉時代末期創立ではないかとも云われている。
御祭神は大邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命…(長い…)、いわゆる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)であるが、相殿はその妻の木花咲夜比売命。宮崎県に天孫降臨した話をよく聞く瓊瓊杵尊であるが、一目惚れした木花咲夜比売命を娶る際、彼女の父、大山津見神から姉の石長比売命も併せて嫁がせたいという話がある。
「姉もセットで!?」とニニギは思ったであろう。普通の父としての立場なら2人の娘を嫁がせるなんて離れがたいものであろうに、同時に2人の姉妹を嫁がせたいというのは、どういうことなのか。石長比売命はたいそう醜い顔であった?ということなので…「いやいや、父親失格でしょ!」とツッコミを入れて見たくなるが、それにしても、話の筋の内容としては、この後、ニニギが姉だけを断わり、追い返すことで、父の怒りに触れ(とんでもない父親!)、姉は永遠性を司る女神なので、これ以降、寿命ができたという。この話を思い出すと、ニニギもご苦労なこったと毎回思いながら、話がズレてしまったが、境内の雰囲気を味わいつつ社務所へ。
前回訪れた時は宮司さまにお会いすることが叶わなかったが、今回はお会いでき、御朱印を拝受。次に向かう新神社の行き方を教えてもらい、感謝×2でお礼を述べ、後にする。
新神社 - モリゾーのひとり言
2024/10/30 (Wed) 10:26:52
高宮神社から北西の方向へ歩いて30分ほどで新神社に到着。ちょうどカーブする道路沿いに鳥居が建ち、鬱蒼と茂る木々の中の石段を見つけ登る。こちらの神社を知ったきっかけは書置きの御朱印が境内に置いてあるという情報もそうだが、名称のインパクトに魅かれたことでもあり、「新神社…」「新しくできた神社だからそう名付けたのか…」はたまた「シン・ゴジラとかシン・仮面ライダーなどの“シン”?なのだろうか」と、変な妄想を思い浮かべてしまったことからも、これは訪れるべきと思った次第。
境内は広く、幣殿、本殿、社務所と至って普通の神社の建物が配されていて、本殿は石段を上がった一段高い場所にあり、格式の高い神社であると感じる。
さっそくお参りし、幣殿の柱付近に備え付けてある冊子と数種の書置き御朱印を拝受し、冊子の由緒を読んでみる。
新神社は彦根市円町にあり、彦根城より南に4kmほど離れた場所にある。創基年代は不詳。現在、ここより東側の斜面に高松稲荷神社があり、この神社の創建が鎌倉時代(寿永2年:1192)で、昔はこの高松稲荷神社が当地にあったそうで、室町時代に移転した可能性が考えられるとされる。移転され、空いたこの地に、比叡山の麓にある日吉大社の西本宮より大物主大神を勧請され創建されたとあるので、創建は室町時代だと思うが、高松稲荷神社が創建された以前は“不詳”と書いてあるとおり分からないが、ひょっとして、当地を治めていた首長のお墓(古墳)だったのか?とか、加持祈祷を行う場所だったとか?想像が膨らむ。
…で、江戸時代まで「新宮大権現」と呼ばれていたとし、明治に入り「新宮神社」から「新神社」と改められ、現在に至るという。まぁ~、「シン・神社」なわけないか…と、当たり前な歴史沿革を見てホッと?しているが、こちらの神社、雨乞いの御神徳があり、背後にある「雨壺山」の山頂で、昔は干ばつ時に祈祷を行い、祈願成就する習わしが伝わっているとあるので、あながち昔から神様がいたということは間違っていないのかも。修験者の神社とも言われているので、何とも霊験あらたかであると、境内の雰囲気を改めて肌で感じ、境内にある御神木のところへ。幹の内部が真っ黒に焦げていて、雷が落ちたのだろうか?と中を覗く。ブラックホール?のような大きな“口”を開け、不思議の国のアリスを想像しながらも、何もない穴に手を合わせ、木に触れ“ごあいさつ”。御神木を前に「芯」が通っている生命力をいただき、「シン・神社」に訪れることができ、今回はここまで~
また19、滋賀の旅 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 16:56:11
愛知県内の神社を巡ろうと、電車に乗ってすぐにアナウンスが流れ「この先、人身事故により○○駅から不通になります」と。この日は、午前中までに行きたい神社があり、遠回りしても行ける路線だが、何となく「これは、おしらせ現象か…」と思い、急遽中止に。私が勝手に捉えている「おしらせ現象」発動が久しぶりにはっきり現れ、まだ訪れてはいけないということ?なのだろうと解釈。ほんとのところは分からないが、まぁ~、気温38度予想だったので、初めから行く気がない…とも思ったのだが…
…で、今回は、ゴールデンウィークに行った日帰り旅。藤の花を見に行ってきました~
建部神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 16:57:04
とある休日。本日は日帰りということで、名古屋から東海道線を経由してJR能登川駅で下車し、八日市駅行きのバスに乗って伊野辺バス停へ移動。
ここは東近江市の西寄りに位置する場所で、滋賀県で「建部」といえば大津市にある「建部大社」が近江一ノ宮として有名だが、この建部神社は、その大社の元宮としている。
集落の中の道を南へ歩いて行くと、木々生い茂る森が見え、その木々たちもかなり背が高い。
鳥居前には神武天皇遥拝所の石柱が南を背に祀られていて、その方角に橿原神宮があるのだろうと想像する。その石柱の反対側に鳥居が建ち、さっそく境内へ失礼する。
参道からの広い社域、拝殿本殿と建つ周りはいろんな木々が生えていて、かなり年数が経っている巨木が目立つ。
今回、なぜこの神社を訪れたかというと、親族に手術入院が必要になり、「癌封じのケヤキ」があるという情報を知り、訪れた次第。
昼間でも薄暗い雰囲気がよりいっそう、神域の霊験あらたかさを醸し、そんな中で、手水舎で身を清め、本殿でお参り。
「癌封じのケヤキ」は本殿左側に“鎮座”していて、一目見て、その異様な雰囲気におどろおどろしい。全体的に木の幹の形が、ゾウが宿っているのではないかというくらいの瘤(コブ)が大きく、この瘤が病気を封じ込めてくれるとされている。ケヤキの横にある「雨壺」に手を合わせてから願いを込め、瘤に触る作法らしく、手術の成功やその後の回復、再発防止の願を掛け、なんとか病気を封じ込めてくれることを願う。
この日も、夫婦で参拝している方々がいて、やはり想いは同じ…この世の中、2人に1人はガンになる時代…癌克服・撲滅を祈る。
社務所を尋ねると、宮司さんが対応して下さり、数種類の御朱印を拝受。癌封じのお守りは、あのケヤキの皮や枝から一部を切り取ったもので、しっかりと購入し、御祭神の日本武尊に感謝を申しあがるのでありました~
大城神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 16:57:55
伊野辺バス停からJR能登川駅行きに乗り、途中、金堂バス停で下車。ここは、かつては近江商人が住む五箇荘という地で、商人の町並み風情が色濃く?残る観光スポット。交流館や屋敷跡などが並ぶ集落は、道路も整備されていて、町おこしに力を入れている?のが分かる。
町並みを歩き、その中にある大城神社に到着。大きな鳥居を潜り、こちらも巨木が目立つ境内に失礼し、拝殿本殿、摂社や牛の石像、道真公の石像など、菅原道真公を祀っているのだとわかり、拝殿でお参り。
ネットによると由緒には、推古天皇の御代、厩戸皇子が小野妹子に命じて当地に金堂寺を建立され、その鎮守社として創建したのが始まり。室町期では領主であった佐々木氏の居城、観音寺城の鬼門に位置していたことから守護神として崇敬、庇護されていたと。
あと、NHKの朝ドラのロケ地であったこともあり、一時期は「聖地巡礼」で訪れる参拝客も多かったとか。そんな境内を散策し、自然の息吹を感じるほどの広さに、清々しさを感じながら、賽銭箱に書いてあった宮司さん宅の案内どおり赴き、社務所?へ移動。書置きの御朱印を拝受し、やはり話題は、NHKの朝ドラのことで、私はあまり見てないので分からないが、好きな人にはロケ風景を撮った写真を見せてくれるようで、テレビの影響力はすごいなぁ~と、お礼を述べ後にするのでした~
立木神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 16:58:46
とある休日。今回も日帰りということで、名古屋から東海道線を乗り継ぎ、JR草津駅へ。
駅から南西方向の旧東海道を真っすぐ歩くと、草津宿の資料館などがあり、街道筋に見る趣に歴史を見る。草津市役所近くの交差点に差し掛かり、道路を跨いだ先に見える赤い橋、赤い鳥居を見、立木神社にたどり着いたことが分かる。
立木神社は今回で2回目の訪れであるが、ここもあんまり記憶がない。社域の雰囲気が木々に囲まれた広い敷地だったことは憶えているが…さっそく鳥居から失礼すると、どうやら東側の鳥居から入ってしまったようで、参道途中、立派な随神門が目の前に現れ、傍らには藤棚が春の装いでしだれている。
今回の日帰り旅は、「藤の花」をメインに4つの社を訪れる予定で、この時期にしかいただけない御朱印も兼ね、以前から気になっていた「四社めぐり」の企画がある事を知り、その最初の1社目がここ、立木神社。
立木神社の由緒によると、称徳天皇の御代、今から約1250年前に武甕槌命(たけみがづちのみこと)が白鹿に乗って、大和国に行く途中、この地に立ち寄り、柿の木でできた鞭を地面に刺し、「この木が生え付くならば、吾永く、大和国三笠山(春日大社)に鎮まらん」と言い、その後、柿の木は立派な大樹となり、里人が御神徳を称え、この木を崇めるための神殿を建てたことが始まりとされる。「柿の木」といえば、三重県名張市の積田神社も同じようなエピソードだったような?気がするが、鞭を地面に刺して生えてくる?トンでも話を、確か菅原道真公が刺した割り箸が生えた…兵庫か岡山の神社でも同じ話があったような…神の為せる業があってオモロイ。
そんな柿の木よりも、今は境内にある松の大木の方が立派に目立ち、まさに龍神が宿っているかのようなうねりの枝が見事で、仰ぎ見ながら拝殿へとお参り。柿の御神木は本殿右手側に玉垣で囲われ、意外と小さい。たぶん、何代目かの柿の木なのだろうと、今は黄緑色の葉を付け、ひっそりと佇む”姿“に何とはなしに拝む。
境内を散策。境内には旧東海道と中山道との分岐点を示す石柱の道標があり、県内最古という。徳川時代の参勤交代の時には、草津宿を通過する際、当神社で安全祈願を行う大名もいたそうで、交通安全の守護神としての御利益があり、崇敬されていたとのことなので、今回の、旅の安全の御神徳を得られたことはうれしい限り。
社務所を伺うと、隣に白いテント下でお守りや御朱印対応している巫女さんがいて、「四社めぐり」のための、4社すべての書置きの御朱印が拝受できるようで、すべてお願いし、地図もいただく。あと3社を目指し、再びJR草津駅へ移動。
惣社神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 16:59:30
JR草津駅バスターミナルから水生植物公園行きのバスに乗り、志那中町バス停で下車。北へ歩いて10分ほどの惣社神社に到着。集落の中の、地元の神社~といった感じの佇まいで、鳥居から失礼し、普段は無人である社務所が開いていて、氏子さんだろうか、姿が見える。
南を背に建つ拝殿本殿へ行く途中に藤棚があり、観賞は後にして、まずはお参り。
惣社神社の御祭神は志那津彦命・志那津姫命。往古は「科戸明神」と称えられ、大津宮の繁栄とともに、科戸ヶ浦には湖上に要港を備えていたことから尊崇されていたという。天智天皇の御代に、「意布伎神を鎮座して…」と資料に書かれていることから、「意布伎」つまり、「伊吹山」のことであろうか、伊吹山から吹き下ろす風、帆を受けて船を動かすための風、「風神」さまを祀ったということらしい。なので、こちらの神社では「風神踊り」という、「風招」の大団扇を持って神歌とともに天を仰いで踊る特殊神事がある。小ぢんまりとした神社でありながら、立派な風習があるんだと、いつかは見てみたいとも、境内を見渡しながら神事の想像をする。
さて、藤棚の観賞をと、規模は小さいが、紫・白色の垂れ下がった花が香りを放ち、しばらく撮影に夢中になる。クマバチもこの時とばかりに、やけに多く飛び交い、クマバチの性格は大人しい?ので気にすることはないが、花粉を集めては掻き入れ時のように花から花へと移り忙しそう。
ぐるりと藤棚を一周し、堪能~。次は志那神社を目指す。
志那神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 17:00:21
惣社神社から北北西の方角にある志那神社へ。歩いて30分ほどの距離を集落から抜け、周りに建造物がない田畑広がる風景を眺めながら、畦道を進む。用水路沿いの道を歩いていると、地元の方に「志那神社かい?」と声を掛けられ、道順を教えてもらい、地元の優しさに触れ、“旅人”を労って下さり感謝×2。
先ほどの惣社神社、これから向かう志那神社、三大神社の3社を合わせて「志那三郷の藤」と呼ばれていて、この時期は祭りのように参拝客が多く、この日も志那神社鳥居前にはそこそこの人がいて、繁盛しているよう。
鳥居からは真っすぐの参道、境内は、東を背に拝殿本殿が建ち、小ぶりな藤棚もちゃんとある。
志那神社の御祭神は惣社神社と同じ、志那津彦命・志那津姫命、伊吹戸主命。創基年代は不詳であるが、元々は「意布伎神社」と称していたという。江戸時代までは「白山大権現社」であったが、明治以降に今の社名となり、やはり、風の神を祀る社として有名だったらしい。
ここ志那町自体が琵琶湖の東岸湖辺に位置し、古代より風待ちの湊(港)として湖上交通の要衝であった。氏子の多くが船を所有し、湖上と関りが非常に強い土地柄であったことから、風を神格化して祀ったものとされる。
そんな風の神さまを祀る境内を散策していると、小雨がポツポツと降ってくる。最近、龍に纏わる神社をお参りしたせいか、小雨が降る現象が多く、私は龍に憑りつかれているのかもしれない。そんな中で拝殿でお参り。境内社は白山神社、八幡神社、黒姫神社などが祀られ、藤棚もこの時期は目立つように“長い花”を付けている。社務所近くの藤棚には白一色の藤の花が垂れ下がり、返って珍しい品種?なのだろうかと観賞。ちなみに、「惣社大藤の縁起」には、天武天皇の病除けに、仏法興隆を祈念して藤が供えられたことに始まると伝えられていて、長く天雅に降り注ぐイメージが「藤」に例えられたのだろうかと妄想する。
こちらの社務所も期間限定で開所されていて、御朱印も頒布されている。風の神さまに、今日はあまり風雨にならないようにお声かけをし、次の三大神社へ。
三大神社 - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 17:01:10
志那神社から南へ20分ほど、小雨が降る中を歩く。4社御朱印巡りの最後は三大神社。鳥居付近に到着すると、ボランティアの方たちが交通整理をしていて、駐車場には多くの参拝客の車がとまっている。
三大神社も一度来ている。が、記憶がない。藤棚で有名ということは知っていたが、以前に訪れた時は時期ではなく“枯木”の時だったので、印象が薄かったのかも。
さっそく鳥居を潜り、いきなりの藤棚の、紫色の“のれん”が、今日訪れた、どの社よりも長い穂をつけ、それが本殿先まで参道沿いを埋め尽くし、見事に咲いていて、「砂擦りの藤」とも呼ばれ、2m近くも長い穂をつけることもあるという。
奈良の談山神社でも説明したが、藤が咲く頃に病床の天智天皇を見舞った中臣鎌足に、「藤原」の姓を授けたエピソードから、藤原氏を名乗ることになったが、摂政関白の位にあった藤原氏の隆盛を祈念して植樹された“古老”で、戦国時代には織田信長侵攻の兵火によって焼失したが、その後、根元から再び芽生え、今の巨木に育ったというからスゴイ。
見事に咲き誇っている藤棚はコンクリート製の柱で支えられていて、根元を見れば黒々とした太い木の、まさに“老藤”であることが分かり、この日のために植木屋さんの苦労が垣間見える。藤棚の向かいには売店やお土産コーナーが並び、今どきのフルーツサンドまで販売していて繁盛しているよう。目移りしそうな露店を過ぎ、まずは本殿でお参りをと、行列ができている後ろに並び、順番を待ちお参り。
三大神社の御祭神は惣社、志那神社と同じ、風の神様。「三大」という名称は「三大大権現」からきていて、志那津彦命・志那津姫命、大宅公主命を合わせた3柱で構成されている。大宅公主命の読み方は「おおやけこうしゅのみこと」「おおやけくにぬしのみこと」などと読み、「記紀」にも出てこない神様。ネットで調べてもよく分からないが、欽明天皇の皇女・妃に「大宅皇女(おおやけのひめみこ)」という人物がいる。同一人物であるかはわからないが、社伝によれば、ここ吉田の住人「売太包光」という漁師が漁をしていて、拾い上げた光る木片がこの皇女の霊であるとのことで、応徳元年(1084)に、その御神託のもとに、国府に赴き、国司の援助を受けて社殿を造営したとあることから、つながりのある家系なのだろうかと妄想する。
そんな神さまたちに見守られながら、老若男女、犬からコスプレイヤーまで幅広いいろんな”人種“が藤棚に魅了され、私も撮影に夢中になり、ゆっくりと散策するのでした~
うばがもち - モリゾーのひとり言
2024/07/11 (Thu) 17:02:01
JR草津駅に戻り、駅構内の売店を覗いていると、和菓子を販売する店に立ち寄る。
「うばがもち」と呼ばれる、小箱にちいさな餡ころ餅が“乳”の形のように整っていて、お土産に2箱購入。
中には由緒書きの紙が入っていて読んでみると、近江源氏の佐々木義賢が織田信長に滅ぼされ、その際、曽孫を乳母に預けて、地元草津に戻り、生活の糧に餅を作っては売り、いつしか、誰が言うともなく、それが「姥(乳母)が餅」となったそうな。
北斎や広重などの浮世絵や浄瑠璃で、その評判が全国に広がり、草津名物として有名になったとか。
小箱の中には6粒の餡ころ餅が入っていて、これをお湯に入れて溶かすと、おしるこが作れると書いてあり、食べ終わった後で見てしまったので、残念無念…
そんでも、味わった感想は、伊勢名物の「赤福」を小さくしたバージョン?のような…
地元の名物を味わうことができて、旅の思い出がよみがえるのでした~